うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「気持ち悪い」を巡る話は、理解を(一方的に)求めないものがいい。

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よく似た話(自分の中で)を二作続けて読んだ。

 

少女巡礼(1) (サイコミ)

少女巡礼(1) (サイコミ)

  • 作者:にしお 栞
  • 発売日: 2019/01/30
  • メディア: コミック
 

 

二作とも面白かったので、「面白い漫画が読みたい」と思っている人には勧めたい。自分もこれから書く「どうも納得がいかない部分」以外は、両方とも楽しく読んだ。

特に「あげくの果てのカノン」は良かったので、興味を持った人は記事を読まずに本編を読んでもらったほうがいいと思う。

ここから先は自分の(それこそ)「キモイ感性」の部分で、モヤモヤしていることについて書きたい。

 

 

 

自分はこの二作を「気持ち悪い」(キモイ)を巡る話として読んだ。

「気持ち悪い(キモイ)」とは何なのか、ということは「言の葉の庭」の感想で書いた。

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「気持ち悪い(キモイ)」は、「理解できない、受け入れがたい、だから排斥する」と表明する言葉だ、ということを話している。

 

「言の葉の庭」は、美しく完璧に閉じられた世界だ。

完璧に閉じられた世界は外部から見ると疎外感があるうえに、その中で展開される話も(作内で相沢先輩が指摘し嗤った通り)「キモイ」。

「気持ち悪い」は相対的なものなので、簡単に転換する。「気持ち悪い(キモイ)」という言葉で排斥したものから、その言葉を発した瞬間、自分が排斥される。

「言の葉の庭」に代表される新海作品のすごい点は、みる人間を作品の美しさという力で「排斥される側」にするところだ。

「キモイ」と思った瞬間に、この美しい世界に存在することが許されないくらい「キモイ」のは自分のほうではないか、という感覚を持たせるところが怖い。

 

「気持ち悪い」は、「理解し合えない、理解する試みも放棄する、わからない恐怖から近寄れば殺し合いになる」という感覚だ。

それをよく表しているのがカフカの「変身」だ。

昨日までの家族でさえ、「気持ち悪い理解できないもの」になった瞬間に、ためらいもなく殺すことを(殺されることを)決意する。

 

自分が新海作品に最も惹かれる点は、他者と殺し合うこと*1に何のためらいもないところだ。

新海作品には基本的に「他者」が出てこない。

毎度似たような話で、「自分の」憧れである偶像のような女の子と、たまに「自分の」葛藤である写し絵のような友人と、「自分を」拒絶し(それこそキモイと言われ)排斥しようとする社会の中で、「自分が」どうするかを延々と描いている。

他者(という名の変化)を徹底的に拒絶している。

「天気の子」は妻や娘ですら、「キモイ自分」であるために犠牲にしている。*2

 

「変身」に例えると、グレゴール・ザムザと家族(社会)が殺し合う話を、手を変え品を変え延々と続けている。(グレゴール・ザムザが大人しく殺されるバージョンが「秒速」)

そう考えると新海作品の異常性(ものすごい誉め言葉)がよくわかる。

その異常性に満ちた殺し合いのストーリーで「今度はどんなルートなんだろう?」という点が、自分は新海作品の一番の見どころではないかと思っている。

真エンディングが存在しなさそうな感じ、無限に増殖し続ける「たどり着けなさ」も、新海作品の好きなところだ。

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普通はここまではできず、どこかで「他者」と和解したくなる。

「特別なまま誰かに理解されたい」

は普通の発想なので、「気持ち悪い」を巡る話は「理解者」が出てきてしまうととたんに「普通の話」になってしまう。

「気持ち悪いもの」で居続けるためには、理解されたいと望んではならない。「理解できないから気持ち悪い」からだ。

「気持ち悪い自分」は、相手を「気持ち悪いもの」に転換し排斥する側になることでのみ存在することができる。自分が虫でなくなるためには、相手に「自分のほうが虫だった」と思わせるしかない。

 

