うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「物分かりいい症候群との戦い」としての「進撃の巨人」を語りたい。

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この記事の続き。 

 

上の記事で「『進撃の巨人』は世界に対する怒りそのものと感じる」と書いた。

根底にあるその怒りのエネルギーがずっと持続しているところが、「進撃の巨人」のすごいところだ。怒りが払しょくされていく話なのかと思いきや、ストーリーが進むごとにむしろ世界が抱える矛盾が大きくなり、怒りが増幅されていく。

一般的な話は、「世界の真実を知る(色々な事情がある)」とわかると妥協点(怒りの収まりどころ)が見つかり収束していくが、「進撃の巨人」は事情がわかればわかるほど話がこじれ、様々な人の怒りが加わり巨大化していく。

怒りの熱量という一点だけをとっても、すごい話だ。

「この話はなぜこれほどの抑圧されたエネルギーを尽きることなく発せられるのだろう」ということが、30巻で明らかになる。 

「進撃の巨人」の根底にあるのは、二千年のあいだ「いい子という奴隷」をやり続け、抑圧され続けた少女ユミルの怒りだった。

二千年のあいだ抑圧し続けた怒りが爆発したのだ。世界が滅ぶ滅ばないの話になるわけだ。

 

前の記事で書いた「世界を『自分』というものをすりつぶし押しつぶす仮想敵に見立てていたマグマのように煮えたぎる怒り」とは、「自分」というものを規定するものに対する怒りだ。社会的なものも含まれるし、内面的なものも含まれる。

「自分」とは何なのか、ということも「進撃の巨人」はこだわっている。

エレンは「父親の影響(歴史)」を拒絶し、ミカサやアルミンに対しても「お前がオレに執着する理由は、アッカーマンの習性が作用しているからだ(略)つまりは奴隷だ」「アルミン、お前は、まだアニのところに通っているだろ? それはお前の意識か? それともベルトルトの意識か?」(28巻)と指摘している。

「自分の気持ち」というが、「自分」とはどこからどこまでなのか。

「自分の意思」だと思っているものは、外部の何かから影響を受け規定されたもの(強いられたもの)で、それを「自分」だと信じているだけではないか。

周りの圧力に負けて「豚を逃がした犯人だ」と申し出たり、「自分は奴隷である」という事象を内面化して無慈悲な王に最後まで尽くしたユミルと変わらない、みな何かの奴隷なのでは、という疑問が述べられている。

「オレがこの世で一番嫌いなものがわかるか? 不自由な奴だよ(略)ミカサ、お前がずっと嫌いだった」(28巻)

「自分は奴隷である」という規定に苦しみ続けてきたユミルの怒りが根底にあるこの物語は、エレンは通して「自分を規定するものを受け入れる人間」をことごとく拒否し嫌悪を見せる。

 

「我々がただ何も知らずに世界の怒りを受け入れれば、死ぬのは我々エルディア人だけで済むのです」

「いつも他の人を思いやっている優しい子だからね。この世界は辛くて厳しいことばかりだから、みんなから愛される人になって助け合いながら生きていかなきゃならないんだよ」

「自分が犠牲になれば、みんなが幸せになれる。それが正しいこと」という物分かりの良さと戦い、「生まれたときからこうだった」自分が「他人の自由を奪ってでも、自由になる」話だからだ。

 

その怒りのエネルギーには強烈に惹かれるが、一方で物語の根底で怒りを抑圧し続けていたユミルの気持ちはよくわからない。

頭では「奴隷としての自分が内面化されている限りは王に逆うことはできず、身体的に『自由』になったとしても、犬や矢に追い立てられ狩られることを王が『自由』と言ったことと同じ」とわかっていても、感覚的にはどうもピンとこない。

ユミルやヒストリア、ジーク、ライナーなどの登場人物の多くが持つ「物分かりの良さ」を巡る会話は、前提がうまく理解できないので、エレンの嫌悪感もそんなものかなくらいに思ってしまう。

 

「進撃の巨人」が徹底している点は、「他人からの影響を認めない自分自身」という「自由」につながる考えも、25巻でライナーが「俺は英雄になりたかった! お前らに兄貴面して気取っていたのもそうだ。誰かに尊敬されたかったから。時代や環境のせいじゃなくて、俺が悪いんだよというように「物分かりいい症候群」に組み込まれているところだ。

