うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

ロボットアニメの主人公は、なぜロボットに乗るのか??

 

ロボットアニメの主人公は、なぜロボットに乗るのか?

なぜ、主人公が乗るものがロボットでなければいけないのか??

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商品化しやすいからでしょう?? 

というメタ視点の大人の事情はおいておいて、その作品の設定において「ロボットでなければならない必然性」が説得力をもって語られている物語が好きだ。

 

兵器を一から開発するとなると、莫大な開発費がかかるはずである。

しかも、二足歩行というのは接地面が極端に少ないので、安定させることが大変だと思う。

そもそも人体だって、四足歩行の動物よりも、圧倒的にバランスが悪い。

そのバランスを安定させるシステムを開発することから始めるのは大変なことだ。

 

なぜ、従来の飛行機や戦車などではダメなのか??

なぜ、莫大な費用を投じてまで、二足歩行型の戦闘機を作ったのか??

 

制作者が「ただロボットが出したいから、細かいことは気にするな」という物語は好きではない。

物語で起きる事象というのは、「なぜ、そうなったのか? なぜ、そうならなければいけないのか?」という因果が、物語内できちんと説明されなければならない。

 

物語の設定に説得力があるかどうか。

これは物語の生命線である。

 

今回は、その設定がしっかりしている物語の魅力を語りたい。

 

 「機動戦士ガンダム」シリーズ

ガンダムで敵も味方も「モビルスーツ」に乗って戦う理由は、ミノフスキー粒子が存在するからだ

 

ミノフスキー粒子が散布されると、通信機器やレーダーなどが使えなくなり、遠距離攻撃が一切できなくなる。

ミノフスキー粒子が散布された空間では、近接戦闘しかできなくなる。だから小型戦闘機以上に近接戦闘に強い兵器として、モビルスーツが開発された。

戦闘機というよりは、宇宙で白兵戦ができるようにした機械、という認識のほうが正しい気がする。

 

ミノフスキー粒子の存在と、その散布下で強力な力を発揮できるモビルスーツを開発できたからこそ、ジオンは圧倒的な国力の差がある地球連邦に戦いが挑めた。

そういう背景を聞くと「なるほど」と思う。

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「マブラヴ」シリーズ

世界設定の緻密さに感動したのが、この作品。

 「マブラヴ」シリーズ。

よく作りこまれた世界観に惚れこみ、上記の設定資料集も買ってしまった。

 

マブラヴはBETA(「人類に敵対的な地球外起源種」の略称)という、突如地球にやってきた、不気味な姿をした謎の生命体と戦う物語である。

BETAの余りの数の多さと、無慈悲なまでの圧倒的な強さからくる絶望感がたまらない物語だ。

マブラヴでは、このBETAと、戦術機という人型の機械に乗って戦う。

 

なぜ、航空機に乗って戦わないのか??というと、こいつらがいるから。

 

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(引用元:https://www9.atwiki.jp/alternative/pages/9.html

 

作品内ではレーザー級と呼ばれているBETA。

下のほうにいる緑色のちびっこい奴が、身長3メートルくらいで、人間よりも少し大きいくらいだ。

ゆるキャラのように可愛く見えるが、

 

「380㎞離れた高度1万mの飛翔体を的確に捕捉し、大気圏内では半径200~300㎞という射程を持つ」という超高性能な光線を、目から放つ。

初めの照射から次の照射までのインターバルが約12秒なので、ほとんど連続して撃てる感覚だ。

 

一つ目の大きいほうは重レーザー級と呼ばれており、小さいレーザー級以上の高性能のレーザーを持っている。

航空機が飛んでいても、こいつらにすぐに撃ち落とされる。

制空権が完全に奪われている状態だ。

なので、戦闘も移動も、地上で行うしかないという状況である。

 

マブラヴの怖く面白いところは、もともとは人間は航空兵器で戦っていたのに、それに対応して新しくこのレーザー級という種が生み出されたところだ。

 

敵がこちらの戦術に対応して、急速に進化する。

 

