この記事について、もう少し話したいことが出てきたので続き。
ディリータは、オヴェリアにティータを重ねているのか。
前の記事に入れようか悩んでやめたけれど、やはり書きたくなった。
単に自分の考えを書きたいだけで違う見方を否定するものではない。
と言いつつ、のっけから否定的に聞こえたら申し訳ないが、前々からこの説がけっこう不思議だった。重ねる要素が余りないように思えたからだ。
同い年くらいの女の子だからか、自分が守るべきだと思う存在だからか。ティータが死んだあとに出会った存在だからか。
ディリータのオヴェリアに対する言動を見ると、こういう要素で重ねているようには思えない。
先にどう考えているかを書くと、ディリータはオヴェリアと自分自身を重ねており、ティータはディリータにとって「神」に近い神聖な存在だと思っている。
ティータ(の死)はディリータの人生で最も重要な要素だが、ディリータとオヴェリアの関係にはそれほど大きく関わっていないのでは、というのが自分の考えだ。
ディリータがなぜオヴェリアをティータではなく、自分と重ねていると思うかは理由が三つある。
ひとつめは本人がそう言っているからだ。
Chapter3の「ディリータとオヴェリア」で「お前はオレと同じだ」と言っている。
このシーンでもうひとつ注目したのは
「死んだ妹、ティータに誓おう」
このセリフだ。
「ティータと重ね合わせているから、ティータに誓った」という考え方もできるが、重ね合わせているのならオヴェリア=ティータに誓えばいい。
オヴェリア(=ティータ)は目の前にいるのだから、ティータの名前をわざわざ出す必要はない。「俺はお前を裏切ったりしない、そう誓う」でいい。
ティータの名前を「わざわざ別に出す」のは、ティータはディリータの中では明確にオヴェリアとは別の誓いの対象となる存在だからだ。
対比できるセリフがChapter1の「オーボンヌ修道院」で、ディリータがオヴェリアをさらったときのものだ。
「悪いな…。恨むなら自分か神様にしてくれ」
このセリフから見て取れるのは、「神」はディリータにとって揶揄の対象であること(誓いの対象とはなりえない)
もうひとつは、この時点ではオヴェリアの運命(に対するアグリアスの思い)は、神と同じく揶揄の対象であり、存在として同列であることだ。
「ティータが死んだあとに出会ったティータと同い年くらいの女の子」でも、ディリータにとってはその運命や無力さは神と同じく揶揄の対象でしかなく、「誓いの対象」であるティータにはなりえない。
「ティータが死んだあとに出会った、ティータと同い年くらいの女の子」という外見的属性的要素では、ディリータはティータとオヴェリアを重ねていない。
またこの時点で「ティータと同じ守るべき対象としてみた」というのも、ゼイレキレの滝の会話を見ると疑問に感じる。
ディリータはラーグ公とダイスダーグが、オヴェリアを抹殺しようとしていることを知っていた。
ラムザが指摘しているようにその陰謀は
「また、力の弱い者を犠牲にしようというのか」
「そんなことを許しはしない! これ以上、ティータのような犠牲者を出してはいけないんだ!」
権力闘争のはざまでオヴェリアをティータのような犠牲者にすることだ。
オヴェリアとティータは「権力闘争の犠牲にされる無力な存在」としては、そもそも初めから重なっているのだ。
ところがディリータは、ラーグ公やダイスダーグの陰謀を知っていて「ティータと同じように犠牲者となっているオヴェリア」であることを知っているのにも関わらず、その「犠牲者としての運命」を「恨むなら自分か神様にしてくれ」と揶揄や皮肉の対象にしている。
ディリータにとって、オヴェリアは自分と「同じ人間」なのだ。
権力闘争に巻き込まれ、利用され犠牲にされる。そこから利用されるままでいるなら、「自分か神様を恨め」、それが嫌なら利用する側に回るしかない。
ディリータは、ティータと重ねてではなく、ティータの死のあとに選んだ(選ばざるえなかった)自分の生き方の文脈の中で、オヴェリアに相対している。(正確にはオヴェリアの身分しかみておらず、個人としては相対そうとしない)
ゼイレキレの滝におけるディリータの「あなたと同じ人間さ」は、アルガスを象徴とするこの時代を支配する階級主義への皮肉になっている。
オヴェリア個人の「貴方は何者なの? 味方、それとも敵?」という疑問を受け取らず身分に対する自分の思いをこめて皮肉を言っているところから、このときはまだ、ディリータはオヴェリアの正体を知らなかったと考えられる。
だからここまでは「うるさいお姫さまだ」「恨むなら自分か神様にしてくれ」「あなたと同じ人間さ」と「ティータと同じ無力な犠牲者であるオヴェリア」の心境を慮ろうとせず、高貴な身分に対しての自分の感情を優先させた皮肉ばかり口にしている。
ディリータが変化するのは、ゼイレキレの滝で別れたあと、「ディリータの忠告」においてだ。
「真の意味で彼女を救うことができるのはこのオレだけだ」
今まで「お姫さま」と揶揄気味に語っていたのに、いきなり「彼女」になる。
ディリータがオヴェリアに対する対応を変えたのは、「二人の関係性の進展」からではなく、前回の記事で書いたように、ディリータの中で唐突にオヴェリアに対する見方が変わったからのように見える。
恐らくディリータがオヴェリアの正体を知ったのはゼイレキレの滝のあとであり、そこでディリータのオヴェリアに対する気持ちが変化したのではと考えている。
いくら無力な犠牲者であろうと、「高貴なお姫さま」であるオヴェリアの運命は、ディリータにとっては「神」と同じく揶揄や皮肉の対象にすぎない。
