うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

竹田青嗣「自分を知るための哲学入門」感想 哲学は身近で実践的なものであることを教えてくれる。

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なぜこの本を読みなおそうかと思ったかというと、笠井潔の「哲学者の密室」のことを思い出し、もう一度読みたいと思ったからだ。

 

最初読んだときはハイデガーのことなど何も知らず読んだので、イマイチ話の概要がつかめなかった。

せっかくなのでハイデガーの考えを分かったうえで読みたいと思い、一回読んで途中で挫折した「ハイデガー入門」を読み始めた。

 

しかし読んでいくと、元々はフッサールの弟子だったハイデガーは、存在分析の方法として現象学を使っているなど他の思想家から多大な影響を受けている。

哲学の全体的な流れをつかんでいないと、なぜハイデガーがこんなことを考えたのか、何を前提として自分の考えを組み立てているのかが分からなそうだと思った。

 

村上春樹の「ノルウェイの森」の主人公のセリフに「『資本論』を正確に読むには、そうするための思考システムの習得が必要なんだよ」というものがある。

哲学や思想というのは、それまでの既存の思考ではない(つまり普通に生きている自分のような人間にはない)思考方法で物事を見たり、考えを組み立てていくものだ。その思考方法自体が分からないと読めないのではないか。

しかもその思考が、それまで出てきていた様々な考え方の体系化や特定の思想に対するカウンター、もしくはその方法論を取り入れて書かれていたりするので、単独の著作を読んでも理解できないどころか、その人一人の考え方を把握していても行き詰まるのではないか、と思う。

世の中にはもしかしたら、マルクスの各書を読んで、マルクスの思考体系全体を推察できる人もいるのかもしれない。

でも少なくとも自分は、思考のフレームワークやその思想がどういう状況下、どういう流れで出てきたのか、ということをまずは把握して、その大きな枠組みを理解したうえで各論に入るというやり方のほうが、「理解した」と実感できるところまで到達する可能性がありそうだ。

 

なので①その思想家の思考方法と考えの概要を、こちらにもわかる言葉で大まかに説明してくれて、②ざっくりとで構わないので、これまでの思想の歴史の流れとポイントを教えてくれる本が欲しかった。

「自分を知るための哲学入門」は、前に一度読んでいて、この期待に応えてくれる本だったので読み返してみた。

 

自分が本書で最も気に入った点は「哲学や思想は、決して難しい理屈や知識を競ったりする知的ゲームのようなものではなく、実際に生きている私たちの人生に役立つ実践的な学問だ」と言い切っているところだ。

一見、実際の生活から離れたような難しい言葉や難解な考えを取り扱っているので、普通の人ではとっつきにくいし、興味はあっても近寄る気になれず、自分には関係ないものと思いがちだがそんなことはない、ということを説いている。

 

哲学者とその考え方(哲学)の整理、分類などは、もともとそれほど大した意味のないことなのだ。哲学は科学と違って、孤立した知識としては何の役にも立たないからである。(略)

哲学とは本来、ある人間の自己了解として生きられなければ全く無意味なものである。(略)

哲学が、自分自身に対する自分の了解の仕方を大いに助け、それは生を豊かにするようなものだ、ということがよく受け取れた気がする。

 (引用元:「自分を知るための哲学入門」竹田青嗣 株式会社筑摩書房 P12-13)

竹田青嗣は、若いころ神経症を患い、自分の人生に対して袋小路に閉じ込められたような行き詰りを感じていた。

そのときに現代社会の既存の価値観とはまったく違う物の見方を教えてくれる哲学に助けられた、という体験談をひいて、哲学は生きるために役立つ実践的な方法論だということを語っている。(この観点から現代思想には、若干批判的な姿勢をとっている。)

 

文学批評の本などを読むと、批評の考え方や方法に哲学が密接にかかわっていることが分かる。そのことも自分が哲学に興味を持った理由のひとつだ。

「現代批評理論のすべて」という本に「スピノザと文学理論」という文章がある。

(スピノザの)『神学政治論』の一節を読んでみたい。

「聖書を哲学に適合させようとする者は、預言者たちに、彼らが夢にも思わなかったような様々な考えを押し付けざるえなくなり、彼らのことばに非常に強引な解釈を与えてしまう。その一方で、理性や哲学を神学に従属せしめようと欲する者は、古代ユダヤ民衆の諸先入見を神のことばと受け取らざるえなくなり、そうした先入見により自らの精神を満たし、混乱させずにはいられない。

