うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「カルト集団と過激な信仰」第一話「ネクセウム」を見たので感想とメモ。

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「カルト」と呼ばれる集団から脱会した人々に、入会した経緯や入会していたときの活動や経験、脱会に至る過程をインタビューしたドキュメンタリー。

NXIVM(ネクセウム)

NXIVM(ネクセウム)

  • メディア: Prime Video
 

 

第一話は自己啓発団体「ネクセウム」。

有名女優もメンバーとして参加していた有名な団体だったようだ。

創始者のキース・ラニエールは既に逮捕起訴されているらしい。

 

この団体はオウム真理教と被る部分が多い。精神的な成長や高揚を謡い文句にして、内情は女性に対する性的支配を行っている。

インタビューを受けた元メンバーがキース・ラニエールに当初抱いていた印象は、オウムの信者たちが麻原に対して抱いた印象と被る。

会を告発した元メンバーのサラ・エドモンソンが主にインタビューを受けている。彼女が経験したこと(そして彼女がやってしまったこと)は記事では触れない。実際に見てもらったほうがいいと思う。

 

社会学者でカルトの専門家のヤンヤ・ラリッチ氏が、解説者として番組に出演している。信仰にのめりこんでいるときの心の動きを「なぜそうなってしまうのか?」解説しているが、これが興味深かった。

 

(カルトに)深く関わるほど集団思想が自己の一部となり、必要な過程だと考えます。

組織が約束した高みに達するためだと信じ込み、指導者への崇拝を示そうとするのです。

サラが服従の印としての「焼き印」を入れられたときに、「最初は絶対に嫌だ、逃げたい」と思っていたのに、終わったあとは「自分はあの激痛を乗り越えられた、と皆で感動して泣いた。今までにない高揚を味わった」と言ったときの解説だ。

自分の想像を超えた理不尽な目に遭ったときに、人はそれを何とか「必要なことだった」「意味があることだ」と合理化しようとする。

指導者への崇拝を強く示せば、「指導者は正しい⇒その指導者が、焼き印を押せば高みに昇れると約束している⇒これは高みに昇るために必要なことだった」と「意味のあるストーリーが形成される」

宗教はこういう「自然の理不尽さを意味のあるもの(神の何等かの意思)と解釈するために考えられたもの」が多いし、日常でも間々あることだ。

物事に意味を見出すことで理不尽を乗り越えられる力を、巧みに利用している。

 

危機的状況に陥った組織にありがちです。

多くのメンバーがやめそうな時に、残った人々が集団思想に固執していくんです。

現実と信念にズレが生じた時、認識の不一致が起きて、多くの場合現実を受け入れずに、今の信念を貫こうとします。

そのほうが安心できるし、気持ちも楽なので、今の認識に固執してしまうのです。

 「逆説的な選民思想」と言える。

集団思想により強くコミットすることで、「離れたものと自分たちは違う」「残った自分たちこそが真の〇〇である」のような発想をすることで、「自分」を他から浮かび上がらせ特別なものとみなすことができる。

先日読んだ「テロルの決算」の山口二矢に起こったことは、この現象の亜流ではないかと思う。

ありのままの現状を認めて、地に足をつけて地味に道を歩むのは先が見えずに大変なことだ。

「先のことを考えるのが怖いから尖鋭化してしまう」というのは一見おかしく聞こえて、意外とありがちなことのように思える。連合赤軍事件は現実から目をそらすために(何かしているふりをするために)、内部粛清に走ったのではという意見があるくらいだ。

 

カルト集団は今までの考えを崩し、感情的にも心理的にも自己を抑えつけさせます。

服従させることが大事だからです。

だから人の思考を打ち砕き、新たな考えを植えます。

どのカルトもこの方法で、人々を洗脳しているのです。

最も洗脳しやすいのは、真っ新な赤ん坊のような状態だ。

洗脳しようと思ったら、まずはそれまでの自己を壊す。尊厳やアイデンティティを徹底的に破壊して、それまでの周囲とのつながりを断たせる。

一番は自分で自分を破壊させるのが、上記の合理化も起こって一番やりやすい。だから自分たちの組織に取り込もうとする集団は、本人が「それが正しいことだ」「自分にとって良いことだ」と信じて進んでこれまでの自分を否定したり、破壊したりするように仕向ける。

徹底的に自己否定させて「自己」を破壊したあと、そこにコミュニティの思想を植え付けるという手法はよく見る。

 

外から見ると「こうだろう」とわかることでも、その輪の中に入ってしまいしかも自分がその一部になってしまうと、抜け出すのは簡単ではない。

外から見ればどれほど馬鹿馬鹿しく見えても、ひとつのものとして継ぎ目なく循環するようにできているシステムの内部で、自分自身がその一部になってしまっている場合、そこから自力で抜け出すのは不可能だ。

(「モスクワ裁判の被告は、なぜ嘘の自白をしたのか」という謎に迫る心理劇「真昼の暗黒」 - うさるの厨二病な読書日記)

 

どれだけ間違っていると思っても「自分がそれまで真剣に信じてきたこと、仲間だと思っているコミュニティ」を否定するのは大変なことだ。

「今まで自分がやってきたことが無になってしまう」「仲間を裏切ることになるのではないか」「自分の誘いで入った人もいるのに」長くいればいるほど、そういったしがらみに縛られて、疑念がわき出てもそこから抜け出すことができなくなる。

この現象自体はカルトや思想集団に限らず、日常でもありがちな心の動きだと思う。

サラはメンバーだったときは勧誘成績でトップに立ったこともあり、全ての生活を活動に捧げていた。夫も含め、友人など周囲の人間も会のメンバーが多かった。こういう状況だと、外から見て想像する以上に抜け出すのは大変だろうなと思う。

サラは自分の宣伝がきっかけで入会したジェニファーが「恐怖の実験」を受けることで、自分も含めて多くの人間が「彼女の輝く精神を踏みにじってしまった」という凄絶な悔恨を抱えている。

サラは被害者だが、加害にも加担してしまった。

「間違っていたと認めれば、自分は加害者になってしまう」と思ったとき、そのことに耐えきれず、活動を続けてしまう人もいると思う。脱会を決意して、ジェニファーに悔恨の意を伝えたサラは強い人だなと思った。

とにかく二人とも抜けられてよかった。

 

七話は「信仰が人を殺すとき」で読んだモルモン教原理主義の団体のようだ。

第一話の出演者であるサラは(気の毒ではあるが)まだしも大人になってから自分の意思で会に参加しているけれど、「信仰が人を殺すとき」に出てくる少女たちは、生まれたときからそのコミュニティで生きていかざるえない境遇だ。

理不尽な慣習を強制される話で、途中で辛くなって読むのをやめてしまった。

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自分がハマってしまったり、被害を及ぼす側に回らないためにこういうことを知ることは大事なことだと思う。ただこの先は子供が被害に遭うケースも多いようで、第一話以上に見るのがしんどそうだ。

 

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