「アニメ平家物語」の時に書いたが、「向いていない、出来ないとわかっていることを人が無理やりやらされる描写」がかなり苦手だ。
その「やらされる人」が、その場にどうあっても適合できない、しかし文句も言えないような人柄の場合、見たり読んだりするのがキツい。
「騎士団長殺し」下巻の雨宮継彦の戦時中のエピソードがそうだ。
うちの父親が話してくれたところでは、そこには継彦叔父が捕虜の首を切らされた話が記されていた。とても生々しく克明に。(略)
もちろん(略)これまで日本刀なんて手にしたこともない。なにしろピアニストだからね。複雑な楽譜は読めても、人斬り包丁の使い方なんて何ひとつ知らない。
しかし上官に日本刀を手渡されて、これで捕虜の首を切れと命令されるんだ。(略)
そういう修羅場を経験することによって一人前の兵隊になっていくんだと言われた。
しかし叔父はそもそも最初から一人前の兵隊になれるわけがなかったんだ。そういう風につくられていなかったからな。
ショパンとドビュッシーを美しく弾くために生まれて来た男だ。人の首を刎ねるために生まれてきた人間じゃない。
(引用元:「騎士団長殺し」下巻 P124-P126 村上春樹/新潮社/太字は引用者)
自ら命を絶つことが、叔父にとっては人間性を回復するための唯一の方法だったんだ。
(引用元:「騎士団長殺し」下巻 P127 村上春樹/新潮社)
「騎士団長殺し」の雨宮継彦の運命を読んで、「アニメ平家物語」の維盛がなぜ死を選んだかがようやく分かった。
「アニメ平家物語」は史実とは違い資盛は捕まらず生き残ったので、残党となって逃げれば生き残る可能性がある世界だ。清経とは違い出家もした。死んだ人たちの菩提を弔って生きる道もあったはずだ。そう思っていた。
だが、雨宮継彦の死のエピソードを読んで気付いた。
こういう人たちにとって、戦によって破壊された人間性を取り戻すには死を選ぶしかない。
継彦や維盛のような人物の対比が、政彦が語る「あるシステムの中に放り込まれたときに、そのシステムの内部の性質に自己を明け渡せる人間→人の首を刎ねることに馴れることが出来る人間」だ。
「人の性質は、その人間を取り巻く環境によって決定づけられる」「外部のシステムによって、内面のシステムは決定する」*1(正確にはそう思っていたほうが危機管理をしやすい)と思っているが、恐らく歴史や現在の色々な事象を見ても、さほど間違っていないと思う。
完全に閉じられた輪の中にいる時にその内部の法則(正しさ)を疑うこと、価値観を相対化することは人間にとってとても難しい。
人は自分を取り巻くシステム(環境)に自我を回収させていると、どんなとんでもないことも慣れてしまうし、出来てしまう。
陰謀論やオウム、連合赤軍事件などの様々な事件に興味を持つのは、「閉じられた輪」がどれほど人にとって逆らえない強い力を持つか(価値観を相対化できなくなるか)がよくわかる事例だからだ。
「陰謀論」とは、その人の内部でのみ働く固有のストーリーにハマってしまっている状態だと思うので、ハマらないために気をつけたいこと。
NHKクローズアップ現代+「あさま山荘事件の深層・実行犯が獄中から独白」を見て、連合赤軍事件について再び考える。
「自分を自分でないものにしてしまう凡庸さ」は、人にとって最も怖いものだ。
閉じられた輪の中に入ると、入っていることすらわからなくなる(輪が見えなくなる)ので入らないように気をつけるしかない。*2
ただ稀にどれほど閉じられた強固なシステムに囚われても、「自分」を失わない……というより「失えない人」がいる。
「強固なシステムの中でも自分を失わない」というととても素晴らしいことのように聞こえるが、本人にとってはこれほどキツく、地獄めいたことはないと思う。
環境や状況に自我を回収させてその場を逃れる人がほとんどの中で、状況に適合できない自我や人間性があるから、事象が内部まで浸食してきたときに破壊されてしまう。
維盛や雨宮継彦のエピソードは、「閉じた輪の中でも自分(=人間性)を持っていられる人」はその内面を押しつぶされたら死ぬしかないということを表している。
結局はどちらを向いても人間性はシステムによってつぶされる運命にあるのではないか、と思ってしまうところがキツい。
大勢の人間の様々な要素によって形成されるシステムの前で、個人の人間性は余りに脆弱だ。
脆弱な個を保つための唯一の方法は何も言えず死んでいくことだ、という展開を見て憂鬱な気持ちになった。
(余談1)
「輪の中の人間同士の騙し合い」は「そんなものだろう」くらいの感覚で見ていられるんだけど。
(余談2)
「人は誰もがシステムに潰される脆弱な個であると同時に、脆弱な個を潰す無慈悲なシステムの一部である」という、認めることがとてつもなくキツイ現実を描いた「進撃の巨人」はやはり名作だ。