ひとつの新兵器の開発で、それまでの戦況がガラリと変わってしまうということは歴史でもよくあるが、そういうことをよく表している。

 

またBETAは蟻の巣のような構造をしたハイヴという巨大な地下空間を各所に作り、そこを拠点として攻め込んでくる。

ハイヴを攻略することを目的として、戦術機という二足歩行型の兵器が生み出された。

 

この戦術機も、各国ごとに開発の歴史が考えられており、その設定を読んでいるだけでも楽しい。

ひとつひとつの事柄に対して、驚くほど設定が作りこまれている。

 

ただひとつ難点が……もともとがエロゲなので話題にしにくい。(全年齢対応用も出ているけれど、グロ描写も規制されている。)

そこがいいんだよ、という人には申し訳ないけれど、何でギャルゲなんだよ、何でアニメ絵なんだよ、と何度思ったことか。

(マブラヴのすごいところは、パイロットスーツがほぼ裸なのは何故なのか、周りが女性ばかりなのは何故なのか、という設定までちゃんと考えられているところだ。)

 

この骨太の設定のまま、もっとクールな絵で作り直してくれることを切実に希望している。

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「機動警察パトレイバー」

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 設定がマブラヴと同じくらい、よく練られている。

パトレイバーは、レイバーを動かすためのソフトウェアの開発や、警察にレイバーを導入する権利をどこの企業が手にするか、という話まで触れられている。

 

元々は危険な場所で作業するための道具としてレイバーが開発され、レイバーを使った犯罪が多発するようになったため、それに対抗して警察もレイバーを導入したという設定だ。

 

なぜ、レイバーがロボットのような外観をしているのかという理由が物語の中で、

「そういうものを見て育った世代が開発に携わっているから、自然と発想がそうなったんじゃないか」

と語られていて、「なるほど」と思った。

 

なぜ、主人公がロボットなどという非合理的なものに乗らなければならないのか?

なぜ巨額の費用を投じてまで、ロボットを開発しなければならないのか?

 

そういう背景まで作りこまれた物語はとても面白いし、人気が出る理由もそのあたりにある気がする。。

 

場面緘黙症の漫画「元かんもく少女は考える。」から、生きづらさの正体を学んだ。

 

 

先日、ちょっとしたきっかけで「場面緘黙症」の体験をつづった漫画を読んだ。

morinagaame.blog.jp

 

「場面緘黙症」という症状を知ったのは少し前で、そんな症状で悩んでいる人がいることさえ知らなかった。

 

場面緘黙症というのは、特定の場面でのみまったく話せなくなる症状で、いわゆる「人見知り」などとは違う。

 

場面緘黙は、ある特定の場面でだけ全く話せなくなってしまう現象である。子供が自宅では家族らと問題なく会話をしていても、学校や幼稚園など家の外では全く、あるいはそれほど話さず、誰とも話さないという例は多い。そして、その子供は非常に内気な様子に見え、グループでの活動に入りたがらなかったりする。 たいていの場合、発話以外の、表情や動作やその他のやり方であれば、人とコミュニケーションを取ることができる。また、脳機能そのものに問題があるわけではなく、行動面や学習面などでも問題を持たない。

単なる人見知り恥ずかしがり屋との大きな違いは、症状が大変強く、何年たっても自然には症状が改善せずに長く続く場合があるという点である。

                           (Wikipediaから引用)

 

原因については色々な説があるようだが、心因性が今のところ一番有力らしい。自宅などでは問題なく話せるので、身体的・構造的な問題ではないことは分かる。

心因性と呼ばれる症状の多くはそうだが、この症状を持つ人も周りから「単なる甘えでは?」といわれ理解を得られないことが多いようだ。

 

場面緘黙症については、リンク先の漫画を読んでもらうと非常によく理解できると思う。

(作者の方はBL(ボーイズラブのこと)の同人活動をしています。そこに興味を惹かれる過程なども多少出てくるので、BLに忌避感を持つ方はそのことを承知のうえで読んでください。そのことがメインテーマではないので、大丈夫だと思うけれど。)

 

