うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

構造主義の祖ソシュールの人生が、異世界転生も真っ青なくらいチートすぎて驚いた。

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近代言語学の父、構造主義の祖と言われるソシュールの思想の細かい部分は、専門家ではない自分には、難しすぎてほとんど理解できない。

自分が理解した限り構造主義に大きな影響を与えたと思われるこの発想、

人間は言葉によって概念を区切って、その認識を現実として生きている。(言葉そのものではなく、言葉同士の差違に本質はある)

を知ったときの衝撃は、今でも覚えている。

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ソシュールの思想を改めて知りたいと思い、「ソシュールを読む」を読み出したのだが、

まったく進まない。

 

ソシュールはまとまった著作を残していないので、学生がソシュールの講義を取ったノートを弟子たちが編集し、さらにそれをソシュールが残したものと突き合わせてどこが間違っているか、どこに弟子の解釈が入っているのかということを精査して、やっと「こういうことではないか」という話が出てくる。

しかもそのノートも三人くらいが別々に取っていたり、実際に聴講した学生のものではなかったり、など凄いことになっている。

いま、どの資料の話をしているのか、結局どの解釈が妥当なのかもメモを取りながら読まないと頭がこんがらがってくる。

 

著作が一作も残っていないのに後世の考え方をひっくり返すほどの影響を与えた、というのも凄い話だが、それ以上になぜそれほど影響力の強い思想を創造しながら、著作を一作も残さなかったのだろうと以前から不思議だった。

 

ソシュールはどういう人なのだろう、と思い「ソシュールの思想」の第一章「ソシュールの生涯とその謎」を読んでみた。

 

読んでみると、「異世界転生無双かよ」と突っ込みたくなるくらいチートな人だった。

思想抜きにして、人生を読んでいるだけでも下手な創作よりも面白かったので、ぜひ紹介したい。

*以下引用元は全て「ソシュールの思想 第一章 ソシュールの生涯とその謎」(丸山圭三郎/岩波書店)

 

 

学者一家出身の早熟な美少年

ソシュールは裕福な貴族の家に生まれる。

著名な学者を数多く排出している家系で、ソシュールの曾祖父はルソーと並んで「ジュネーブの双璧」と称せられ、祖父は物理学者、父親は動物学者、三人いた弟のうち二人も研究の道に進んでいる学者一家だ。

この一家の中で、ソシュールは愛情を受けて特に問題なく、すくすくと育った。

 

「ソシュールを読む」の表紙を見て、「端整な顔の人だな」と思っていたが、

十二歳頃のソシュールは、友人の思い出によれば「神のように美しい少年」で、すでにこの頃から物思いにふける時の青い夢みるような瞳、忘我のまなざしが得も言えぬ表情を与えていたという(P8)

小説の登場人物のような描写だ。

この深い物思いにふけるような思索的なまなざしは、大人になってからも多くの人が頻繁に言及する。よほど印象深いのだろう。

 

だからと言って決して気難しい性格ではなく、

人の話を注意深く聞き、何かを問われてもすぐに答えることはなく、ちょっと首をかしげるようにして考えてから大人も驚くような洞察力に富む返事をした。(P8)

物静かで考え深く、人の話をよく聞く美少年だった。

実在するんだな、こんな子供が。

当然ながら

彼は周囲の誰からも愛される少年であった。(P8)

 

敬愛する老学者の影響で、十四歳で論文を書く。

ソシュール家の別荘の隣人は、ピクテという七十三歳の学者で、ソシュールはこの老学者を敬愛していた。

ピクテの著作「インド=ヨーロッパ諸語の起源」を読み、影響を受けて自分なりに論文を書き上げる。

この当時から「言語の一般的体系」に興味を持ち始め、十四歳半で処女作「諸言語に関する試論」を書いて師に捧げるのである。(P8-9)

子供心にもひそかに彼の著作に深い尊敬の念を抱いていて、その何章かを真剣に勉強していたが、とてもこの偉大な老人に質問する勇気はなかった。(P8)

一生懸命勉強して、わからないところを質問したいがモジモジしている様子が想像出来て可愛い…………という代物ではない。

 

この論文(「諸言語に関する試論」)は、世界のすべての言語が実は二つないし三つの子音から構成される語根に還元されることを証明しようとした野心的なもので、七十三歳の老学者もその早熟ぶりに舌を巻き(P9)

十四歳の子供が、言語の原理を証明しようとしてたらしい。何だ、そりゃ。

しかもソシュールは、この時点でラテン語、ドイツ語、ギリシア語を自由に扱える。

その内容ももちろん凄いのだが、この論文に添えられた手紙がすごくいい。

謙虚で控えめで、ピクテに対する尊敬の念に満ちている。

このあとしばし出てくるけれど、ソシュールはその才能に関わらず、謙虚で控えめな人だった。

この手紙の中でも、「検証のためにサンスクリット語も学ばなければ」という文言が出てくる。凄い。

 

