「未完で終わるかもしれない」と思い敬遠していた平野耕太「ドリフターズ」既刊6巻を、今さら読んだ。
「目的があって戦う話」ではなく、ひたすら戦って殺し合いをしてその結果どうなるか、「戦うこと自体にアイデンティティを見出している話」をたまに無性に読みたくなる。
「ドリフターズ」は、自分が刀をふるい戦い殺し合っているような感覚に陥れる稀有な漫画だ。プレイヤーになれるゲーム以上に、この感覚を味合わせてくれる創作は自分の観測範囲だと皆無に近い。
「ドリフターズ」はストーリーも面白く、キャラクター造形も魅力的で素晴らしいが、自分にとっての一番の肝は、豊久が発露する「狂奔」に同化できることだ。
なぜたまに「何かを目的に戦うのではなく、戦うこと自体にアイデンティティを見出だしている話」を読みたくなるかというと、昔々の自分は「何かに対する怒りそのものが自分自身」という感覚で生きていたからだ。
この「怒り」は例えると、「一の目しか出ないサイコロを持たされて、よく理解できないルールのゲーム盤に挑まされている感覚」に近い。
ゲームを続けていくうちに、不思議なことに「一しか出ない目のサイコロでクソなゲームを挑むことが自分の人生なのだ」と思うようになる。
そうなると「そのゲームは、そこまでクソじゃない」「そもそもサイコロを持たないで生まれる人間もいるのだ」という、自分の人生を相対化する声に怒りを感じ始める。
自分にとっては自分の人生はたったひとつの絶対的なものであり、自分にとって絶対的なものを相対化しようとする力そのものに怒りを持つ。その絶対性を以て、自分を相対化しようとする力に戦いを挑みたくなるのだ。
厨二と言われればまあそう。
今は少しは大人になったが(たぶん)その感覚を思い出させてくれたり、その残りカスみたいなものを吐き出させてくれる創作を、今でも発作的に読んだりプレイしたくなる。
時々一しか出ないサイコロを握りしめて、それを投げつけていたときのことを思い出す。
厨二的怒りが極まれば、最終的には「命、捨てがまるは今ぞ」の地点に行くはずだった。
そういう豊久を見て「うらやましい」と思う土方の気持ちがすごく分かる。
(引用元:「ドリフターズ」6巻 平野耕太 少年画報謝社)
自分から見れば、土方も十分羨ましい。まあそこまで行けなかったのだから、羨ましいというのはおこがましいが。
結局のところ、なんだかんだ言っても、自分は今の自分よりもそのころの自分のほうが好きなのだ。
だからたまに、そのころの感覚を思い出したくて、こういう話を読んだりゲームをプレイしたりするのだろう。
ただ豊久や土方のような「自己完結するシンプルさ」(アナスタシアが「存在自体が自己満足の集合体」と指摘していたが)抜きで、「狂奔」なり「怒り」なりなんなりにアイデンティティを見出すと、結局は関係ないもの(主として概念としての他者)を巻き込むことになる。
「プラハの墓地を作り続けること」にアイデンティティを見出すことは勝手だが、それで世界を巻き込み人に迷惑をかける(どころではない)シモニーニになることは避けたい。
「アイデンティティの発露を自己完結させる」のは常人には難しい話なので、それを発露することを楽しませてくれる創作の存在は本当にありがたい。
ストーリーでは、黒王の「世界の文明を再編成する」考え方がすごく好きだ。
世界を滅ぼすということは、「人(物質)を消滅させる」のではなく「文明を入れ替える」ことではと思う。
豊久の「狂奔」と同じくらい、黒王の「世界の塗り替え」も楽しそうと思う。「ドリフターズ」はどの陣営にいても楽しめそうなところがいい。
(引用元:「ドリフターズ」3巻 平野耕太 少年画報謝社)
こういうスケールのデカい考え方のラスボスにはわくわくするし、主人公の豊久が対象的に「自己満足の集合体」のところも面白い。
キャラクターはほとんど好きだが、あえて言えば多聞、信長、土方が好き。
「連合艦隊は滅んでいない。飛龍がここにいる。そしてここに提督とパイロットがいる。たった二人だが」
「『この世界の場合』、ただ飛ぶだけのものでも回天する兵器となりうる」
こういう諦めの悪い人が大好きだ。
気になるのは、女性キャラに対する胸いじり。多少ならまあ青年誌だしうるさいことを言うのも……と思うが、オルミーヌ、ジャンヌに対するしつこさはうんざりする。
不満なのは唯一ここくらいだ。
後は終わってくれれば言うことはないが、話のスケールの大きさから言うとパッと店じまいされても不満だし、かと言ってスケールに見合った長さになると終わるか不安になる。
早く続きが出ますように。