うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「金田一少年の事件簿File2 異人館村殺人事件」を読んで、自分の「そういうもんだライン」について考える。

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*この記事は、「金田一少年の事件簿File2 異人館村殺人事件」の犯人を含むネタバレが含まれています。未読のかたはご注意ください。

 

 

 

 

 

「金田一少年の事件簿」がFile3まで無料になっていたので、久しぶりにfile2「異人館村殺人事件」を読んでみた。

 

読んだ当初すごく引っかかった。

当時話題になったトリックの話ではなく、(漫画冒頭に注意書きが入っていた。)この話が自分の中の「そういうもんだライン」(造語)の存在を、強く意識させるからだ。

この記事では「そういうもんだライン」について話したい。

 

「そういうもんだライン」とは何か?

「そういうもんだライン」とは、創作において「自分の感覚では現実的ではない、そんなことはまずないだろうと思うこと」を、無意識のうちに「そういうもんだ、創作なんだから」で処理できる基準のことだ。

 

以前、書いたジャンルごとに設定されている「リアルライン」の個人版である。

物語は読者がジャンルなどからある程度「こういう話だろう」ということを想定し、自分の中に「リアルライン」を設けて読み始める。

 

「リアルライン」とは、読み手が「こういう系統の話では、どういう設定ならば現実的ではなくとも許せるか」というジャンルごとのリアリティとの乖離の許容範囲を示す自分の造語だ。

例えばSFならば、現代が舞台でタイムリープなどの超常的な現象が起きても、「そんなことはありえない」という感想を抱く人は少ないだろう。

またライトノベルならば能力が極端に秀でたキャラクター「親が大富豪で、IQ180以上で博士号を持ち、国際的な研究機関に勤めている16歳の絶世の美少女」などが出てきても、物語内の設定として受け入れやすいだろう。

しかしこれが「社会派」と呼ばれるミステリーを想定して読んでいると、受け入れがたくなる。

「リアルライン」は、創作物を読んでから「この設定がアリかナシか」と判断するものではなく、読む前に読み手が無意識のうちにある程度設定しているものだ。創作物の中に「リアルライン」を超える設定があっても、書き手の説明に読み手が納得すれば、それは読み手の中で物語内の設定として受け入れられる。

【小説考察】今村昌弘「屍人荘の殺人」の設定はアリかナシか? 

 

ジャンルごとの「リアルライン」は、そのジャンルの本を読むことで帰納的に見つけるジャンル共通の法則性だ。

簡単に言えば「お約束」だ。

「明示されたルール」ではないので、その「お約束」を逆手にとってくるなど変化球もある。ただたいていの場合、そのジャンルをある程度読んだ人は、例えば「本格ミステリー」であれば殺人が起こって、探偵がその場に何度遭遇してもすんなりと受け入れる。

「前提やエクスキューズが特にいらないジャンル特有のルール」だからだ。

「金田一少年の事件簿」で言えば、「そんなに高校生が行く先々で殺人に遭遇するわけないだろ」という突っ込みや「殺人という不道徳なものをゲームのように楽しむなんて」という意見は、リアルライン以前の批判なので、「個別の作品ではなく、ジャンルそのもの(お約束)に対しての批判(もしくは揶揄)」ということになる。

 

ミステリーの場合、この「ルール」を「そういうもんだ」と受け入れられるのは、大多数の人間が「たまたま殺人事件に巻き込まれる」ことがほぼないからだ。「リアルライン」がリアルと競合しないので、「そういうもんだ」と受け入れられる。

「そういうもんだ」と受け入れがたいのは、「そういうものではない」という体感が強い場合だ。

 

恋愛は人それぞれ現実の事情が千差万別なので、ジャンルにおけるリアルラインが存在せず、人それぞれの「そういうもんだ」ラインのみが基準になる。

恋愛もので「創作の中の恋愛が、なぜ自分のリアルと違うのか」を読者を無意識に納得させやすい措置が「エクスキューズ」(造語)だ。

「なぜ(多くの場合)平凡で冴えない主人公が世界で一人のプリンセスになれるのか」

「主人公(自分)一人がプリンセスになれてしまう都合の良さ」に対して、作者が読者のために用意する納得のいく説明、ないしその罪悪感軽減のための措置のことを指している。

 

「リアルライン」や「エクスキューズ」は、読み手が話に入り込む入り口としてリンク部分として用意されている。

本来はリアルにのみ重なっている認識の枠を、「これはフィクションなのだから、そういうもんだ」と広げるためにある。

「現実に存在している読み手としての自分」を強く意識させられると、物語世界からはじき出され、その読み手に対しては物語は機能しなくなってしまう。

 

リアルラインはジャンルごとの設定だが、「そういうもんだライン」は個人によってまったく違う。ジャンル、シチュエーション、物事、キャラクター、ありとあらゆることで「そういうもんだ」ラインは、人それぞれに存在する。

同じ人間でも年齢や立場や環境によって変化していく。

好みだろう、と言われればその通りだが、自分の中の「そういうもんだ」ラインが自分でも不思議なことがある。

なぜまったく気にならないものと、読めなくなるほど引っかかるものがあるのか。

 

「異人館村」は自分の中のラインが、自分でわかりやすいので、再読したことをきっかけに自分の「そういうもんだライン」はどこに存在するのかを考えてみたくなった。

 

「異人館村殺人事件」に見る自分の「そういうもんだライン」

まずジャンルとしてバンバン人が死ぬのは気にならない。(信じられないスピードで人が死んでいくのには驚いたが。)

金田一が事件に遭遇するのも気にならない。

警察が協力的なのも気にならない。(「罪の轍」のような話を読むと、剣持のコネで青森県警が金田一に協力するのはエクスキューズとして雑すぎるので、これはないほうがいいとは思うが)

人体を切断するのは意外と大変ではとか、小田切の身元がよくバレなかったなとか、人生を賭けた執念の殺人計画の割には、その要が「小田切が若葉を落とせるかにかかっている」変なところで杜撰なところなど考え出すとけっこう「?」があるが、特に立ち止まって考えず話に没頭できる時点で、ジャンルにおけるリアルラインや「そういうもんだライン」に収まっている

 

ところが「主人公である金田一の心中で、この話は最終的に若葉と六星の純愛に回収される」ところだけが気になって気になって仕方がない。

だが若葉は何も知らなかったんだ。何も知らずにあんたを愛しただけだった!(略)

てめえだけは絶対に許せねえ!

