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うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語ります。【ネタバレ前提です。注意してください】

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「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」ネタバレ感想&くっそ長い物語の分析&総評

 

「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」全50話を見終わった。

見始める前は「50話か。長いな」と思っていたが、見終わったらアッと言う間だった。

というわけで、50話見終わった感想と総評を語りたい。

 

ここに書いたのは、すべて自分の個人的な解釈である。「鉄血のオルフェンズ」は、特に見る人によって解釈が分かれる物語だと思うので、「こういう考え方もあるんだな」くらいに思っていただければ、と思う。

ネットで放映後の製作陣のインタビューなどがあることを知ったが、そういうものには目を通していない。この記事では「作品を見た感想」を語っている。

 

先にオルガ中心の感想(鉄華団で一番問題だった思考停止問題。)を書いたが、ここに述べていることは省いているので、前提としてよければ読んでもらえればと思う。

www.saiusaruzzz.com

 

 

「鉄血のオルフェンズ」はどういう話だったのか?

「暴力の連鎖ではない、歴史を目指す物語」

メインテーマは「暴力の連鎖の否定」「破壊や暴力の連鎖ではない歴史をどう紡いでいくか」だと思う。「鉄血のオルフェンズ」の面白い点は、「テーマで否定しているものを主人公側に据えている」ところだ。

 

なぜ、こんな構成にしたのか。

恐らくこの方法でしか「暴力の連鎖の否定」というテーマは語れないと思ったからだと思う。自分ももしこのテーマで物語を作ろうとしたら、まったく同じ手法で描く。

なぜならば、「暴力の連鎖」を断ち切るときに一番問題になるのが、「自分や自分の大切な人間が傷つけられたときに報復したいと思う」誰にでもある、当然の気持ちだからだ。

 

痛みを持っていない外部の人間が「暴力による報復は暴力しか生まない。報復などはやめよう」と言うのはとても簡単だ。

「鉄血のオルフェンズ」では、視聴者を疑似的に「暴力の連鎖の内部の人間」にするためにあえてこの手法をとったのではないか、と思う。

 

自分が感情移入した主人公側の鉄華団が次々と死んでいく。理不尽とも思えるやり方で。それでも「私的感情による報復は良くない。それは暴力の連鎖を生むだけだ」と言えるのかどうか。

それがこの物語の重要なテーマだと思う。

 

この辺りのテーマについては、ガランが死ぬ直前に話している。

「私的な感情による報復、戦い、それはとても人間らしいことだ」

大切な人が殺されれば、誰でも怒りを覚える。憎悪を覚える。相手を殺してやりたいと思う。それは人間として当たり前の感情だ。

だが、その当たり前の感情が暴力による報復合戦を生み、泥沼の殺し合いに発展する。それは「自分や自分の大切な人の命のみを大切にする、ごく人間らしい感情からだ」と言える。

 

「自分や自分の大切な人の命のみを大切にする」

この辺りの心情の描き方も「鉄血のオルフェンズ」は徹底している。

42話で「同じヒューマンデブリと戦うのにためらいはないのか」というザックの質問に、チャドが「武器を持てば誰でも対等だ。(だから、殺すのにためらいはない)。」と答えている。

つまりどれほど可哀そうで悲惨な境遇で、無理やり戦闘に参加させられているような敵でも、「敵であれば殺すしかない」と鉄華団側が明確に言っている。これは鉄華団にもあてはまる。

彼らはなるほど、悲惨な境遇で気の毒ではある。だからと言って、武器を持って襲いかかってくれば殺されることがあって当然なのだ。

 

「自分たちが共感したり、好感を覚える人間だけ、死んだら可哀そう。理不尽だ」と思い「敵であれば、どんな気の毒な事情があっても、殺さなければ殺される。だから殺しても仕方ない」と思う「人間らしい感情」こそ、暴力の連鎖の根源であり、それを乗り越えて暴力の連鎖を断ち切れるのか、そういうことが問われた物語だと思う。

 

「暴力の連鎖」を断ち切ったクーデリア

二期ではただの恋愛要員になってしまったかのように見えたクーデリアだが、最後の最後でこのテーマを身をもって体現してくれた。

 

クーデリアにとってラスタルは、自分の愛する人・三日月や家族である鉄華団を惨殺した憎むべき敵である。彼は鉄華団の降伏すら受け入れず、社会を安定させるために「生贄」として殺した。