この漫画は場面緘黙症について描かれているが、その二次被害とも思える「生きづらさ」についても非常によく分かる。

「場面緘黙症」という言葉は聞いたことがなくても、作者が幼稚園時代から感じ続け、いまなお後遺症のように悩み続けている「生きづらさ」については、共感を感じる人も多いのではないかと思う。

 

「元かんもく少女」の状況

元かんもく少女の家庭環境は過酷だ。

作者は子どものころなので、それが普通だと思って当時はよく分からなかったと言っているが、読めば読むほどこの年までよく生き延びてきた、そう思える。

 

父親が少しのことでもキレやすい暴君であり、子供とのコミュニケーションがほとんどない。唯一のコミュニケーションが、子供に命令すること。最終的には子供の学費も払わず、家に生活費を入れないなどモラハラ、経済的DVをする。

母親は外面がよく、自分にも子供にも完璧を求める。夫婦仲が悪く、精神的なよりどころとして宗教活動をしており、その集会に子供を連れていく。子供のしつけとして、体罰をする。子供に対しては「できて当たり前」という姿勢なので褒めず、常に否定的な言葉を投げかける。

 

「犯罪が関わる環境以外で、どんなに素晴らしい素質を持った子供でも、ダメにすることができる環境を考えなさい」と言われたとき、これ以上の環境はなかなか思いつかない。

 

父親はちょっとした物音を立てても、自分の部屋に怒鳴り込んでくる、風呂やトイレに入っていても「早く出ろ」と言われ、実際にドアをこじ開けられたこともあるなど、聞いていて唖然とするようなエピソードが出てくる。

 

作者は「家庭環境が主因とは限らないけれど」と断りを入れているが、そりゃあこんな家庭で育てば、一言、物を言うのも緊張するようになるよ、と思う。小さいころから、自分が何かしたり言ったりするとキレる人がいたら、喋ることは文字通り命がけになるだろう。

本当にこの作者がグレもせず、犯罪も犯さずに生きてきただけで十分立派だと思う。

 

幼稚園時代に場面緘黙を発症した作者は、そのあと小中学校時代を通してほとんど喋れずに日々を過ごす。

暴力をふるわれても「痛い」と叫べず、いじめられても「自分がしゃべれないのが悪い。しゃべれないから気持ち悪いと思われて当然だ」と考える。

何をされても「相手は悪くはない。自分に責任がある。自分はどんなことをされても、それを受け入れなくてはならない」

この恐ろしいほどの自己肯定感の低さ、これが生きづらさの正体なのではないかと作者は考える。

 

自信がない人間は生きづらい

自分も人生で何人か生きづらそうな人に出会ってきたが、やはり共通するのはこれではないかと思う。

「自信のなさ」「自己肯定感の低さ」

無理に言葉にすれば「自分という存在に対する無条件の肯定がない」と言っていいかもしれない。

これがあるのとないのでは、人生の生きやすさが百八十度違う。

 

もちろん、大人になって経験したことから、「あるジャンルにおいての自信」を身につけることはできる。だからこの自己肯定感を持っている人間は「自信なんて、自分の力でいくらでも身につけられるのでは?」と考えがちである。

しかしこれは、多くの場合、子供のころ親に与えられるものである。幼少期にこれを与えられないと、大人になって回復するのは至難だと思う。

 

この「自分という存在に対する無条件の肯定感」を持たない人間は、基本的に人間関係で悪循環に陥ることが多い。「自分がそこにいていい」という許しや安心感を、自分で自分に与えることができないからだ。

なので、他人からそれを得ようとする。そうすると他人の顔色を窺うようになる。他人の顔色を窺うようになると、自分の行動が他人次第になるので、他人と一緒にいるのがしんどくなる。他人と一緒にいるのがしんどいから、人間関係を避けるようになる。そうすると人間関係に慣れることができないので、ますます苦手意識を持つようになる。

そういった負のループに入る。

 

