*ネタバレしています。
モリエサトシ「私の正しいお兄ちゃん」全四巻を読んだ。
最初に読んだときは色々と引っかかる部分があって、否定的な感想を持った。
だがどうもピンとこなくて、もう一回通して読んでみた。結果「私の正しいお兄ちゃん」のすごさは、この初読のときの「ピンとこなささ」にあると気づいた。
二回目を読まなかったら、なんだかなという感想で終わっていたと思う。
この話は「悪」について描いた話だ、と思う。
この話の主要登場人物である理世、海利、正己、海利の両親は全員同じ「邪悪さ」を持っている。
理世と海利、正己、海利の両親に共通する邪悪さは、「事実や他人に対して不誠実であり、自分の都合のいいように扱おうとする点」にある。
ここでいう「邪悪」は、一般的な意味の「悪人」とはちょっと違う。
最初読んだとき、「理世と海利も、正己や海利の両親と同じ悪性を持っていること」にこの話は無自覚に見えて、否定的な感想を持った。
もう一度読み直して、「理世と海利と正己や海利の両親は、ほぼ同じ邪悪さを共有している」ということを繰り返し描写しており、登場人物たちの口を借りて指摘していることに気づいた。
しかし普通に読むと、そうは見えない。
「『人間のクズ』をやむを得ず殺してしまった人間は、その罪を償うべきなのか」というテーマで見てしまう。
本来は同種類の悪が見せかたによって違うものに見えてしまい、見過ごしまうことにこの話の肝があるのではと思った。
理世が嘘をついて千葉さんのDNAを採取したときの描写は、演出と言動が噛み合っている珍しいシーンなのでわかりやすい。
(引用元:「私の正しいお兄ちゃん」3巻 モリエサトシ 講談社)
明らかに理世の「邪悪さ」を表現している。
このあとの描写は、一般的な漫画のように、理世の境遇や気持ちに感情移入させるものなのでちぐはぐに見える。このちぐはぐさがこの漫画の真骨頂だ。
本来は自分を信頼している友人に嘘をつき利用しているのに、このあと理世が泣きながら千葉さんに感謝している描写を見ると、「理世の立場であれば仕方がない」と理世に感情移入してしまい、つい流してしまう。
自分を励まし心配してくれる友人に対するこの所業は、正己が他人の身分を名乗り悪さをしたり、海利の物を勝手に使うことと共通する。
結末でも、理世は自分の都合によって「お兄ちゃん」を概念に変えてしまっている。理世は物語の中で一貫して、自分の都合のためなら事実を捻じ曲げたり、他人に対して不誠実にふるまっていいと思っている人間だ。
理世が「お兄ちゃん」を概念を変えて、正己ではなく海利を「お兄ちゃん」にしたことは、海利の母親が「海利が死んでいたほうが都合がいいから、正己を海利と偽ったことと」と同じだ。
理世と海利の母親は同じことをしている。
ところが海利はこの事実を認めない。
「ひどい家族ですね、その人たち。理世は離れていても思い続けてくれましたよ」
「きっと理世だけが特別なんだ」
「なあ、正己、そんな理世をどうして諦められたんだ?」
理世は正己を切り捨て、それを正当化するために「お兄ちゃん」を概念に変えてしまった人間だ。
また正己は死ぬ間際に理世の名前を呼んでおり、理世のことを思い続けていた。
実際に存在した「お兄ちゃん」を概念にすることで自分を正当化した理世に比べれば、正己のほうがこの点はまだしも誠実である。
しかし海利は、自分にとって都合が悪いことは見ず、自分の見たいことを信じ込む。
海利の視点(物語の見かた)を疑わなければ、海利の母親と理世は同じことをしているのに、「理世は違う」という海利の言い分をすんなりと受け入れてしまう。
このシーンは、海利が「自分の見たいものしか事実と認めない人間だ」と考えるのではく、「理世が自分の父母と同じような人種だと悟ったが、表向きはそうは認められない」と解釈することも出来る。
どちらにしろ海利は、母親に存在そのものを捨てられたことを嘲笑しつつ、母親と同じような人間である理世とこの先生きていくのだ、という皮肉な結末を迎えている。
色々な事情があるとはいえ、海利は自分が信じた人間、父親、正己、教師、母親と、自分が「こうだ」と信じた人間ではないと分かることで離れるということを繰り返している。
これだけ続けば「安易に人に入れ込みすぎない」と学びそうなものだが、理世に強引に近寄っている。
海利の行動を見ていくと理世が指摘している通り、「弱くて狡く、自分のことしか考えていない人間」だ。
殺人という罪を背負っているにも関わらず、自分の都合で理世に強引に近づき、理世が自分に好意を持っているとわかると突き放すのではなく、キスして引きつけておこうとしているところからもそれがわかる。
この話の怖いところは、理世につけこんだ海利の弱さに、逆に理世が付け込むところだ。
「私が裏切ったら海利さんはどれだけショックだろう。それを考えると少し落ち着く」
「こんな私に運命を握られて可哀想な人」
「ほっとした顔。海利さん、本当は捕まえてほしかったの」
理世と近づき始めたころの海利は、自分では自首をする決断ができないため「捕まえて欲しかった」のだ。
しかし理世は海利の運命を握っている状態になったあと、自分の幸福のために海利に罪を認めさせようとする立花の言葉を拒否する。
同じことをしているのに文脈でまったく違う風に見えるのは、理世と海利の母親だけではない。
海利も「あいつはヤバいことやるとき、他人のフリをする」という、正己と同じことをしている。
