うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「火山島」の第一章を読んで、歴史と創作の関係について思ったこと。

【スポンサーリンク】

 

www.saiusaruzzz.com

「火山島」の第一章を読み終わった。

第一章を読み終わった時点でも「知識としてはうっすら知っているけれど、詳しくは知らなかった」と思うことが多い。

創作は歴史そのものではなくあくまで創作として読まないと危ういけれど、その反面「その事実の中で実際、社会がどんな感じで、一人一人の人がどう生きていたか」という実感は得られやすい。

第一章は、日本に母親と妹を残して故郷の済州島に戻って来た南承之(ナム・スンジ)の視点で話が進む。

南承之は比較的貧しい境遇の出で、当時の一般的な韓国の人(特に若い人)の物の見方を踏まえているのだと思う。

「日本の支配が終わったら自由になると思っていたのに、これでは日本がアメリカに変わっただけだ」という失望が凄い。

 

しかし祖国に訪れた「解放」が、じつは幻影だと人々がさとるのに時間はかからなかった。(略)

一夜明けて眼が醒めてみれば(略)「解放者」であるはずのアメリカが、旧日本帝国の強力な後釜だったということだ。(略)

それどころか、旧朝鮮総督阿部信行や、朝鮮総督府政務総監遠藤柳作に対して、アメリカ軍政庁が顧問就任を要請したというのだ。

それは実現しなかったが、南朝鮮占領軍司令官ホッジ中将の「私が日本人の統治機構を利用しているのは、それが現在もっとも効果的な運営方法だからである」という言明どおり、こうして朝鮮総督府の機構をそのまま受け継ぐ形で行われ、「民族反逆者」の復権の舞台がひとまず提供されたのだった。

(引用元:「火山島」第1巻 金石範 文藝春秋社 P45-P46/太字は引用者)

当時はアメリカの意識は対ソ連・共産主義の拡大をいかに食い止めるかにあったから、日本と同じように統治体制をそのまま使ったのだろうけれど、祖国解放を夢見た朝鮮半島の人にしてみれば愕然としただろうなと思う。

 

朝鮮史が朝鮮人にとっての国史にならず、朝鮮文学が朝鮮人にとっての国文学にならなかった。

日帝末期には朝鮮語そのものが抹殺されたのだから、朝鮮文学がありうるはずもなかった。(略)

それがいまや堂々と国文とか国文学とかを口にしうるようになったのだ。

どれだけ民族的な、人間的な感情を解放し誇りを感じさせたことだろう。

(引用元:「火山島」第1巻 金石範 文藝春秋社 P44-P45/太字は引用者)

民族の言語や文化を奪って、その民族そのものの概念を消すことは民族浄化の手法としてよくとられる。

プーチンも「そもそもウクライナ民族というものは存在しない」という主張を、侵攻を正当化する材料のひとつにしている。

日本に生まれて生きているとつい忘れがちだが、アイデンティティは本来は自分の手で守らなければ簡単に消されてしまったり、消えてしまうものだ。*1

日本が他国にこういうことを強いたことがあるということは、日本で生まれ育った人間として覚えておかなくはいけないなと思った。

 

題材でつい四角四面な思想小説では、と思い込んでしまったけれど、「火山島」はエンタメ小説として面白い。

第一章に出てくる主人公・南承之はそこまで極端な思想も深い知識も持っておらず、「祖国解放の現実」に失望して反政府組織に身を投じた。

正義感は強いもののごく普通の青年で、気になった女性について妄想して「こんなこと考えちゃいかん」とセルフ突っ込みをしたり、インテリ気取りの同志にムカついたりする。

先日「創作として抜群に面白い。今まで説教臭い話と思って読まないで損した」という「はだしのゲン」の感想を読んだ。

重い歴史的背景を持つ創作は、つい背景の重さにのみ目が行きがちだが、その中で生きた人が生き生きと描かれているから読み継がれるのだと思う。

多くの人は正しいからではなく面白いから創作を読むし、読まれるものが次の時代に残り続ける。

少なくとも自分にとって創作はそういうものだ。

 

エロティックな表現のある小説は闇市で最高値がつき、取り締まりの危険度が高ければ高いほど高値で売れた。(略)

官能小説は、手書きで書き写されるほか、簡単なステンシルや手回し装置を用いて、粗雑ながら謄写版印刷されることもあった。(略)

そうした印刷機の一部が、毛沢東思想宣伝隊の管理をすり抜けて大いに活用されるようになった結果、官能小説や春歌が印刷されて、工場や学校そして役所にも広まっていった。

絶大な人気を誇ったのは、ある女子大生が、従兄をはじめとする若い男性たちと性体験を重ねていく「乙女の心」という小説だった。(略)

おそらく「毛主席語録」に次いで熟読された本の一冊だったに違いない。

(引用元:「文化大革命 人民の歴史 1962‐1976」P172 フランク・ディケーター/谷川真一監役/今西康子訳 人文書院 P140)

「文化大革命」の「乙女の心」のエピソードは、そういうことを端的に表していてめっちゃ好きだ。*2 

最後の一文がいい味を出している。

結局、どんなに力で抑えつけようとしても、面白ければ人はその手をかいくぐって読むし、勝手に広まっていく。

 

「火山島」の副読本を読むと、「済州島四.三事件」は余りに暗く残酷なので、当事者は今でも語らず、国家的にも極力触れないようにしている「封印された歴史」らしい。

ある程度検証されたものがある歴史について、その検証を無視して自説を事実として語るのはどうかと思うが、権力者が風化させようとしている歴史をお話の形で残しておくのは大事なことだと思う。

 

創作(フィクション)と歴史(現実)の関係については、副読本で著者が語っているようなのでじっくり読みたい。

 

中国ではBLが禁止されているため、表現に工夫がされていると聞いたことがある。

凄い人気だよね。

 

*1:日本でもアイヌの人などはアイデンティティを自分の手で守らなければならないという実感があると思う。ただ日本は、人種や宗教、民族などの同程度の規模のアイデンティティの集団が自分の存在を形成するために対立する、という環境とは無縁だ。この点、かなり特異な国だと思う。

*2:アッテンボローの有害図書委員会を思い出す。