うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

三輪山、橿原神宮に行ってきた&「近畿地方のある場所について」が届くのが待ち遠しい。

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先日、仕事の関係で大阪に行くことになった。

その帰りに大神神社と橿原神宮に立ち寄った。

oomiwa.or.jp

大神神社の御神体である三輪山も登ってきた。上り下りで二時間半くらい。

木陰が多くて余り陽射しが入ってこないせいか、他の山にはない良く言えば神秘的悪く言えば不気味な雰囲気を感じた。

登る前は暑さで「大丈夫か?」と思うくらいへばっていたのに、登ったあと、凄く体がすっきりした感覚があった。

それが凄く良かったので、また近いうちに行きたい。

 

三輪駅周辺の電車に乗って、窓の外の風景を眺めたり街中を見たりしていると、「近畿地方のある場所について」の怖さや不可思議さの背景にあるものがわかるような気がした。

近畿以外でも街から山が見えたり、山に街が囲まれていたり、山が日常の風景の一部になっている地域はいくらでもある。

ただ多くの場合、街のシンボルになる山は高い山が多く、人(の営み・街)と山(自然・神)は分離している。

北海道の大雪山渓や利尻富士、東北の岩木山、磐梯山、関東だと赤城山や那須岳、奥鬼怒の山々、丹沢や富士山、長野の浅間山や穂高、南アルプス、九州の桜島など大抵の場合標高千メートルを超える人が仰ぎ見る存在だ。

 

近畿地方は低山の連なりが延々と続く。

大和三山は全て標高200メートルにも満たない小さな山だ。

今回泊った橿原神宮のすぐそばのホテルの窓からは、大鳥居と畝傍山が見えた。

街が寝静まって人も車もほとんど通らない午前1時頃に、真っ暗になった畝傍山を見ていると、「見られている」という感覚がどこからかわいてきて、それが凄く怖かった。

山が街と一体化していて、すぐ目の前に神さまがいるような感覚になるのだ。

「神である山と街(人)は、ごく自然に一体化している。それは元々ひとつのものであり、本来は分離できないものだ」

「山は高く仰ぐもの。人を見守っているもの」という感覚で生きてきた自分からすると、「人にとって山とは何なのか」という感覚がまるで違う。

 

電車に乗って低山がずっと続く風景を見ると、山が自分にずっとついて来るような錯覚に陥る。

「山に行く」のではなく、「自分は初めから山の中にいたし今もいる」。その事実に今まで気付いていなかったことにいま初めて気付いた。

自分は元々山におり、山はずっと自分のそばにいてどこに行くにもついてきて見られていたのに、そのことに気付いていなかった。

この感覚は自分とってゾクゾクするような恐ろしいものだ。

その時に、そうかこれが「近畿地方のある場所について」のリアリティを支えている感覚なんだと思った。

 

自分が「近畿地方のある場所について」に感じる怖さは「『山』は常に自分の近くにいて自分のことを見ている」、そういう畏怖の念から生まれるものだ。*1

大げさに言えば「近畿地方のある場所について」の背景となる場所は、自分が生きる生活圏とは違う「神さまが闊歩する異世界」だ。

*久延彦神社からの風景。鳥居、森、山の組み合わせがいい。

 

「近畿地方のある場所について」は、いよいよ明日発売だ。

持っていって近畿地方で読みたかったが、日程が合わなかった。残念。

予約はばっちりしてあるので、届くのを楽しみにしている。

 

Web版を読んだ感想。

note.com

*1:よく晴れた日に遠くに高い山が見えるくらいの山との距離感で生きてきた自分だから生じる感覚で、そこで生まれ育った人にとっては当たり前の、何ということのない感覚だと思う。