うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【「カラマーゾフの兄弟」人物語り】フェラポント神父と承認欲求

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この本を読んでいるときに、「カラマーゾフの兄弟」のフェラポント神父のことを思い出した。

 

フェラポント神父は、主人公アリョーシャが慕っているゾシマ長老と対立している。

ゾシマ長老の死の直前と直後の場面に出てくるが、物語の主筋にはほとんど絡まない。それにも関わらず、読み手に強烈な印象を与える。

フェラポント神父は、斎戒と苦行と祈りに人生の全てを捧げている。

推定七十五歳くらいで、自らの身体に重い鉄鎖を巻き付け、修道院の裏手にある養蜂所を改築した専用の礼拝所で暮らしている。

一週間のうち、三斤のパンと日曜日にもらえる聖餅しか食べない。朝から晩までひたすら祈るだけの日々を送り、膝まづいた姿勢のまま眠ると言われている。

 

フェラポント神父は、外見もかなり強烈な印象を与える。

見た目にはまだ逞しい長身の老人で、背もまっすぐしゃんとしており(略)まだ相当な体力を秘めていることは、疑いなかった。レスラーのような体格だった。(略)

灰色の大きな目は鋭い眼光を宿していたが、ぎょっとするほど極端にとびだしていた。(略)

ひと昔前までは囚人ラシャとよばれた、目の粗い、赤茶けた百姓外套を着て、太い縄をベルト代わりにしめていた。(略)何か月も脱いだことのない、ほとんど真っ黒に煮しめたようになった、厚い麻地のシャツが百姓外套の下からのぞいていた。(略)ほとんど原型をとどめぬ古い短靴を素足につっかけていた。

 (引用元:「カラマーゾフの兄弟(上)」 ドストエフスキー/原卓也訳 新潮社 p315-316)

 

ドストエフスキーは人物描写が上手い。

端役に過ぎないフェラポント神父でさえ、読み手の頭の中に人物像が浮かび、興味を惹きつけられるような描写をする。

 

物語の中盤に、ゾシマ長老が死ぬ。

人々はゾシマ長老のような聖人が死んだのだから、何か奇跡が起こるに違いない、と期待する。

ところが奇跡は起こらない。それどころかゾシマ長老の遺体から、一日も経たないうちに強烈な腐敗臭がし始める。

人々は「期待を裏切られた」「他のかたが亡くなったときは、腐敗臭どころか芳香すら漂っていた」と勝手なことを言い出す。

そこにフェラポント神父がやってきて(いつもは引きこもっていて、人前にはほとんど出てこない)「スヒマ僧たる僧位にふさわしい精進を守らなかったから、こうした教示が現れたのだ。(略)だから、死に恥をさらしたのだ」と批判をぶちかます。

良識派のパイーシイ神父が怒ってフェラポント神父を追い出すのだが、フェラポント神父は出て行く直前に「わが主は勝てり!」と叫んで、地面に倒れ伏して泣き叫ぶというパフォーマンスをやる。

集まった人々はそれを見て、「これこそ聖者だ!」「これこそ長老の位につくべき人なのだ」と言い出す。

 

このシーンに至るまでに、ゾシマ長老の徳に潜在的に反感を抱いていた層がいたり、「人には、行い正しき人の堕落を喜ぶ面がある」ということが語られる。今も昔も変わらない人間の心の微妙な機微が積み重なった結果であることが説明されている。

こういう目に見えずはっきりしない、人の心の動きや空気感を効果的に使うのもドストエフスキーは上手い。

白にも黒にもなる漠然とした思いがどんな人の心の中にもあり、たいていの人は周りの色に流されていく様子はなるほどと思わせる。

 

フェラポント神父は死体の安置所から出て行く直前に、「変わった人物だが、すべては信心深さゆえの言動だ」という認識をひっくり返すようなことを言う。

「この男(ゾシマ長老)は明日、ありがたい讃美歌『われらの庇護者、扶けびと』をうたってもらえるが、わしがくたばっても、せいぜい下らん頌歌『この世の喜び』をうたってもらうのが関の山だ」

「自分のやってきたことを認めて欲しい」という痛切な叫びだ。

そんなことのために、今まであんなに苦しい生活を送っていたのか、と唖然とする。

同時に、人から賞賛されるためならば一週間にパン三斤のみの生活も続けられる、というその執念に脱帽してしまう。

 

ドストエフスキーはアリョーシャやパイーシイ神父の目を通して、批判的にこの様子を描いている。

ドストエフスキーの面白いところは、事象自体は批判的に述べているのだが、フェラポント神父個人に対する目線はフラットなところだ。

少なくとも、フェラポント神父のすべてを否定している感じではない。端役にも関わらずその人物像もじっくりと書き込んでいる。

「自分が死んだときに、どの歌がうたわれるか」ということに人生のすべてをかけている、というところに妙なリアリティを感じる。「死んでいるのだからどうでも良くないか」とつい思ってしまうが、フェラポント神父にとってはそれが最も大事なことなのだ。

 

モームの「世界の十大小説」によれば、ドストエフスキーは病的なほど劣等感と自意識が強かったらしい。

自惚れというものは(略)すべての芸術にたずさわる者に特有の職業病であるのだが、それにしてもドストエフスキーの場合は、まったく常軌を逸している。彼から自分自身のことや自分の書く物のことばかり聞かされて、聞く者はうんざりするのではないかなどとは、ついぞ思ってもみなかったらしい。 

 (引用元:「世界の十大小説(下)」 S・W・モーム/西川正身 岩波書店 p207)

 

考えてみれば、フェラポント神父のゾシマ長老に対する言動は、ドストエフスキーが「悪霊」でツルゲーネフをこき下ろした態度を彷彿させる。

フェラポント神父の他者からの承認を求める欲望も、自分にないものを持つ人間に対する強烈な嫉妬心も、「この歌をうたってもらえない」と嘆くいじましいほどの卑屈さも、ドストエフスキーは自分も持っているものだと知っていた。だからフェラポント神父の行動を批判しながらも、その人柄を否定的に見ることはしなかったのだと思う。

 

初めて読んだときは、フェラポント神父に「器が小さい」という感想しか抱けなかった。

今はそんな風には思えない。

自分もフェラポント神父の立場だったら、身体に鎖を巻き付けて「悪魔が見える!」と叫んでいたかもしれない。(根性なしなので、たぶん二分くらいでやめる)

フェラポント神父が現代にいたらSNSで、「いま断食に挑戦中です。一週間に三斤のパンしか食べていません」「現在、祈りを二十四時間続行中。寝ていません」と実況していたかもしれない。

ゾシマ長老の遺体を蹴飛ばす動画を上げて、大炎上していたかもしれない。

 

自分を認めてもらうために、自分がここにいることを知ってもらうために、帰属する社会の価値観に沿って血道をあげるのは、今も昔も神父も芸術家も大人も子供も変わらない。

讃美歌を歌ってもらいたい、その一心で時にとんでもないことをやってしまう。

 

フェラポント神父はその後どうなったのだろう。讃美歌をうたってもらえたのだろうか。

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

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引用は新潮社文庫から。

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

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