2017年にウィアリアム・ゴールディングの「蠅の王」の新訳が出たので、購入して読んでみた。
細かく読み比べた一章だけをとっても、旧訳(平井正穂訳)と新訳(黒原敏行訳)では印象がまったく違う。
ひとつひとつの訳文を読むだけだと些細な違いなのだが、その積み重ねで話の中でどこにフォーカスしているかの違いが浮かび上がってきて、別の話のように読める。
初読の人にどちらがおススメか、と言われれば新訳を推す。
旧訳は固い言い回しが多く、読みづらい。新訳は問題点に意識的に陰影をつけていて、物語を理解しやすいなどの利点が多い。
旧訳には旧訳のいいところがあり、この点、この部分については個人的には絶対に旧訳のほうがいいという箇所もある。また新訳のいいところも、旧訳と相対化したほうが分かりやすいし、新訳の良さは旧訳があったからこそとも思える。
読み比べて、違いが気になった箇所
交互に読み比べた一章を中心に、自分が面白いと思った箇所を上げていく。
ラルフとピギーが出会って間もないときに、ピギーが眼鏡を外す場面。
(新訳)
それから、青白い顔が、どこかが痛くてそのことを一心に考えているかのような表情になった。
(旧訳)
そのとき、苦痛のまじった、そして何かを思いつめたようなある表情が表われ、そのため彼の顔の青白い輪郭が別人のそれのように見えた。
この一か所をとっただけでも、二つの訳がまったく違うことが分かる。
新訳と旧訳はこういった違いがそこかしこにある。積み重なっていけば、同じ内容でもまったく別のことを語ったものになる、というのは何となく想像がつく。
旧訳に書かれている「別人のそれのように見えた」が入っているか入っていないのか、入っていたとしたらゴールディングがどういうニュアンスで、どういうつもりで入れたのかをどう解釈するか、という違いは大きい。
眼鏡を取ったとたん、「別人のそれのように見える」というひと言は、ピギーという少年がどういう存在かをひと言で説明しているからだ。
ピギーは「蠅の王」の登場人物の中で、最も現実的で鋭い頭脳を持っている。
物事を的確に把握する力、その物事がどのように推移していくかを考える洞察力、現実的に問題を考え処理する能力、一貫して自分の正しさを信じ遂行しようとする意思は、大人になったらひとかどの人間になるだろう、と思わせる。
ところが喘息持ちであり、小太りで滑稽な外見のため、子供たちからは軽んじられている。大人であれば驚嘆するピギーの現実処理能力は、面白さや見た目を重視する子供たちからは一顧だにされない。それどころか「子豚」というあだ名をつけられ、バカにされる。
この大人と子供の価値観や支配するルールの違いを瞬時にここまで克明に描いただけでも、「蠅の王」はすごい話だと思う。
ピギーは、「大人の世界=文明世界」のメタファーともとらえることができる。
だからピギーが「眼鏡をかけているとき(表層部分)では滑稽」だが、眼鏡を取った瞬間に「別人のように見える」ことは重要だと思うのだ。
新訳は「ピギーがどこかを負傷した伏線」のようにしか見えないが、後にピギーがどこかを怪我したという描写は出てこないので、旧訳のニュアンスのほうが正しいのではと自分は思う。
「蠅の王」は寓話性の強い物語だし、あとの描写を見てもゴールディングはメタフォリカルな表現をかなり多用している。
旧訳の文章はこの一文で、子供たちのピギーに対する認識がいかに浅はかで、その認識の浅はかさでピギーがこれから苦悩するだろうということが読み取ることができる。
登場人物の描写のうち、ジャックの描写も同じ理由で旧訳のほうが的確だと感じる。
(新訳)
くしゃっとしかめた、そばかすのある顔は、愚鈍さはないが醜かった。その顔が青いよく光る目でこちらを見ていた。落胆が、今にも怒りに変わりそうだった。
(旧訳)
顔はくしゃくしゃにしていてそばかすだらけで、愚かさというもののない醜悪な容貌を呈していた。二つの淡い色の青色の眼がそのからのぞいていたが、失望の色が見え、今にも憤怒に燃えそうな様子だった。
旧訳のこの文章で、自分は一瞬にしてジャックに強く惹きつけられた。恐らく新訳の文章だったら、ジャックを好きにはならなかったと思う。
ジャックは残酷で冷酷で、一瞬で手がつけられなくような激しい感情を持つ。だからこそ、非常に魅力的な存在だ。
少年たちがのちにとらえられる「獣性」の象徴なのだ。