しかし、クーデリアはそのラスタルと手を握り合い、ヒューマンデブリの撲滅運動などを推進する。

憎悪を押し殺している風でもなく、心の底から信頼している風だ。そしてそのクーデリアを、ユージンやチャド、タカキが支えている。

 

ラスタル個人を「三日月たちを殺した敵」と見るのではなく、三日月たちがあんな風にしか生きられず、死ななければならなかった社会を変えるために生きることをクーデリアたちは決意したのだ。

鉄華団のことを忘れよう、水に流そうというわけではなく、それこそが鉄華団の人たちに本当の意味で報いる道だと信じているからである。だから、鉄華団のピアスを身につけている。

ライドのように個人的な怒りから報復を行うことが、もしかしたら「人間らしいこと」なのかもしれない。しかし、それでは永遠に暴力の連鎖が続く。戦争が続き、三日月たちのような子供を再び生み出すことになる。

 

クーデリアは私情を排して、自分の愛する人たちを殺した人間と新しい社会をつくることを決意した。

それで歴史が変わった。

ギャラルホルンは民主的な組織になり、火星は独立を果たした。

差別や暴力や破壊のない世界を目指せる土台ができた。オルガが鉄華団を連れて行こうとしていた「斬ったはったをしなくても、安定した生活を送れる」世界に一歩ずつ近づいている。

 

歴史がなかった鉄華団が、歴史の源になった。

そもそも鉄華団のメンバーは、孤児の集まりなので歴史がない。この場合の歴史は、親世代から受け継ぐ価値観、と言い換えてもいい。

価値観というものは、既存の価値観を受け継いだり、否定したりしながら自分の中で独自のものを培っていく。

親世代が存在しない鉄華団には、受け入れる、否定する以前に「価値観」そのものが存在しない。自分たちの価値観を作り上げることが困難になっているから、彼らはオルガに思考を預けざるえない。(自分独自の価値観がないから)

 

「鉄華団のメンバーに価値観がない」エピソードで一番象徴的なのは、昌弘たちの葬式の話だ。

「葬式をやることに賛成か、反対か」以前に、彼らはそもそも「葬式」というものを知らない。それがどういうもので、どういう意義があるのかを知って、初めて「その価値観を受け入れるのか、受け入れないのか」を判断することができる。

個人の価値観というものは、そうやって作られていき、その価値観を社会の中で体現し、次世代に引き渡すのが「個人の歴史」だ。

鉄華団のメンバーはそこから切断された場所にいて、個人の歴史を作り上げることができない。

 

前世代からバトンを受け取ることができず、だからそのバトンを受け取るか拒否するか形を変えるか、と判断する以前にバトンの存在そのものを知らず、次世代に自分のバトンを渡すことができない。

歴史の中で何も存在した証拠を残すことができないはずだった彼らが、新しい歴史の礎になった。そして生き残った何人かは、実際に歴史を作り、その歴史を次世代に引き継ぐ。

価値観を持たないがゆえに、思考停止して破壊と暴力を武器にした方法でしか生きられなかった、それでも必死に生きた鉄華団の死は決して無駄ではなかった。

そういう意味でも素晴らしいエンディングだった。

 

ちなみにこの歴史云々というのは、鉄華団との対比としてラスタルがイオクに「お前が愚かでも、部下たちがお前を大事に思うのは、歴史があるからだ」と語っている。

またラスタルはマクギリスに対して「旧態依然を変えるのに、(旧態依然の象徴である)アグニカの伝説に頼るのか」と、その矛盾に対して痛烈な批判をしている。

(こういう矛盾が生じる、ということはマクギリスが求めているのは、本当に本人が言っているとおり「純粋な力」なのかな? という疑問が生じてくるのも、この物語の面白いところだ。)

「生まれなど関係ない(歴史を否定)」していながら、歴史に頼るという矛盾も、歴史(価値観)の中で生きる人間ならではだな、というのも面白い。

 

テーマのまとめ

「鉄血のオルフェンズ」は、「暴力や破壊によって作られる歴史を断ち切り、希望による歴史を作ることを目指した」物語。

それをあえて「暴力や破壊に頼った生き方を肯定する(肯定せざるえない)立場の人間たち」を主人公側にすえて描いた。

なぜそんなことをしたかと言えば、「自分たちが感情移入している人間が、殺されたり傷つけられても、なお暴力の連鎖を否定し乗り越えられるか」ということを問いたかったからではないか、と考えている。

