うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「学問の自由、言論の自由とは何なのか。公共の福祉と対立した時、どう考えるべきか」についての学び。

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メインは経済の話だが、それ以外もなぜそんな社会制度があるのか、どんなリスクに対応しているか、ということが書かれていて面白かった。

副タイトルである「文明社会の制度的枠組み」のほうが内容を表している。

中でも第七章に出てきた「学問、言論の自由はなぜ保障されているか」という話が面白かったので、メモがてら紹介したい。

 

物事を知る、あるいは自由に発言するということには、「私的」な精神的欲求と、「社会的」効果というふたつの側面が存在する。(略)

私的なレベルでの知る自由・発言する自由は、公共の福祉を増大しうると同時に、公共性という観点からの制約を受けることがあるからだ。

(引用元:「経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み」猪木武徳 中央公論新社 P133 太字は引用者)

誹謗中傷などの例を上げるまでもなく、個人は権利として「自由に発言する権利」があると同時に、発言内容はある程度社会(公共)から制約を受ける。

当たり前のことだけに、具体的な事例において「これは『自由』の範囲内で許される発言か」と考えることはあっても、前提として常に意識にのぼらせることはなかった。

話を始めるにあたって「当たり前の前提を当たり前と思わず確認する」のは重要だなと、この時点で感じ入る。

 

歴史的に見ると、人間が「知ることを欲する」がゆえに行った研究が、意図せぬ結果を偶然生み出し、それが有益な知識として利用されるという例は多い。(略)

好奇心の偶然の結果として、人類が獲得した知識は莫大な量にのぼるだろう。(略)

偶然の重要性を示すもうひとつの例は、ある目的を持って追究された問題の解決が不可能とわかった段階で、結果として科学の新しい概念や原理の定立に至るというケースである。

(引用元:「経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み」猪木武徳 中央公論新社 P134-135 太字は引用者)

「特定の対象の発見を意図して意図通りの発見をするよりも、まったく別の目的で試行したことの結果、意外なものを発見することの方が多い」

これは日常でもよくある。

「試行する前の人間の知識や思考の枠組み」は不完全でたかがしれており、やってみて初めてわかったことを組み立てたほうがより枠組みは広がっていく。

これも当たり前と言えば当たり前だが、それを「普遍的な考え方」としてマインドセットしているかというとそうでもない。

この文章を読んだ時も「言われてみればそうだな」と思った。

 

「言われてみればそうだな」と思えるこの二つの前提を組み合わせることで、「自由の効用」が見えてくる。

このように自由は人間の知識の不完全性に対処するための「制度」という側面を持つ。

(引用元:「経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み」猪木武徳 中央公論新社 P137 太字は引用者)

この一文を読んだ時に、「おおっ」と思った。

「当たり前」と思えた二つを事柄を前提としてセットすると、確かにそうなる。

もうひとつはこの文章を読むと「おのずとそうなる」と思うのに、巷で見る「自由」を巡る議論は「人間の(知識の)不完全性に対処するために制限を設けなければならない」ということが前提とされているほうが多いなと思ったからだ。

 

以上のように、人間の知識の不完全性に対処するための「制度」として自由を捉えた場合、自由は単に私人の精神的欲求の擁護という話に留まるものではなく、真理、善、美など社会のもろもろの価値を実現させるための重要な社会制度であることがわかる。

われわれの知識が不完全であるからこそ、真理への扉は常に開かれていなければならないのだ。

(引用元:「経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み」猪木武徳 中央公論新社 P137 太字は引用者)

「世界にとっては有用な発見は、意図しないで発見されたことが多い」ということからわかる通り、「この条件なら必ずこの結果が出る」ということは人にはわからない。

だから知ること、考えること、表現することという試みは、常に自由を保障されていなければいけない。

「言論の自由」の中には名誉棄損やプライバシーの侵害、虚偽広告など一般的に「公共の福祉」に反し、法律によって制限をかけられているものもある。

それについては、

「真理と善の核心」が見えなくなれば、言論の自由は害悪を生む。

自由と放縦の境界線は、言論の自由がもはや「善き社会」を生み出す手続きとして尊重されなくなったときに現れる。

(引用元:「経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み」猪木武徳 中央公論新社 P144)

と述べられている。

ここは正直「話が抽象的すぎて何だかな」と思った。

「真理と善の核心」とは何か、「善き社会」とはどんなものか。

それが人によって違うから揉めるのではないか。

ただこの本ではその疑問に答えるように、「言論における自由と放縦の違いは何か」を明確にしている。

(前略)誤謬の精査なくして、神の真理に近づくことはできないということになる。

肯定と否定の対立によって真理への道を進もうとするのが弁証法である。(略)

絶対的な真理を議論の冒頭から主張するのではなく、物事を相対的に(時には多元的に)見ながら、批判の過程を取り入れ、真理への道を進もうとしない限り、思想と言論の自由はもはや自明の権利とはならない。(略)

W・リップマンの言うように、自由は真理を発見するという希望につながるからこそ高い公共性を獲得するのである。(略)

弁証法的な対話は科学や学問一般ではなく、道徳的および政治的真理に到達するためのひとつの手続きでもあるから、進んで討論する権利は保護されなければならない。(略)

公共の哲学においては、言論の自由は意見の対決のための手段と考えられる。

(引用元:「経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み」猪木武徳 中央公論新社 P143‐145 太字は引用者)

「言論の自由」が保障されるのは、それが「絶対的な真理だ」という前提ではなく、「他者の目(批判)によって真理となる可能性が開かれているから」だ。

これは凄く「なるほど」と思った。

 

話をまとめると、「学問(知る)自由、言論(表現)の自由」は、より善き社会の発展のために認められた制度である。

何故ならば人間の知識は不完全であるため、自由に知ったり表現したりする過程で生じる偶然に頼らなければ、有用な発見に至る可能性が閉ざされてしまうからだ。

「人間の知恵が不完全であるからこそ」自由は認められるべきである。

表現は「真理(絶対的なもの)である」という前提ではなく、「他者から精査されることによって真理に至る可能性があるもの」であるために自由を許される。

他者の精査を拒むものは、私的な精神的欲求を満たすためだけのものであり、それは自由ではなく放縦である。

プライバシーの侵害や誹謗中傷など既存の社会制度で(他者から)禁じられているものは、欲求があったとしても禁じられる。

こういう考え方だと思う。

 

自分がこの話で一番「なるほど」と思ったのは、「知る自由、言論の自由」は今まで漠然と思っていたような「公共の福祉(社会)とは利害が対立するけれど、個人の権利という理想論から保証されなければならない」のではなく、「むしろ公共の福祉(社会のより良き発展)のために必要な制度であるということだ。

「知る自由、言論の自由、表現の自由がなければ、社会は良くなっていかない(発展するための大きな発見が生まれない)」というのは字面だけを見れば「それはそうだ」と思う。

だがいざ具体的な対象がある議論になるとこの前提は忘れ去られ、「公共の福祉と個人の知る自由、表現の自由は対立する」という前提で話が進んでいることのほうが多い。

 

自分もこの本を読んで「本当にそうだな」と思った割には、これまでのひとつひとつの問題では「社会(公共の福祉)と個人の自由は対立する」という前提で考えていたことが多かった。

今の時代だと「放縦」のほうが目立つからだろうか。

 

特にこの部分が印象深かったが、他の箇所も著作権についてなど、自分が当たり前と考えていたこと、なぜそうなっているか考えたことがなかった制度について、一体なぜそうなっているのか、その前提は正しいのかということが書かれていて学びが深く面白かった。