「元かんもく少女」を読んでいると、その負のループがどういうものなのかよく分かる。

そしてこの自己肯定感の低さが大人になっても基盤となるので、仕事をするにしても恋愛するにしても、何か他のことに挑戦するにしても、そして仮にそれらが叶ったとしても、今度はその状態を維持するのに、人の何倍ものエネルギーを使わなければならなくなる。

結果、しんどくなりその状態から離脱する。そして「みんなが普通にやっていることができないなんて、自分は何てダメな人間なんだろう」と自分を責める。ますます自己肯定感を低め、自信がなくなっていく。

 

元かんもく少女が、親に対して「学校に行くのが疲れた」と訴える場面がある。

自分はこの気持ちがよく分かる。自分も学校に行くことに疲れきっていた時期があったからだ。

何か大きな問題があったわけではない。だから、理由を言えと言われても「疲れた」としか言いようがない。

大人になった今なら分かる。

人の顔色を伺ったり、その場の空気を読んで話を合わせたり、グループ内の力関係を探ったり、そういう人間関係を維持することに疲れきっていたのだ。

今考えてみると、あんなに狭い世界で毎日毎日、人間関係に気を使い続けたことは驚異的なことだと思う。

 

余談だが、自分の知人が「今の中高生女子は、学校にただ行っているだけでも偉いと思わないといけない。それくらい、人間関係のストレスが半端ない」と言っていたが、自分もそう思う。

学校の人間関係で悩んでいる子は、「自分は学校に行っているだけで偉い」と思ったほうがいい。少なくとも自分はそう思うし、行きたくなかったら行かなくていいと思う。心の底から。

 

「自己肯定感の低さ」それは親が子供に与える呪いに似ている。

「自己肯定感の低い人間」は、たいていが幼いころから自分の言動や存在を、親に否定され続けている人間だからだ。

「決して幸福になるな。お前が幸福になるなんて、そんなことは許さない」

無意識のうちに、親がそういう呪いをかけているのだ。

 

「親だって人間だ。子育てというのは大変なものなのだ」という言葉もよく分かる。悩み試行錯誤しながら、懸命に子供に愛情を注いでいる人もたくさんいることも知っている。

ただ自分はある一定数、こういった呪いを子供にかけている親が存在すると思っている。そしてこういった親は、多くの場合、無自覚であり自分は立派に親としての務めを果たしていると信じている。その事実を、最大限控えめに表現しても、腹ただしく苦々しく思っている。

 

自分は親が子供に与えられる最高の贈り物は、この「自分という存在に対する無条件の肯定感」なのではいかと考えている。これがあるのとないのとでは、苦境に立ったときの踏ん張りも違うし、挫折したときの立ち直り方も違う。

そしてそれは、人生において親にしか与えられないものなのだ。(ごくまれに例外もある。ただ大人になってからだと、その価値観を無条件に受け取るのが難しくなるという問題もある。)

 

「生きづらさ」と抱えている人を見たり、色々なケースを読んだりして感じたことは、何となく感じていたけれどその正体が分からず、その感情を解消するための努力の方向性すら分からないということが多いということだ。

感じている感情の正体が分からないとそこから抜け出すのは難しいと思う。生きていく中でいつも「生きづらさ」のようなものに悩まされていたら、同じように悩んでいる人がいるんだということを知って欲しいなと思う。 

そして、できればその呪いから抜け出して生きて欲しい。

 

*ちなみに著者は「自分のケースでは、親が原因なのかもしれない」と推測しているが、場面緘黙症の発症の原因が育て方にあるといっているわけではない。ひと口に場面緘黙症と言っても性格や症状も様々のようである。

*「生きづらさ」の原因も、この記事では親子関係を取り上げたが、親子関係以外にも様々な原因があると思っている。

私はかんもくガール: しゃべりたいのにしゃべれない 場面緘黙症のなんかおかしな日常

私はかんもくガール: しゃべりたいのにしゃべれない 場面緘黙症のなんかおかしな日常

 

 

「君に届け」にみる女子のプリンセス願望と、女性にとっての自己実現。

 

先日読んだこの記事が面白く、とても興味深かった。

papuriko.hatenablog.com

 

