うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

気分が悪くて最後まで読めなかった。ジョン・クラカワー「信仰が人を殺すとき」

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「荒野へ」の作者ジョン・クラカワーの本

ジョン・クラカワーの「荒野へ」が大好きで、何回も繰り返し読んでいる。

先日「何か面白い本はないかな」と思ったときに、同じ作者の本を読んでみようと思い本書を購入した。

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)

 

 

 

 

モルモン教についてひととおり学べる。

この本は1984年にアメリカで実際に起こった、狂信的なモルモン原理主義者の兄弟による義妹と幼い姪の殺害事件について書いている。

犯人は「神が二人を殺せと命じた」と、事件の動機を語っている。

 

自分はこの本を上卷の終わり近くで読むのをやめたが、それはこの本が悪いわけではない。つまらないわけでも、読み物として内容がひどいわけでもない。

 

モルモン教についてまったく知らない自分のような人間にも、その成り立ちや歴史、現在の状況、1830年に生まれたこの宗教がなぜこれほど爆発的に広まったのか、その問題点は何なのか、ということが時には俯瞰して、時には個別事例に寄り添いながら冷静な語り口で分かりやすいように語られている。

この本を上卷まで読んだ時点で、「二人の兄弟が『神の声を聞いたから』と言って、何の落ち度もない弟の妻と娘を殺害する」という不可解な事件がなぜ起こったのか、理解できるようになっている。

また一般的なモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)と原理主義と呼ばれる人たちは考え方が違い、両者は対立しているということも語られている。

被害者であるブレンダもモルモン教徒であり、夫(犯人たちの末弟アレン)とはモルモン教のコミュニティで知りあっている。

 

原理主義者たちが行っている「一夫多妻制」の問題点

モルモン教の教えの中でも特徴的な「一夫多妻制」は、主に原理主義者が主張しているものだ。それ以外のモルモン教徒は、アメリカの法律に違反しているこの制度を認めていない。

 

この「一夫多妻制」を取り入れている原理主義者のコミュニティ内の人間や、そこから離れた女性にクラカワーは取材を行っている。その内容が二章に書かれているだが、これがまず最初の難関だ。

正直読むのがキツかった。

 

個人的には、成人同士の自由意思による合意の上であれば、事実婚のような形で「一夫多妻」という形態をとるのは自由だと思う。

しかしモルモン教原理主義のコミュニティでは、十代の少女に、長によってかなり年上の男性の何番目の妻になれということを告げられる。

その子の立場になって考えれば、事実上の強制だ。どこにも逃げ場はない。

原理主義者にとって妻子は家長の持ち物なので、逆らうことは許されない。

服従しない妻に暴力を振るう、反抗的な妻子を送る施設がありそこに送還する、多妻婚を拒んだ娘に圧力をかける、家出すれば連れ戻して折檻する、そういう描写が延々と続く。

さらにひどいのは、多妻婚が近い関係性で行われることだ。妻の連れ子が成長したら自分の何番目の妻にする、ということも行われる。

ある女性は自分の父親の何番目かの妻の父親と多妻婚をしているため、自分にとって継母である人が継娘でもある、という複雑な関係になっている。

「本人が承諾した」と言っても実際はほぼ強制の場合が多く、また一定の年齢に満たない場合は、本人が承諾していても法律に触れる。裁判で「児童虐待」と判決が出ている事例もある。

 

コミュニティ内で生まれ育った少女の苦悩が書かれていたり、そこから逃げ出した女性の取材内容も載せられている。読んでいて辛いし胸が痛い。

「妻子は家長の持ち物である」という発想のせいか、もしくは近い関係での結婚が頻繁に行われているせいなのかは分からないが、性的虐待も多いそうだ。

父親に幼いときから性的虐待を受けていて、思春期になったら強制に近い形で自分よりもかなり年上の男性の妻にされる。夫からのDVから逃れるために仕方なく父親の下に帰ったが、同じ被害に合いそうになったためにたまらず逃げ出す。

こんなことが今でもどこかで正当化されて行われているのか、と思うと怒りと嫌悪で肌が粟立つ。

 

「信仰が人を殺した」のではなく「信仰を利用して人を殺した」ではないか。

モルモン教原理主義に関するこういった背景と問題点が語られたあとに、実際に起こった事件の詳細に移っていく。

犯人であるロン・ラファティとダン・ラファティは、最初は原理主義者ではない一般的なモルモン教徒だった。

二人とも働き者であり、兄弟仲はよく、特に長兄のロンは家族思いで「ロン夫婦は理想的な夫婦」と周囲にも評判だった。

ところがダンが原理主義にのめりこむようになる。

ダンは妻に多妻婚をする、と宣言し、その相手として妻の連れ子を選んだ。「人の法は守る必要がない」という考えなので、税金は納めず、妻が車の免許の更新に行こうとしても許さなかった。