ソシュールはさらに十四歳の時に、鳴鼻音を発見する。

この鳴鼻音は、三年半後にブルークマンという人が発見してライプチッヒの言語学会を騒がせる。

 

ソシュールは、「はじめて会ったドイツ人の学者から、私が三年半も前から初歩的なあたり前のことと考えて、どうせ誰でも知っているだろうとあえて口にしないでいたことを、学問的な大発見のように教えられて、ほとんど自分の耳が信じられなかった」と述べている。(P12)

ソシュールはこの後も、しばしこういう経験をする。考えていることが人よりも進みすぎていて、一人だけまるで違う次元で生きている。

こういう人が謙虚に振る舞うと、逆に周りが困る。

 

しかしソシュールは、そのような学問の先陣争いはつまらないことと自分に言い聞かせる。(P12)

大人の対応だ。

 

二十一歳でその名を不朽のものにし、二十二歳で博士号を取得する。

ソシュールはその後、ライプチッヒ大学に入学し、二十一歳の時にその名を不朽のものにした「インド=ヨーロッパ諸語における母音の原初体系に関する覚え書」を出版する。

ソシュールはこの論文の発表で「言語学の巨匠の仲間入り」を果たした。

 

「覚え書」の易しい説明も載っているが、それですら読んでも何の話かわからない。

恐らく元々あった音がなくなったことで母音が引き伸ばされる法則が後付けされ、その消された音を発見した、ということが主旨では、と思うけど、合っている自信がまったくないので気になるかたは自身でお読み下さい。

 

「覚え書」が出版されるや、賛否こもごも学界は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。(略)

反対派は(略)ねたみからくる表面上の反対にもかかわらず、グスタフ・マイヤーのように、自らの著作に、ソシュールの名を挙げずにその考えを取り入れる者があった(P17)

これを読んだときは「うわあ」と声が出た。

これはひどいし、腹立だしいよな。

 

ソシュールはこのあと学位論文を提出し、二十二歳で博士号を取得する。

 

彼は審査をパスしたが、その審査風景がどんなものであたか想像してみていただきたい。

ソシュールがあのように謙虚な男でなかったら、審査員と審査を受ける側の立場は逆転していたことだろう。この若い学生は、学識豊かな審査員たちでさえ十分にやり込めることができたからである。(P19)

ここを読んで、よくネット広告に出てくる魔道士学校?みたいなところの生徒が、試験官の偉い人をやりこめる漫画のワンシーンを思い出した。

広告しか見ていないので詳しくはわからないが、ムカつく相手をチート能力でやりこめる話だと思う。

この手の話をけっこう見るな、まあ現実では出来ないことだからこそ人気の展開なんだろうなと思っていたので、ピッ〇〇みたいな展開が実在した、という驚きが半端なかった。

この記事を書きたいと思った直接の動機はこの驚きにある。

 

「彼の人柄のおかげで、私たちは彼の科学が好きになった」と言われるカリスマ性

ソシュールはその後パリに留学し、高等研究院の講師となる。

ソシュールがパリで教えた学生たちのなかには、彼よりも十歳近く年上のA・ダルメステテールをはじめ後世に名を残した学者が少なくない。(P20)

 

このときに弟子でもあり生涯にわたる友人にもなるメイエと出会う。

メイエによるソシュールの授業の思い出話が載っているのだが、言葉の限りを尽くした絶賛をしている。

講義の内容の水準の高さや知識の深さを讃えていること以上に、教育者としてのソシュールの姿勢や人柄が伝わってくるところが良かった。

 

フェルディナンド・ド・ソシュールは、まさに本当の先生であった。(略)

彼は私たちに、自分が教えていた科学を愛させ、感じさせてくれた。

彼の思考には詩人的なものがあって、その説明もイメージにあふれた形をとり、一度聞いたら一生忘れられなくなっていた。(略)

彼の人柄のおかげで、私たちは彼の科学が好きになった。

あの神秘に満ちた青い眼が、あれほど厳密な正確さで現実を捉えるのを見るたびに、私たちは驚嘆の念を禁じえなかった。(略)

彼の若々しい貴族的な優雅さを前にしては、言語学が生命感を与えない学問だなどと非難することは誰にも出来まいと思われたものである。(P20-21/太字は引用者)

「思考には詩人的なものがあって、人に忘れがたい印象を与えるものでありながら」「厳密な正確さで現実を捉える」

まったく違う素質が二個も三個も出てくる。

 