文明社会や理性で見ると「醜い」のだが、自分たちには理解できない、しかし無視もできない「愚かとはいえないもの」であり、今にも「憤怒が燃え上がりそうな」予兆をただ見ていることしかできない感覚が重要だと思う。
旧訳は、理性では決してとらえることができない、文明社会の価値基準では評価が難しいジャックの魅力を描ききっている文章だと思う。
新訳ではその得体の知れない魅力が伝わってこない。ただの傲慢で気が強い少年としか思えない。
こういったひとつひとつの細かい描写は旧訳に軍配が上がるのだが、全体を読むと、新訳のほうが少年たちの内実や関係性が分かりやすく印象に残りやすい。
主人公のラルフは悪い人間ではないのだが平凡で優柔不断であり、ごく普通の子供らしい物事に流されやすい部分がある。
最初に出会ったときから、現実的で本質的な物の見方をするピギーとはほとんど会話が噛み合わない。
この二人は話している次元がまるで違うので、話がまったく通じていないのだが、表層上は会話が成り立っている。旧訳だと、この二人のかみ合わなさが分かりにくい。
ところが新訳だと初対面のときから、二人のディスコミュニケーションぶりが鮮明だ。ラルフの能天気ぶり、この状況では致命的になりかねない子供っぽさがはっきりしており、そのぶんピギーの悲劇性が際立つ。
新訳を読み終わって、ピギーへの同情がさらに深まった。
新訳は第五章が「海からきた<獣>」第六章「空からきた<獣>」になっている。これも旧訳の「獣、海よりきたる」「獣、空よりきたる」のほうが内容と組み合っていると思う。
第五章と第六章の章題は、対になっている。
この二つの章題は、サイモンが「獣というのは、ぼくたちのことにすぎないかもしれないということだ」という言葉や蠅の王の「わたしはお前たちの一部なんだよ。お前たちのずっと奥のほうにいるんだよ?」という言葉と対になっている。
この物語がこのように推移した原因である、「獣はどこにいるのか?」ということに言及している章題なのだ。
子供たちは「獣は自分たちの外部からくる」と信じている。だから海を見ては怯え、空から降ってきた死体を獣と勘違いする。
しかし話の内容で、それらはすべて否定される。サイモンが言う通り、獣は彼らの内部にいるのだ。
「蠅の王」は、「自分や普段触れ合っている人たちの中に残酷な獣などいるはずがない。獣がいるとしたら、自分たちの外側のはずだ」という平和な社会の無邪気な幻想を打ち砕く物語なのだ。
原文を確認したわけではないが、物語の内容だけを考えれば章題は「獣、海よりきたる」でなければならない、とすら感じる。
物語としての面白さでは新訳、話の本質を突いているのは旧訳
このようにひとつひとつの言葉の表現は、旧訳のほうがずっといい。固くもってまわった言い回しは、恐らくゴールディングの原文のニュアンスを正確に伝えようとしているからではないか、と感じる。
それに対して新訳は原文を損ねないようにしながらも、日本語としての読みやすさや自然なリズムを重視しているように感じる。登場人物のセリフにもキャラが立つように工夫がこらされていて、物語として楽しみやすい。
探検について来ようとするピギーをジャックが邪険に扱うセリフは、旧訳が「きみは邪魔っけなんだ」に対して新訳は「お前はこなくていい」になっており、新訳のほうがジャックのキャラが分かりやすい。
話の流れを追いやすく物語として楽しめるのは新訳だが、「蠅の王」という物語の本質に近いのは旧訳ではないかと考えている。
二人の訳者が原作を出汁にして自分たちの語りたいことを語ったというのではなく、ゴールディングの原文を誠実に読み込んで類推し伝えようとした結果、それでも浮かび上がった二人の訳者の物語の見方の差なのだと思う。
この差がすごく面白い。
原文で読める人は「おっ、ここは」とか色々考えられそうで羨ましい。
二つの訳の違いで最もすごいと思った箇所
今回二つの訳を読み比べて、最も面白いと思った箇所は、ラルフの「幽霊はいると思うか?」という問いに対するピギーの回答だ。
(新訳)
「もちろんいやしない」
「なぜわかる」
「いろんなことが意味を失うからさ。家とか、街の通りとか―テレビなんかも―全部無意味になっちまう」
(旧訳)
「もちろん、そんなものはいないさ」
「なぜ、いない?」
「だって、そんなもの意味ないもの。家だとか街だとか―テレビとかなら別だが―そんなものは意味ないだろう」
この二つの回答は、まったく別のことを言っている。
旧訳のピギーは「意味がないものは存在しないも同然だ」と言っている。