自分が理解した限りでは、「闇を抱える男性から、どんな目に合わされても超人的な耐久心で耐え、傷ついたその男性の心を母性で癒すことで、いつかその人のオンリーワンになれる。そういうファンタジーによって、不幸になっている女性が存在する」という話だった。そういった女性の恋愛観に影響を与えた漫画として、「彼氏彼女の事情」と「フルーツバスケット」という人気漫画があげられている。

 

この幻想にはまる女性がなぜ、それを幻想とは気づかずいつかかなう現実だと信じるのか。

この幻想は男性側からも十分、成立しうるからだと思う。成立しうるのだからファンタジーとは言い切れない。それが厄介な点だ。

男性側から成立している例として、ブコメでベルセルクのガッツとキャスカの例をあげていた人がいたが、自分の意見としてはこの典型例はダイの大冒険のマァムとヒュンケルだと思う。

 

saiusaru.hatenablog.com

 

つまり「傷ついて闇を抱えた男性の心を癒すことによって、その男性のオンリーワンになれる」という物語は、女性側の単なるおとぎ話ではなく、男性側にもニーズとして、存在しているということだ。(*男性全員がそういうニーズを持っているわけではなく、持っている男性も存在しうるという話。)

 

「彼氏彼女の事情」「フルーツバスケット」という話は構造がとても似ている。一口でいえば、「少女漫画という装置の構造と機能を、ギリギリまで先鋭化している」

少女漫画というものは、だいたい似た構造をしている。何故かというと、それがめざす目的が一緒だからである。

 

「周りの女子が魅力的と認める男子に選ばれることによる、自己実現」

 

恋愛をテーマにしているほとんどの少女漫画の目的は、この手法による自己実現を読者に疑似体験させることにある。

 

自分はこういった構造の少女漫画が多いことに、昔から不満があった。

「女というものは、結局、男性から選ばれることでしか自己実現ができないのか?女性自身もそう思っているのか?」

という思いが強くあったからである。

女性だって、冒険に出たり、戦って何かを勝ちうることによって自己実現を果たしてもいいのではないか?

恋愛ももちろん楽しいし、当然、恋愛をテーマにした漫画でも面白い漫画はたくさんある。だが、いくらなんでも恋愛ばかりにテーマが偏りすぎだろうと思っていた。

 

「青空エール」が、自分が今まで読んだ少女漫画の中でも一、二を争うくらい優れた漫画だと思うのは、ひとつはその点にある。

青空エールでも主人公の恋愛は描かれるが、最も重要なテーマは主人公が驚異的な努力によって、初心者でありながら最終的に全国大会で金賞を仲間と共にとるという点にある。

saiusaru.hatenablog.com

 

もうひとつ言えば、恋愛をテーマにすることが気に食わないわけではなく、「恋愛を自己実現の道具にすること」に強烈な違和感があるのだと思う。

恋愛というのは確かに上手くいけば、他者に「この世でたった一人の自分」と認められるのだからすんなりと自己実現できる。だがそのぶん、上手くいかなかったときのダメージも大きい。恋愛をテーマにするならば安易に道具として扱うのではなく、その辺りのキツさと難しさも丹念に描いて欲しい。

この本のように↓

この漫画以上に、女性の生態がわかるものはないんじゃないかと思う。

  

「君に届け」ほど、少女漫画の基本構造が分かりやすい漫画はない。

「彼氏彼女の事情」と「フルーツバスケット」は、少女漫画の構造が極端に先鋭化されていると書いたが、この二作品をマイルドな形にしたのが「君に届け」である。

「君に届け」は、「魅力的な男性に認められることによって、自己実現する少女漫画」の最も典型的な例である。

 

映画化もされた有名な漫画なので知らない人もいないと思うが、一応あらすじを説明すると…。

 

無口で地味で「リング」の貞子に似た容姿をしていることから、クラスで浮いた存在になっている黒沢爽子。対してクラスメイトの風早翔太は、さわやかで友達が多く人気者の男子である。二人は仲良くなり、恋に落ちる。

 

