読んでいる間は凄く面白い、というわけでもないのに、時間があるとふと読んでしまう。そんな本のひとつだ。
通して読むのは四回めくらい。読めば読むほど面白い。
てんかんという持病があるために、現代社会の生活になじめないエイドリアン・ボーシャがアフリカに渡って文化や社会に溶け込み、フィールドワークをこなすという話。
てんかんは現代の社会では「病気」だが、アフリカの地では「神に選ばれた素質」である。
フーコーが「狂気の歴史」の中で語っているように、現代社会において病理とされている精神疾患や脳神経疾患は別の文明においては「素質」として扱われることも多い。
社会によって見方が左右される、一種の相対的な病なのだ。
アフリカでは、てんかん症状を超自然の憑依の証拠として見る神話がある。発作を起こした人間は、被害者というより、精霊たちの恵みを受けた者として見なされる。(略)
ここでは大切にされ奨励されるべき人なのである。(略)
そしててんかん持ちは、社会から追放されるどころか、しばしば尊敬され、特殊な役割を与えられる。
なかでも占い師になるのが多い。
(引用元:「アフリカの白い呪術師」ライアル・ワトソン/村田恵子 河出書房出版 P134/太字は引用者)
アフリカの地固有の文化は、「雨が降らなくなったのは、先祖が作った聖なる太鼓をほったらかしているせいだ」など、その事象ひとつを取り上げると、科学的な論理や根拠を重要視する現代社会の目から見ると、非科学的で荒唐無稽な考え方や風習が多い。
しかし何千年にもわたって培われてきた経験則、そこから生まれた体系の中でその事象を見ると、合理的だったり実際的なものだ。
この地で生きた人たちの知恵から生まれた体系を理解しようとせず、自分たちの物の見方で物事を解釈することは、とても傲慢なことなのだ。
例えばアフリカの各地に残された壁画や呪術師たちが独自に使う記号には、それぞれに象徴的な意味合いが含まれている。
それひとつで様々な意味を表現できたり、記号ひとつで複雑なパターンのやり取りをすることが可能だ。
現代社会的に、記号=固有の意味があると考えたり、壁画を自分たちの認識のみ(目に見たそのまま)で解釈しても、その奥底に眠る意味にたどり着くことは出来ない。
アフリカの人たちは、外の世界(主にヨーロッパ)とはまったく違う思考パターンで生きており、そのパターンから生まれたものを別の思考パターンで理解しようとしても、何ひとつ理解することは出来ない。
アフリカをさして「超自然的」という言葉を使うと誤解を招く。
その種の用語は、科学の法則に従う「自然な」宇宙と、そういった法則が介入しない自然世界の上に重ね合わされた心霊領域の間の、二分法を暗示するものだ。
この二元論は我々ヨーロッパ人の識字文化の人工的産物であって、アフリカの信仰には適用できない。
(引用元:「アフリカの白い呪術師」ライアル・ワトソン/村田恵子 河出書房出版 P317/太字は引用者)
ある物事から結論を導き出す思考パターンは、その社会特有の便宜的なものであって絶対的なものではない。
その社会の中で生きる人たちの思考パターンは一定であるほうがコンセンサスを取りやすく便利なので、便宜的にそうなっているだけなのだ。
というより、その思考パターンが重なった人々によって自然に社会が形成されて、その中でその思考パターンが主流になっていき、「仮説的な正しさ」としてさらに強化されていく。
恐らくはこういうことだと思う。
だからその社会(枠組み)の外に出たときに、自分たちが普段用いている思考や認識のパターンは「便宜的な方法論に過ぎない」ということを理解することはとても大事なことだ。
現代物理学によると、宇宙は複数状態のシステムであり、無限のページを持つ、閉ざされた本である。
読者がやってきて本を、たいていは読み古されたページを開くまでは特定の現実は存在しない、というのがその見方である。(略)
本人がいない限り、特定のパターンも現実も存在しないために、観察者を完全に除外することも出来ない。(略)
最新の宇宙論はどれも意識という要素を、現実への能動的な参加因子として上げている。宇宙の仕組に関する新しい説は、不思議なことに、世界中の文盲の民族の古代信仰に似ているのである。ドグマチックではない精神は、呪術に深く関わっていく。