要するに一方は理性の助けのせいで狂気にいたり、他方は理性の助けがないせいで狂気に至ってしまうのである」

この文章の「聖書」を「文学」に、「哲学」「理性」を「理論」に置き換えてみたらどうだろうか。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編/三原芳秋 新書館 P175) 

 

どうだろうか、と言われると自分は軽くへこんだ。

読み手が解釈したらテキストがおかしくなり、解釈せず従属したら読み手がおかしくなる、と言われるとどうすればいいのだろう。丁度いい落としどころを自分で見つけなさい、ということか。

 

「現代批評のすべて」は様々な批評の方法についての論文の他に、近現代の思想家や用語の説明も載っているので、ガイドブックとしてもおススメだ。

 

ここから先は自分が「自分を知るための哲学入門」で学んだことのメモ書きになる。

かなりざっくりとしたもののうえに自分の物の見方が入っているので、もし読んでみたいと思ったかたがいたら、まずは自分で読んだほうが良いかもしれない。

 

ギリシャ哲学

AC600 「ギリシャ哲学で最初に歩き出した三人(ミレトス三学派) 

タレス 「最初の哲学者」「万物の原理は水である」

アナクシマンドロス 「万物の原理は無限なるものである」

アナクシメネス 「万物の原理は空気(気息)である」

*哲学は「世界の原理は何であるか」を説明することから始まった。

 

ピュタゴラス 「万物の原理は数である」

ヘラクレイトス 「万物流転を説く」

パルメニデス ゼノンの師。「『ある』とはどういうことなのか」

 

「世界の原理」を構造と動因(動力)に分けて、考え出した。

エンペドクレス 「四元素」+「愛」「争い」

アナクサゴラス 世界の変化原因として「ヌース(精神)」「最小なものも最大のものもない」

 

デモクリトス 「原子論の主張」「物質の最小単位はアトムである」

 

ソクラテス 「秩序の根本原因は、自然や物にあるのではなく、人間の『心』にある」

「汝自身を知れ」

プラトン 実念論の祖 「イデアの実在を説く」

アリストテレス 唯名論の源流。アリストテレスの四因。

 

ソクラテスとプラトンは元々のギリシャ哲学の「世界は何でできているか問題」は、「世界それ自体に秩序があると考えることからくる、見せかけの問題である」と主張した。本来、考えるべきは「人間の心=精神の秩序の問題」である。

近代哲学はこの流れを汲んで「主観と客観の一致」が主要な問題になる。

 

近代哲学

デカルト(1589~1650) 

中世神学から哲学を引き離した、近代哲学の祖。

①「我思う故に我あり」「考える我(コギト)」

②神の合理的な存在証明

③精神と物質の二元論

 

スピノザ(1632~1677)

神による一元論。

「世界の唯一の実体は神であり、人間も含めてその他いっさいのものは神の変容体である。世界は神の必然に従っており、人間はその必然を認識しておらず、自分たちが認識しているものの中で自由を持つにすぎない」

*「ロストキャンバス」は、スピノザ的世界観なんだな、などと考えると面白い。(星宿がすべてを決める)ファンタジー小説に多い世界観だな、と思う。

 

カント(1724~1803)

一元論では世界の全てを言いつくすことは不可能であることを証明し、これまでの哲学の「全体志向」を批判した。

現象世界と本質世界を分け、「理性では答えられても現象では納得できない」または両方で証明可能であるから「答えはない」ことを証明した。

「世界が何であるか」よりも「人間はどういう世界を目指すか」が重要であると主張。

*「カントは哲学の理論的側面については飛び抜けて優れた人だったが、こと人間的側面については、学級委員をずっと続けていた人みたいに人生の機微にうとい所がある」と書かれているのだけど、どういう人か何となく想像ができて親しみがわきやすい。

 

ヘーゲル(1770 ~1831)

近代哲学のチャンピオン。

「世界と私」の認識関係から、「社会の動き」や「歴史の運動」も哲学的認識の課題に繰り込んだ。

「弁証法」(ヘーゲルの一元論の論理)

ヘーゲル以後の哲学者は、一元論的思考に多かれ少なかれ対立している。

 

キルケゴール(1813~1855)

