うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【「鬼滅の刃」キャラ語り】伊黒小芭内というキャラの面白さを、188話を基にしてじっくり語りたい。

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*原作と公式ファンブック1・2の情報のみを基にして書いています。

*独自解釈が爆発しているので、解釈違いがOKの人だけ読んでください。

 

先日、「グノーシス主義」の本を読んで22巻188話の伊黒の独白を思い出した。

自分が「鬼滅の刃」を好きな理由の六割くらいが、伊黒小芭内×甘露寺蜜璃のカップリング、俗に言うおばみつだ。

その中で188話は、この二人の関係性のルールが書かれている正典だと思っている。

 

伊黒と蜜璃は、違う世界にいる。

今まで何回か指摘したが、188話の伊黒の独白は色々と矛盾がある。

例えば「まず一度死んでから、汚い血が流れる肉体ごと取り替えなければ、君の傍らにいることすら憚られる」と言っているけれど、本編内で伊黒は蜜璃と文通したり、一緒に食事に行ったり、靴下を贈ったりと、まったく「傍らにいることを憚って」いない。

 

実はこれは矛盾しておらず、188話で伊黒は「主観的な認識」を述べているので、第三者と共有できる「客観的な認識」(作内描写)とは異なる。

188話は、伊黒がどういう風に世界を認識しているか、ということが延々と語られている。これはいわゆる「常識」と呼ばれる「客観的認識」とはまったく異なる。

188話で語られる伊黒の「主観的認識」に基づいて、おばみつ(伊黒と蜜璃の関係性のこと、以下おばみつで統一)は動いていると考えている。

自分がおばみつに見出している最大の面白さはここだ。

 

作内描写=客観的認識を一切無視して伊黒の認識のみに従うと、伊黒は「蜜璃の傍らにいることを憚っている」。

伊黒は蜜璃と同じ世界にはいない。だから「好きだ」と伝えられないのだ。

伊黒が望んでいることは「無惨を倒すことで自分の肉体を浄化して生まれ変わり、蜜璃に会いに行き、好きだと伝えること」だ。

しかし、ここでも引っかかりがある。

それでは、蜜璃も生まれ変わるために死ななければならないのではないか?

最終的には二人は一緒に死ぬので何となく整合性がとれてしまいスルーしてしまいそうになるが、これはおかしい。

何故なら、伊黒は蜜璃を助けようとして188話では戦線を離脱させているからだ。

その直後に「(蜜璃にも、死んで生まれ変わってもらって)好きだと伝える」と言うのは、辻褄が合わない。

伊黒の認識では、「(蜜璃には生まれ変わってもらわなくても)自分が生まれ変わることで蜜璃に会いに行ける」のだ。

この二つの言動は「伊黒と蜜璃が同じ世界にいる」(客観的認識)を前提とすると辻褄が合わないのだが、「伊黒と蜜璃は違う世界にいる」ということを前提とすると整合性が取れる。

伊黒は蜜璃の傍らにはいないし、自分の肉体を浄化して蜜璃のいる世界に行くことが望みなのだ。

ということは、伊黒の主観的な認識においては「伊黒と蜜璃は違う世界にいる」。

 

伊黒は「生まれ変わり」という語を使っているので(そして最終的に生まれ変わって結ばれたので)輪廻転生の話のように聞こえるが、188話で語られた伊黒の世界観は「肉体という牢獄を脱出して、自分が本来いるべき場所に戻る」という「グノーシス主義」のほうが考え方として近い。

 

もう一度話を整理すると、伊黒の認識は

蜜璃は、自分が本来いるべき「美しい世界」である。

自分は「汚れた肉体」という牢獄に閉じ込められているので、そこに行くことができない。

なので無惨を倒すことでその肉体を浄化し脱出して、本来いるべき「美しい世界」に帰る。

こうなのではないか、というのが自分の考えだ。

 

伊黒は恋をしたからこそ死にたくなった。

伊黒は「まず一度死んでから、汚い血が流れる肉体ごと取り替えなければ君の傍らにいることすら憚られる」「肉体は、蜜璃の下へ行くことを阻む自分を縛り付ける浄化すべき物」と語っているが、それ以外にも「伊黒家(の親族)」「座敷牢」と三重の牢獄に囚われている。

「伊黒家」「座敷牢」と二重の牢獄を脱出したときは、「でも俺は逃げた。生きたかった」と語っていた伊黒の心境が、なぜ「無惨を倒して死にたい」に変化したのか。

それは死んで肉体を浄化しなければ、蜜璃に好きだと伝えられないためだ。

蜜璃に出会ったために、「生きたかった」「死にたい」に変化してしまったのだ。

恋愛をすれば、その相手と一緒にいたいと願うものなので、「死にたい」が「生きたい」に変化するならわかる。

だが、伊黒の場合は逆だ。

恋をしたからこそ死にたいのだ。

これも「蜜璃が、伊黒が死ななければ(肉体を抜け出さなければ)行けない別世界にいる」証左だと思う。

 

