「炎立つ」第一部の粗筋は、俘囚と理不尽に蔑まれながらも、必死に自分たちの民や国を守る阿倍氏の領土に、朝廷や源氏が自分たちの欲望や保身のために攻め込むというものだ。
個人的には主人公サイドである阿倍氏陣営よりも、敵役である源頼義陣営のほうがずっと面白いキャラクターが揃っていると思う。
源氏は、言いがかりや挑発、陰謀、ありとあらゆる手を使って戦を望まない阿倍氏側を反抗させるという構図を作ろうとする。
主人公の経清は、源頼義の理不尽なやり口に義憤を覚えて、阿倍氏の側につく。
源頼義の側近たちは主君には忠誠を尽くすが、阿倍氏に対してはどんな理不尽で卑劣なやり口も辞さない、むしろ率先して仕掛ける。
頼義に三十年仕えた老臣・佐伯経範は、経清の義弟・平永衡に裏切者という言いがかりをつけ非情なだまし討ちをする。
やってもいない罪をかぶせ「せめて頼義に申し開きさせてほしい」と願う永衡を、いっぺんのためらいもなく殺してしまう。
その冷酷さへの怒りも、経清が阿倍氏につく一因になる。
ところが永衡に対しては卑劣な悪玉ぶりを発揮した経範は、死ぬ間際すさまじい忠義ぶりを示す。
「殿のご様子はまだ分らぬのか!」
囲みを抜けて休んでいた経範は駆けて来る兵に怒鳴った。(略)
「馬をここに! 儂も殿のお供をする」
「せっかく抜けられたのではござりませぬか」
兵たちは押し止めた。経範は払った。
「殿にお仕えして三十年の身ぞ。ここで儂一人生き延びては殿に申し訳が立たぬ。死ぬるは一緒と心を定めておった。
儂の案内がなくては殿とて寂しかろう。冥途の旅は儂が先達となる。うぬらは逃れるがよい」
「槍さえ持てぬお体でなんといたします」(略)
「武士とは義に死す者じゃ。おめおめと逃げ延びてはもはや武士にあらず。(略)
たとえ死しても敵を抜けて殿のお側に参る」
(引用元:「炎立つ弐 燃える北天」高橋克彦 講談社 P384‐P385)
自分の命すら顧みず「義」と「忠」を唱える経範が、なぜ永衡に対してはあれほど冷酷非情、卑劣な人間としてふるまえるのか。
頭では矛盾しているように思うのだが、一本のストーリーとして読むと経範というのはこういう人間なのだ、と納得がいく。
彼は三十年、「義」という心を含む自分の全存在を「源氏」や「頼義」に密着させて生きてきたのだ、という善悪以前のその人生の重みが伝わってくる。
こういった登場人物たちの中で、最も面白いのが第一部の最大の敵役である源頼義だ。
頼義の面白さはひと言で言うなら、「巨大な才能を持つのに性格が小者な点」にある。
これは作内でも、主人公の経清の口を借りて指摘されている。
公卿の一人一人が生き延びるために、国のまぼろしを見せているだけなのだ。(略)
朝廷の支配下では、それぞれが己れのために生きるしかない。大義というものが存在しないのである。
だから公卿たちは武士を恐れる。
武士には国と同等に仕えなければならない主君があるのだ。
国家のないのを承知している公卿たちにとってそれは脅威であろう。主君の下知が、そのうち国家の命と摩り替って大義にまで高まる可能性がある。
賢い公卿たちはとうに気付いている。(略)
しかし、幸いなことに頼義はそれを曲解している。(略)
公卿たちが本当に恐れているのは、国家の方針に逆らい続けている頼義のために死んでいく兵が何千といる事実にある。
(引用元:「炎立つ参 空への炎」高橋克彦 講談社 P319‐P320)
これから武士の世に移り行く力学は何なのか、という「炎立つ」なりの解釈だ。
この経清の解釈は自分にとって納得の度合いがかなり強い。面白い話だなと思った。
流麗に焦点を当てた前回の記事では、「この時代は、男は政治や戦に人生を賭けられるが女には子供と夫しか世界がない」と書いたが、今の時代と比べれば「『個』という概念が脆い」という意味では五十歩百歩だ。
「個人」という概念そのものもないし、あってもほとんど価値がない。もしくはその価値は簡単に破壊される。
「乙女戦争」の時代、「個人」という概念に自分を託すのは不可能だった。
「乙女戦争」の記事でこう書いたが、「炎立つ」の世界でも「私」という発想がそもそもなく、家や一族、主君に自己を密着させて多くの登場人物は生きている。
公卿は国に住む大勢の人間を支配する方法として、「国」というまぼろしを生み出した。「国があり、その中に住んでいることによって自分が存在している=支配されている」という概念を上から下まで共有しているからこそ、朝廷は遠方まで支配することができた。