生い立ちの部分で、「ソシュールの全思想は、公理的とも言える厳密さを求める数学者態度に彩られていて」それは家代々の伝統から生まれているのではないか、という推測が述べられているのだが、同時に詩人的な内面も持っていたのだ。

控え目で神秘的でいながら、真摯に学問に向かう姿勢、それでいながら学生たちと同じ目線で話を構築していく謙虚な人柄によって、学生たちはソシュールの思想に惹きつけられた。

 

ソシュールはこの他にパリ言語学会の活動も行っている。

学会の副幹事長に任命され、彼がパリを去るまでは学会の紀要の編集を一手にひきうけている。

その編集ぶりにもソシュールの優しい控え目な人柄がにじみ出ていて、時に軽い皮肉をまじえた評が見られるとはいえ、掲載論文に手厳しいコメントを付すことはほとんどなかったらしい。(P22)

ソシュールは一人だけ百年も先に行くような思想を持っていながら、教育者としての面が強い。

そういう思想を持っていたら人に教えることが馬鹿馬鹿しくならないのかな、とつい思ってしまうが、まったくそんなことはなく、自分が受けた印象だと人に教えることにも情熱を見出していたように見える。

不思議なことに、「自分の思想を伝えたい、残したい」という感じではない。(むしろそれについては、避けていた節がある。)

ただ「学びたい」という学生の気持ちに応えることが好き、「学問の原理原則のようなことを分かりやすく伝えること、教えること自体が好き」だったようだ。

本当に不思議な人だ。

 

ジュネーヴ時代、静かなカリスマ性で人を惹きつける

ソシュールは三十三歳の時にパリを離れ、ジュネーヴに戻る。

フランスで正教授の地位を得るためには国籍を変更することが条件だったが、スイス国籍を失なうことは出来なかったためだ。

ジュネーヴ大学は、ソシュールのためにインド=ヨーロッパ諸語の比較・歴史言語学の非専任教授の地位を用意した。

ソシュールはこのあとは、死ぬまでジュネーヴで過ごすことになる。

 

ジュネーヴ大学でソシュールの講義を初めて聞いたセシュエは、その時の衝撃をこう語っている。

教授が入って来た。

その瞬間から、私たちはその姿にすっかり魅了されてしまった。

彼はまったく「教授」らしくなかった! あまりにも若く、あまりにも気取りがなかった。

しかし同時に、その得も言えぬ品位と洗練された物腰、遠くを見るような澄んだ瞳の夢みるようなまなざしは、この思想家のもつ価値と独創性を予感させてくれた。(略)

セシュエたちは「新しい地平と未知の真理を発見し、これまでの幻想が雲散霧消して正しい観念にとって代われられるのを見る喜び」にうちふるえ(後略)(P27)

言語学を専攻しているからなのか、友人も弟子も学生たちも表現がやたらうまい。

「遠くを見るような澄んだ瞳の夢みるようなまなざしは、この思想家のもつ価値と独創性を予感させてくれた」

描写を読んでいるだけでわくわくする。小説の登場人物のようだ。

 

ソシュールは会う人会う人、まずはソシュールの雰囲気に参り、人柄に参り、その後に思想に参る。

生まれながらの導き手というか、カリスマだったんだろうと読んでいて思う。

それも「圧倒的なオーラ」というよりは、「物静かで控え目で神秘的な雰囲気」に皆が皆参ってしまう、というのがいい。

 

メイエが描くように「ソシュールは本当の教育者だった。(略)表面にこそ出さなかったが、骨の髄まで芸術家であった」

それでいながら、「公理的とも言える厳密さを求める数学者態度に彩られた思想を持つ、思想家でもあった」

 

ソシュールは三十四歳のときに、貴族の娘マリー・フェッシュと結婚する。

この妻の話は、ソシュールの人生の話にほとんど出てこない。息子も二人いるが、名前しか出てこない。

仲が良かった悪かった、という以前に、ソシュールの本態は自分の内部の思想の世界に存在していて、家庭はそれなりに平穏に保っていた、影響を受けたり影響を与えたりするほどの存在感はなかった、という印象を受けた。

 

構造主義のバイブル「一般言語学講義」

1906年、一般言語学の講義が譲られてソシュールは正教授になる。

この講義によって、ソシュールは二十世紀の言語学の父、構造主義の祖となった。

このソシュールの講義について学生が取ったノートをまとめたものが、「一般言語学講義」として、後の構造主義のバイブルとなる。

 

ところで、ソシュール自身はこのチャンスを少しも喜んではいなかった。(P31)

何と、そうだったらしい。

 

この新しい仕事を命じられたことは、ソシュールを戦慄させた。

彼は自らがその任ではないと感じただけではなく、再びその問題と格闘する気にはなれなかったのである。

けれども彼は、自分の義務と信じてこれを引き受けた。(P31)