「世界とは何か」という客観的な問いは切断し、「自己」と「神」との絶対的な関係が中心。

「人間は絶望(死)と可能性(信仰)の間を行ったり来たりしている」という人間の「実存」に関する考察を行う。

「騙取」世間の俗事に気をまぎらわせ、自分の固有性や絶望を忘れようとする人間の在り様。ハイデガーの「頽落」に近い。

 

ニーチェ(1844~1900)

「神は死んだ」=絶対的な(神の)認識、客観的な(神の認識による)世界などというものはそもそも存在しない。「完全な認識」は存在しないので、「客観」という概念自体が背理。

存在するのは「力への意志」による、混沌への解釈のみである。

*ニーチェ以降、哲学は「世界認識の系譜」と「自己認識の系譜」の違いが明確になる。

 

フッサール(1859~1938)

カントの理性批判を正当に受け継ぐ。現象学を提唱。

「世界はあるがままの一であり、この一を言い当てることが真理」ではない。

また逆に「確実な認識などはどこにもない」という独我論の主張を、独我論を徹底的に突き詰めるという方法で打ち破った。

 

ハイデガー(1889~1976)

「開示論」による物事の認識。存在問題の証明。

 

ポストモダン思想

マルクス主義の衰退と共に、1970年代後半から現代思想ブームが起こる。構造主義などによるヘーゲル=マルクス思想への批判が活発になる。

ポストモダン思想の源流

①ニーチェの反形而上学思想

②ソシュールの形式言語学

③フロイトの無意識の思想(反意識主義)

 

構造主義

ヘーゲル=マルクス主義における歴史決定論的色彩を、構造論、無意識主義に置き換えて相対化する思想。

ラカン、バルト、フーコー、レヴィ=ストロースが四天王。

 

ポスト構造主義

反形而上学、反認識論、反歴史主義的観点をとる。

「歴史や社会についての、完全な認識というものはありえない」

デリダ(1930年~2004年)

「脱構築」=認識によって世界を構築すること、それ自体に対する批判が核。

 

現代思想

①認識の新しい試みと②認識の不可能性の論理を同時に含んでいるため、混乱している。

ボードリヤール・ドゥルーズ・ガダリなどによる現代社会分析。

「システム=社会」自体が、オートマティックな運動の主体であり、あらかじめこの構造の中に組み入れられている人間は、これに関与することも認識することもできない。(一元論)

*スピノザの論における「神」が、「システム=社会」に入れ替わったようなイメージを持つ。

認識の不可能と主体の不可能という、二つの不可能をはらんでしまっているため、ニヒリズムに陥りがち。

 

感想

「入門」と銘を打った本書を読んだだけでも「完全な真理や正しさなど存在せず、真理や正しさは人と人との関係性の中で常に試され、妥当を生み出し続けるもの」というフッサールの考え方や、ニーチェの「この世に完全なる神の認識はなく、人間の解釈によるフィクションがあるにすぎない。だからこそ生きている人間にとって有用なフィクションを創出することが大事」などの考え方は、今の時代にこそ響くことのように思う。

ネットがさかんな現代は、「論理的な正しさ」が力を持ちがちだ。

でも前世紀に生きていたソクラテスや18世紀に生きていたカントが既に、「秩序は、生きた人間の心にこそある」「現象の世界と理性の世界は違う」と言っている。

自分たちよりもずっと前の時代を生きた人たちが「生きている人間の生活が豊かで幸福になるものこそ、真理なんだ」「正しさは人と人の認識が妥当だ、と重なったところにある」「世界が何であるかよりも、どんな世界を目指したいかが重要だ」と言っている、ということに割と感動した。

本当にその通りだな、と机上の正しさをつい追求しがちな我が身を振り返って思う。

今は情報も多いし、多様性も叫ばれている。

様々な考えの様々な立場の人たちがいて、全員が納得するのは難しいのかもしれないが、「絶対的な正しさなどなく、真理は人間同士の相互理解と関係性の中にこそある」ということは覚えておきたい。

 

平易な言葉で説明されると、哲学は難しすぎて自分に関係のないことではなく、身近なことで当てはまることがたくさんある。

この本の説明を聞いていると、たぶん哲学者たちも、自分や自分の周りに生きている人たちがもう少し生きやすくなることを目指して色々なことを考えていたのでは、とも思うのだ。