うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

弱者男性文学としてのドストエフスキー「貧しき人々」

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先日、ネットで弱者男性について話題になっていたが、その時に「貧しき人々」を思い出した。

貧しき人々

貧しき人々

 

 

「貧しき人々」の主人公マカール・ジェーヴシキンは、俗にいうKKO(キモくて金のないおっさん)だ。

貧乏と貧困の違いについてはよく指摘されるが、マカールは金がない上に、孤独で周りの人びとから見下されている。本人も「自分は見下されて当然の人間だ」と思っている。

タイトルの「貧しき」は、ただ金がなく貧乏だという意味ではなく、そのことによって、人としての最低限の自尊心や希望ですら失わされている状態を指している。

そんなマカールが唯一人生で得た光が、遠縁の薄幸の少女ワーレンカと文通することだ。「貧しき人々は」この二人の往復書簡で成り立っている。

 

「貧しき人々」を最初に読んだのは学生のころだ。その時は良さがまったくわからなかった。

ずっと意味のないことを大げさな文章で読まされている感じがして、かったるい話だなと思っていた。

今回読んだら、まるで感想が違った。

これは確かにすごい話だ、と思った。ネクラーソフとベリンスキーが感激の余り、夜中にドストエフスキーの家に押し掛けた気持ちもわかる。

 

「貧しき人々」を最初読んだころの自分は、マカールという人間のことがよくわからなかった。今だってわかっているのかどうかわからない。

ただ今回は、マカールに感情移入して夢中になって読んでしまった。

 

マカールは、本人が言う通り、さほど学がないしがない小役人だ。

人に目をつけられないように、仕事を失わないように、息をひそめるようにして生きている。

自分の中の情熱や鬱屈やそれでも美しいと思うものを表現すると、滑稽に見えてしまう。だから周りの人間に笑われる。

ワーレンカに対する思いや周囲で起こった出来事に対して自分の中に湧いた気持ちの表現は稚拙で大袈裟で、詩的とも美しいとも言い難く、その字面だけを見ると笑ってしまうことさえある。

「美しいものを持っているが、それを表現する術がなく、周りから馬鹿にされて卑屈になっている冴えない男」を描かせたら、ドストエフスキーの右に出る人はいない。

「カラマーゾフの兄弟」のスネリギョフ、「悪霊」のフォン・レンプケやステパン先生、「白痴」のイヴォルギン将軍などがこの系統だ。ステパン先生は学があるなど多少違いはあるけれど、「自分が持っている物を上手く表現できず、滑稽に見えてしまう」という点では同じだ。

大学生ポクローフスキーの父親もこの人物像の分類に入る。

息子の本を自分は見る権利があるのだ、という風に振る舞っていたのに、息子に「触らないで欲しい」と言われると「キョドって」しまう描写など、こんなに上手く描けるものなのかと思ってしまう。

ワーレンカがポクローフスキーに贈るために父親と共同で買ったプーシキンの詩集を、「父親一人からの贈り物ということにしていい」というシーンは尊すぎて泣ける。

「美しく尊いものと弱さや惨めさや滑稽さは紙一重」という発想は、ドストエフスキーの小説では常に出てくる。「白痴」のように、それ自体がテーマの小説もある。

 

あなたという人を知ったために、わたしは自分自身をもいっそう認識するようになり、あなたをも愛し始めたのです。(略)

あなたという人を知るまでは、わたしはほんの一人ぼっちで、まるで眠っているようなものでした。まったく生きていたものとはいわれません。(略)

みんながわたしのことを愚鈍だというものですから、わたしも本当に自分を愚鈍だと思っていました。

ところが、あなたが目の前に現れると同時に、わたしの暗澹たる生活を照らしだしてくださったので、私の心も魂も光を放って、わたしは心の平安を得、自分も別に他人より劣ってはいないのだ、と悟りました。

見たところは別に光ったところもなく、輝かしいところも、上品なところもないけれど、とにかく、自分は人間である、感情からいっても思想からいっても人間には違いないと悟ったのです。

(引用元:「貧しき人々」 ドストエフスキー/米沢正夫訳 古典教養文庫/太字は引用者)

 

マカールはワーレンカという存在によって、己を知った。自分が感じた正確な言葉で言えば「己を与えられた」のだ。

「みんながわたしのことを愚鈍だというものですから、わたしも本当に自分を愚鈍だと思っていました」

それまでマカールが「自分自身はこういう存在である。だからこういう風に扱われて当然なのだ」と思わされていた。これはとても残酷なことであり恐ろしいことだ。

でもこんな事象は世の中のそこかしこに転がっていて、そのまま放っておかれている。

「自分は人からゴミみたいに扱われて当然の価値のない人間」と誰かが思い込まされて生きている、という残酷さが当たり前のように放っておかれているからこそ、マカールにとってワーレンカという存在自体が奇跡だったのだ、と伝わってくる。

伝わってくる、なんてものじゃない。自分の中にマカールが現れ、その奇跡が再現される感覚だ。

マカールがワーレンカに抱いている感情が、父性愛なのか恋愛なのかはどうでもよく、ただその感情がマカールが人生で持つことを許された唯一の尊いものだった。

だからあれほど激烈で美しく見えるのだ。

それぐらい凄い文章だと思うけれど、もっと凄いのはストーリーが初めから終わりまでこの熱量で語られているところだ。

元々ドストエフスキーの小説は、紙面からほとばしる熱量が半端なく、そのエネルギーの凄まじさこそドストエフスキーの一番凄いところであり一番好きなところだが、「貧しき人々」は中編であるせいかマカールの絶望的な叫びをずっと聞いている気持ちになる。

 

しかし、そんな風に誰かにとって存在そのものであるくらい美しいものは、ブイコフという無慈悲な存在によってあっけないくらい簡単に奪われ壊される。

明示はされていないが、ブイコフはポクローフスキーの父親なのだと思う。

ワーレンカとポクローフスキーの初恋も、ポクローフスキーの父親が息子に抱くいじましいほどの愛情も、ブイコフがポクローフスキーの母親に手を出して妊娠させたため、持参金付きでポクローフスキーの父親に押しつけた、という醜い構図の上に成り立っている。

 

そういう残酷さを訴えるためにマカールに与えられているものは、「車輪の下に身を投げる」だの「乗せてくれなければ、あなたの馬車の後から駆けて行く」だのファルバラ(縁飾り)がどうのという滑稽で惨めな言葉しかない。感動していてさえ「ファルバラって何回言うんだ?」と突っ込みたくなってしまう。

将軍が女性たちやその家族に援助しているのはその女に手をつけたからだ、と誰もが知っているのに、それを純粋な善行だと信じて感激して声高に話し、人から失笑されたりもする。

こんなことを話されたら、内心で「あーあ」と思ってため息をついてしまいそうだ。

でも、自分が「あーあ」と思ってしまうような馬鹿馬鹿しくみっともなく薄汚くて誰からも顧みられないものに、自分にはわからない尊いものが宿っている。

そういうことをここまで体感させてくれる作家はなかなかいない。

 

でもやっぱり、美しいものが一個も描かれていない「悪霊」のほうが好きだな。

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