進撃の巨人25巻を読んだ。
ずっと「すごいすごい」言っているけれど、どんどんすごくなるので、アホみたいにすごいと繰り返すしかない。
「進撃の巨人」のテーマについては、一巻からほぼ明確だと思う。
テーマ自体は、それほど目新しいものではない。
むしろ、よくあるものだと思う。
驚くべきは、対価の支払い方だ。そしてそれに対して読者が共感するためのハードルの上げ方だ。エルヴィンとマルロの特攻、グリシャの味わった挫折でさすがにここが上限だろうと思っていた。
これでも十分ハードルを上げすぎだと思う。
上記の22巻の感想記事でも書いたが、自己犠牲ならばまだしも「死にたくない、という新兵に犠牲を強いる」というのは、現代だと嫌悪感を覚える人もいると思う、かなりグレーな描写だ。
「進撃の巨人」は、これほど人気が出るのが不思議なほど、ラディカルな価値観を主張している。
自分はこの漫画が大好きだけれど、それでもこの内容でそれほど問題にならないのは何故だろう? と首をひねることがある。
「進撃の巨人」で主張されているのは、「人は生きている限り、自由でいなければならない。自由を求めるべきだ」ということだ。
これだけならば、今の時代ではむしろメジャーな支持されやすい主張だ。
しかし「進撃の巨人」の場合は、この主張の後ろに「どんな対価を支払ってでも」という但し書きがつく。
その「対価」の内容がすさまじい。そして巻を重ねるごとに、どんどん跳ね上がっていく。読者がどこまでついてくるか、試しているのかと思うほどだ。
対価として「自分の命」は大前提だ。
これは一回の活動で致死率9割を超える調査兵団に主人公が入団し、仲間たちが次々とあっけなく死んでいく時点で、この物語では「自分の命<自由」だ。
次にリヴァイがエルヴィンに「夢を諦めて死んでくれ」と言い、エルヴィンは新兵たちに「特攻して死ね」と命じる。
(引用元:「進撃の巨人」20巻 諌山創 講談社)
じっとしていても死ぬことには変わりがない局面とはいえ、彼らはその言葉を口に出すことで「仲間の命・人生<自由」という価値観を明確にする。
そして過去において、グリシャが様々なものを「自由」の対価として支払う。
グリシャが自由を求めた代償は、妹や妻のダイナ、同胞が支払った。
彼らは拷問にかけられ、ある者は知性のない巨人に変えられ、ある者は巨人に喰われ、嘲笑われながら仲間同士で殺し合いをさせられた。
グリシャは息子に裏切られ、妻を失い、自分自身は苛酷な拷問を受け手の指をすべて失った。
クルーガーは二十年以上、自分の家族を生きたまま焼き殺した人間の仲間のふりをし、同胞たちを拷問し、死に追いやり続けた。
「そういう対価を支払ってでも、人間は生きている限り、自由を求めなければならない」
22巻のグリシャとクルーガーの会話では、そう主張されている。
「お前を選んだ一番の理由は、お前がマーレを人一倍憎んでいるからじゃない。お前があの日、壁の外に出たからだ」
「あの日お前が妹を連れて壁の外に出ていなければ、お前は父親の診療所を継ぎ、大人になった妹は今頃結婚し、子供を産んでいたかもしれない」
「だが、お前は壁の外に出た。俺たちは自由を求め、その代償を同胞が支払った。そのツケを支払う方法はひとつしかない」
「俺はここで初めて同胞を蹴落とした日から、お前は妹を連れて壁の外に出た日から、その行いが報われる日まで進み続けるんだ。死んでも、死んだ後も」
そして最新刊では、さらにそれ以上の対価を積み重ねる。
エレンは自由を得るために敵をせん滅し続ける。そのために彼は、民間人や罪のない子供も殺す。
(引用元:「進撃の巨人」25巻 諌山創 講談社)
ついに自由の対価として、「罪のない子供の命」まで積み上げてきた。
「進撃の巨人」がすさまじいと思うのは、読み手が「共感するため逃げ道」をすべて塞いでくるところだ。
「エレンたちも、子供のころからずっと虐殺される側だった」という理屈さえも封じてくる。
エレン自身が、「そうだとしても、それと同じ理屈を相手にぶつけるのは良くないし、そうするつもりはない。それが理由ではない」と言っている。(グリシャが進撃の巨人を受け継いだ理由が「憎しみではない」のと同じで、この物語の根本的なモチベーションは「怒りや憎しみ」など負の感情ではない。)
それを表すのが、エレンが再会したライナーに理解を示すシーンだ。
「まだ何も知らない子供が……何も知らない大人からそう叩き込まれた。…一体何ができたよ。子供だったお前が、その環境と歴史を相手に」
エレンが壁の外の人間を「民間人や子供まで含めて殺戮する」のは、「怒りや憎しみのため」ではない。復讐のためでもない。
自分もライナーと同じように、「怒りや憎しみ、敵意にかられていたけれども、壁の外のマーレで生活をして、壁の外も内も同じだと知った」と言う。「いい奴も悪い奴もいる。俺たちと同じだ。だから、俺にはお前の気持ちが分かる」と言う。
そして同じことを読者にも投げかけてくる。
25巻で死んだ子供の中には、ゾフィアやウドもいた。彼らはエレンが出現したことで岩に叩き潰されてあっけなく死ぬ。
ガビやファルコと仲良く過ごしていた彼らは、あっという間に死んでしまう。
感情移入していないモブは、ただの「他人という概念」に過ぎない。
ライナーやアニ、ベルトルトが壁内に入る前は壁内の人間を「悪魔の末裔だから殺してもかまわない」と思っていたのは、実際に会うまでは「壁内の人間」が、頭の中の「概念」に過ぎないからだ。
