うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「面白いものを共有したい」ではなく、「共有できるものが面白い」になるのはキツイ。

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タイトルで全てなので、これ以上書くこともないのだけれど、創作について「わからないものはつまらないと思われるようになった」という話を目にしたので、それについて。

 

興味を持って触れてみた。

ところが読み(見)続けて、考えてみてもわからない。「だから」つまらない。

そういうことは自分にもある。

「面白い」と思うものは、自分も人と共有したくなる。「ここが良かった」「こんなに面白かった」と言いたくなる。(このブログの目的はそれだし)

 

だが件の記事で書かれているのは、「結果的に共有したくなる」のでなく、「共有すること自体が面白い」「共有できればできるほどいい」という感覚でコンテンツが作られるようになったのではないかということだ。

「共有しようと、向こうから働きかけてきてくれ、その瞬間に共有できないものはつまらない」恐らくこういう傾向について話しているのではないかと思う。

 

一瞬で、思考や時間のコストをかけることなく、「理解させてくれるもの」ほど価値がある。*1 

もう少し言うとコンテンツ自体の価値(面白さ)を決める軸が、「どれだけ多くの人と共有できる場になりうるか」の比重が高くなっているのではないか。

 

昔はまったくその傾向はなかった、とは思わない。以前もそういう物はあった。

ただこの逆の傾向の「共有しえなさそうなもの」「共有したくないもの」にも同じくらい価値が見いだされたと思う。

「共有しえなさそうだと思えたもの」が「結果的に」共有しえたら、ものすごく嬉しい、という感覚だったけれど、今はそもそも前提として「共有できるもの」が求められているのでは、と思った。

 

元々自分はコンテンツは一人で楽しみたいほうだ。

一緒にドラマや映画を観ても、「二人で」観ているのではなく「一人と一人で」観ていると思うほうだ。

注目するポイントもどこを面白いと感じるかも、どこがイマイチだと感じるかも、好きな登場人物も、誰に感情移入するかも、どこが気に食わないかも、何がわからず、何が理解できないかも全て違う。

「二人で」ではなく「一人と一人で」見るから、感想を言い合うのが面白い。

自分に「わからないこと」があるから、同じものを見た人の話を聞いてみるのが楽しい。

その違う感想を「結果的に」共有できた時が嬉しいと思う。

 

自分は、創作は「理解できないものが怖くて、つい考えてしまう。だから面白い」と感じる人間なので、創作に対して「全てを説明してくれないと、わからないからつまらない」と感じる感覚はよくわからない。

確かに、まったくわからなくてつまらないものはある。*2

だが全てを説明されたらつまらない。

わかるから面白いものもあるし、わからないから面白いものもある。

 

「共有できて嬉しい」のは結果であって、最初から「共有できることがいいこと」という姿勢は(創作に限らず)しんどい。そういう傾向の作品が(もちろんあってもいいけれど)市場の大半を占めるのは自分には余り楽しくない未来だ。

 

自分は情報が少ない作品のほうが傾向として好きだ。

そういう自分の好きな傾向の作品のニーズになり続けないと、自分が「好きだ」「面白い」と思う作品が作られなくなってしまうのではないか、という危機感を最近覚える。

いくら「そういうものがあって欲しい」「あったほうがいい」と言っても、作り手はコストをかけているのだから、よりニーズがあるものを作るのは当たり前だと思う。

 

なので「自分の好きなもの」のニーズを少しでも支えるために、このブログでせっせと「自分がいい」と思うものを応援していきたい。

 

*1:自分はこれは危うい考え方だと思う

*2:ある