 

これを「暴力の連鎖による歴史を否定する側(ラスタルサイド)」からみれば、「自分たちの利益を追求するために、暴力によって秩序を破壊しようとする集団」が武器をとってきたために戦い、破壊と暴力の象徴(三日月とマクギリス)が死んで、社会が新しい秩序に向かった、という物語になる。

それをあえて、裏側から見せている。

ガランが言っているように、否定しているのは「私的な(人間的な)感情に基づく、報復のための暴力」であり、それでは「暴力の連鎖が続き、社会は根本的には変わらない。鉄華団と同じ境遇の人間を生み出すだけだ」ということを語っている。

 

 物語のルート変更について

ルート変更が行われたと考える理由

二期だけを見れば上記のテーマで一貫していると思うが、一期開始当初からこういう話だったかについては疑問に思っている。

そう考える大きな理由は二つある。

①二期でのクーデリアの不要キャラ化。(一期のクーデリアから三日月への影響のフラグの放置)

②二期になって(正確に言うと一期の終盤から)、急激に鉄華団の思考停止化が進む。(メリビットやユージンが、オルガの方針に対して何も言わなくなる。)

 

二期のクーデリアの「不要キャラ化」は、なぜ起こったのか?

一期に比べて、二期のクーデリアの空気化はすごい。

「何もやっていない」という意見を見たが、確かに何もやっていないも同然である。物語として見たときに、クーデリアというキャラが二期では不要なキャラになってしまったことは明らかだ。

この場合の「不要」というのは、「作者にとって、いなくても物語が動かせるキャラ」という意味である。作品内のキャラたちにとって、不要という意味ではない。

二期のクーデリアはほとんど物語を動かすことに関与していない。

 こういうことが起こるのは、物語の内容が開始当初と変わった場合が多い。

 

「鉄血のオルフェンズ」全編を通して、主人公三日月はほとんど変化のないキャラなのだが、唯一彼の考え方や生き方に影響を与えそうになったのがクーデリアである。

一番、象徴的なエピソードが18話の「声」である。

ここで「オルガとは違い」「声だけで敵をとめた」クーデリアを三日月は「すごい」と言う。自分が見た限りでは、三日月が自分の考え方の方向性を変えるようなことを言うのは、ここくらいである。

ここで、「三日月が変化する」という大きなフラグが立つ。

 

物語というのは因果の組み合わせでできているので、フラグや伏線は必ず回収されなければならない。(意味のない描写をしてはならない。)

そうでないものはただの事象の羅列であり、物語とは呼ばない。

 

恐らく当初の予定では、「破壊や暴力以外の方法で人をとめられるクーデリア」に影響を受けて、三日月や鉄華団の価値観が変化し、彼女の理想を叶えるために戦うという物語だったのではないか、と思う。

これを便宜上、「クーデリアルート」と呼ぶ。

ところがこのフラグは回収されず、鉄華団はクーデリア(の理想)とはまったく別の道を歩む。

その分岐点はどこにあったのか。

 

「クーデリアルート」と「オルガルート」の分岐点

「希望に満ちた社会を目指す戦い」と「破壊と暴力の連鎖」

「クーデリアルート」と「オルガルート(実は理想はなかった)」

「ホワイト三日月」と「ブラック三日月」

の分岐点はどこにあったのか。

 

ビスケットの死後、三日月が落ち込むオルガに対して「立ち止まることは許さない」言ったシーンである。

あのシーンで、その後の鉄華団の運命、オルガと三日月の関係性、三日月のキャラクター(ついでにクーデリアの不要化)その後の物語のすべてが決まったと言っていい。

 

オルガの視点で見れば、あの三日月の言葉を受け入れるか否かが「三日月ルート」と「メリビットルート」を分ける分岐点だった。

このシーンの後から、オルガが鉄華団のメンバーに言えないことも相談し、精神的に依存していたメリビットが、筋違いな(ように見える)ことばかりを言う痛々しいキャラになった。二期ではクーデリア同様不要キャラになる。(二期のメリビットは鉄華団やオルガに仕事以外で関わらなくなり、デクスターで十分代替できる存在になった。)

 

