2021年11月25日(木)読売新聞の朝刊「思潮」に掲載された、「遠近歪曲のバイアス」の話が面白かったのでその感想。
「遠近歪曲のバイアス」は、「遠いものほどよく見え、近いものほど粗が目立つというもの」。
「思潮」の中では例として「日本の人口減少の捉え方」や「原発について」「メルケルの功罪」などが上げられていた。
自分たちが置かれている現在の状況の問題点をクローズアップして見るが故に、その状況と反対の事象を長短上げて比較するのではなく、「現況の問題点と反対の事象の問題のない部分」の単純な二項対立に持ち込んでしまう。
いま読んでいる「ロシアの歴史」でも、ある事象において事実を十分に検証することなく、一面的な見方をしないように繰り返し警告している。
非難や称賛、つまりは評価することに熱心になるよりは、まずは事実を明らかにすることにこそ努めるべきであろう。
(引用元:「図説 ロシアの歴史」栗生沢猛夫 河出書房新社 P31)
現代だとSNSに代表されるように、短文でわかりやすく速度が速いものが注目されやすい傾向にある。
色々なものについて、評価や判断を素早く出しすぎではないかと感じることがある。
短文でわかりやすいもの、極端で強い主張が力を持ちすぎると、全体として複雑さに耐える力がなくなる。
物事が様々な条件や前提に基づく複雑なものであることは分かっているのに、情報が多すぎると「わからない」に耐えられないために、極力単純化された図式、そして単純化してくれるものや人に惹かれてしまう。
そこにはいい面や便利な面もあり、自分もそういう情報を利用するし文字数が少ないメディアも好んで使う。
ただ惹きつけられすぎないように、単純化されていないものにも意識して接するようにしなければなと思った。
昨年、日本学術会議の会員に推薦されながら理由が示されず政府に任命されなかった宇野重規が、著書「『反政府的』であるとはどういうことか」の中で、「(自分が政府に任命されなかった)理由について想像を膨らませ、根拠もなく批判するのは逆効果だ」と唱えている、という話も面白かった。
学者はどこまでが自分の学問に基づく発言で、どこからは自分の主観的な価値観に基づく発言なのか、厳しく自己吟味する義務があると思う。
(太字は引用者)
という言葉に感じ入った。
学者ではないが「自分が今話していることについて、どこまで自分の公平さ(というよりニュートラルさが近い)を意識しているか」は重要だな、と思った。
自分の言っていることについて
「自分の偏りをどこまで許容しているか」
「公平になり切ることは難しいとしても、どれくらいなろうとしているか」
ということに意識的でいて、自分の状態を把握する目を持っていられるといいな、と思う。
また
自らの偏りを補正することは、難しい作業に違いない。
と記事の最後に書かれているが、その偏りの組み合わせこそが、その人そのものだと思うので(よほど社会と相いれないものでない限り)自分は偏りを補正する必要はないと思っている。
それよりは記事の最後に書いてある通り、「自分の偏り」について知ることが大切では、と思った。
「それが正しいか否か」よりも、「なぜそれが正しいと思うのか」「なぜそれが間違っていると思うのか」、そして「それを正しい(間違っている)と思うということから、自分は何者なのか」を知ることが大切だと感じる。
自分が物語を読むことが好きな点のひとつは、自分自身を相対化しやすいところだ。
物語はイメージに接続するから、そこから何を見るか、どんな点に注目するか、誰に感情移入するか、ということから自分自身がわかりやすい。(現実の出来事だと直接的すぎるので、皮相的にしかわからないことが多い)
「絶対的な何か」を問うことよりも、「自分がこう見える(解釈する)ものを、なぜこう見える(別の解釈をする)人がいるのか」という「差異」のほうが重要に感じる。
仮に何か絶対的なものが存在するとしたら、その「差異」ではないかと思うのだ。
自分の中にある歪みや偏りは自分そのものであり、自分のものであれ他人のものであれそれ単体で測るよりも、それについての他者との差のほうが何かを見出せる。
人は「正しさそのもの」よりも、正しさの単純さ明快さに惹きつけられるように感じる。
複雑さや歪みのない正しさを偏りのある人間が行使するのだから、正しさは正しくあればあるほど危うい。
「複雑さに耐えること」と「自分の偏りを知ること」は今の時代には大事なことだなと記事を読んで思った。