うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

角川つばさ文庫「飛ぶ教室」はイラストが可愛く、訳も良くておススメだ。

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児童文学で最も好きなエーリヒ・ケストナーの「飛ぶ教室」の新訳が、角川つばさ文庫から出ていたので購入した。

この記事で「アニメ化や漫画化に向いていると思うのだが、若干過激な描写があるせいかならないのでは」と嘆いたが、角川つばさ文庫では現代風のイラストがついている。

この絵でぜひアニメ化、漫画化して欲しい。

 

 

 

「飛ぶ教室」あらすじと登場人物

「飛ぶ教室」は、第一次世界大戦後のドイツの高等教育機関(ギムナジウム)を舞台にした物語だ。

日本の中学二年生にあたる八年生の五人組、マーティン、ジョニー、ウリー、マチアス、セバスチャンを中心に、彼らの学校生活の様子が描かれている。

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(引用元:「飛ぶ教室」エーリヒ・ケストナー/那須田淳・木本栄訳 patty画 株式会社kadokawa)

マーティン(左)は貧しい家の出で、奨学金をもらいながらギムナジウムに通う苦学生だ。成績優秀な優等生だが、正義感が強く曲がったことが大嫌いで、短気なところがある。

室長(高校三年生)の「気取りやテオドア」(右)が体育館の使用の順番を守らないため、テオドアがピアノを弾いているときにいきなり蓋を閉めたシーン。

優等生なのにやることが過激だ。そういうところが仲間たちとっては、「真面目で頭がいいだけじゃない、頼れるリーダー」の要素になっている。

 

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(引用元:「飛ぶ教室」エーリヒ・ケストナー/那須田淳・木本栄訳 patty画 株式会社kadokawa)

そんなマーティンと五人の中でもとりわけ仲がいいのは、親友のジョニー(左)。子供のころ父親に、捨てるために船に乗せられたという悲しい過去を持つ。今は、その船の船長の妹夫婦に引き取られている。

作家を目指す文学少年で、クリスマスのために「飛ぶ教室」という劇を書いた。

生い立ちのせいか、どんなときも冷静で物事を達観しているフシがある。

 

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(引用元:「飛ぶ教室」エーリヒ・ケストナー/那須田淳・木本栄訳 patty画 株式会社kadokawa)

大柄でボクサーを目指している腕っぷしが強い少年マチアス。いつもお腹を空かしており、常に何かを食べている。

明るく天真爛漫で心優しい。 ただ成績は余り良くない。

 

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(引用元:「飛ぶ教室」エーリヒ・ケストナー/那須田淳・木本栄訳 patty画 株式会社kadokawa)

マチアスと仲がいい、貴族のお坊ちゃんウリー。

小柄で可愛らしい顔立ちをしており、クリスマス劇「飛ぶ教室」でも女装して女の子役を演じる。

しかしその反面、自分に勇気がなく、級友たちから馬鹿にされていることをとても気に病んでいる。

 

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(引用元:「飛ぶ教室」エーリヒ・ケストナー/那須田淳・木本栄訳 patty画 株式会社kadokawa)

皮肉屋のセバスチャン。頭の回転が速すぎて、余計なことを喋り、たまに裏目に出る。

五人の中では若干、他の四人とのあいだに距離がある。作中でも「とくに親しい友人はいない」「友達なんて欲しくないのだろう」と書かれている。

ひねくれ者だが、それは人一倍繊細な感性を持っているからだ、ということが後々分かる。

 

自分の中に葛藤を持つセバスチャン

「飛ぶ教室」は表面的なストーリーラインは子供の読み物に治まっているのだが、その背景は大人でも考えさせられたり、感じ入ったりすることが多々ある。

五人の中でもセバスチャンは異端児だ。ウリーに「お前は逃げ回るのは得意じゃないか」と嫌味を言い、マチアスと仲間割れを起こしそうになる。

後に「自分もウリーと同じように臆病な部分がある」ということを突然告白する。

大人になった今ならば「セバスチャンはウリーに自分の嫌いな部分を投影して攻撃していた」と分かるのだが、不思議なもので子供のときも言っていること自体は分からないが、何となく「セバスチャンは、自分のことが余り好きではないのだろう」と分かった。

セバスチャンが抱えている葛藤は割と複雑なもので、そういう複雑さが「飛ぶ教室」の面白さのひとつでもある。セバスチャンの告白もそれ以上深追いしないことで、うまく児童文学の枠内に収めている。

 