エレンと同じ発想を持つ=「自分としてのライナー」は、「壁内に潜入してエレンたちを裏切ったのは、英雄になりたいという自分自身の欲のため」とする。マーレで育った「エレンとは違う他者の部分」として描かれているライナーは、母親から「私たちが悪魔の血を引くエルディア人だから。あの人とは一緒にいられないんだよ。マーレ人に生まれていれば」(23巻)という強力な呪縛をかけられている。

 

ライナーとエレンが地下で再会したとき、ヴィリー・タイバーが地上で「私はできることなら生まれてきたくなかった。(略)エルディア人の根絶を願っていました。ですが、私は死にたくありません。それは私がこの世に生まれてきてしまったからです」と演説している。このときのヴィリー・タイバーは、「この世に生まれてきたから、自由を求める」というエレンと写し絵になっている。

「この世に生まれてきたから生きたい」と願うヴィリー・タイバーを、「この世に生まれてきたから自由でありたい」と願うエレンが喰らう。

二人は対立する陣営におりこの世界で生きるために別の方法を取っているが、「自分の存在に『生まれてきたくなかった』『いらなかった』と罪悪を感じながらも、この世に生まれてきたから生きたい」と願っている点では同じだ。

その方法が「物分かりよく世界の総意に従うか」「世界を敵に回しても自分の自由を守るのか」で分かれているだけだ。

ヴィリーとエレンがこの瞬間、一人の人間の「表層と深層」を表していると見ることもできる。

そして深層である地下では、ライナーとエレンが同じ「時代や環境の影響を受けない自分」として自己に対しては「環境や時代のせいではなく、自分自身の責任」と言っており、他者に対しては「環境や時代に子供だったお前が抗えるはずがない。俺もお前と同じだ」と理解を示す。

 

 「進撃の巨人」は、このように同じ価値観やセリフが何回も繰り返し、しかもあらゆる角度から語られる。

登場人物たちが同じ発想でつながっているため、同一性を表しているように見えることも多く(実際にその発想のどこからどこまでが自分自身のものなのか疑問、ということがベルトルトとアルミンの例で物語内でも指摘されている。)その発想の正負の面もそれぞれ描かれている。

22巻でグリシャを立ち上がらせたクルーガーの「これはお前が始めた物語だろ」が、30巻ではエレンから呪いのようにささやかれている。30巻ではグリシャにとっては、内面化された抑圧として働いてしまっている。

 

「同じ人間のふたつの価値観のはざまの葛藤」や「同じ発想でも自分に語るときと、他人に語るときは違う」というように、内面の葛藤をあの手この手で多面的に詰めている。

「そのときはいいと思った価値観が、あとには自分を縛るもの、抑圧するものとなっている」

「どちらも大切である自分の思いのうち、どちらを殺すか選ばなければならないときもある」

自分の内面を自分の目を通してだけではなく、他者(しかも自分にとっての敵や被害者)としても見つめ、どこにも逃さずここまで突き詰めていく話は、少年漫画どころか他のジャンルでもなかなかお目にかからない。

ここまで徹底して自分の内面を追い詰めて出した「他人(というより自分の他の気持ち)よりも自分の自由を優先する」という結論は、同じ言葉でも一般的に語られている「自由」とは重みがまるで違う。

怒るだけ怒って発散したら「まあいいか」と適当に納得して終わらせてしまった自分が、「進撃の巨人」に戦慄するのは当然だった。

 

「進撃の巨人」は、「残酷な世界の厳しさや世界に対する怒り」「誰かにとっては自分が悪である、という構図」を他人(物語外)に突き付けるのではなく、怒りや厳しさや残酷さと物語内で向き合っている。

ついつい周りの対象物に目がいきがちになる中で、ただ自分の内面を見据えて内部のみでその葛藤を引き受けようとする作品のストイックさがすごく好きだ。

 

ヒストリアとユミル(元)の関係やジークとグリシャの関係、ライナーの葛藤などを通して、「物分かりいい症候群」の枷をひとつずつ外していく経緯を積み上げて、最後に「二千年の抑圧」という枷を外した。

自分にとってここで語った「怒り」と希望はよく似ている。希望を持つから怒りがわく。同じものを表から見るか裏から見るかの違いにすぎない。

30巻かけて枷を外し、自由になったユミルと世界の関係がどういう風になるか、二千年かけて目指した希望はどんなものなのか楽しみだ。

進撃の巨人(1) (週刊少年マガジンコミックス)

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  • 作者:諫山創
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/09/28
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