このせいで割りを喰ったキャラが。もう一人いる。ユージンである。

ユージンは一期の最初のほうでは、「クーデリアを敵に差し出そう」と言ったり、自分の頭で考え意見を言うキャラである。

物語的には小悪党っぽく見える損な立ち位置だが、後々「鉄華団には、オルガ以外の人間は考えることをしない」ことが問題になって自壊するので、どんな意見であろうと「自分の意見が言える」というのは非常に重要なことだった。(これは44話で雪之丞が指摘している。)

元々は自分の頭で考え、自分の意見を言えたユージンが、「鉄華団は思考停止した集団であるがゆえに、破滅の道をたどる」という風に物語が変更されたために、二期ではまったく自分の考えを言わなくなる。

これは44話でユージン自身がシノとの会話で言っている。

「(オルガに)鉄華団のこれからを全部考えさせちまって。……一人で背負わせて、悩ませて」

考えるキャラだったユージンが、二期では完全に思考停止しているのは不自然と思ってか、こういうセリフを言わせている。

 

ユージンはビスケットよりは視野が狭いキャラではあるが、それでも誰かが自分の意見を言うだけで、オルガも自分の本音を言いやすくなる。少なくとも「降りたい」という心境にまで追い詰められて、暴走することはなかったと思う。

「キャラが物語の犠牲になる」ことは往々にしてあるが、自分はユージンが好きなので、「思考停止していい人化」したことが残念だった。

 

王道ルートも見てみたかった。

自分の勝手な想像だが、もともとは王道である「クーデリアルート」で物語を作ろうとしたのではないかと思う。

一期にはそういう名残がそこかしこにある。

「クーデリアルート」は多くの人が納得し楽しめる、王道の物語だったと思う。それも見てみたかったなとは思うが、「オルガルート」のほうが賛否がばっきり分かれようと面白い物語だったとは思う。

 

ちなみにルート変更しても、「ラスタル、クーデリアが手を取り合い、新しい社会を作ろうとする。三日月が死んで暁が生まれる」この辺りの結論は余り変わらなかったのではと予想している。

 

種明かし回である44話

「鉄華団」がなぜ、こういう末路を辿らなければならなかったのか、というのは、44話で雪之丞がザックに言った

「お前みたいなのが、鉄華団にもっといたら、オルガも楽だったろうに。……考えることをやめんじゃねーぞ」

という言葉がすべてだと思う。

そしてその後にユージンとシノの会話になり、「悩ませておけばいい。考えるのはオルガの仕事」というシノとの対比になっている。

この辺りも描き方で、シノがそれほど間違ったことを言っていない風に見えるが、事実だけを見れば、こういう考え方がオルガを「降りたい」と思うほど追いつめている。

 

普通、物語の作成者側のメッセージやテーマというものは演出で強調されるが、「鉄血のオルフェンズ」は逆である。「これが正しいと思われること」が、演出であたかもそれほど「正しくないこと」のように見えるようになっている。(逆も然り。)

しかもその手法で統一されているわけでもなく、「制作者のメッセージと演出」が噛み合っている場合もある。

そういったことが「結局何が言いたいのか分からない物語だった」という批判につながっているのかな、と思う。

 

「鉄血のオルフェンズ」で最も面白い点は、「制作者の言いたいことや物語上正しいと思っていることが、演出と噛み合っていないために、解釈が非常に難しい」ところだと思っている。

だから演出というヒントに頼ることができず、自分自身の頭でひとつひとつの事象の意味を考え、自分で解釈しなければならない。「それがまさに鉄華団がしなければならなかったことなんです」というメタメッセージに物語全体がなっている、と勝手に考えている。

 

終盤の展開について

元々、「終盤がかなり駆け足の展開だ」という話は聞いていたので、終盤の展開については自分はそれほど違和感がなかった。

ダインスレイブについては……多少は気になったけれど、自分がそれ以上に気になったのが「バエル」の物語上の扱いだ。

日本の歴史でいうところの天皇の勅令という位置づけであれば、もう少しセブンスターズが動揺しても良さそうだけれど、マクギリスとセブンスターズのバエルに対する温度差がよく分からなかった。

 

結局は、マクギリスがバエルを神格化しすぎていた、という扱いで、これは「暴力の否定、積み重なった歴史の肯定」なので、テーマ的には正しいと思う。

でもマクギリスというキャラは今まで何を考えているかよく分からないキャラで、心象を深く掘り下げていないので、もう少し丁寧に描かないと、「マクギリスは、結局何も考えていなかった」「急に頭が悪くなった」という意見も出るよな、とは思う。

