うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

ブログという世界の面白さは、ひとつの記事を読んだだけではわからない。

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以前、noteで「大勢の人をターゲットにするのではなく、自分と趣味が同じ人が空いた時間に覗きに来てくれるギャラリーを作る」という考え方はいいなと書いた。

SNSが大規模なショッピングモールへの出店なら個人サイトは自宅を改装したカフェのようなもので、一番の特長は「そのサイト全体を自分の世界観で統一出来ること」だ。

 

yaswatercolor.hatenablog.com

「次に読者になりたいブログ」ですすめられてたまたま読んだブログが、自分がイメージする「個人経営のカフェのようなブログ」だった。

いくつか記事を読んだけど、どれも読んだ瞬間に「凄い!面白い!」「こんな考えがあるとは」と思うものではなかった。(申し訳ないが)

出来る限り物事を正確に把握したうえで、その観察に対して自分の感性がどう動くかを客観的に述べた文章だと感じた。

ネットで話題になる「面白い仮説をズバッと言う→それらしき根拠が述べられている」という物の見方とはほぼ真反対の構成なので、多くの人の目に留まるのは難しいかもしれない。

でも記事に上げられている水彩画や写真を見たり、目の前にあるものをきちんと見ようとする視点で書かれたものを読み続けていると、その視点で構築された世界に自分がいる感覚になる。物の見方、考え方、感性の扱い方がサイト内ですべて統一されているからだと思う。

カテゴリ欄はブログの方向性が(何を重要視するか、得た情報をどう仕分けているか、それをどういう風に人に伝えるかもしくは伝えないか)最も反映される部分だ。

サイトがその人が構築している世界なら、カテゴリは世界の案内図だ。

上記のブログのカテゴリ欄は、この世界(サイト)全体がどうなっているか、その世界の中で読者である自分がどの場所にいるかがひと目でわかる。*1

 

先日ふと、「読み手としての自分」が読み続けているブログはどんなブログだろう考えてみた。

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自分がブログに求めているのは「その瞬間の面白さ」ではなく、読み続けているうちに見えてくる「書き手の世界観」ではないかと思った。

自分が読み続けるブログは良くも悪くも自分とは違う(自分にはない)感性だと思うものが多い。

「書き手の世界観」はひとつの記事を読んでもわからない。何度か会って話さないと、その人の物の見方、考え方がわからないのと同じだ。

 

「世の中に必要とされることを、多数に合わせてやること」は、むしろ社会が進んでいくためには必要なことだと思う。

ただ自分は、個人の思考の積み重ねであるブログにそれを求めていない。

「自分が興味があるこの問題、このこと、この人、この考え、この風景を、自分が持っていない物差しで測るとどういう結果が出るのだろう」ということを知りたい。物差しの形状はその人の感性や思考や感情の積み重ねを見ることで、初めて可視化できる。

 

上記のブログは、残念ながら止められてしまうそうだ。

近所にいい雰囲気のカフェを見つけた、と思ったら今日で閉店だと知らされたみたいで残念だ。でも内容を読むと「なぜそういう決断に至ったか」について過不足の無い説明だけが書かれていて、読んでいるだけで背筋が自然と伸びる。

長い間、お疲れさまでした。

 

自分も4月でブログを始めて八年になる。体力と気力があって、何より自分が書きたいうちは書き続けようと思う。

紹介されていた本で「邂逅の森」と↑が面白そうだったので、今度読んでみたい。

*1:「闇」とか「にちゃあ」とか訳のわからないカテゴリがずらずら並んでいる世界もそれはそれで好き。その人の内部のブラックホールやブラックボックスみたいなカテゴリがあるのもいい。