子供の世界を尊重する禁煙さん

またベーク先生と禁煙さんについても、子供のときは「いい大人だな」「二人がまた会えてよかった」くらいにしか思わなかったが、この年になって読むと「大人としての」この二人について色々と考えさせられる。

 

禁煙さんは「子供には子供の世界の理屈がある」ときちんと分かっている大人で、子供の世界のもめ事に「大人の言葉」で口をはさんだりしない。

子供の世界のルールを尊重し、子供の世界の目線で話す。

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(引用元:「飛ぶ教室」エーリヒ・ケストナー/那須田淳・木本栄訳 patty画 株式会社kadokawa)

実業学校の生徒とのもめ事についても、頭ごなしに「喧嘩はやめろ」と言ったりしない。「子供の世界には子供の世界の論理がある」ことを尊重し、それでいながら近隣を巻き込み警察がやってくるような大喧嘩にならないように一対一の決闘を提案する。

そしてその一対一の決闘の約束を実業学校の生徒が守らないと、「自分が甘かった」と素直に子供たちに謝る。

子供に対しても常に誠意を持って対応し、彼らの世界や意思を尊重している。それでいながらさりげなく、彼らの手に負えないような、彼らが道を踏み外すようなことにならないように見守っている。

「基本的には子供たちを信頼し、それでいながら何かあったときはすぐに対応できるように見守る」

この距離感が絶妙だ。

 

子供の世界には子供の世界のルールがあり、目に見えない力学がある。それをその世界の中でいかに対処するか、ということが社会性を学ぶということだと思うのだ。

その学びを見守りつつ、対処しきれない矛盾(いじめや差別など)が出てきたときに、子供と向き合って素早く適正な判断をするのが、大人の役割だ。

禁煙さんとベーク先生は、子供から見て「こういう大人がいてくれたらいい」という理想像というだけでなく、大人から見て「子供の世界とどういう距離感が適切なのか」ということを考えさせられる。

子供のときは、禁煙さんみたいに電車を家にして住みたかったよ、懐かしい。

 

社会の矛盾に苦しむマーティンと当時の社会状況

マーティンの父親が失業しており、休暇中、マーティンが家に帰るための切符代すら出せないというエピソードは、大人になって読むとかなり重い。

この当時の社会状況は、「飛ぶ教室」で重要な背景になっている。

 

他の作品の情報なども見ると、この当時のギムナジウムは、現代の日本でいう私立の名門の一貫教育に近いものだったのではないか。ギムナジウムに通う生徒は、社会の上流を占めるホワイトカラー層なのだと思う。

在学中友達からお金を借りまくり、休暇に家から送られてきたお金でそれを一括返済できるマチアス、クリスマスに家族へのおみやげを抱えるほど買えるセバスチャンは社会的には富裕層の家庭の子供だ。

貴族の子弟であるウリー、養父が船長のジョニー、クロイツカム先生の子供であるルディとギムナジウムの子供たちは全員、上流階級、知識層の子供たちであることがわかる。

一方で彼らと対立する実業学校の生徒たちは、ルディが監禁されたエガーランドの家の様子やエガーランドの母親の感じを見ても労働者階級なのだろうと想像がつく。

社会の上流階級の子弟たちが学ぶギムナジウムに奨学金を貰って通うマーティンの家庭は、電気代すら節約し、クリスマスに使うろうそくを、昨年のを半分とっておいて今年使う。そういう生活をしてさえ、子供に切符代を出すことすらできない。

「なぜ、自分の家は貧しいのか」ということを考えるマーティンの姿は今読むとかなり胸を打つ。

「カラマーゾフの兄弟」のイリューシャもそうだが「貧乏人の子供というのは、生まれて九年かそこらで、この世の真実を知る」

彼らはたかだか九歳や十四歳かそこらで、大人の社会の矛盾や不公平に苦しみ、それが何故なのかということを考えなければならない。

 

子供のときは、なぜマーティンが自分から友達やベーク先生、禁煙さんに相談しないのか不思議だった。他の四人がクラスメイトにカンパを頼んで集めてくれたり、相談すれば色々と方法がありそうなのに、と思った。