しかし
「おまえはオレと同じだ。偽りの身分を与えられ生きてきた哀れな人間だ」
この真実を知ることによって、「真の意味で彼女を救うこと」「お前の人生が光り輝くようにオレが導く」「オレはお前を裏切ったりしない」という風に心境が変化したのだ。
なぜそういう風に変化したかというと、ディリータの中の「オヴェリア」が、「お姫さまだろうが平民だろうが同じ人間」から「オヴェリア個人が、自分と同じ偽りの身分を与えられて生きてきた哀れな人間」に変化したからだ。
まとめるとディリータの心境の推移は
・オヴェリアをさらう→ゼイレキレの滝→ラムザに渡す
(オヴェリアは高貴なお姫さまであり自分にとっては利用するもので、その運命は皮肉や揶揄の対象)
・オヴェリアの正体を知る
(オヴェリア個人に対する見方が変化)
・「ディリータの忠告」でラムザに再会。
(「自分と同じ偽りの身分を与えられて生きてきたオヴェリア」を救いたい)
こうではないかと思う。
こういう流れなので「オヴェリアとディリータ」での会話では、今まで連呼してきた「お姫さま」と同じ揶揄や皮肉である「女王陛下」という呼称をオヴェリアが拒絶したときに、真剣に謝罪したのでは、と思っている。
理由のふたつめは「ファイナルファンタジータクティクス」のストーリーは、ラムザとディリータが表裏一体になっているからだ。
ディリータが神ではなくティータが誓いの対象である、アルマが聖アジョラの生まれ変わりであることを見ても、この話の「妹」は「神」に近い。信仰の対象なのだ。
「妹は信仰の対象(神)であり、代替がきかない存在である」というのはファイナルファンタジータクティクスのストーリーにおいて、重要なルールだと考えている。
ラムザが妹を失っていないので、対比となるディリータは妹を失っていなければならない。ラムザとディリータは苛酷な時代に「信仰(愛)を失わなかったもの」と「失ったもの」の対比になっている。
ラムザはティータ(神)を失わなかったディリータであり、ディリータはアルマ(神)を失ったラムザではと思っている。(神を失い悪魔になったウィーグラフや信仰を犠牲にすることで生き続けたマラークも加えると、さらに比較が広がる。)
三つ目は、「ディリータがオヴェリアとティータを重ねている」と考えた場合、ラストが今以上にディリータにとって非情になることだ。
ディリータはティータに刺され、「ティータすら邪魔をすれば刺し返す」という流れになってしまう。
二つ目の理由と重ね合わせると、ディリータは自分の「利用されるのでなくする側に回る教」の神(ティータ=自分個人の最も神聖なもの)ですら利用していたという、ディリータにとって残酷きわまりないストーリーになる。
……と言いつつ、その流れを取りたいので、この点では「ディリータはオヴェリアとティータを重ねている説」を取りたい気がする。
たださすがにディリータにここまで業を背負わせるのはどうかなと思うので、重ねてはいないと考えたい。
上記の二つの理由だと「オヴェリアにティータを重ねている説」を自分の中では疑問符がつく。
ただ、ディリータは信仰を失ったものの物語を体現していて、終わり方は『自分が選んだ神すら殺す』であり、『自分の選んでいない神は神ではない』ラムザの選択の反転になっている、という風に見たとき、二人の結末の対比によって『神(自分にとって神聖なもの)とは何なのか』でまとまっている、という見方も面白いので、この点では「重ねていた説」で考えたくなる。
そういう風に読み方を変えられる(読み手の物の見方や立ち位置や価値観の変化に耐え、応えてくれる)のが、自分にとって「優れた創作」の条件のひとつだ。
アルガスについてもう少し考えてみた
アルガスが「対等の相手として」反論し罵声を浴びせ、懸命に見下そうとしていたのは、ミルウーダたちではなく、自分自身の中に眠るそういう疑問だった。
前の記事で、「アルガスはこういう奴だったのか、と納得できた感じがした」と書いたけれど、そういう角度で見ると、自分がアルガスに対して抱いていた色々な疑問が解けた気がする。
昔は、ジークデン砦のアルガスの言動がよくわからなかった。
ラムザやディリータをわざわざ挑発して怒らせても、事態がこじれるだけでアルガスには何ひとつ得にならない。
ディリータはともかく、ラムザをうっかり殺してしまったら大変なので対立は避けたほうがいいのでは、など色々と不思議だった。(殺しても後処理できるかもしれないが、そもそも殺すメリットがない。)
「悔しいか、ディリータ! 自分の無力さが悔しいだろ?」
「だが、それがおまえの限界だ! 平民出のおまえには事態を変えるだけの力はない! そうだ、そうやって、嘆き悔しがることしかできないんだ! はっはっはっ、いい気味だぜ!!」
例えばジークデン砦のこのセリフだ。
昔は何のために言っているんだろう?と不思議だった。
余りに露悪的すぎるので、物語的にキャラ立ちさせるためか、ストーリーのインパクトを強めるためだろうくらいに思っていた。
でももしかしてこれ……
自分自身に言っているのか?
とふと思った。
ずっと「物語を動かす装置」「露悪的すぎて不自然なキャラ」にしか見えなかったアルガスが、やっと「そういう奴だったのか」と腑に落ちた。
仮にそうだとしたら「自分の弱さを自分より弱い相手に当たり散らす人間」は嫌いなので、アルガスは自分の中でン十年経て「物語装置的でいまいち興味がわかない」から「人として嫌い」になった。
「かあさん、たすけて」と言い、色々考え出すとうっかり感情移入してしまうかもしれないのでここら辺でやめておこうと思う。
と言いつつ続いた。