うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「社会科学は、なぜ社会運動と結びつきやすいのか」「社会科学と自然科学の違い」について、この説明に「なるほど」と思った。

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この本に書かれている「社会科学と自然科学の違い」の説明と、それを前提にした「社会科学はなぜ、社会運動に結びつきやすいのか」についての下記の説明に凄く納得した。

(認識の二重構造)

(略)

自然科学と社会科学の最大の相違点は、認識の主体と認識の対象との間の関係にある。

社会科学(もちろん経済学もそのひとつであるが)で取り扱う対象、すなわち「社会活動を営む人間」は、それ自身、現実を認識する主体でもある。

ところが、その主体を、さらに社会科学者が認識するという「二重構造」を社会科学研究は背負わされているのである。

したがって、社会の中の人間は彼にとっての現実(例えば彼の所得と他人の所得格差)を認識するが、それを本人がどう感じているかをいわゆる「客観的な」データでもって研究者が観測することはできない。

唯一可能な手がかりは、対象となっている人々が「こう感じた」という自己申告を参考にすることなのである。

さらに複雑なことには、観察者の認識が、対象となっている人々の認識も変えてしまう可能性がある。

所得格差の拡大という研究者の認識が(それが正確なものであれ、誤っているものであれ)社会の不平等感を助長し、さらなる不満を煽るということもないわけではない。

社会科学研究と社会運動が安易に結合しやすいのはこの構造ゆえである。

(引用元:「経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み」猪木武徳 中央公論新社 P123-P124 太字は引用者)

 

社会科学が対象としている「社会」は、数値で出来ているわけではなく、その数値に対する個人の主観的な認識とそこから生まれる感情によって形成されている。

そして社会学者自身も「社会を形成する個人」であるがゆえに、社会学者が何かに注目し調査すること自体が、人々の中に問題意識を生じさせる(認識に影響を与える)可能性がある。

「そんなことを気にしたこともなかったけれど、学者や研究者が研究対象にするということは何か問題があるのかな?」

「この聞かれる項目や調査内容に、何か意味が隠されているのかな」

という風に認識を誘導してしまう。

研究することによって研究対象が変化する危険があるということだと思う。

 

「その問題をテーマとして取り上げている」ということは、研究者や学者も、多くの場合、その問題が社会的にフォーカスされるべきだという思いがある。

その研究熱意は、自然科学においてはあくまで「研究対象に対する熱意」としてしか機能しないが、社会科学では研究者も社会という研究対象の一部であるために「社会の中の活動主体」として機能してしまいやすい。

「対象を研究する人間が、対象の中に含まれているところ」が社会科学を研究する上での難しさだ、とすっきり説明されていて「なるほど」と思った。

 

少し前にデュルケームの「自殺論」を読んだ。

「自殺論」でデュルケームは、猪木武徳が上げている、社会科学が持つ「認識主体である研究者自身が認識対象の一部でもある問題」に自覚的なせいか、「認識主体である自分の認識」を極力排除しようとする。

読んでいるこちらが「そこまでやるのか」と思うような排除の仕方だ。

例えば徴兵歴がある人間の自殺率が高い場合、それは「『徴兵されたこと自体にまつわること』(軍隊の厳しさなど)が問題なのかどうか」を調査するために、「徴兵検査の基準である身体性での差異ではないか」という条件による自殺率の有無を調べる。

つまり「徴兵されたこと」に有意性があるのではなく、「身長や体格に有意性があり、だから徴兵歴の有無による自殺率にも影響が出ているのではないか」と疑う。

 

社会学の門外漢である自分のような人間だと「徴兵歴がある人間の自殺率が高いこと」を根拠にして「軍隊生活に何か問題があるのではないか」と考えがちだが、デュルケームは「有意性を探る」のではなく「有意性のないものを弾いていくことで実相を浮かび上がらせる」

気が遠くなるような面倒臭く地味なその作業が延々と続く。

この地味で気が遠くなるような作業にの積み重ねによって、データの中で何が有意かを探り、社会の実相を見ることが社会学なのでは*1と自分は感じた。

ひとつかふたつの根拠の上に「社会はこういうものだという仮説を組み立て、その仮説を根拠にして社会をこういう風にしていく」という理論を展開することももちろん意味があるが、それは同じ社会科学の分野でも思想や哲学なのではないか。

この辺りは「社会科学研究と社会運動が安易に結合しやすい構造」によって、気を付けていないとかなり曖昧になりやすいのかなと感じた。

 

これは発信する側だけの問題ではなく、受け取る側である自分も含めた社会が「面白くわかりやすく斬新に見える理論にとかく注目しがち」なところも問題なのかもしれない。

社会学だけではなく、多くの学問の真髄はこういう地道な作業であり*2、社会が学問のそういう「地味で退屈な部分」を理解し支えなければいけないのでは、と感じた。

 

「こういう社会になって欲しい」と思ったら、「社会の一部である自分」がまずはそうする(なる)ことから始めるというのが自分の考えなので「自殺論」も読んだ。

途中で「十五人の傷痍軍人が立て続けに首を吊った廊下」が出てきて、「その話、もう少し詳しく」と思ったが、デュルケームは当然のようにそんなことに興味を持たない。(有意性がないと判断する)

一般的に云われる仮説を検証するために、延々とその条件に有意性があるのかないのか、あるとしたらそれはどんな有意性かを探る作業をロボットのようにひたすら続け、その結果「恐らくこういうことが言えるのではないか、もしくはこういうことは言えないのではないか」という結論を出す。

そこまでたどり着くころには、読み手であるこちらの頭はスポンジのようにふやけてしまっている。

 

その作業が地味で面白くなく、ただただ退屈で面倒なだけだと思えば思うほど、こういう人がいることによって、「認識主体である自分が見る世界(社会)」と「自分がその一部として形成している認識対象である社会」との差や違いを初めて認識できるんだなと思った。

観念的な話かなと思って買ったら全く違った。

*1:この辺りは諸説あるらしいけど。

*2:歴史学でも似たような話を聞いたような。