「だが、情熱はある」が終わってしまった。
今回、若林が夜道で「自分の境遇が自分を取り巻く世界全体のせいのように思えて、何でもいいから怒りをぶつけたくて、もう少し長く目を合わせていたら、確実に殴りかかってきそうな男」と行き会うシーンがある。
男と出会った時、若林は男が発する凶悪なオーラにビビり、なるべく早くその場から離れようとする。
だがそのあと「自分はその男の気持ちが凄く分かる。君と僕は話が合うはずだ。だが、君はそう思ってくれないだろう」と述懐する。
このモノローグが心に沁みた。
若林は、その男と自分を分けているものは「社会的な立場や評価」だけで、それを取っ払えば、その男と自分は他の多くの人たちよりも近い存在だと感じている。
若林もかつて「みんな死んじゃえ」という顔をしていた。
男が体現しているものが若林が感じ続けてきた、今でも感じ続けている「たりてなさ」なのだ。
社会的な立場や評価を得ていない時点では「それこそが自分が感じる足りてなさを補うものだ」「それさえ手に入れれば自分は何者かになれるはずだ」と思っている。
だが、男が社会的な立場や評価を得ても今感じている「たりてなさ」がなくなることはない。
若林と同じように。
若林には男を見てそういう確信がわいたのだと思う。
「話が合うはず」と感じるとはそういうことだからだ。
どんなに自分を取り巻く環境が変わっても「たりてなさ」を感じる。
環境が変わっても「たりてなさ」がなくならない。
その時に「たりてなさ」こそが自分自身なのだと気付く。
男と自分は同じ種類の人間なのだ。
自分もかつて成功している人間*1が不遇感を話したり語ったりしているのを見ていると、「こういう人間に何がわかる」という不満がわいて仕方がなかった。
前にも書いたが、あの頃の自分だったら、このドラマもそうとう斜めな目で見たと思う。「茶番だ」と思って、途中で見るのを止めていただろう。
今の自分は、あの頃の自分の気持ちが(一応、自分なので)「わかる」と思っている。
とりまく環境は変わっても内面は大して変わらない。そんな実感がある。
でもあの頃の自分が今の自分に、「お前の気持ちはよくわかる。かつて自分もそうだった」と言われたら、間違いなく殴りかかっていた。(精神的に)
自分がずっと感じていたこと、これからもずっと自分の一部として抱えていくものと同じものをその人も持っていて、この人もずっとそう感じて生きていくのではないか、と感じることはなかなかない。
若林が道ですれ違った男に感じた「君と僕は話が合うはずだ」のようなことを、赤の他人同士の間柄で直感的に感じることは奇跡に近い。
たりていない側にいたって、たりてなさって伝わるのかなって、12年前勇気を出して、ここでライブを始めて、それが思いのほか伝わって、よし俺たちはこうやって戦っていくんだって、武器が見つかるっていう、そういうことくらいしか起きないじゃないか。
道端ですれ違った男が誰かに殴りかかる前に、若林の「たりてなさ」が伝わるといいなと思う。
それは世界(状況)のせいではなく、どんな状況でもそういう自分がずっと続いていく、それでやっていくしかない。それが武器にもなるのだ、と伝わって、そうしてまた他の「たりてなくて、『みんな死んじゃえ』と思っている誰か」に、それが自分自身なのだと伝わればいいと思う。
誰かに「たりてなさ」が伝わることで、「自分がたりてないと感じる続けること」の意味がようやく見つかった。
そう若林が実感するところが良かった。
俺って空っぽの人間だからさ、「こういうのがウケる」っていうことでしか考えられないわけよ。お笑いに芯がないから(略)
自分のお笑いを持っている人間には勝てないんだなって、めちゃくちゃ落ち込んで。
でも待てよって。全部に乗っかれるって自分の強みなんじゃないかなって。(略)
だから、情報番組のMCとして、全部にのっかってやろうって。
スタッフさんが一生懸命考えてきたものを、全力で紹介しようって決めたんだよね。
他人の評価ばかり気にすることは、「承認欲求に振り回されている」と言われて批判的に見られがちだ。
だがそれは、他人の評価を重視しながら自分を捨てきれないという矛盾が垣間見えるからで、
「人の評価が欲しいなら、自分を消して人が良いと思うものに全面的に乗っかる」
他人の評価を得るためにそう徹底できるのは凄いことだなと、ドラマの山里を見て思った。
嫉妬も劣等もドス黒い感情も、それが自分自身なのだからそれでやっていくしかない。
このドラマを見て、そう思っていた頃のことを久しぶりに思い出した。
厨二病は一生ものだな笑
*1:というより、社会に特に疑問なくコミットしている人間。