この記事にもらったコメントを読んで思いついたことがけっこうあるので、とりとめなくダラダラ語りたい。
話が長いうえに自分の個人的な(だいぶ偏った)見方に関する雑談だが、興味がある人はどうぞ。
「主人公教」はなぜ起ったのか。「シュヴァルツェスマーケン」の場合
「主人公教」は、それが生じる原因でも分類されると思っている。
「ジュヴァルツェスマーケン」の場合は、「作者がハーレムものを勘違いしたのではないか」というのが自分の意見だ。
「ハーレムもの」と「主人公教」の違いは元記事で説明したけれど、簡単に言えば「自分の能力を認められて称賛されるか」「自分の無(能)力を認められて愛されるか」で、原理的にまったく違う。
著者の他の作品を読んだことがないので、あくまで「シュヴァルツェスマーケン」を読んだ限りの感想だけれど、この作者はキャラものや萌えのような話が余り上手くない。
戦術機の戦闘描写(これを文章で想像させられるのはすごいと思う)や現在の戦況の説明や、駆け引きの考え方の描写などは上手いのだが、恋愛やキャラ同士のコメディタッチの絡みの描写はぎこちない。
本来は2卷の要塞戦や7卷の市街戦のような、リアリティのある戦闘描写が最も得意なのだと思う。
主人公テオドールに義妹のリィズがハニートラップを仕掛けるシーンで、テオドールはそれに応じるべきか拒否するべきかを現在の状況に合わせてグルグル考えるのだが、後ろから全裸の義妹に抱きつかれている状況でそんなことを考える、という状態に笑ってしまった。
そういう人が「マブラヴのスピンオフなんだから、ハーレムものにしたほうがいい」と変に気を遣った、もしくはそういう方向で書いてくれ、と言われた結果、ハーレムものではなく「主人公教」になったのではないか、というのが自分の推測だ。
「意味もなくチート」というのが苦手で、色々とエクスキューズを行った結果の「主人公教」なのだと思う。
「意味もなくチート」というのは余りリアリティを感じないのだが、「無能力なために愛される」というのは意外と現実でよく見る。赤ん坊が代表格だが、大人でも「無能力を装うことで愛される」という生き方をしている人はいる。
前に書いた「オタサーの姫論」がそれに近い。
【「オタサーの姫」論】 「姫」とは「無能なカリスマ」のことだ。
「シュヴァルツェスマーケン」は「ハーレムもの」ではなく、主人公テオドールが姫化した「逆ハーレムもの」なのではないか、というのが自分の考えだ。
ここでいう「ハーレムもの」は、話の便宜上、生物学的な性別では定義せず「強烈な魅力や能力を持つ人間(性別関係なし)が、周りの人間をその魅力なり能力で屈服させ惹きつける」ものと仮定している。
「逆ハーレムもの」は「弱く無能な人間が(性別関係なし)、周りの人間の庇護欲をかきたて守られ愛される」であると仮定している。
上記の「オタサーの姫論」の記事では、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」の劉邦は「最強のオタサーの姫ではないか」という話をしている。「翔ぶが如く」の西郷が「可愛げのある無能」は強烈なカリスマになりうる、ということを看破して、そういうものになり切ったという司馬遼太郎の考えは個人的には「なるほど」と思った。
「シュヴァルツェスマーケン」の場合は、この辺りの「ハーレムもの」と「逆ハーレムもの」の違いを、作者が勘違いしているのではないか、と読んでいて思った。
「主人公教」はなぜ起こったのか。「破妖の剣」の場合
「破妖」について「もともと『ラスをいいこいいこする』話だったのでは」という意見があったが、自分はそうは思っていない。
「破妖」は元々は過去記事で書いた通り、
「最高の男に愛されている、すさまじい真の能力を隠し持っている私が大活躍する物語」
つまり「俺つえええハーレムチートもの」だったのではないか、と思っている。
繰り返しだが、自分は「ハーレムもの」と「主人公教」は真逆のものだと思っている。
前田珠子の作品は、原型はこの「俺つえええチートもの」が多い。
「破妖」は設定の盛り方がひどかったけれど、「カル・ランンシィ」にせよ「聖獣」シリーズにせよ、「トラコン」にせよ原型は同じだ。
「破妖」については「主人公教」に陥らないために、作者がかなり苦心した跡がある。
リーヴシュランやアーゼンターラなどの目を通して、「ラスは外の人から見るとこう見えるんだ」「こういうところが良くない」ということを言わせている。