ダンの妻の苦悩を見かねたロンの妻が、ロンにダンを説得するように頼む。しかしロンは逆にダンの考え方に共鳴してしまい、ロンも妻に原理主義の考えを押し付けるようになる。

ラファティ兄弟は全員原理主義の思想に染まり、家庭にそれを持ち込み、妻に自分への絶対服従を求め、逆らうと暴力を振るう、または出て行ってもいいが子供は渡さないと脅すようになる。

後にロンとダンに殺されてしまう末弟アレンの妻・ブレンダが、妻たちのまとめ役、相談役となり、ロンの妻に離婚を勧める。

ブレンダは二十代前半の若さだったが、モルモン教の教義に関する知識も深く、ダンやロンと論戦してやりこめることもあった。

 

自分が読んだのはこの辺りまで。

 

この事件は宗教や信仰に基づいたものではなく、自分の卑小さを認められない人間が「信仰を言い訳にしながら、言い訳に使ったことすら認めず」自分に劣等感を味合わせる人間を殺したに過ぎない、と思った。

あくまで自分の個人的な考えだけれど、そういう意味では本のタイトルが正しくない。

「信仰が人を殺した」のではない。「信仰を利用して人を殺した」のだ。

 

「概念化した他者を殺す」ことと「個人としてその人物を殺す」ことの違い。

この本を最初に知ったときは、日本のオウム真理教の事件や米国でも発生した自爆テロのような事件を想像していた。

これらの事件も許しがたいし、怒りも感じる。

だがこれらの事件の場合は、まさに「信仰が人を殺した」のだ。彼らにとって殺す対象だったのは、個人としての被害者ではなく「自分たちの信仰のために殺すべき人々」という概念だ。

 

「個人として想像していない概念としての他人」に対しては、人は大抵のことはできる。

アイヒマンが平凡な人間だったように「実体としての他人」には礼儀正しく振る舞う心優しい普通の人でも、「概念としての他人」には暴言を吐いたりできるどころか、子供も含めて殺戮することすらできてしまう。

 

宗教的信念に基づいた犯罪に限らず、無差別殺傷というのは自分以外の他人を概念に封じこめ、その概念を排除することを正当化していることが多い。

地下鉄サリン事件の実行犯の一人である林郁夫が自白を決意したのは、自分が殺した人が「救済のために殺すべき人」という概念ではなく、「高橋さん」「菱沼さん」という名前を持ち、地下鉄で職員として毎日働き、家族や友人に愛された一人の人間だったと実感した瞬間だった。

「救済のために殺すべき人」を始めとする概念を組み立てて作られたオウムの物語を壊すには、被害者一人一人の個人としての生きた物語を積み上げるしかない、と考えて「アンダーグラウンド」を書いた村上春樹の洞察力はすごいと思う。

加害者だけではなく、自分たちが「地下鉄サリン事件の被害者たち」と被害者を概念化することを防ぐことにもひと役買っている。

 

「邪魔だから殺したかった」だけなのに「神に言われた」と言い訳する。

というのが自分の個人的な考えだ。

この考えを前提として話すと、この本で取り上げている「ブレンダさんとエリカちゃんの殺害」はこの二人を殺すこと自体を目的としている。

ロンとダンにとっては、「自分たちは偉い存在で、妻子は自分たちに絶対服従すべき」という世界観を破壊するブレンダさんが邪魔だったのだ。

子供を人質にとった自分たちの妻は服従させることができても、知識も豊富で信仰や教義を語っても屈服させることができず、逆に教義に基づけば自分たちこそ間違っていると思い知らせてくるブレンダさんが邪魔だったのだろう。

 

対等に話せば、自分たちの真の姿を思い知らされる。自分たちの真の姿から逃げるためだけに、邪魔な人間を暴力で排除し、しかもその言い訳に神や信仰という自分たちにとって「大事だ」と言っているものすら利用する。

そういう犯人たちの心の在りように嫌悪が抑えきれない。

 

以前、Amazonで配信されていたドラマ「ロア」にも似たような話があった。

【Amazonビデオ】ホラー伝承を探求する「ロア~奇妙な伝説~」は、万人におすすめはできない。

魅力的で聡明な妻に劣等感を抱き嫉妬する夫が、「チェンジリング」という迷信を理由にして「妻は悪い妖精と入れ替わっている」と難癖をつけ、妻を焼き殺す話だ。

「妻が自分よりも魅力的で、商売上手で、成功するのは許せないから殺す」と認めているならば、殺人は許せないが、これほど怒りや嫌悪は感じないと思う。

 

この事件の構図は、自分にとっては我慢できないほど嫌悪を感じるものなので、読むのを止めてしまった。

ただ作者は取材に基づく事実を積み上げて、冷静な筆致でこの理不尽な事件を解き明かそうとしている。

個人的に強い引っ掛かりがある要素がなければ、内容でそこまで感情が波立つこともなく、興味深く読める本だと思う。

 

 

映画「イントゥ・ザ・ワイルド」の原作「荒野へ」。繰り返し読んでいる。