ある増田*1が「本当に言いたいことの周りをぐるぐる回っている」感じがして、同じ感覚のものが何かあったな、と考えたときに唐突にアルガスのことを思い出した。
前回の記事で「これ以上考えるのはやめておこう」と言ったけれど、もうちょっとだけ考えてみた。
これまでアルガスについて考えたことを、下の二つの記事に書いた。
話の流れを簡単を説明すると、自分はずっとアルガスというキャラがよくわからなかった。よくわからないので、「ストーリーを盛り上げるための露悪的キャラ、物語装置」で片づけていた。
アルガスは「この世界観に存在することが不自然な現代的な価値観に対する反論を叫ぶ不自然なキャラ」に見えたので物語を動かす装置にしか見えず、それ以上でもそれ以下でもなかった。
だが「アルガスは平民を見下しているのではなく憎んでいる」という他の人の感想を見たときに、自分の中のアルガス像(何だそれ)が、初めてまとまった感じがした。
ここから考えて、「続き」の最後で
「自分の弱さを自分より弱い相手に当たり散らす人間」は嫌いなので、アルガスは自分の中でン十年経て「物語装置的でいまいち興味がわかない」から「人として嫌い」になった。
ここに着地した。
でもアルガスは「自分より弱い相手」である平民のミルウーダやディリータだけではなく、「自分より『強い』相手」であるラムザにも当たり散らしている。
「弱い奴にだけ当たり散らしている」というのは、アルガスに対して公平ではなかった。申し訳ない。
アルガスは強い相手にも弱い相手にも、平等に当たり散らす「誰にでもまんべんなく嫌な奴」だった。
ジークデン砦のラムザに対する言及は今読み返すとすごい。これだけ人の痛いところをつけるのは、一種の才能だと思う。
アルガスの「なぜ、お前はそういうことを考えているのに、兄貴(今の体制)に正面から物申さないのか? 俺たちの前でだけ威勢のいいことを言いやがって」というのは、まったくその通りだと思う。ラムザはぐうの音も出なくなっている。
「僕だって、好きで生まれてきたわけじゃない」という子どもの駄々のような反論をするしかなくなり、「自分に甘えるな」としかり飛ばされている。
今考えると、アルガスは「全方位に嫌な奴」で、ある意味すごく平等だ。ディリータやミルウーダたちにはすさまじい侮辱の言葉を浴びせ、その神経を逆なでし、自分より強い立場のラムザはコテンパンに論破する。
ここで気づいたのは「アルガスはずっと怒ってみえる」ことだ。何かに対して怒っていて、「その怒りを表明できず、その周囲をグルグル回っている仕草」が「どいつもこいつも気に食わず攻撃する」なのだ。
アルガスのセリフで有名なのは「家畜に神はいない」だが、自分が初めてFFTをプレイしたときに一番インパクトが強かったのはこのセリフだ。
悔しいか、ディリータ! 自分の無力さが悔しいだろッ?
だが、それがおまえの限界だ! 平民出のおまえには事態を変えるだけの力はない!
そうだ、そうやって、嘆き悔しがることしかできないんだ! はっはっはっ、いい気味だぜ!!
何のために言っているのか、さっぱりわからなかったのだ。
よく「親でも殺されたのか」というが、相手に激しい憎悪を抱いていなければこんなセリフは出てこない。
もうひとつ興味深いのは、このセリフは「人の痛みがわからないから出てくる」セリフではないことだ。
逆だ。「人の痛みがすごくわかるから、それを逆なでするために言っているセリフ」なのだ。
ジークデン砦までの流れを見ても、「ディリータ個人に対して、アルガスがあのセリフを言うほどの憎悪」があったようには見えない。
このギョッとするほどすさまじい怒りと憎悪はどこから出てきたのだろう?
ということがわからなくて当時の自分は「ディリータへの煽りでプレイヤーの感情を逆なでして、物語に没入させるための措置だろう」で片づけていた。
しかしたぶん、アルガスは「ストーリーのために便宜的に存在するキャラ」ではなく、この「憎悪」と「痛み」を元にして成り立っているキャラなのだ。「物語を面白くするためだけに、ひたすら主人公やプレイヤーの感情を逆なでするキャラ」ではなかった。
でももしかしてこれ……
自分自身に言っているのか?
とふと思った。
「憎悪」と「痛み」のうち、比較的表に出やすい「憎悪」のほうが漏れ出ている、というよりそれを「怒り」や「嘲り」という形で漏れ出させる「ガス抜き」をすることでかろうじて自分を保っているのではと思った。
その「憎悪」と「痛み」はどこからきているのか、というのは前回、前々回の記事で考えたことにつながる。
アルガスはミルウーダ的価値観、「祖父の所業で家名が貶められたことで、(身分が低いことで)自分が苦労するのは何故なのか」という疑問を持っている。
「身分か……。たしかに、オレ一人じゃダイスダーグ卿には会えんよなぁ…」
「オレたちと貴様ら貴族にどんな違いがあるというんだ…? 生まれ? 家柄? 身分って何だ…?」
アルガスの嘆きとアルガスが殴った骸旅団剣士の言葉は、「身分とは何なのか」という同じ疑問が根底にある。
だがアルガスは貴族としての価値観に縛られている。その疑問のままに生きれば、それまでの自分自身を否定することになる。
アルガスが「対等の相手として」反論し罵声を浴びせ、懸命に見下そうとしていたのは、ミルウーダたちではなく、自分自身の中に眠るそういう疑問だった。
そこまで苦しみながら自分は体制に従っているのに、その体制に対して平気で疑問を口にするラムザに対して「筋金入りの甘ちゃんだぜッ! 何故、おまえなんかがベオルブ家に?」「利用されるだけだと? ふざけるなッ!!」と怒りを爆発させている。
「泣く」という感情は「弱さ」と結びつけられやすいため、「強さ」を価値とする社会では抑圧されやすい。
「泣く弱さ」が抑圧された場合、負の感情は「怒り」で表すより他になくなる。
アルガスがすさまじい憎悪を以て否定し、抑え続けたのは「弱さ」だ。だから自分よりも「弱い」ものを嘲り否定し抑圧し続けた。そして一方で「弱さ」を抑圧する「強さ」にも怒りを向け続けた。
最期の最期でようやく「かあさん、たすけて」と言えた、と考えると「何がここまでさせたのか」と思わないでもない。
アルガスが本当にこういう人間だったら、内面は死ぬほどキツかっただろうと思う。
ただ仮にそうだとしても「俺が我慢して体制に従っている、甘えていないんだから、お前らも甘えたことを抜かしてんじゃねえ」という姿勢は、誰も幸せにしない。
「自分が不幸だから他人も不幸にしていい」という発想も一種の甘えだ。それなら「筋金入りの甘ちゃん」のほうがマシだ、と思う。
・・・。
だからラムザが主人公なのか。(←遅い)
アルガスは実は、ウィーグラフやミルウーダたちと最も精神的には近い位置におり、分かり合える可能性もあったのではと思う。(それを認めることが一番怖かったのかもしれない、とは思うけど)
こういう「拗らせまくったキャラ」はよく見るが、アルガスは「拗らせかた」が何回転もしすぎていてまったくわからなかった。
せめてもう少しうまく叫べなかったのかとも思うが、他人に嘲笑と憎悪をぶつけるという形でしか自分の痛みを表せない迷惑さこそ、アルガスのアルガスたる所以なのかもしれない。
アルガスがいなければ、FFTはここまで自分の中で名作にはならなかったしな。
*1:株式会社はてなが運営する匿名記事「はてなアノニマスダイアリー」の記事及び記事の書き手の俗称