ただラスと絡んでなお、そういうキャラを貫き通すことができないため、乱華(初期では、完璧な魔性になるためにラスの命を狙っていた)リーヴシュラン、アーゼンターラなど出てきてはラスの信者になり、また「主人公教」にしないために新たなキャラを出して、の繰り返しになってしまった。
「破妖の剣」の場合は、ブコメでもあったけれど、作者が読者に気を遣ったのが原因のひとつとしてあったのだろうと思う。後書きでもそういうことを匂わせることを書いていたようなので、色々とあったのかもしれない。
ある程度名前の売れた作家は色々と言われるのだろうし、その大変さは想像もつかないけれど、「バクマン。」で書かれていたように、作家がファンの意見を受け入れてリアルタイムに作品の方向性に反映させてしまうのは、やはり作品にとって害ではないかと思う。
色々な人がいるから(自分もその一人だが)大変なんだろうと思うけれど。
「主人公教」は何故起こるのか。「海の闇、月の影」の場合。
「海の闇、月の影」は当麻が一人で「主人公教」をやっている。(フェイズ1)
篠原千絵はこのパターンの話が何作かあるので、単純にこのパターンだと話が動かしやすいのだと思う。
技術的に使っているだけなので、話は普通に面白い。
「海の闇、月の影」で当麻が自分の両親を殺した流水に対して葛藤や拘泥を見せないのは、キャラとしては不気味だが、物語としては割り切りが上手いと思った。
「当麻を挟んだ流水と流風の対峙」という構図を崩さないためには、当麻に余計な感情を持たせてはいけない。
自分は流水に当麻の両親を殺させたことは、「海の闇、月の影」において取り返しのつかないミスだったと思っている。そういう致命的なミスですら「当麻を狂気のキャラにする」という手法で物語への影響を最小限に食い止めた判断力は、さすがだと思う。
そもそも「主人公教」を許すような話は、最初からプロットが破たんしているのではないか
①プロットを極力シンプルにする。②主人公をプロットに絡ませない。
このどちらかの方法で回避できる。
①はそもそも破綻するほどのプロットを存在させない、という逆転の発想だ。
ある種の少女漫画は、プロットと言っても「ヒロインと相手役が恋に落ちて結ばれる」というシンプルなものが多い。
この手の少女漫画の物語構造については、コチラの記事で書いた。
この手の作りの少女漫画は、「主人公教」をマイルドにした「主人公姫化」と相性がいい。その「姫化」においてどうバランスを取るか、というのが、この作りの話の腕の見せ所だと思っている。
この手の話で「主人公教」が起きるとプロットは破綻していないが(破綻するほどのプロットがない)詳細な設定はツッコミどころが多くなる。
「シュヴァルツェスマーケン」は②の手法をとっている。
「シュヴァルツェスマーケン」のプロットは、「危機的な状況にある東ドイツを救うために英雄の娘であるカティアが亡命し、国内で第666戦術機部隊を鍛えていたアイリスディーナと出会う。カティアとアイリスディーナ、反体制派であるハイムが協力してシュタージの体制を壊し、国(民の精神性)を再生させる」というものなので、主人公のテオドールがいなくても成り立つ。
実際にプロットを組んでみると、(プロット的には)主人公はカティアなのだということに気づく。
「シュヴァルツェスマーケン」は、本来主人公が持つ「物語をプロットに沿って進める」「物語における正しい価値観の体現」という機能を他のキャラが分散して持っており、テオドールは「読者視点代理」「狂言回し」の役割に近い。
6卷前半は主人公のテオドールが廃人状態になっていて「狂言回し」の役割すら放棄しているのだが、話はむしろスムーズに進む。主人公不在ですら話が進むので、教祖化しても彼と絡むときに他のキャラがおかしくなるだけで話の大筋には支障がない。
テオドールが最も絡むリィズ関連の話は、「テオドールとリィズの絡みの部分は」エピソードに含まれる。
仮にここからテオドールを省いてもプロットには影響がない。(リィズがベルリン派を裏切ってモスクワ派につく理由も、アクスマンに対する復讐心などで代替できる。)
要するにテオドールがいなくとも大して支障はないので、六巻でトラックから転がり落ちて〇んで欲しかった。
「主人公教」を逆手にとった、叙述トリック的な話が存在するのではないか?