父親との確執を抱えている、結末で正己と海利が入れ代わるなどの要素から、正己と海利は根っこのところが同じ人間の二面性と見ることもできる。まったく似ていないにも関わらず、理世が海利を「お兄ちゃんに似ている」と思い、物語が始まるのはそのためだと思う。
自分が二回めに読んだとき強い印象を受けたのは、海利が正己を殺したのは、京香を暴行しようとしたことに憤りを感じたり、京香を守ろうとしたからではない、と気づいたことだ。
殺害のシーンを読むと、海利は正己が京香を暴行しようとしたことに関しては「警察に行く」と言っている。
「正己が京香を暴行しようとしたこと」は、海利が正己を殺したこととは関係がない。海利が正己の殺害を決意したのは、そのあとの流れでだ。
海利は正己が他人に害をなす悪人だから殺したのではない。正己が自分のことを「お前は親父と同じ」と指摘したから、「世界のために死んだほうがいいと確信し」殺したのだ。
正己が「殺したくなる気持ちもわかるような悪人」に設定されているためミスリードされがちだが、海利は正己の「クズの所業」に関しては警察に行こうとしている。
最初読んだときは、正己を多くの人が「殺しても仕方がない」と思うような悪(しかも矛盾していて不自然)に設定することで、海利と理世の行動に正当性を与えていることを否定的に見ていたが、二度めに読んだとき、正己が極端な悪である設定が話の方向をミスリードしている、と気づいて愕然とした。
ここを踏まえて読むと、まったく違った風に見える。
海利は、正己に襲われた被害者である京香の視点を利用して自分を正当化する。
というより、「正己が女性を暴行し、他人の尊厳を踏みにじる人間だから殺した」と自分自身でも信じている節がある。
確かに「流れだけを」説明されれば、誰でもそう思う。嘘をつく必要さえない。海利の心境や行動の流れが事細かに描かれている描写を見てさえ、そう思ってしまうのだ。
海利と正己、理世と海利父母が根っこのところで同じ人種だとすると、正己が海利に向かって呟いた「こんなに一緒にいて居心地がいいヤツ、初めてだよ。ただオレは、そんな人間も裏切れるんだ」は重大な意味を持つ。
何故なら海利と理世が一緒にいる理由が「一緒にいて居心地がいいから」だからだ。しかし彼らは「そんな人間も裏切れる」のだ。
あるひとつの視点を自分の視点にしてしまうと、その視点に映らない悪(多くの場合、自分の内部の悪)を見つけることは難しい。
「私の正しいお兄ちゃん」は、自分の内側の悪を視界に入れることがなぜ難しいのかを的確に表している話だと思った。
「あるひとつの視点しかない構図の内部にいると、その構図の中の悪が見えなくなってしまう」ということが、アイヒマンに対して指摘された「普通の人間の凡庸な悪」だと思っているけれど、これに取り込まれないようにするにはどうしたらいいのか。
「真っ当さ」を維持できる類まれな強さを持つ人以外は、「ひとつの視点しかない構図」に近づかないようにするしかないのでは、と思う。
だから立花は、最後まで理世を止めたのだ。
まとめ
「私の正しいお兄ちゃん」は、自分にとっては二つの読み方ができる漫画だ。
①主人公・理世と海利に共感的な視点をそのまま取り込み、「『人間のクズ』を殺してしまった人間は、自分の幸福と罪の償いのどちらを選ぶべきか」ということを主軸に読む。
②主人公・理世と海利に共感的な視点を「信頼できない視点」ととらえ、彼らと対立する価値観を持つ立花や佐久間と同じ位置に自分が立って、物語を眺め直しながら読む。
①の読み方は面白く感じず、②の読み方は共感するように描写されているものを、共感せずに描写を疑って読むので、面白さよりも疲労が大きい。全四巻が長い。
②の読み方が苦痛であることが、「凡庸な悪」に唯一対抗できる「真っ当さ」のつまらなさをよく表していると思う。
まどろっこしく無力で面白みも爽快さもなく、時に間違い、特に正しくない、結局は誰も救えないとしても、「普通の人間である自分の内部に生まれる凡庸な悪」に対抗できるものは真っ当さしかない。
面白いか面白くないかでいれば結論は面白くないになってしまうが、その「面白くなさ」にこの話のすごさがあると思う。
「真っ当さ」を描いている物語というと「パトレイバー」が思い浮かぶ。
「パトレイバー」の主人公の野明も「でも現実には、目の前の子供一人救えないじゃないですか」と「わかりやすい正しさ」に心を惹かれる場面がある。
それを拙い言葉で止める遊馬も、それがどういうことなのか説明する後藤隊長も真っ当で強い人だなと思う。
「真っ当さ」は時に無力でちっとも役に立たないように見える、どころか間違っているようにさえ見える。
佐久間・立花視点でこの話を読み続けるのは「悪者になったようで苦痛」と思うように、時に「誰かを颯爽と救う正しさ」の対極に立つものとしての苦しみも背負う。
「幸せになることを許してください」と泣きながら土下座する薄幸の女子大生の言葉に反論する「悪役」にされてもなお、「真っ当さ」を貫くのは難しい。
佐久間や立花のすごさが身に染みる自分は、こういう構図になるべく近づかないようにするしかないのかもしれない、という不格好な結論に落ち着くのだ。
でも、自分のいる場所の構図がいつの間にか変わっていることもあるからなあ…。
立花が正己について語ったことは、「心臓を貫かれて」を思い出す。
続き。「信頼のできない視点」についてもう少し考えてみた。