その結果として彼らが用いる現実への解釈は、我々には間違っているように見えるかもしれない。
しかし、最終的には、論理学やコンティンジェント数学を駆使して割り出した現代的な学説よりも、彼らの考えのほうがより意味があることがわかるかもしれない。
(引用元:「アフリカの白い呪術師」ライアル・ワトソン/村田恵子 河出書房出版 P318-P319/太字は引用者)
作者が生まれ育ったヨーロッパの世界では、様々な事象から帰納して「論理」を作り上げてきた。その「論理」という体系が思考パターンとしては「正しい」。そういう世界で生きている。
しかし同じ事象を見て、そこからまったく違う帰納のしかたで体系を築き、その体系から導きだされた思考パターンが間違っているとは限らない。
その体系の中では、全て筋道が通っているからだ。
まったく違う帰納の仕方で生まれた経験知を、自分の思考パターンに当てはめて優劣を考えてしまう。
そういうことは誰でもやりがちである。*1
かつてヨーロッパからアフリカに訪れた人間たちは、そういう誤りを犯し、その地の固有の文化や風習を否定して破壊してしまった。
そういう反省を踏まえて、アフリカの地では「呪術の才能」として尊ばれるてんかんを持つボーシャは、その地の風習や文化を学んで、「ラディノガ(蛇の父)」として生きていく。
「その社会(枠組み)の外に出たときに、自分たちが普段用いている思考や認識のパターンは『便宜的な方法論に過ぎない』ということを理解すること」
とはどういうことなのか。
言葉で説明するよりも、ボーシャが実際にその土地の文化を学んで溶け込んでいく姿を見ると、「ああこういうことか」とわかる。
正に机上の学びより実地の学び、という感覚が味わえる。
巫女(シャーマン)はなぜ女性が多いのか、というのは諸説あるが、
構造が厳しくて堅い社会ほど憑依現象が多く、しかもそういった社会では、とくに女性のように文化的に抑圧されている者が憑依されやすいということを以前に読んだことがある。
トランス状態になると、批判される心配もなく、個性を完全に発揮し、要求を表現することが出来る。(略)
共同体のもっとも個性の強いものが占い師になるのは決して不思議ではない。
(引用元:「アフリカの白い呪術師」ライアル・ワトソン/村田恵子 河出書房出版 P190/太字は引用者)
本書ではこう書かれている。
「カラマーゾフの兄弟」の中では、ヒステリー症状が女性に多いのは、多産と産後の過酷な生活環境のせいだと書かれていたけれど、「文化的抑圧」「月経や妊娠出産に伴う体力や血の欠乏」によって、そういう症状が女性に特に現れやすいという説は(詳細の違いはあれど)よく見る。
「トランス状態になると、批判される心配もなく、個性を完全に発揮し、要求を表現することが出来る」
「憑依」「トランス状態」というと現代の自分たちの生活には関係ないように思うけれど、例えば自分はこの文章で「ネットで荒ぶること」が思い浮かんだ。
そういう言動を取る人(現代においては性別は関係なく)は、身体的な負担や社会での抑圧が相当強く、一種のトランス状態に陥っているのかもしれない、何かに憑依されたようにならないと言いたいことが言えない環境なのかもしれない、ということも考えられる。(もちろん、そうでない人もいるだろうが)
つまり外形や認識の仕方は変わっても、起こっている事象自体は、今も昔もネットもアフリカもそれほど変わらないのではないか。
アフリカで語られる物事や知恵は、自分たちが現代社会で経験していることを、まったく違う認識パターンで語られているものなのかもしれない。
そういう気づきを与えてくれるのが、この本の最大の魅力だ。
この本は、村上春樹がオウムの(元)信者の人たちをインタビューした「約束された場所で」の中で出てきて知った。
「自分たち現代社会の物事に対する認識パターンは間違っている」と思うのもまた危うく、「どちらが正しいか」の真偽是非を考えるのではなく、それぞれただ違うものが存在すると認めることが大事だと思う。
目の前にある事象に対してならばともかく、その底にある思考や認識パターンに「真偽是非を求める」のはとても危うい。
その罠にはまるとオウム真理教のような極端な方向性に行ってしまうのでは、と思うのだ。
*1:レヴィ・ストロースからサルトルへの批判もこんな感じだったはず。(確か)