*映画「星の子」のネタバレがあります。未視聴のかたはご注意下さい。
現在、元首相殺害事件に関連して「宗教二世問題」が注目されている。
自分が見たところでは、「星の子」は「宗教二世問題」ではなく、*1それをモチーフにしてまったく別のことを描いている。
この話で最も重要なのは、ちひろ視点で見た時の伯父の言動の頓珍漢さ
「ひかりの星」の胡散臭さを的確に見抜き、ちひろの母親やちひろを懸命に信仰から引き離そうとする伯父一家が、ちひろの視点で見ると頓珍漢なことを言う話が通じない人たちに見える。
この話で最も重要な点は、ここではないか。
なぜ伯父一家が滑稽に見えるかと言うと、一点を除いてはちひろの両親と伯父一家は大きくは変わらないからだ。
ちひろの視点が揺れ動くため、両親は、ある時は「生ゴミのような臭いがしておかしなことを言っている」ように見え、ある時は家族の絆を感じさせる存在になる。
ちひろが「口がきけない病気の子は、実は口がきけないのではなくききたくないからきかないだけだ」と言った時の反応を見ると、両親もそのことはわかっているように見える。
伯父一家と両親の大きな違いはここにある。
両親は自分たちの認識を形成している枠組み、そこから生まれる認識に疑いを持っている。内省、メタ認知、客観的視点、自己の中の他者、言いかたは色々だが。
しかし、伯父一家にはそれがない。
自分を取り囲む枠組み(社会)とその社会によって形成された自己の認識を疑うなど夢にも思っていないため、ちひろの視点ではどこか滑稽な存在に映る。
ちひろが伯父一家の申し出を断ったのは何故か。
社会と「ひかりの星」は、「ちひろにとって時に理不尽になる枠組み」という点では変わらないからだ。
教師である南に内面まで踏みにじられたことによって、ちひろが気付いたのは「『正常』に見える社会にも理不尽なことがある」「悪い人はいる」ということではない。
「自分を取り囲む社会という枠組みは、自分とは関係なく駆動している無慈悲なシステムである」という事実だ。
「ひかりの星」と社会は、「他者の認識で構築された枠組み」という点では変わらない。
「ひかりの星」の幹部である昇子は、繰り返し「あなたがそこにいるのはあなたの意思ではない」「もう決まっていることなのだ」と言う。
一見すると、宗教特有の偏った神秘的発想に聞こえる。
しかし、「社会」で生きている人たちは、本当に自分の意思で行動しているのか。
南は、新村に女子テニス部の部員との仲を突かれて、ちひろたちを送らざるえなくなった。そうして送ったあと、噂になったためちひろに口止めをし、その鬱憤からちひろに理不尽にキレる。
「ちひろたちを送る」「口留めをする」「キレる」
これらを、南は本当に自分の意思で選んでいるのだろうか。社会の枠組み(世間の目)に強いられているのではないか。
南は、ちひろの両親を「おかしな奴ら」と決めつける。
新村は「頭に皿があって、水をかけあっているから河童だと思った」と言う。
新村の視点ではちひろの両親は河童だから、頭に皿がのっていて水をかけあってもおかしくないのだ。
自分が生きる社会によって構築された認識を何も疑わず、ちひろの両親を「おかしな奴ら」と決めつける南の視点と、その社会に枠組みに囚われていないために「河童だからおかしくはない」という新村の視点は対比になっている。
新村は社会の枠組みで見れば、なべが言うように「馬鹿」だ。
だが、ちひろの視点で見れば(そして彼女であるなべの視点から見ても)「結婚したいくらい素敵な人」なのだ。
「自己の認識は社会の枠組みによって構築されたものに過ぎない」
人(の認識)が生きているのは現実そのものではなく、他者が言語によって恣意的に概念を区切っている世界だ。
ラカンはこのことを「人は他者の認識の世界で生きている」*2と指摘した。
人はみんな他人によって認識を構成され、そして他人の認識を構成する存在として生きている。
「社会は他者の認識によって恣意的に作られた枠組みであり偽物なのだ」ということではなく、真贋など存在せず(というより存在したとしても意味がなく)人はただ、どの枠組みの中で生きるか、どの枠組みを構築するのかを選ぶ*3だけの存在なのだ。
他者の認識で出来た枠組みは、時に破壊しかねないほどの勢いで自己を浸食する。
「ひかりの星」への信仰は、例えそれが他人からどれほど奇妙に見えても、ちひろの両親の自己の一部である。そうしてちひろの両親は、ちひろの家族という枠組みを作る存在である。
どれほど間違っていても、人は自己の居場所や自己を破壊されれば生きてはいけない。全ての理屈を超えて、伯父が自己と自己の居場所を破壊しようとしているとわかったから、ちひろもちひろの姉も伯父を殺さんばかりの勢いで追い出したのだ。