細かいエピソードなどをのぞいたメインストーリーはこれだけである。

ストーリーらしいものがほとんどなく、自分と自分の周りの人間の心象風景だけを延々と描き続けるというのも、この構造の少女漫画の大きな特徴だと思う。

 

「君に届け」に類する少女漫画の構造は、だいたい同じである。(*細かい差違はある。)

①主人公の少女は平凡かそれより少し上程度、もしくは冴えないタイプである。

②相手の男子は、異性にモテるタイプである。

③非常に献身的な同性の友人が、たいてい一人か二人いる。その友人は、決して主人公のことを裏切らない。

④主人公に恋愛のライバルがいた場合(友人が兼ねることもある。)、そのライバルと和解したり、別の恋の相手が出てくるなど救済策が用意される。

⑤主人公と相手役、主人公の友人、その相手役などで主人公を中心とした小世界が形成される。

⑥この小世界の中で話の種が尽きるまで、延々と小エピソードが繰り返される。

 

「主人公がその中心に居座る、主人公にとっての都合のいい世界でありながら、誰にも悪く思われず、誰にも攻撃されず、誰にも罪悪感を抱くことのない世界」

 

これがこの構造を持つ少女漫画が最終的に目指す、ユートピアだ。

ちなみにこの世界の外にいるモブにならば、いくら攻撃されても攻撃には入らない。なぜならば、主人公は自分が作り上げた世界によって、世界外からの攻撃から守られているからだ。

これは言葉を変えれば、「世界で唯一のプリンセスになる」ということだ。全女性の夢や欲望は、結局のところここに帰結するのだろうか。

 

「君に届け」が他の作品と違って巧妙なところは、主人公がこの世界を作るために一見、努力しているように見える点である。

例えば、千鶴やあやねという友達を得るために、爽子は二人の悪口を言っていた同級生に立ち向かうし、恋敵であったくるみと和解するために騙されたにも関わらず、自分から話しかけにいく。恋愛勝者としてくるみに罪悪感を抱くどころか、恋に破れたくるみのほうが「ごめんなさい」と謝る始末だ。

 

「爽子はがんばっている。しかもピュアないい子だ。だから風早に選ばれ、それでも妬まれもせず、みんなから愛されて当然なのだ」

 

というエクスキューズが全編を通して、ぬかりなく配備されている。

かくして、くるみも罪を許され、プリンセスが形成する世界の一員として向かい入れてもらえる。

 

恋愛をテーマとする少女漫画のほとんどは、だいたいこういった構図をとっている。

ただ余りに露骨だと、逆に同性の読者から反感を買う。読み手が主人公ではなく、その周りのモブに感情移入するようになるからだ。個人的な意見だが、青木琴美や北川みゆきは、その辺りを失敗している気がする。

より先鋭化して、周りの人間が主人公の信者のようになってしまっているのが、「彼氏彼女の事情」と「フルーツバスケット」だと思っている。この二作品は、プリンセスどころか女神にでもなろうとしているのかとさえ思える、作者の承認欲求の余りの強さに、薄気味悪さを感じた。

まだしも「同性などすべて敵。必要なし」と割り切っている、青木琴美や北川みゆきのほうが潔くていいと思っている。(話自体は好きではないが。)

 

みんなが魅力的と認める男性に選ばれることによって、世界で唯一無二のプリンセスになる。

それはそれで、とても幸せだと思う。

でも、そうではないことを目的とした生き方を示すような少女漫画も、そろそろ出てきていいと思う。

 

女性にとって自己実現とは何なんだろう? 自分は何のために生きるのだろう?

というテーマは、既に女性漫画では「イマジン」という強烈な漫画がある。少女漫画でも、多種多様なテーマの漫画が出てきて欲しいなと思っている。

好きだけど、メッセージ性が強すぎて賛否両論あるのもわかる。

イマジン 1 (クイーンズコミックスDIGITAL)

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 恋愛に依存した自己実現って、結局は相手次第になるから、ゆくゆくは辛くなるほうが多いと思う。

恋愛を楽しみながら、人生の様々な可能性を模索しながら生きて欲しいなと思う。

君に届け リマスター版 1 (マーガレットコミックスDIGITAL)

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創作物において、物語はどう作るべきか。

小説、漫画、ドラマ、映画などの媒体を問わず、創作物において物語をどう作るべきか考えてみました。

物語を発信したことはないので、一介の読み手の意見であることをご承知いただければと思います。

 

ドラマ「そして、誰もいなくなった」の何をそんな批判しているのか?