伊黒にとって蜜璃との出会いは「啓示」だった。

もうひとつ面白いなと思ったのは、親族を見殺しにしてでも「生きたかった」と願っていた伊黒の心を「死にたい」に変えるほどのインパクトを、蜜璃との出会いが与えたということだ。

伊黒は蜜璃と出会うまで「女性が苦手だった」のだが、蜜璃に出会った瞬間に恋に落ちている。

これも「女性が苦手な割にはいやにあっさり一目惚れするな」と(客観的な認識では)思う。

だが伊黒の188話の認識が信仰を思わせるところから見ると、伊黒にとって蜜璃との出会いは「啓示」だったのではないか、と自分は思っている。

自分が本来いるべき美しい世界を認識し、そのことによって「本来、自分があるべき姿」を「悟った」のではないか。

「座敷牢を出て、外の世界に出るために生きたかった」という心境が、「死にたい」に変化したのはこのためではないかと思う。

 

188話の伊黒の独白だけをじっくり考えていくと、伊黒の蜜璃に対する思いは恋愛よりは信仰に近い。

自分の考えでは強烈な信仰そのものだ。

先日読んだ本の中で、「グノーシス主義者」たちは「グノーシス主義」を異端視する論者から、「さっさと自殺してこの世界から去ってしまえ、とっとと『故郷』に帰れ」と挑発されていたと書かれていたが、伊黒はまさにこの挑発を実践したのだ。

 

これだけでも面白いのだが、さらに面白いのは、そうは言っても伊黒の蜜璃に対する思いは恋愛でもあるところだ。

信仰と恋愛は、似て非なるものだ。というより対立する要素のほうが多い。

信仰は教えを拡大することを良しとすることが多いのに対し、恋愛は一対一の関係に収れんすることを望む。信仰は禁忌を守ることによって成り立つのに対し、恋愛は「ロミオとジュリエット」の例を引くまでもなく、禁忌を破ることによって気持ちが高まる。

 

伊黒が抱える矛盾を包摂できる、蜜璃の偉大なる「普通」

伊黒というキャラは、これ以外にも多くの矛盾を抱え、狭間に立たされている。

描写を見るに蛇鬼を祖先に持つため、人間と鬼の間に立ち、それでいながら人間である親族からも蛇鬼からも虐げられている。女性ばかりの家に育ったただ一人の男として女児の恰好で育ち、男と女の間にも立つ。

 

伊黒が蜜璃を何故選んだのか(なぜ蜜璃との出会いに救われ啓示を受けたのか)というと、これだけの矛盾を抱えた伊黒の世界観を、蜜璃は「普通」によって包括できるのではないか、というのが自分の考えだ。

 

前に書いた通り「まったく飯を食わない人の前で、大量の飯を食える」という一点だけでも、蜜璃の「普通」の凄さがわかる。

自分というものを素直に受け入れている健全で真っ当な人で、自分は甘露寺さんのこういうところが大好きだ。

伊黒は「蜜璃という美しい普通の世界」でのみ生きられる繊細な生物みたいなものだ。

自分がおばみつが好きな点のひとつは、伊黒本人が誰よりもそれをわかっているところだ。だから本編(客観的描写)では、伊黒が蜜璃を助け救っている描写ばかりなのに(蜜璃の認識も「自分は余り役に立たなかった」であるにも関わらず)伊黒の認識は「自分のほうが蜜璃に救われている」なのだ。

 

信仰に生きているという点では、(自分の中では)伊黒と黒死牟は似ている。

ただ信仰の対象が応えてくれるかどうかに対する興味の有無で分かれている。

黒死牟のように応えてくれるかどうかに興味があると「剣の道=縁壱」が応えてくれないことに苦しみ、延々と「教えてくれ、縁壱」と言い続けることになるが、伊黒は「自分が蜜璃に『好きだ』と伝えること」が最大の信仰の発露であり、極端なことを言えば蜜璃が応えてくれるかどうかにはそこまで興味がないのではと思っている。(応えてくれれば嬉しいだろうが)

自己完結しているので、その部分では葛藤がなく目的(信仰)に向かって一直線なところが、迷走した挙句、鬼になった黒死牟との大きな違いかなと思う。

両方とも好きだけど。

 

188話だけでもこれだけ語れるおばみつの奥深さは無限だ。

鬼滅の刃 19 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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自分がこの記事で書いたことが全て含まれている聖画。尊い。

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(引用元:「鬼滅の刃」23巻 吾峠呼世晴 集英社)

 

 

続き。

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考えが変わった部分もあるけれど、一応これまで考えたおばみつ記事。

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