うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「ケーキの切れない非行少年たち」を読んで、昔のことを思い出す。

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ホッテントリで関連する話題がいくつかあがっていたので、紹介されていた「ケーキの切れない非行少年たち」を読んでみた。

読んで昔関わりがあった人たちのことを思い出した。(当事者の情報には、かなりフェイクが入っている。)

障害や教育についての専門家でもないし、たくさんの事例に会ったわけでもない。あくまで自分が出会った人たちについての個人的な感想やそのときに考えたことだ。

 

大人になるまで、「軽度知的障害」または知的障害には分類されないが、普通学級での学習が困難に感じるかもしれない知的ボーダーについてまったく知らなかった。

一番初めにそのことについて考えたのは、趣味の関係で知り合ったAさんに会ったときだ。

Aさんは明るくかわいらしくよく話す人だった。ただ付き合いが長くなるうちに、だんだん「あれ?」と思うことが増えてきた。

説明するのが難しいのだが、「そんなに立ち入ったことを自分に話していいのかな?」と思うことが多かったのだ。感情が常にあけっぴろげで、喜ぶときは満面の笑顔で、辛いときは自分の辛さを必死に訴えるという感じだった。

自分と相手との関係性、自分の言動が他人から見たらどう見えるか、相手がこの話を聞いてどう考えるか、という客観性や冷静さが抜け落ちており、自分が話したいことを自分の感情を全開にして話していた。

人の話を聞かないで自分の話ばかりする人、というのとも違う。

そういう人から感じる「この場でこの人に対しては、これくらいは話してもいいだろう」というような計算のようなものをAさんからは一切感じなかった。

自分が相手に伝えたいことを「一生懸命」話している感じだ。

自分はAさんのことが好きだったので、色々な話をうなずきながら聞いていた。

 

そんなある日、Aさんから会うなり突然「私、知的障害だった!」と言われた。「自立して仕事も子育てもしているのに?」と驚いた。

Aさんはずっと、自分が色々なことがうまくいかないこと(本人はうまくできない、という言い方をしていた)をおかしいと思っていた。調べてもらったら「軽度知的障害」という結果が出て、手帳も交付されたとのことだった。

自分がそのとき一番印象的だったのは、「わかってよかった。楽になった」というAさんのホッとした顔だった。「ショックなのでは」とつい思ってしまった自分には、そのホッとした顔がすごく意外だった。

 

そのあと知的障害について少し調べてみた。

知的障害には何段階かあり、軽度や境界線上の人の場合は日常生活ではほとんど他人からはわからないこと、しかし本人は何等かの支障を感じていたり、生きづらさを感じている場合が多いことを知った。 

軽度知的障害の人は、学力や認識が小学校高学年くらいの段階にとどまることが多いという話を読んで納得がいった。

Aさんと話しているときにたまにあった違和感は、大人と話しているのにそうは思えない感覚から生まれたものだったのだ。

 

「ケーキの切れない非行少年たち」の中で、子供たちが障害からくる「生きづらさ」を訴えるサイン、親が最初に相談ケースとして持ってくることが多い事柄として以下のものが書かれている。

 

・感情のコントロールができずにすぐにカッとなる

・人とのコミュニケーションがうまくいっていない

・集団行動ができない

・忘れ物が多い

・集中できない

・勉強のやる気がない

・やりたくないことをしない

・嘘をつく

・人のせいにする

・じっと座っていられない

・身体の使い方が不器用

・自信がない

・先生の注意を聞けない

・その場に応じた対応ができない

・嫌なことから逃げる

・漢字がなかなか覚えられない

・計算が苦手

  (引用元:「ケーキの切れない非行少年たち」宮口幸治 新潮社/青地は引用者)

 

自分がこれを読んだとき、なぜAさんの障害が大人になるまで見落とされていたかわかるような気がした。

学習面の困難はわからないが、自分が接していた限りでは、この中でAさんに当てはまっていたことは青字にした「自信がない」くらいだった。

Aさんは仕事もしていたし、家庭も持っていた。子供にも会ったことがあるが、明るくはきはきとしたいい子だった。Aさんは自分が「大変だろうな」と思う育児もやっていたし、子供を見る限りではそれは十分できているように思えた。

Aさんは自動車免許を取得していて、配達業をしていた。人間関係には悩んでいたものの、仕事内容そのものは問題なくこなしていたようだった。

自分は多少違和感があっても、その違和感も含めてAさんと話しているのが楽しかったし、彼女のことが好きだった。

彼女自身はずっと生きづらさや困難を感じていたけれど、周りの人は彼女に問題を感じるほど困らされていた人が誰もいなかったのだ。むしろ彼女のことを困らせた人のほうが多かったのだろう。

 

そういう風に思ったのは、それから少ししてBちゃんという子に出会ったときだった。

Bちゃんは障害を持っていたのかわからないが、上記に書かれたことがすべて当てはまっていた。

力加減が分からず友達のことを叩いたように思われてしまう、距離感が分からず親しくない相手に物やお金の貸し借りを頼む、自他の区別がつかず、友達のロッカーを勝手に開けてしまう。何が悪いのかが分からず、友達にやり返されたり注意されたり、避けられたりすると自分が被害者のように考える。家族に対しても、自分の思い通りにいかないと乱暴な言動をとる。

