うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「実際の物事や人物を元にしたフィクション」は、自分の中で「名作・傑作」であるほうが問題が根深い。

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「フィクション」と銘を打っている場合は、まずはフィクションとして読む。

問題があれば指摘すると思うが、自分は自分にとってつまらない作品はすぐに忘れるので「フィクションと、モデルとおぼしき実際の物事や人物との関係性の問題をどう考えるのか」というところまでいかない。

自分の中でこの件で一番悩むのは「創作として名作、傑作なので否定できない場合」だ。

 

2018年6月にこの件について考えた時に、自分の中ではこういう結論だった。

自分が「実話をモデルにしたり元にした創作品で、その存在を否定する」のは以下の条件がすべてそろったときだ。

①著者がその事件を基にしている、と明言している。もしくは特定の事件をモデルにしている、と断定できるほど酷似している。

②事件関係者の(特に被害者の)内面や周辺事情に踏み込んでいる。

③②をするに当たって、関係者の証言などの事実に対する綿密な取材が行われておらず、犯罪に至るまでの経緯、被害者や加害者の環境や心情の描写が、作者の創作や憶測部分が多い。

④③において、事実よりも自分の書きたいことを優先させている、という作者の姿勢が顕著。

⑤その事件をモデルにした必要性が、「刺激が大きい」以外にほぼ感じない。

⑥③や④⑤に代表される姿勢など、作者に実際の事件を扱い、向き合う真剣さが見られない。

この条件がすべてそろったときは、該当した作品は恐らく否定する。

「綿密な取材」とは、どこまで取材したら「綿密」なのか? 「実際の事件に向き合う真剣さ」は誰が判断するのか、など基準が非常に曖昧だ。

結局のところ、自分の基準で許せるか許せないかの話でしかない、というのはその通りだと思う。

 

上記の記事では「八日目の蝉」と「疾走」を例にあげている。

「疾走」の主人公は池袋通り魔事件の犯人との類似点が多いと自分は思うが、そこまで事件に興味がない人が見れば「強いて言われれば」程度だと思う。

「疾走」は先日、TLで回って来た「鬱本ベスト10」にも入っていた。暗くて辛い話だが名作である。

でも「名作だ」と言えるのは、自分が池袋の事件の時に犠牲者にならなかったからではないか。事件の二日前に、まさに事件現場として映っていた場所に同じくらいの時刻にいた、という個人的な体験がそういう複雑な気持ちを起こさせる。

池袋の事件はさらに当時、犯人の生い立ちについて同情的な論調があって遺族の人が声明を出したという経緯もあるから、余計にそういう気持ちになる。

 

こう書いているけれど、上の記事ではこの件で自分が一番気にしている作品を出していない。自分は上の記事を書いている時に、ほとんどその作品についてしか考えていなかった。

いい機会だから、その作品について考えていることを述べたい。

東電OL事件をモデルにした作品なんだけれど、「八日目の蝉」や「疾走」と違うのは被害者をモデルにしているところだ。

犠牲になった被害者の生い立ちや内面を描いている。だから当然「自分をモデルにしているが事実とは違う」と言って訴えられない。

また、作内で犯人は「中国人の男である」と示唆されているけれど、犯人として起訴されたネパール人の男性は再審によって無罪が認められている。

モデルになった人が生きている、もしくは日本の裁判に訴えられる状況なら(まだしも)いい。

「沈まぬ太陽」は国民航空のモデルになった会社はもちろん、国民航空側の人間はモデルが誰か、知っている人はすぐにわかるらしい。大企業とその関係者なら、事実誤認があるなら訴えられる。

でも事件で被害を受けて亡くなった人、冤罪で十五年も拘束された外国の人の場合は、それはほぼ不可能だ。「被害者は死んでいるのだし、誰も気にしないからいい」という話ではない。(よな)

 

社会的にインパクトがある公共性がある出来事だから、というなら、フィクションではなく取材したことを明記して周りの声などをそのまま載せるルポ形式にすべきではないか。

どれだけ取材していても「フィクション」と銘を打てば、それは「そのものを伝えるのではなく、描きたいことのために素材として利用すること」になるのではないか。

まだ関係者が生きている事件について、被害者の環境や内面まで推測で描くことが許されるのか。「亡くなっている被害者のことを、内面も含めて推測で詳細に描くこと。それをフィクションとして世に出すこと」が、凄く引っかかる。

 

引っかかるのだが、これだけ色々言っても「グロテスク」という作品をどうしても否定できない。

「グロテスク」は東電OL事件をモデルにしているが、描いているのは女性が女性としてこの社会で生きていくうえではめられる枷の重さや葛藤なのだ。女性は性的魅力があってもなくても、賢くとも愚かであっても、規範から逃れようとしても諦めてそれに従っても、同じ枷につながられて苦しむ。

そうして同じ枷にはめられている同士が、時にお互いを理解できずに傷つけあう。決して男に抑圧されるだけの弱者ではない、醜さも愚かさも卑怯さも狡猾さも強さも持つのに、なぜ誰もこの枷から逃れられないのか。

そういうことを描いた話なのだ。

「この時代を女性として生きる葛藤」をここまで描いた小説はなかなかない。ぜひ残って欲しいし読まれて欲しい(もう十分読まれているが)。

そう思うけれど、もし「実際の事件や人物をモデルにしている絡み」でこの作品の問題点を指摘されても自分の中でそれを否定する理屈が見つからない。

自分は「グロテスク」は、この社会の中で器用に生きられなかった被害者に、同じ女性として愛憎を向けながら*1共感している作品だと思う。思うが、それも個人的な感想に過ぎないと言われればそうだ、と言うしかない。

「実際の物事や人物をフィクションのモデルにすること問題」は、「名作、傑作だ」と思う作品のほうが、読者としての自分の中では問題が根深い。

 

桐野夏生の描く女性は、「虐げられた可哀想で無垢な被害者」ではない。

「路上のX」の女子高生たちも、大人や男を利用し、狡猾に立ち回り、時には仲間同士でも陥れ合う、「路上でサバイブする術」を身に付けた生身の一人の人間だった。

時にはいがみ合い、不信の目を向け合いながらも、助け合い支え合うからその生きる姿の力強さに心を打たれる。

www.saiusaruzzz.com

自分も仁藤さんの言動には色々思うところはあるが、「路上のX」の巻末の解説は、この人が一体、何にそれほど怒っているかというのが垣間見えるところが良かった。

 

「三菱重工爆破事件」の絡みではなく、「虹作戦」の描写で圧力があったというところが何とも。

www.saiusaruzzz.com

 

「光の雨」のように、著作権の問題でいったん執筆を取りやめながらも、モデルとなった人物から「執筆を続けて欲しい」と言われる場合もあるしな。

 

*1:「肯定的に描いていないが寄り添う」という絶妙な描き方なのだ。