「他人という概念」ならば、人は相手をいくら傷つけても、どこかで死んだと聞いても、自分の選択によって死んだとしてもさほど胸が痛まない。
しかしライナーが壁内でエレンたちと寝食を共にするうちに、自分の記憶を改ざんするほど罪悪感を感じるようになる。それは「他人という概念ではなく、個人として存在を実感した」からだ。
「実体化した他者」を特に理由なく傷つけたり殺すのは、普通、人は強い罪悪感や抵抗感を覚える。
25巻では、この「実体化した他者を殺すこと」を自由の対価として要求する。
さらにすごいのは、「エレンたちは壁内に閉じ込められていたし、相手も攻めてくる気だから仕方ないじゃないか」という言い訳も封じてくる。
エレンは24巻で、「誰かを殺してでも自由を得ることは、自分自身で選んだことだ」と言っている。
(引用元:「進撃の巨人」24巻 諌山創 講談社)
「みんな何かに押されて、地獄に足を突っ込むんだ」と、そういう人々に理解を示す一方、自分は違うと言っている。
「自分で自分の背中を押した」
「その先に何が待っているか分からない。さらなる地獄が待っているかもしれないけれど、自分は自分の意思で進み続ける」
そう言っている。
(引用元:「進撃の巨人」24巻 諌山創 講談社)
最初のころ、「自分たちが巨人と戦う側なのに、なぜタイトルが『進撃の巨人』なのだろう?」という疑問をかなり見た。
エレンが「進撃の巨人」を継承し、巨人と戦うからか、と思っていた。
しかし、ここで物語が反転する。
彼が幼いころに巨人に町を襲われたように、今度はエレンが「進撃の巨人」として世界を襲う側になる。
「壁内のユミルの民は悪魔の末裔」というのは、壁外の住民のプロパガンダであり、主人公はあくまで迫害される側だ、彼には幼いころの巨人に大切な人を殺されたトラウマがあり、その憎しみと怒りには十分共感できる。
そんな、どこかで聞いたことがある甘い物語ではなかった。
自分たちの自由を邪魔するものは敵であり、無抵抗の民間人だろうと無力な子供であろうと駆逐する。
怒りでも憎しみでも復讐のためでもない。
むしろ相手のことも理解できる。
何故なら、相手は悪魔でも何でもない。自分たちと同じ、泣いたり笑ったり、いい奴も悪い奴もいるただの人間だから。
それでも自由を求めて、世界の外に出るために、そういう「自分たちと同じ人間」を殺し続ける。自分たちの意思で殺し合いをする残酷な世界に飛び込み、その地獄をただひたすら進み続ける。
(引用元:「進撃の巨人」4巻 諌山創 講談社)
「概念としての他者であれば、いくらでも殺せる」のが凡人ならば、「色々な人がいると分かっているし、理解もできる実体化した他者を殺せる」エレンたちは、確かに「悪魔」なのだろう。
自分たちの自由のために世界の全てを破壊し、子供も含めてすべての人間を殺戮する「悪」の物語、それが「進撃の巨人」なのだ。なんてこった。
もちろん善悪は相対的なものに過ぎないが、「自分たちの自由のためならば、何の罪もない人を殺しても仕方がない」という理屈は、現代の価値観ではどう考えても「悪」だ。
「進撃の巨人」は、初期から一貫して
「外の世界が地獄であっても、人間は生まれたからには自由でなければならない」
「そして、自由のためならば、自分の命はもちろん、『他人の命を奪う』という代償さえ支払わなくてはならない」
「だが世界というのは、無意味な場所だ」
「無意味だからこそ世界は美しい」
こういうことを繰り返し言っている。
なぜ、「進撃の巨人」という物語が、ここまで「自由の代償」を求めるのか分からない。
現代日本で生まれ育った(と思う)作者にとって、なぜこれほど「自由」の代償が重いのかがよく分からない。
この物語内における「自由」という概念は、それを手にいれるときにどうあっても他人と傷つけあったり、その権利を侵害せざるえないもの、のように見える。
前にも書いたけれど、現代の価値観では当たり前だと思われる、個の尊厳も「進撃の巨人」では否定されている。ピクシス司令の演説などでも、「より多くの人のために個は犠牲になるべき」という考えがはっきりしている。
そういう点からも、「進撃の巨人」は余り一般受けしなさそうに見える。
それが爆発的にヒットしたのは、現代の価値観とはまったく相容れない発想を終始一貫して訴え続ける物語に、現代価値観への違和感や揺り戻しのようなものが重なったからなのかもしれない。
「一体、どこまでやる気なんだ」
そう考えると、ちょっと怖い気もする。
ただそれでも、この「どんな代償を支払ってでも、生きている限りは自由を求め進み続ける物語」がどこに辿りつくのか見てみたい。
現代の価値観とはまったく相容れないことを語っているのに、現代に受け入れられた物語がどこに着地するのか、最後の最後で何を語るのか見てみたい。
それは「希望かもしれないし、さらなる地獄かもしれない」
それは彼らの地獄に付き合い、読み続けた者にしかわからない。
そういうことなんだろう。
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2018年11月18日放送の情熱大陸を見たら、そのルーツが少し理解できたような気がした。
「現代の価値観とはまったく相容れない発想を終始一貫して訴え続ける物語」と思っていたけれど、「誰かにとって、自分は悪であり抑圧する側である」という発想は、ネットが普及し、自己主張が活発な現代にふさわしいテーマではないか、と考え直した。