 

マクギリスは繊細で心優しい人だと思う

「純粋な力のみが成立させる世界」を目指していたマクギリスだけれど、それの象徴だとマクギリスが思っていたバエルが源になって作った歴史が、今、マクギリスが否定している歴史だよね? それをバエルを使って破壊しようとするのって、めちゃくちゃ矛盾しているよな? ということは、ラスタルが指摘している。

「歴史の積み重ねがない純粋な力」なんて、この世のどこにもないのだ。

 

一見、理知的で冷静で頭が良いキャラがこういう矛盾したことを尤もらしく言い出すときは、「そのキャラの行動原理が、本人がずっと目をそらしていた感情である」場合が多い。

突き詰めれば、マクギリスは本当に子供のころ辛かったんだろう、そして今でもその傷を癒せずにいるのだろう。ただその傷から目をそらすためだけに生きていた、それがマクギリスという人だったのだろう、と思う。

だから矛盾しようとも、バエルの力を欲した。

だからガエリオとカルタに友情を感じつつも、本当の意味では受け入れられなかった。

力によって支配され傷つけられたから、それに負けない力が欲しかった。

 

「なぜ自分のことを裏切ったのか。本当は何を考えていたのか」というガエリオの問いに答えるには、こういうことを全部話さなくてはいけない。それをマクギリスに求めるのは、余りに酷だと思う。個人的には、マクギリスがカルタにやったことの何十倍も酷だと思う。

ということが、分かっていればガエリオがマクギリスにそんなことを聞くはずがないので、もともとガエリオにはマクギリスを理解しようがないことが、マクギリスには分かっていたのだと思う。

「自分には絶対に理解できない、ということすら理解してくれない人」と、まがなりにも友達でいたことが、マクギリスがガエリオを友達だと思っていた証拠だと思うのだが、ガエリオにはそれが分からない。

仮面をかぶって戦ってまで、マクギリスの本心を聞き出そうとする。

ガエリオの目的が、大義や理想でもなく、復讐ではなく、「ただただマクギリスの本心が聞きたい」という点がマクギリスにとっては、そうとうキツイと思う。たぶん復讐のほうが何十倍もマシだったと思う。

 

人は本当に難しい。相手がいい人なら、好感を持っていれば、相手を思いやっていれば、うまくいくとも限らない。

マクギリスとガエリオの関係はその典型だ。

マクギリスには自分の内面に興味がない人のほうが、距離感がちょうどいいのだと思う。鉄華団のメンバーも生い立ちは悲惨だし、性的な虐待以外は境遇も似ているけれど、みんな他人に心を開けている。

マクギリスは、アルミリアへの対応を見ても、元々人一倍繊細で優しい人なんだろうなと思う。

距離感って人それぞれだからほんと難しいよな、ということまで学べる。

 

まとめ

「鉄血のオルフェンズ」の最も面白い点は、「物語的に正しいことや言いたいことと演出の乖離」であると自分は考えている。だから、視聴者は自分なりに、事象やエピソードのひとつひとつの意味を考え、自分で物語を組み立てていかなければならない。

非常に実験的で面白い試みだと思う。

 

こういう手法をとるには、視聴者のことをまず信じなければならない。

「視聴者は面倒くさがらず、意味が分からないと投げ出さず、なぜこういうことを描くのか、ということを考えてくれるはずだ」と。

そして考えた結果、自分たちが伝えたかったこととまったく違う答えを視聴者が導き出したとしても、それはそれで良しとする覚悟も必要だ。

 

もちろんそんな面倒くさいことはしたくない、この物語に何の意味があったんだ、クソみたいなラストだったと思うのも個人の自由だと思う。そう言われることも、十分想定していると思う。

 

自分は様々なテーマ、様々な事柄を詰め込んでいながら、ひとつの物語として破たんなく組み立てられたすごい物語だと思うし、こういった物語をこういった手法で作り上げた覚悟と視聴者への信頼に頭が下がる思いだ。

 

心に残る素晴らしい物語に、最大限の感謝と賛辞を伝えたい。

 

 

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しばらくたったらもう一周しようかな、と思っている。また違う感想が出てくるかも。