これはあったら読みたい。
自分が思いついたのは「ファイナルファンタジータクティクス」。(「主人公教」とはちょっと違うが)アルガスを助けるか助けないかの選択肢がいい味を出している。
好きな人には申し訳ないが、ラムザはゲームで一番嫌いなキャラだ。
6卷の最後で、カティアがラムザ化していてうんざりした。他人の状況に対して想像力がないのはお互い様なのに、一人だけ正義の味方面をしているところがラムザを彷彿させる。
6卷の流れはひどく、テオドールのお姫さま化が際限なく進む。「テオドール教に服さない人間は、全員シュタージと同じ」と言われる恐ろしい世界になっていた。
読むのを止めようかと思ったが、七巻ではだいぶ巻き返している。七卷はテオドールがサブキャラ程度の扱いで、物語が綺麗に収束しているのでストレスなく読めた。
もうひとつ思いついたのが、これも「主人公教」ではないが(別の宗教)遠藤周作の「沈黙」だ。
主人公が正しいと信じ、物語的にそれなりに支持していた考えを、あそこまでひっくり返すのはすごい。主人公の内面の追い詰め方もえげつない。
主人公の内面だけは周りのキャラを使って丁寧にケアしたり、悪役で「自分がひどい目にあったから、人間なんてクソ」みたいな「他人は概念、俺だけ実体」手法はもうそろそろ古いのではと思う。
最近では「ゲーム・オブ・スローンズ」のように、エンタメでも主役クラスのキャラを極限まで追い込んでそこからどう生きるのか、というのはやっているので(日常ならばまだしも)苛酷な環境の物語を描くならば、この辺りはもう少し頑張って欲しかった。
作者が特定のキャラに惚れて、物語が滅茶苦茶になる現象について
個人的には「グイン・サーガ」を固有名詞化したい。
この前、栗本薫関連の増田で「自分の中で『グイン・サーガ』は45卷で完結している」とブコメしたら、何人かの人がそこに引用スターをつけていたので、同じことを思っている人がいるんだなと思った。(心強い)
この系統の話は他にもあるのだろうけれど、自分にとっては「グイン・サーガ」を超えるものは今のところ見当たらない。
風の噂で「ちはやふる」がそうなったと聞いたけれど、どうなんだろう? 自分は途中までしか読んでいないので何とも言えないが。
これが今年最後の記事になりそうだ。
良いお年を。
記事関連書籍
前田珠子の作品だったら「ジェスの契約」が一番好きだ。
「破妖」は残念だったけれど、中編で完結しているものは面白いものが多い。
「あっしがいなければ、劉兄いはただの木偶の坊ですよ」 ←「逆ハーレムもの(この記事定義)」「オタサーの姫」の本質を言い当てていると思う。
読み直そうと思ったら、家になかった。
40卷くらいまでは何度読んでも面白いんだが。
ちなみに一番好きなキャラはガフガリオン。