最初母親から「Bは自分の良いように物事を話す癖があるから、余り真に受けないで欲しい」と言われたときは「え?」と思った。

だがBちゃんと話すと、なぜ母親がそんなことを言ったのかがすぐにわかった。

Bちゃんはあからさまな嘘をつく子だった。

何かを隠すためや自分に有利に事を運ぶための巧妙な嘘ではない。「友達にぶつかられた。体育の時間に着替えのために服を脱いだら背中から血が噴き出して、服が真っ赤になった」「これ(仕事に使う道具で、百パーセント学校にはないもの)教室にもあった。この前授業で使った」のような何のためにつくのかわからないような嘘だ。

最初は「こんなにあからさまな嘘をついてまで、気を引きたいのか」と思っていた。

しかし注目を引きたくて相手にすぐに嘘とわかるような大げさなことを言う、というのは就学前の子ならわからないでもないが、Bちゃんはこのとき中学三年生だ。何のためにそんなことを言うのか、訳がわからなかった。

 

実際そういった少年たちが何か問題を起こすと、「ずる賢い」「反抗的だ」「やる気がない」「演技している」「気を引きたいだけだ」といった、およそ非行の専門家とは思えないような発言をする法務教官もいたほどです。

 (引用元:「ケーキが切れない非行少年たち」宮口幸治 新潮社)

 

自分はこのときすでに、Bちゃんは何かの障害があるかもしれないと母親から話をされていたので彼女の話に深く突っ込まなかったが、そうでなければ「嘘をつかれた」と思い怒っていたかもしれない。

複雑な事柄を筋道をつけて説明することが苦手で、話が混乱していて何の話をしているのかわからない。学習面で困難が多く、担任の先生と何度も面談を行っていた。

母親は家庭教師をつけたり、彼女が勉強するときは横について、「問題文をよく読むように」「思いついたことをすぐに書かないで、まずは考えて」などの指導をしていたが、母親もかなり追い詰められて感情的になっていた。

病院に行くまでは踏ん切りがつかず、一体どこに頼っていいかもわからない状況だった。

Bちゃんに会って初めて「本当に助けを必要としている人は好感が持てない、かわいくない人間であることが多い」という「最貧困女子」で書かれていた言葉が腑に落ちた。

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Bちゃんに現在の社会の基準で「障害」と呼ばれるものがあるかはわからない。だが実際に起こっていることとして、彼女はテストの問題文が理解できず、学校の勉強がまったくわからず困っていた。

母親は社会で生きていくために基礎学力だけは身につけさせたいと思い、その焦りから本人以上に追い詰められているように見えた。その姿は「はざまのコドモ」の母親の姿と重なる。

はざまのコドモ 息子は知的ボーダーで発達障害児

はざまのコドモ 息子は知的ボーダーで発達障害児

 

 子供の居場所が、受け入れてくれる場所がどこにもない、このままいけば社会の中で子供が生きていく場所がなくなってしまうのではないか、そういう強い焦りを感じた。

「そんなに焦らなくとも」と言えないほど、その母親の不安が年齢があがればあがるほど実際に問題になっている。

 

 「ケーキの切れない非行少年たち」や「最貧困女子」でも指摘されている通り、周りがその「生きづらさ」や「困難」に気づく環境にあるのはまだ恵まれているほうだと思う。

ただ自分がAさんとBちゃんのふたつのケースを見て感じたのは、Aさんは障害を抱えていても「周りを困らせないいい人」であったがゆえに、大人になるまで自分が障害を持っていたことに気づかなかった、という皮肉さだ。

自分もAさんには「素直で性格がいいから、人間関係で損をしがちなのでは」「大なり小なり誰にでもある人間関係の悩みだろう」くらいにしか思わなかった。

 

恐らく他の障害ならばこれだけ情報網が発達していれば、「何かおかしい」と思ったら、本人が調べるなり行動を起こすだろう。

でもAさんのような知的障害を持つ人は、親しい人から指摘されるなり勧められるなりしなければ、その発想自体にたどり着かないのではないか。そして親しい人が自分のように「多少困難を訴えられても、自分とうまくいっているこの人に、障害があるなど夢にも思わない。人間関係の難しさは、誰にでもあること」と思ったら、それもまた見過ごされてしまうのではいか。

 

こういった「生きづらさ」が見過ごされないためには、①親など周りの人がその人に関心を払っているということもあるが、②その人の抱える困難さを周りの人間が思い至るためには、その人が周りの人間を困らせなければ気づかないかもしれない、という考えが浮かんで愕然とした。

「相手を困らすという方法でしか、自分の困難を訴えられない」となると、「こういった障害を持ち困難や支援を必要としている人が、多くの場合『かわいくない人』」なのも当たり前なのかもしれない。

周りの人間も自分が困らなければ、その事象を問題だと気づかないからだ。

しかし困難を訴えるために周りを困らせれば困らせるほど、人は離れていく。「そんなあからさまな嘘をつくはずがない」「相手を叩く力を加減できないなどそんなはずがない」「他人のロッカーを勝手に開けていいなどと思うはずがない」と思い、相手に困難ではなく悪意や身勝手さを見出してしまう。

 

自分はAさんには好感を抱きBちゃんのことは好きになれなかったが、そういう個人的な感情とはまったく別に、AさんにもBちゃんにも自分の居場所だと思える場所がある社会であってほしい。そういう社会でないなければ、自分自身も困るからだ。

今のところは、どの本を読んでも、こういった人たちをうまく受けれいる制度が整っているとは言い難く、専門的な知識を持っている人や理解がある場所に行きあたる幸運を願うしかないようで問題の難しさを感じる。

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

 

 ケーススタディに終始している本が多い中で、その子がそういう言動をとる内面では、どういったことが起こっているのか、具体的にどんな機能が働いていないことが問題となって表面化しやすいのかが書かれているのがよかった。