増田は実際に会社員で、10年以上通っていたコンビニの店員を見てこう思った、というだけの話かもしれない。
増田で書くことは事実か否かという根本の判断から読み手に任せる、そういう前提がある。(事実かもしれない、創作かもしれない、どちらの可能性もある。そういう前提込みで面白い。)
自分は、この増田を創作として読んだ。
「事実ではない」≒「創作」の場合は、自分がその内容から読み取ったことのみを考えるので、自分のこの増田の読み方について書きたい。
すごく面白かった。
一番引っかかりを感じたのは、タイトルは「コンビニの店員」が語り手*1なのに、内容は「コンビニの店員」を10年間見続けた会社員が語り手になっているところだ。
こういう場合自分は、会社員とコンビニ店員はこの話の文脈上では同一人物、もしくはどちらかがどちらかを同一視していると見る。
コンビニの店員は、自分が勤めるコンビニに10年通う会社員の様子や買うものを見ているうちに、
給料は倍になった。
2人の女と別れた後に付き合った人と結婚した。
子供は、この間生まれたかと思ったらもう幼稚園が終わって小学生になってしまう。
会社員の生活はこう変化したのではないかと推測(もしくは妄想)する。
指輪をつけるようになった、買いに来る時間が早くなった、一時期暗い顔をしていたのに明るくなった、着ているものの趣味が変わった、前は弁当を買っていたのに買わなくなった、そういう情報の集積から細かく妄想していく。
この場合は、その妄想が合っている合っていないは関係がない。(確かめようがない)
「実際の会社員」と「店員の妄想の中の会社員」は、本当の意味ではまったく関係がない。「コンビニの店員」にとっては前者よりも後者のほうがリアルな存在なのだ。
コンビニの店員は、「自分が作り上げた会社員」の視点で自分を見る。
自分ではない視点で自分を見る。
バーコードスキャンから袋詰めしてまでの一連の動作をいかに滑らかに行うかにお前の矜持を、俺は感じていた。
セルフレジ導入以降、どうなんだ?ボーっと突っ立ている間、何考えてるんだ?
自分の視点で見えない自分が見えてきて、10年以上変わらないように見える自分に皮肉も愛情も込められる。
太字の部分が、文章も内容も滅茶苦茶いい。
こういうことは、自分と密着している視点で自分を見るときは語れない。
お互い目の前のことやって生きていく事しかできん。
こういう風に「環境や条件は違えど、『やっていくこと』(本質的な部分)は、俺もお前も同じ」と語ること自体が、二人の同一性を表している。
という風に読んだ。
なぜこういう風に読むかというと、自他の境界を溶解させることで、自我を浮かび上がらせる話がとても好きだからだ。
※自分でもたまに書く。
自分にとっては「自他の境界が揺れ動くこと」自体が恐怖(ホラー)なのだが、こういう風にリリックなものを描く方法として使う人もいるんだなあというのが面白かった。
シンプルで切れ味あるのに読後に尾を引く哀愁があって、ショートショートとして最高だった。
*1:主語が省略されている場合は、語り手が主語だと考えるので