ドストエフスキーの最後の長編小説「カラマーゾフの兄弟」に、兄弟の父親であるフョードル・カラマーゾフという人物が出てくる。
大金持ちのやもめで四人の息子を持っており、この息子たちが題名である、「カラマーゾフの兄弟」である。
「カラマーゾフの兄弟」の物語の一番の主軸は、兄弟の父親であるフョードルを誰が何のために殺したかという点にある。
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物語の中盤でフョードルは何者かに撲殺される。
フョードルという男は、殺されても仕方がないと思うほど下劣で俗悪な性格をしている。
長男のミーチャの財産を、だまし取ったも同然のかっこうで横領している。
病的な女好きで、五十五である現在
「あと二十年は男でいたいが、年をとるにつれて、女は寄り付かなくなるからそのためには金が必要だ」
と言い放つ。
長男のミーチャと女を取り合っており、そのために自分の息子であるミーチャを陥れようとする。
神聖な修道院でふざけ散らし、意味もなく人を侮辱する。
長男のミーチャはこの父親を憎悪しており、次男のイワンは嫌悪に近いほど軽蔑している。
天使のような三男のアリョーシャ以外からは誰からも愛されず認められず、死んでも誰も困らないどころか、少なくとも息子二人からは「早く死ね」と思われている。
自分はこのカラマーゾフの兄弟の父親である道化師のフョードルが、昔から好きだった。
自分がフョードルの一番いいなと思う点は、
「自分が最低で下劣な道化師である」点を、何の抵抗もなく認めているところである。
フョードルは最低な男であるが、最低であることを特に言い訳もしない。そんな自分を突き放していて、時には楽しんだり、時には冷静に観察したりしている。
自分の最低ぶりに嫌悪感を示す人々を小馬鹿にするかのように、自由に最低ぶりを発揮する。
道化師が素なのか、演じているのかも分からない。
道化を演じながら、時々哲学者めいたセリフを吐き、「息子に殺される」と恐怖でわめきながら、「神はいるのかいないのか」と真剣に問うたりする。
「わたしはいつもどこかへ行くと、自分が誰よりも卑劣な人間なんだ、みなに道化と思われている気がしてならないんです。それならいっそ、本当に道化を演じてやろう、何故ってあんたらは、一人残らずこの私よりも、卑劣で愚かなのだから、って思うんでさ」
そして、自分が道化を演じるのは、もっぱら羞恥心や猜疑心のせいだと語る。
自分は、フョードルが語るこのセリフがすごくよく分かる。
作品の中で天使のように心優しく高潔な三男のアリョーシャも、同じようなことを語る。
長男のミーチャが自分は女性に対する欲望がひどくて、今までさんざんひどいことをしてきたけれど、どうしてもそれを押さえつけることができないという言葉に、アリョーシャは
「僕も兄さんと同じです。兄さんは階段の十何段目かにいて、僕は一番下にいるだけで、同じ階段を上っていることには変わりがないのです」
人間というのはいいところであれ悪いところであれ、聖性であれ邪悪さであれ、本質的には全員が同じ分量を持っている。
というよりは、その人間が持っているものが、ちょっとした表れ方の違い、見方の違いによって、まったく別物のように見えているにすぎない、そう思う。
天国は地獄を裏側から見たものにすぎない。
今日の悪行は、明日には善行になっている。
そういうことだと思う。
そして本質的にはまったく自分と変わらないくせに、自分の行動を非難し、「自分はお前とは別種の人間である」と当たり前のように考えているミウーソフを、フョードルはひどくからかい侮辱する。
自分とまったく同じ本質を持っているくせに、何をお高くとまっているんだ。
そう言いたいのだろう。
自分も、何の疑いもなく「自分は清く正しく、高潔で人さまに迷惑などひとすじもかけずに生きているのに、他の奴らときたら」と思っている人間に対しては、フョードルと同じようにその鼻っ柱をへし折ってやりたくなる。
例えばドストエフスキーの他の長編である「白痴」の中では、子供のように心優しく純朴なムイシュキン公爵が、その浮世離れした性格ゆえに、彼を愛する人からも憎む人からも一様にバカ扱いされる。
その時代の上流階級の価値観に合った礼儀作法を身につけていないせいで、「白痴」扱いされさざんざん嘲笑われる。
フョードルが最も憎んでいるのは、そういった「大多数の価値観に迎合し、要領よく振る舞える自分たちは真人間であり、そうでない人間は馬鹿にされたり嘲笑われたりして当然なのだ」という発想だと思う。
そういう人間に対して、その人間の本質に眠る「卑劣で俗悪な道化師」を演じ、見せつけているのだと思う。
そして「その道化こそが自分の本質である」と認めている自分のほうが、「自分の本質は正しく美しいものであり、そうでないものは俗悪だ」と信じているお前らよりはまだしもマトモだと語っているのだ。
アリョーシャがフョードルを評して、「お父さんは、頭より心のほうが立派なんです」と言ったのは、そういうことだと思う。
心優しく純朴で知的でありながら、社交辞令に無知であるために周囲からバカと呼ばれる「白痴」のムイシュキン公爵は、アリョーシャとほとんど同じ人物である。
俗悪さや下劣さを持った道化師である自分をひと言も非難せず、ありのままの自分を愛してくれたアリョーシャを、フョードルもただ一人心の底から愛した。
「白痴」の中で社交界で奇異の目で見られ、嘲笑われたムイシュキン公爵を、フョードルは絶対に笑わなかったに違いない。
そんな下劣で俗悪な道化師のフョードルが、自分は今も昔も大好きだ。
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