現在、日曜日の22時半から放送されている日本テレビのドラマ「そして、誰もいなくなった」の感想記事を書いているのですが、クソみそにけなしいます。

楽しんでみている方には大変申し訳ないのですが、自分はあのドラマの物語の構成の雑さに非常な憤りを感じています。

 

最新話第6話の感想はコチラ↓ 

*批判的な内容なので、閲覧は自己責任でお願いします。

saiusaru.hatenablog.com

 

今までにさんざん批判しているのですが、今一度、ドラマ「そして、誰もいなくなった」の何にそんな不満があるのかを述べながら、創作物における物語の構造とはどういう風に作るのかということを考えてみたいと思います。

 

自分が考える物語を構成する二本の柱は、

①登場人物の造形

②物語のあらすじ

この二つです。

 

両方とも物語の両輪とも言うべき大切な要素ですが、物語全体の基盤となるのは、①のほうだと思います。

 

人物は、ひとつの人格として統合されていなければならない。

 

これが人物を描く上での、絶対条件だと思います。例え傍から見て矛盾があろうとも、人格というのはその人物の中では必ず統合されているはずです。

より正確に言うと、その矛盾も全て内包したうえで統合されているのが「人格」というものです。(これが統合されていなくて、人格的に規則性のない行動をするのが統合失調症という病気です。)

名探偵エルキュール・ポアロが言うように「どんな人間も、自分の人格にない行動はできない。自分の固有の性格から逃れることはできない」と思います。

人間の行動というのは、

 

人格 → 理由 → 行動

 

という風に、人格から生まれ出た思考なり打算なり感情なりに基づいて行動します。

その人物の全ての行動は、その人物の人格から派生したものでなければならない、ということです。

だからある程度、キャラクターが動いているのを見ていれば、「このキャラクターのこの行動は、こういう考えやこういう理由やこういう感情からだな」ということが分かり、そういう数々の言行から帰納して、人格を想像します

そしてその想像した人格から演繹して、キャラクターの行動法則が分かるようになるのです。

この作業を繰り返して「このキャラクターはこういう人格を持っているんだ」と、そのキャラクターを一人の人間として理解するのです。

 

ところが「そして、誰もいなくなった」というドラマは、登場人物の誰一人として人格を類推することができません。そのキャラクターが何が目的で、何を思ってその行動をするか分からないから、行動から人格を導き出すことができないからです。

 

例えば、

新一は何故、事件の黒幕を追求しないで唯々諾々と黒幕の要求に従っているのだろう?

日下はともかく、なぜ、馬場や砂央里と抵抗なく共同生活ができるのだろう?

なぜ万紀子にだけ、ウィルス付きの電子メールを送ったのだろう?

なぜ、馬場に小山内を殴って拉致するように頼んだのだろう?(まだ、確定ではありませんが。)

なぜ、早苗が自分の子供を身ごもっているのに、連絡しないのだろう。

 

新一の第6回の行動だけで、これだけ疑問がわいてきます。

この行動の理由を全て満たす新一の人格が、少なくとも自分は想像ができません。

分かりやすいように早苗の件だけに絞って話すと、新一が早苗を裏切ったと新一が思った根拠は、はるかに見せられた写真だけです。(五木の言動は、具体的な行動に話が及んでいないので根拠にはなりません。)

そのとき、新一ははるかが自分を陥れる片棒を担っていたのではないかと疑っていました。しかも、新一はミス・イレイズの開発をするような天才プログラマーの設定のはずです。

「自分が疑っている女から見せられた一枚の写真を鵜呑みにして、長く付き合った婚約者が裏切ったと信じて、自分の子供を妊娠しているのに話し合いどころか、連絡ひとつしないということか?」

自分の中では五木ばりに最低の男か、残念なほど頭が弱くて騙されやすい男性としか思えないのですが、新一って頭のいい天才プログラマーなんですよね????