朝廷が支配しているから「支配されている」のではなく、「支配されている」という感覚が民のあいだで共有されているからこそ朝廷は支配者であることができた。
現代的な言い方をすれば、「朝廷という支配者」が民の中に内面化されている。
だから阿倍氏も宋と独自に貿易ができるほどの財力や革新性を持っていながら、朝廷に逆らうことができなかった。
ところがこの「朝廷」という支配者を、内面に持たない、もしくはそれよりももっと上位のものを内面化する存在が出てきた。
それが武士だ。この場合の武士は出自や地位や働きは関係なく、そういう内面を持つ存在という意味になる。
朝廷の意向よりも、自分の一族の隆盛を優先させる頼義、そしてその頼義に自己を密着させて、命を含めた存在意義のすべてを頼義という主君に託す経範たちの登場は、「朝廷という共同幻想」を破壊する。
誰もが経範たちのようになれば、「国というまぼろし」はどこにも存在しなくなる。
「朝廷の意向など関係なく、頼義のために死ぬことこそ武士の義」という経範のような人物が集う「場」になりうるところ、そこに人々が集えばこれまでの理を覆す原動力になることを知っていたから、朝廷も阿倍氏も頼義個人をあれほど恐れた。
ところが頼義本人だけはそのことに気づかず、「朝廷支配下での出世」を夢見ている。
「炎立つ」はあくまで小説なので、この後源氏と平氏という武士が台頭してくる歴史に対するいわば「後付け」としてこういう設定にしているのだろうと思う。
その後付けによってできる頼義の人物像がとても面白い。
一般にこういう現象は個人のカリスマ性で説明されることが多いが、頼義はどう見てもカリスマを感じない。
侮辱的な言葉を浴びせられたからとはいえ、黄海の戦いで完膚なきまでに叩きのめされた自分や息子の義家を見逃してくれた経清を、わざわざ残酷な殺し方をする。命乞いをしろと叫び、殺したあとは京都に首をさらすという、三文芝居の悪党もびっくりするような小者ぶりを発揮する。
息子の義家は経清を敵味方を超えた武士として尊敬しているので、必死で父を止める。それが叶わないとなると「これが源氏の武士道か」と頼義を非難する。
頼義は最初は経清が主として仰ぎたくなるような武士の棟梁として登場するが、話が進むにつれて卑劣な陰謀や策略に手を染めていく。
話の進行上闇堕ちしたとか、元々こういう小者で経清がそれを見抜けなかったという文脈でもない。一族のためという大義があるため、やむを得ずという感じでもない。
朝廷や阿倍氏が恐れるような、時代を覆す熱量と力を持つ面と、読んでいる人間も唖然とするような姑息で小さい器ぶりを発揮する面は、何の矛盾もなく源頼義という人物の中で並び立つ。
経清の首を鋸のようになった粗悪な刀で生きながらギコギコ引かせ、狂乱して命乞いをしろと叫びながら、頼義は最後に思う。
(儂はこの男が好きだったのだ)
はじめて頼義はそれを悟った。(略)
(とうとう負け続けで終わったの)
頼義はまだ自分を睨んでいる経清に、悲しい顔をして頷いた。
経清はまた笑った。
(引用元:「炎立つ参 空への炎」高橋克彦 講談社 P428)
鋸のような刀で首を引かせながら何が「悲しい顔」だ、と思わず突っ込みたくなる。
そのやり方に憤りながら、こいつは何なんだと首をひねりながら、小ささも冷酷さも含めてそういう頼義がけっこう好きだった。
「個」という概念が脆く国や一族のために生きることが当たり前の世界で、最後に「儂はこの男が好きだった」という「私」が出てくるのも終わり方としていいなと思う。脆くて出すことはできないこの時代でも、「私」は存在する。
「炎立つ」の登場人物たちは端役に至るまで、その人の人生の襞が感じ取れるように描かれている。だから現代を生きている自分でも、時代の価値観を超えてその生きざまに共感したり感じ入ったりすることができる。
頼義はこの後、朝廷にその力を恐れられ、島流しにされた阿倍氏の監視という名目で伊予に追いやられる。頼義が夢見た陸奥守という称号と支配権は、横からきた清原氏に奪われてしまった。
第四部ではそのことに憤慨した義家が経清の遺児である清衡と手を組み、後三年の役が始まる。
頼義の目論見はうまくいかなかったが、「源氏の台頭」というその夢は、彼が本当は好きだった経清の遺児と自分の息子の手によって続いていく。
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