謙虚もここまでくると嫌味だな、とつい思ってしまうが、この「彼は自らがその任ではないと感じただけではなく、再びその問題と格闘する気にはなれなかったのである」の部分が、ソシュールが著作を残さなかったことにつながる。

 

ジュネーヴ時代のソシュールの生活は、「静かで、むしろ淋しいといえ」るもので、数々の栄誉を受けていたにも関わらず、「ますます暗い影におおわれ」、「孤独な生活を送」っていた。

 

ジュネーヴ時代には、どのような問題が潜んでいるのだろうか。(略)

第一に(略)謎の沈黙であり、あるいはたまにその沈黙を破る言葉があるとすれば、知的絶望感の表白でしかない沈痛な表情のソシュールである。(P34)

多くの弟子や友人たちは、その思想が著作の形を取らないことを残念がり、ミュレによれば、ソシュール自身もそのことを大いに気にしていた。

それにしても、彼の著作出版忌避の気持ちは根が深かった。(略)

バイイは速記録をとっていて師に出版の許可を求めた。

しかしソシュールは、一度は承知しておきながら、数日後には細部における不完全さを理由にこれを断ったという。(P35/太字は引用者)

 

ソシュールがなぜ著作を残さなかったのかについては、様々な意見がある。

メイエやバイイは、師の沈黙を、その病的なほどの細心緻密さと完璧主義からだと考えた。(P35)

バンヴェニストやデ・マウロらは、あまりにも新しすぎたソシュールの思想に対して、彼の同時代人が示した無理解ないしは無視の壁にぶつかったための落胆からであろうと推測している。(P35)

ムーナンはそれに加えて、「不釣り合いだった結婚」と「恐らくは重症だったにも関わらず人には気付かれなかったアルコール中毒」を理由に数えている(P36)

 

この章の結論としては、「彼のドラマは何よりもまず『思想上のドラマ』であった」であり、ソシュールは「(自分の思想を完遂させるという)巨大な仕事を前にほとんど呆然として立ちすく」んでおり、その姿は「美との決闘を臨んで、敗れる前から恐怖の叫びをあげる芸術家の姿そのものである」と述べている。

 

ソシュールの沈黙に悲哀を感じた。

この本を読んで「ソシュールという人がどういう人か」を知るまでは、著作を残さなかった理由を「周囲の人間の自分の思想への理解のなさ(例えそれが理解しようとしている人であっても)」と思っていた。

 

でもこの本で描かれている生い立ちや人柄の印象だと、ソシュールが本当に苦しむことは、常に自分の内部のみの問題だったのではないか、と思った。

それがどんなことであれ、周囲の人のことがソシュールに本当の意味で苦しみを与えるほど影響を与えることはなかった、だから、これほど周囲の人に対しては物静かで穏やかな態度で接せられたし、周囲の人はそういうソシュールに神秘性を見出したのではないかと思った。

 

一人だけ「神秘と思索の世界」に生きており、そこで自分が実際に認識しているものに形を与えようとしても、それには果てしないくらい膨大な時間がかかることに気付き、力尽きてしまった、そんな印象を受ける。

「自分が直観している真理を、『公理的とも言える厳密さを求める数学者態度に彩られ』た思想として完成させるのは空恐ろしいほどの大変な作業であり、たどり着くことは不可能だろうという虚無感」が、ソシュールを沈黙させた。

 

人としての才能なら人の社会で生かせるからいいけれど、人の器に余る才は自分の肉体(生涯)を賭けてもとても足りないことが分かるから、本人にとって重荷になるんだろう。

才能があるわけではない自分にはわからない感覚だが、ソシュールの人生を読むとそんな悲哀を感じる。

 

どんな人なのか、会ってみたかった。

ここまで読んで感じ入ったのは、現代まで続く考え方に巨大な影響を与えたソシュールの才能よりも*1その才能と落差のある性格だ。

会う人を強く惹きつけるカリスマ性もあったのだろうけれど、文章だけで読むと「地味で穏やかな性格」だ。

著名人の話を読むと必ずひとつくらいはある強烈な癖や面白いエピソードがほとんどない。(スパイと疑われたことくらいだ)

ただひたすら学問に打ち込んだ、真面目で謙虚で優しい人柄、その内部にある神秘的な豊かな世界観。

ソシュールの話を読むと、その才能の巨大さと同じくらい、その才能にまったく奢らず溺れずに真摯に向き合おうとした姿勢や、周囲の人たちへの優しさや自分が取り組んでいた学問への愛情に心を打たれる。

 

余りないのだが、生きているこの人に会ってみたかった、実際に話しているところをこの目で見てみたかったなあと思った。

 

*1:というより、才能については知識がないので何とも言えない。この後の章を何とか読んでみようと思う。