「少女巡礼」と「あげくの果てのカノン」はそういう意味では、自分にとっては世界との和解を模索する「普通の話」に見える。

「自分の世界に閉じこもりながら、世界と和解したいと呟く」

両作品ともそういう誰もが持つ弱さと向き合おうと頑張っている部分もあったけれど(「あげくの果てのカノン」は特に)それでも「気持ち悪い自分」を保持したいという思いのほうが勝っているように見えた。

理解して欲しいなら(もしくは理解しない世界を否定的に見るなら)「自分は他人を理解しようとしたことはあるのか」という問いをセットで自分に突きつけ続ける話でないと、「主人公を理解(もしくは否定)するためだけに存在する世界」のように見えることが鼻についてしまう。

 

「少女巡礼」「あげくの果てのカノン」と「僕と君の大切な話」は、三作ともストーカーするほど偶像視している存在との関係性の話という点では似ている。

けれども前二作と「僕と君の大切な話」では大きく違う。

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「僕と君の大切な話」の好きな点は、「自分とは違う他人を理解しようとする試み」が丁寧に描かれているところだ。

①前二作が偶然、もしくは偶像のほうから近寄ってくるのに対して、「僕と君の大切な話」は相沢さんのほうから関係性を構築(維持)しようとしている。

②だから偶像と実物のギャップがない。(相手を「その人そのまま」として見ている)

 

作内の描写で具体的に指摘すると、偶像側(「少女巡礼」ではマオ、「あげくの果てのカノン」では境、「僕と君の大切な話」では東)が「本当の自分を知ったらがっかりするのではないか」「本当の自分を見ていない」という感覚を持つか持たないかだ。

「本当の自分」という観念がどこから、なぜ出てくるのか。*3

「僕と君の大切な話」では偶像側である東くんは、「相沢さんは、本当の自分を見ていないのでは」という疑問を持たない。

東くんがなぜ「本当の自分」という観念を持たないかと言うと、「『自分』を見て、向き合っているという実感」を相沢さんから与えられているからだ。

この「実感」こそが、他人とつながるために重要なものだと思う。

相手のことが「好き」「大切」と言いながら、その実感を相手に与えようと試みることが難しいのは、その試みには必ず「自分の世界を壊す」可能性が含まれるからだ。

相沢さんは自分の世界観が壊れるというリスクを引き受けて、現実の東くんを見て、現実の東くんとつながり関係を作っている。

このリスクを引き受ける表明こそが「世界との和解」だ。

これまでの自分の世界を壊すリスクを背負うことと引き換えに、相手に「本当の自分を見ている」という実感を与えようと試みることが、その相手が「好き」であり「大切」ということでは、と思う。

 

その自分の世界が壊れて、しかも新しい世界がどれほど自分にとって受け入れがたい痛みを伴うものであってもそれを受け入れる。

「被害者だと思っていた自分が、実は悪だった」そういう残酷な世界でいかに生きるかを描いた「進撃の巨人」も、「気持ち悪い」を巡る物語では、唯一無二のものだ。

 

「どちらが気持ち悪いか、世界と徹底的に殺し合うのか」*4

「わかりあえないかもしれない世界に、怖くても自分から手を伸ばすのか」

「都合の良い存在でいて欲しいと、素直に願うのか」

 

この辺りのスタンスをはっきりさせる負担を引き受けないと「世界からはぐれる気持ち悪いを巡る話」としては、物足りなく感じてしまう。

変身 (角川文庫)

変身 (角川文庫)

 

 

 

*1:「作品の発想」が

*2:帆高と圭介は物語のある文脈上では同一人物であり、帆高の願いを叶えるために圭介は萌花と会えなくなってもいい、という選択をしたから……ということを過去記事で書いたので、興味があったら読んでもらえると嬉しい。

*3:「あげくの果てのカノン」は「本当の自分」とは何なのかというテーマも別にあるが、ここでは(実は)余り関係がないので割愛

*4:「気持ち悪い」を巡る言動が現実では禁じられているのは(差別やいじめなど)、誰しもそういう意識に陥りやすいし、簡単に過激化するからだ。「禁忌だからこれを描くだけで、特別な話になる」のではなく、「ありがちな話で簡単に過激なほうにいってしまことがわかっているから、現実では禁忌になっている」のに、前者の意識で作られている話(たまに見る)を見るとモヤモヤしてしまう。