「星の子」は、カルトや陰謀論に代表される「単純化された世界像」を否定する物語。
では「例え極端な信仰でも、その人の自己の一部であるから奪ってはいけないのか」「伯父のようなことを現実でやった場合、それは責められるのか」ということを、「星の子」は語っているのだろうか。
自分の考えだと、「星の子」が語っていることは真逆のことだ。
「星の子」の面白い点は、ここにある。
「星の子」はちひろの視点で社会と新興宗教を対比しているが、どちらが善とも悪とも言っていない。ある時は社会(南)に理不尽に踏みにじられ、ある時は両親に嫌悪を感じる。
その視点は常に揺れ動いているし、視点の持ち主であるちひろも無謬の存在ではない。
なべが最初から「好きじゃない」とその本質を見抜いている南に、外見だけで強い思慕を抱いてしまう。そういう表面上のことに惑わされてしまう部分も、年相応に考えなしな部分もある。
またなべも、ちひろを気に入った男の子に「あの子の家は宗教にハマっている」とバラすなど無謬の存在ではない。
「星の子」は、どの存在、どの視点も複雑に揺れ動き、白とも黒とも確たることがほとんど語られない。
「星の子」が表現する「確たるものがない複雑性」「一人の人間の認識には限界があると認めること」に対置するもの、それがカルトや陰謀論で用いられる「わかりやすく単純化された世界像(認識)」だ。
情報が溢れる現代で、何かを認識することに疲れている人(時)に、単純でわかりやすい世界を差し出す。その世界観から構築された認識を、相手に刷り込む。
そうしてその単純でわかりやすい世界観を、その人の居場所にしてとどまらせる。
「確たるものがなく理解するには限界がある複雑な世界。その中で自分の認識の限界を認めること」
「わかりやすく単純化され、すべてがひとつの思考の枠組みで説明できる、とする言説」
「星の子」はこのふたつの対比することで、前者の「複雑で理解することに苦労する世界観」を浮かび上がらせた話なのではないか、と思う。
いったんその枠組みを受け入れてしまうと、あとはどんなことが起きてもその枠組みに従って解釈できてしまうものである。(略)
実際、私が資料を読んでいるときでも、片方の側の資料だけを読みつづけていると、だんだんその説が迫真力をもって追って来たものである。
まして、それぞれの党派の人は、たいてい自分の党派の情勢しか目にしていなだろうし、相手の機関紙・誌を読んだとしても、それはデマであるという先入主をもって読むだろうから、自派の主張の正当性と真実性への信仰はいやましにますばかりであろう。
(引用元:「中核VS革マル」上巻 立花隆 講談社 P161/太字は引用者)
ひとつの思考や認識の枠組みによって色々な物事を解釈するのは簡単だ。気を付けないと、「説明がつく」ということを根拠にして、その枠組みが唯一無二の真なるものと思ってしまう。
十五歳のちひろの視点は、「わかりやすく単純化され、単一の認識しかない枠組み」への疑問で出来ており、その問題点を的確に暴き出している。
極端な思想*4は、単純化されたわかりやすい世界観、指導者の認識の無謬を謡うことで、人を取り込む。
自分が不遇だったり、認識が弱くなるほど疲れ果てていると、「単純化された世界観」に抵抗することは難しい。複雑なことを考えるには、頭も心も疲れすぎてしまっているので、絶対的な答えを出してくれるものに引き寄せられてしまうのだ。
今の時代はそういった発想と地続きである、短文で単純化された世界観で認識を専有しようとするものがかなり多い。
こういう時代だからこそ、物事の複雑さに耐える力、自分の認識を相対化する視点を常に持っていたいと思った。
キャスティングについて
誰が考えたのかと思うほど、完璧すぎるキャスティングだった。
岡田将生は、裏表があるイケメンを演じる天才だと思う。
出てきた瞬間に、いわく言い難いうさん臭さ、嫌な感じが伝わってくる。それでいながら、「ゆとりですが何か」の正和のような、天然お人よしを演じる時はその雰囲気を完全に消している。凄い。(小並感)
黒木華は、何を考えているかわからなすぎて異世界から来た人のようだった。
そして何と言っても、主役の芦田愛菜だ。
「星の子」は、主人公ちひろの内省の眼差しで出来ている物語だが、「愚かなところもある普通の女の子の内省の眼差しによって世界を作る」というクソ高いハードルの映画が、これほど完璧な仕上がりで出来たのは芦田愛菜が主役だったからだろう。
芦田愛菜の役者としての力量をこれでもか、と味わうだけでも楽しめる映画だった。
原作も読みたくなった。