しかし、マーティンにはそんなことはできない。

自分たちは何も悪くないのに、お金がないことに苦しみ、誰かにすがらなければならない。

それは社会の矛盾だ。正義漢の強いマーティンにとってはそれは間違ったことであり、その矛盾に屈するには余りに誇り高い。

父親を馬鹿にする級友たちにたった一人で立ち向かい、「大人になったらミーチャに決闘を申し込んで叩きのめしてやる」と言ったイリューシャと同じだ。

彼らは誇り高く、自分たちが疑問に思う矛盾には屈しない。

マチアスがお腹がすいたと言って級友たちから気軽にお金を借りる姿と、友達にすら「お金がなくて切符が買えない」ということを隠すマーティンを見て、「ノルウェイの森」で緑が「お金があることの一番のメリットは、『お金がない』と言えることだ」と言っていたことを思い出した。

またマーティンの父親がウリーを言及したときに「貴族の息子」と言ったことにも、複雑な感情がうかがえる。子供のとき読んでいたシリーズの訳ではどうなっていたか覚えていないのだが、角川つばさ文庫のこの表記にはドキっとした。

この当時のドイツの各階層の空気感がどうだったのか、ということは正確にはわからないが、かなりはっきりしたへだたりがあったのかもしれない。そういうことを感じさせる。

 

「飛ぶ教室」は児童文学のせいか、労働者階級からギムナジウムに入学したマーティンに対する差別のようなものは描かれていない。

同じ1900年代前半のドイツを舞台にした「オルフェウスの窓」だと、この辺りの社会的な階層差の描写がそこかしこに出てくる。

イザークがマーティンと同じ奨学金をもらう苦学生であることもあり、「飛ぶ教室」ではそれほどはっきりとは描かれていない社会の空気感のようなものが、「オルフェウスの窓」で補完できる。

第一次世界大戦後のイザークとロベルタの生活の苦しさを見ると、マーティンの父親が仕事を見つけられないのもさもありなんと思える。

 

訳者あとがきは子供でもわかりやすい

また角川つばさ文庫の訳者あとがきで、「飛ぶ教室」が書かれた背景、当時の社会状況やケストナーの生い立ちなどが子供にもわかりやすいように書かれている。

ケストナーが「飛ぶ教室」の五人組と同い年くらいだったころ、ドイツは第一次世界大戦をはじめ、ケストナーの上級生たちの中には学徒出陣をした子供たちもいた。ケストナー自身も十八歳で従軍した。

「自分の通う学校の上級生たちが、先生にすすめられて、次々と兵士になって戦死していく」(訳者あとがきより)

この状況はレマルクの「西部戦線異状なし」に描かれている。

「西部戦線異状なし」の主人公たちも、担任教師に言いくるめられて十八歳で戦地に送り出される。従軍した彼らがどんな経験をしてどういう風に死んでいったかは、「西部戦線異状なし」を読めばわかる。

 

大人にも読んでみて欲しい。

実業学校の生徒たちの対立の描写が問題になりがちなのは分かるが(そういう感想を目にした)、これは当時の社会の閉塞感や大人たちの苦しい状況、また戦争を良しとしている大人たちの様子を反映している部分もある。実際、実業学校との対立のエピソードでは、旗を重視する、捕虜を捕まえる、交渉の使者は腕に白布を巻くなど、戦争をイメージさせる描写が多い。

また逆に本物の戦争に大人たちに送り出された経験を持つケストナーが、「戦争などではなく、こういう子供らしい喧嘩のような対立で済む世界であったならば」という願いをこめた可能性もある。

生徒たちを平気で戦地に送り出しそれをもって愛国者を気取る「西部戦線異状なし」 の担任カントレックと、ベーク先生や禁煙さんは正反対の大人だ。

 

子供たちは訳者あとがきを読んで、当時のドイツがどんな状況だったか、ケストナーがいった戦争とはどんなものだったのか、ケストナーが第二次世界大戦やユダヤ人の虐殺に反対したために、物語を描くことを禁じられたこととか色々なことを知るだろう。

そこから興味を持った様々なことを調べだすかもしれないし、その時は「面白かった」で忘れても、後々他の作品を読んで「飛ぶ教室」のことを思い出すかもしれない。

そういう芽を、絵が現代っぽいとか物語内のひとつの描写がどうだなどということでつぶすのはもったいないと思う。 

自分も訳者あとがきを読むまで、ケストナーがファシズムを批判してナチス政権下で弾圧されていたことは知らなかった。

 

大人が読んでも面白く、色々と教えてくれる本だと思う。読んだことがない人はぜひ手に取ってみて欲しい。

新訳 飛ぶ教室 (つばさ文庫)

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西部戦線異状なし (新潮文庫)

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  • 作者:レマルク
  • 発売日: 1955/09/27
  • メディア: 文庫