うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

アニメ版「カオスヘッド」がひどすぎて呆れた。

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記事タイトルの通り最初から最後まで批判なので、「カオスヘッド」が好きな人は読まないほうがいいと思う。

ゲーム版はやっていないので、アニメ版のみの話に限定している。

 

「概念(妄想)と実体の違いは何なのか」

「他者を概念化するとは、どういうことなのか」

このテーマは、ネットが普及し始めた1990年代後半によく語られていたと思う。

テレビ版の「新世紀エヴァンゲリオン」は「他者からの認識の集合体としての自分(概念化された自分)」と実体としての自分とをどう折り合いをつけていくのか、ということを語っていた。

自分がこのテーマで一番すごいと思っているのは、PSのゲーム「ムーンライトシンドローム」だ。

第六話の「浮遊」は、親から「概念」としてしか扱われていない中学生たちが、自殺を繰り返すことによって「実体である自分」を訴える物語だった。

ネットの世界は「概念化」を前提として他者と接する世界なので、そこにどう折り合いをつけていくか、どう考えるのか、ということは今の時代も考えたほうがいい(あの頃とは状況も変化しているので)と思っていた。

だから途中まではかなり期待して見ていた。

 

それが余りにずさんに描かれていて、唖然とした。

 

指摘するとキリがないのだが、まずは批判を多く目にした主人公である「妄想の拓巳」(以下拓巳)のキャラクターについてだ。

拓巳のキャラクターは感想を見ればわかる通り、他人から「気持ち悪い」と思われやすい。他人に「気持ち悪い」という言動を投げつけるのは良くないが、「そう思う」他者の心自体は仕方がない。

他人は他人を「気持ち悪い」と思うことも、思われることもある。(そういう他者と生きていくことを選択したのが、旧劇場版エヴァンゲリオンだ)

ところが「カオスヘッド」の主要登場人物たちは、拓巳に対して一貫して好意的で肯定的だ。拓巳が仮に「気持ち悪くない」人間だとしても、「その言動はないだろう」と思う言動すら許容する。梨深に対して「悪魔女」と言ったり「近寄るな」と言ったり、その言動はひどいものだ。

拓巳の力を解放させないためという理由があるのだが、最終的にはその理由抜きでこういうひどい言動を繰り返していた拓巳を受け入れている。

これが梨深だけならばまだいいのだが、この話の主要登場人物は全員、他者(視聴者)から見て「その言動はどうなんだ?」と思う拓巳の言動も存在も全て何の疑問も持たずに受け入れている。

 

自分は割と拓巳のキャラクターが好きだ。滅多にお目にかかれないくらい情けなく卑屈なヘタレキャラで、いい部分を探すほうが難しいところが逆に親近感がわく。

だからこそ主要登場人物たちの反応にがっかりした。

主要登場人物たちは「拓巳という実体」を無視して、自分たちの都合のいいように拓巳を解釈している、もしくは拓巳の存在や言動をスルーしているようにしか見えないのだ。(実際に七海の場合は、本体である将軍に対する態度が、そのまま拓巳への態度になっている。)

物語の表層部分とは逆に、拓巳が妄想の世界で生きているのではなく、ヒロインたちがそれぞれの妄想の中で生きて「拓巳という他者」を完全に無視している。「実体としての他者を概念として扱う」ことは、「他者の個別性の無視」という一種の暴力だ。

この暴力の恐ろしさと罪深さについては、アガサ・クリスティが「春にして君を離れ」という傑作を書いている。

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恐らくは「実体と妄想(概念)の違い」を明確にすることで、拓巳が「実体としての自分」を獲得する、そしてヒロインたちが「実体としての拓巳を受け入れる」までの話を描くのか、と思っていた。

ところが、話は驚くべき方向へ向かう。

 

ラスボスである野呂瀬は、「概念としての他者」への批判を延々としゃべる。2008年のアニメで、ダイの大冒険のバランみたいな奴がまだいるのか、と苦笑いしたが、それはこのテーマを分かりやすくするためだろうと思っていた。

拓巳は、「空気のような存在」として学校という社会で扱われていることに傷ついてコンテナに引きこもっていた。そういう風に、よく知りもしない他人を「気持ち悪い」という概念の中に閉じ込めることを、野呂瀬は「君も誰かに蔑まれることはないでしょう」と言って批判している。

野呂瀬がそれまでしゃべっている「システムを変えるのではなく、他人を変えればいい」という考えかたが、「他人を概念化すること」だ。「拓巳がやられていた」と批判したことを、そっくりそのまま野呂瀬がやっている。

ここでてっきり、拓巳が「そういう風に、自分以外の他者を概念化して考えて結論づけることこそ、あんたが否定している人間たちがやっていることだ」と言うと思っていた。

そうでなくては、話の流れとしてどう考えてもおかしい。

 

ところが「あんたの言ったことはもしかしたら正しいかもしれない」

目が点になった。

拓巳は野呂瀬の言葉を「あんたの自己満足だ」と指摘するが、このあと「拓巳の自己満足」が将軍と拓巳の関係性においてそっくり引き継がれ、延々とその「自己満足」を見せられる。

周りからないがしろにされて引きこもっている、という境遇の拓巳に対してすら、将軍は「羨ましい」という。

「羨ましい」という言葉が出てくるということは、将軍の妄想が具現化した存在だとしても、拓巳と将軍は違う存在なのだ。

将軍と拓巳の違い、実体と妄想は何が違うのか、仮に二人が同一人物だと言うならば、実体となった二人の同一性は何によって証明されるのか。

 

将軍と拓巳の妄想が一致しているから、という「自分の妄想のみが現実を規定する(=自己満足)」という結論じゃないよな? それは否定していたよな? とこの辺りから頭が混乱し出す。

 

梨深の中で将軍と拓巳は一緒なのか? 

違うすれば違いは何なのか? 

梨深の中でいつ拓巳への感情が「私が始末する」から「弱いけど一生懸命私を助けようとするタクが好き」になったのか?

梨深は「将軍と同一人物だから拓巳を好きなのか」それとも「将軍とは別人として拓巳が好きなのか」

そういう「梨深という他者」の認識や承認を通して、

「他者とは何なのか」

ということをはっきりさせることは、このテーマを描くなら絶対に必要だと思う。

そうでなければ梨深という他者を他者として存在させない、「他者性の排除(=自己満足)」をこの物語は何の屈託もなく肯定していることになるからだ。

しかも、野呂瀬に対してはそれを否定していたにも関わらずだ。

まさかそんなことはないだろうと思っていたが、そのまさかで野呂瀬の自己満足を否定していた拓巳の自己満足を全員で肯定して終わり、という結末だった。

 

アニメ版「カオスヘッド」は、「妄想と実体の違いは何なのか」というテーマに「他者とは、自分にとって都合よく扱える妄想にすぎない」という答えを出していた。

視聴者という他者にこれを見せるということは、恐らく何も考えていないと思う。(確信犯だったら震える)怒るよりも呆れてしまう。

 

ラスト近くの拓巳が梨深と恋人同士になっている妄想に、三住が出てこないのには笑った。この自分を全肯定する世界の徹底ぶりには、呆れるのを通り越して感心する。

CHAOS;HEAD DUAL (通常版) - PSVita

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主人公教フェイズ5なのだが、テーマがこれで主人公教をやる神経がよくわからん。

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