彼女がどんな思いで自らの手を血に染めたか! 殺人を犯してまであんたとの愛をつらぬこうとした若葉の気持ちが、あんたには伝わらなかったのかよ!

 (引用元:「金田一少年の事件簿File2 異人館村殺人事件」天城征丸、金成陽三郎/さとうふみや 講談社)

 

このセリフ、読んだ当初も「えっ?」と思ったけれど、今回もインパクトがすごかった。

「六星の過去の恨みを知らずに」ただ自分の恋愛のためだけに、特に恨みも罪もない「何も知らない」霧子を殺して首を切り落とした、ってひどくないか? 

それなのに殺された霧子じゃなくて、殺した若葉に寄り添って「殺人を犯してまであんたとの愛をつらぬこうとした若葉の気持ち」を肯定して終わるのか?

と引っかかりがすごい。

もし若葉が霧子を殺しておらず、なおかつ「六星が霧子を殺害したことを知らない」「霧子を殺害した六星を責める」などであれば気にならなかった。

 

つまり「罪のない霧子が殺されたこと」が気になったのではない。これはミステリーのリアルラインでは当たり前に起こることだ。

リアルラインの枠内のストーリー内部の世界観で見たときに

「自分の復讐のために、若葉を殺した六星は絶対に許せない」のに、「自分の恋愛のために、自分の身代わりになってくれた霧子を殺した若葉に同情する」金田一の価値観の基準がどこにあるのかがまったくわからないところが引っかかるのだ。

 

自分が思いついた「金田一の判断基準」は

①復讐による殺人は許せないが、恋愛による殺人は許せる

②他人の殺人は許せないが、友達の殺人は許せる

③友達が殺されるのは許せないが、他人が殺されるのは許せる

この三つくらいだ。

ただ別のエピソードと①③は矛盾するので、考えられるのは②、もしくは三つの理由がすべて複合したからだ。

ただ三つの理由が複合した

「友達が恋愛のために他人を殺したので、その友達に感情移入して肯定して終わり」

だとしても、自分の中の「そういうもんだライン」に収まりきらない。

 

それほど親しく見えない若葉のために村の掟を破って身代わりを引き受けてくれたのに騙されて殺されて、しかも六星に遺体の一部分を「ゴミみてえに捨ててあった」霧子が気の毒で仕方がない。

物語の外枠で見たときに、霧子を「ゴミみてえに捨てた」のは、六星も金田一も同じだ、と思ってしまうところがすごく引っかかるのだ。

 

「そういうもんだライン」に収まりきらなくなると、この「外枠」が唐突に出てくる。

「リアルライン」や「エクスキューズ」や「そういうもんだライン」は、この「外枠」を意識させないために存在する。

「外枠」は物語と現実を分けるラインで、「読み手としての現実の自分」と「物語という回路を通っている自分」を分けるものだ。

「外枠」を認識した時点で、物語回路に読み手はすでに存在しない。その読み手に対して、その物語は機能していない。

「外枠」を意識したいと思っていないのに意識してしまった場合、物語世界に戻るのは難しい、というより自分個人の考えでは不可能に近い。

 

なぜこんなことをツラツラ考えたのかと言えば、この「そういうもんだライン」の外にはじき出されなければ、「異人館村」のストーリーは自分はかなり好きだからだ。

特に「弱気な冴えない男が実は、復讐のためのみに生まれた冷酷な殺人鬼だった」という設定だけで、ご飯三杯は食える。

ほかの全ての現実ではありえない設定がリアルラインと「そういうもんだライン」で処理できるのに、なぜ「話の落ちが金田一の若葉(と六星の恋愛)への同情で終わるところ」だけが引っかかるのだろう?

 

「自分が感情移入するか否かが、殺人の是非を判断する基準だ」ということはいい。

創作だから、キャラとしての好き嫌いは別にして、「そういうキャラだライン」で飲み込める。

ただそれがどちらかよくわからならない、その時の気分で殺人に対する価値観がコロコロ変わる人間(としか思えない)が、なぜ毎回殺人事件を解決する(見逃せない)のか、ということが引っかかる。

後に出てくる「(ほぼ)無差別殺人の犯人が、記憶を失って幸せになる」は、もっと引っかかる。*1

 

「メタ視点で見たときのキャラ差別している部分とその激しさ」が「そういうもんだライン」で処理できないものなのだろう。

自分にとっては、「ミステリーという人がザクザク死んでいくゲームでは、主人公も犯人も被害者も平等にその遊びのために存在するだけのコマという扱いがちょうどいい」が「そういうもんだライン」らしいという結論で落ち着いた。

 

 

*1:そっくりな別人説もあるらしい。別人の場合は、「そっくりなんてことがあるか」とは特に思わず「そういうもんだライン」で処理できる。自分でも考えないと「何が引っかかるのか」よくわからないことがある。自分では引っかかっていると思っていたことが、よく考えると別のことに引っかかっていたこともある。「こういうことが引っかかるのが(引っかからないのが)私である」ということを教えてくれるのが、自分にとっての創作の良さのひとつだ