(前提)「秒速5センチメートル」がこういう話に見える、自分の思いつきの話。
補陀落渡海は、入口を塗りこめた箱を舵のない船に積んで、そこに人が入り極楽浄土を目指して沖に流すという風習だ。
補陀落渡海をテーマについて書いた、井上靖「補陀落渡海記」がとても面白かった。
一読すると何について書きたいのかが分かりづらい話なのだが、
自分が「補陀落渡海記」から読み取ったものは、絶望というのは万人にとって共通する普遍的なものに見えて、それぞれコントラストがあり、人にはそれぞれの絶望がある。だが結局は、それは普遍的なものに回収されるから、その個々人のコントラストは無いも同然になる、ということだ。
なかなかしんどい話である。
(【小説感想】一人で船に閉じ込められ、浄土を目指す捨身行で何を思うのか。井上靖「補陀落渡海記」)
「絶望」について書いた話ではないかと思った。
「絶望」というのはとても個人的なものだが、補陀落渡海はそれを普遍的なものに回収してくれるのだ。
「秒速5センチメートル」は、明里に再会しに行った時点で、どこか現実ではない空間に飛ばされた(閉じ込められた)と自分は考えている。
貴樹は「永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか、分かった気がした」「ただただ深遠にあるはずだと信じる世界の秘密」を見るためのルートに知らず知らずのうちに迷い込んでしまい、そこから抜けられなくなってしまった。
物語なので因果を無視して(お話はイメージの接続なので、現実とは違いこういうことも出来る。そこが物語の凄いところ)自分の感じたことを言うと、
「貴樹にとって明里と再会することが、『深遠にあるはずだと信じる世界の秘密』であったために、その後の人生の全てが「深遠にある世界の秘密」に通ずるためのルートになってしまった」
のだ。
しかし、明里にとって貴樹の再会はそうではなかったために(ひどい)目的である「深遠にある世界の秘密」はそのルートではたどり着けなくなってしまった。
そうしてたった一人で、豪徳寺駅から岩船駅に向かうあの電車の中に閉じ込められてしまったのだ。
「明里、どうかもう家に帰ってくれればいいのに」
と願うのも無理もない。
「補陀落渡海記」の主人公である、あるかどうかも分からない極楽浄土を目指させられて船に乗らざるえなくなり、助かった後再び流された金光坊もこんな気持ちだったのではないか。
貴樹は香苗や理沙と関わりを持ったように、何とかそのルートから脱出しようとしている。
対して以前書いた「鬼滅の刃」の伊黒は、現世には絶望しかないので、補陀落渡海の果てに極楽浄土がある(蜜璃との出会い)と信じている。というより、そこにしか希望がないので信じざるえない。
この「現世には絶望しかなく、肉体を脱ぎ捨てて本来自分があるべき世界へ還る」という考え方は、グノーシス主義を彷彿させる。
貴樹は極楽浄土がないことは分かっているのに補陀落渡海をさせられている人間であり、伊黒は現世には絶望しかないゆえに補陀落渡海をすることに希望を託すしかない人間である。(それくらい絶望している)
絶望は多くの物の感じ方がそうであるように、ごくごく個人的なもので、コントラストがあり、他人から見てわかりやすものもあればさっぱりわからないものもある。
基本的に他人と共有できるものではないのだ。
それを全部箱詰めして流せる、というのが補陀落渡海の恐ろしさだと自分は思うが、伊黒のようにそこに希望を見出す人間もいる。
自分は「(自分にとって)補陀落渡海的な話」に異常に惹かれる傾向がある。
それは「補陀落渡海をしてもいい」と思えるほどの「ただただ深遠にあるはずだと信じる世界の秘密」のようなものに出会いたいがためなのか、それともそういうものに出会ったときに「補陀落渡海してもいい」と思ってしまうかもしれないことが怖いのか、その両方なのかはイマイチよくわからないが、「秒速5センチメートル」はその怖さを自分に垣間見せてくれた話なのだ。
思い出したら久し振りに見たくなった。
これまで考えた伊黒の話。
「補陀落渡海記」。面白い話なので読んだことがない人はぜひ。