「もの」というのは、認識する人間にとって意味があるからこそ、初めて「そのもの」として認識される。意味がないものは考えても仕方がないし、考えないということは「そのもの」自体が、その人間の中で認識されないので「存在しない」。
現実主義で聡明なピギーらしい回答だ。
こういう回答を当たり前のようにするだけでも、彼が非常に明晰な頭脳を持つ人間であることがわかる。(ラルフにはまったく通じていないが)
しかし、新訳のピギーはもっとすごいことを話している。
「幽霊という現実で意味のないものの存在を認めたら、現実のほうが意味を失うことになる」と言っている。
「社会などの現実は本来意味のあるものではなく、人間が自分たちが生きるために便宜上成立させているに過ぎない」という前提で「現実というものの認識や意味は本来は幻想であり、その幻想を成立させるためには現実と対立するものを認めてはならない」と答えている。
ピギーは「社会や日常には意味があるというフィクション」の守り手として、非日常的な「幽霊」というものに意味を持たせてはならない、と言っているのだ。
現実的な文明社会と霊的要素を含む自然との対立軸まで出てくる、すごいセリフだ。
旧訳では見えなかったピギーとサイモンの対立軸が浮かび上がっており、ラルフとジャックの対立など実は表層上の問題に過ぎないのではないかとすら思える。
旧訳のピギーは人間の理性や知性に重きをおいていたゆえに、獣性の存在を看破することができなかった。新訳ではサイモンとは別の方法で蠅の王と対峙していたのだと思える。
ピギーの人物像も変化する。
これもどちらの訳のほうが原文に近いのかは分からない。
自分の予想では旧訳のほうが近いのではないか、と思っている。
仮にそうだとしても、「後継者たち」を書いたゴールディングであれば「新訳のほうが面白いかもしれない」と思いそうだ。
訳文は原文の代替品ではない、と分かった。
言語の成り立ちが違うのだから、どれだけ原文に忠実に訳そうと思っても、訳文には必ず訳者の解釈が入る。自分に素養がないことを棚に上げて、訳文は原文の代替品に過ぎないと思っていた。
今回二つの訳を読んで「原文が読めないから訳文で読む、のではない」「仮に原文で読めたとしても、訳文は訳文で面白い」ということを教えてもらった。*1
自分にとっての優れた創作家は、自分の解釈を物語の中に埋め込み、それを見つけさせる存在ではない。様々な読み手に様々な解釈を見出させる物語を描き、そのことによって読み手がその作品を読む前には得られなかった何かを与えられる存在だ。
新訳の後書きに「大事なことはただひとつ、まずは物語の中に入って、そこで動きまわる体験をすることだ。そのあとで、自分の好きな解釈、正しいと思う解釈をすればいい」というゴールディングの言葉が紹介されていて、ゴールディングもそう思っていたのか、ととても嬉しく思った。
こういう人であれば、二つの訳文の違いも、訳文を読んだ人間の解釈も楽しんでくれると思う。
余談
翻訳家は自分が出来うる限り、正確に誠実にテキストの意を表そうとしていると思う。そういう中でも言語の違いで、どうしてもどのように訳すかを解釈し、判断しなければならないときがあるのだと思う。この辺りは村上春樹がいくつかの本で語っている。
村上春樹は自分の小説にも英語圏で三人の訳者がいるようで、それぞれのスタイルの違いも話していて面白い。
村上春樹が訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と、野崎孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」もだいぶ印象が違う。
この辺りはどうしてか、ということを語ったのが「翻訳夜話2」だ。そもそも二人の訳者の、物語の解釈が違うことがわかる。
個人的には「ライ麦畑でつかまえて」のほうが好きだ。
確かにところどころ言葉が古いな、とは感じるけれど、マシンガントークのような語り口が一番重要なように思う。
「ロング・グッドバイ」は「長いお別れ」では分からなかった、この話の面白さを教えてもらった。
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新訳版の翻訳者黒原敏行さんには、その後もお世話になっている。
*1:読み手に解釈の多様性を与える創作に限っての話であり、明確な主張や事実を伝える文章、論文などは別