でも、早苗も自分を陥れた一味とつながっているかもしれない、そう疑って連絡しないということですか??

そんなに疑い深い性格なら、正体不明の馬場とか砂央里とあんなに楽しそうに共同生活しねえだろうが。

 

「自分の子供を身ごもっている女性を、写真ひとつを信じてほったらかし」

「一か月前に知りあった、正体不明の奴らと共同生活して疑似家族ごっこ」

「大学時代の親友を、話もせずに暴行監禁するように頼む」

「頭がよい天才プログラマー」

「その割には、田嶋や五木の正体が見抜けない」

 

これ全部を満たす藤堂新一って、どういう人物なんですか????

第1回から見ているのですが、ぜんぜん分かりません。

頭がいいのかバカなのか、優しいのか冷たいのか、信じやすいのか疑い深いのか。

まったく統一性がないので、唯一の納得がいく答えが「その場のみの反射で動く節足動物に違いない」だったのです。

 

新一のみを例に上げましたが、「そして、誰もいなくなった」は主要登場人物ほぼ全員がこんな感じです。

はるかの自殺の原因はなんですか?

新一に振られたから??

でも、そんなの十年前からそうですよね?? 何で今さら?

死ぬほど好きなら、十年前振られたときにとっくに死んでませんか??

だからここに何か他の要素が加わらないと、今になって突然、新一に執着しはじめ自殺までするのはおかしいです。

 

人格が分からない人間たちの物語なんて、行動原理が分からないのですから、「何でもアリ」です。全部、昆虫と一緒です。

昆虫の物語を見せられたって、面白くないです。

 と言いたいところですが、昆虫のほうが習性があるからまだマシだと思います。

 

「人物設定」と「物語構成」どちらかを捨てる。

人物を彫り上げれば掘り下げるほど、物語を展開するのは難しくなります。

人物を掘り下げれば、その人物の「行動原理」が細かく設定されてしまうので、「この人物がこんなことを言うのはおかしい。(こんな行動をとるのはおかしい。)」という風に、その人物を使って物語を展開させるのが難しくなるからです。

そのいい例がコチラの漫画↓

アカギ?闇に降り立った天才 33

アカギ?闇に降り立った天才 33

 

 「人物設定」と「物語構成」は、物語の両輪でありながら、コチラがたてばアチラがたたずというものです。

この二つを両方、掘り下げるのは至難で、この二つとも優れている物語を生み出すということは、一部の天才のみがなしえることだと思います。

「そして、誰もいなくなった」の惨状を見るにつけ、そう思います。

 

一部の天才が作った作品例がコチラ↓

HUNTER×HUNTER モノクロ版 33 (ジャンプコミックスDIGITAL)

HUNTER×HUNTER モノクロ版 33 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

「人物」か「物語」かどちらかを捨てるという手法をとる作家もいます。

どちらかを捨てても、もう片方が高レベルを保っていれば、創作物は十分面白くなりえます。

 

例えば、「ライ麦畑でつかまえて」で有名なサリンジャーは、「物語」を作るのがうまくないので、そもそも初めから物語を作ることを放棄しています。サリンジャーの「フラニーとゾーイ」は、そもそも物語と呼びうるようなものが存在しません。

「恋人の俗っぽさに傷ついた妹を、兄が説教する話(というか場面)」これだけです。

妹に対して兄が説教するシーンをただ見せられるだけなのですが、「フラニーとゾーイ」は素晴らしい名作だと思います。

 

また綾辻行人やアガサ・クリスティーは登場人物をステレオタイプにすることで、多くのバリエーションのミステリーを生み出してきました。

特に「本格物」と呼ばれるミステリーは、「物語最優先で登場人物を記号化する」手法と相性がいいです。

この「登場人物を記号化する」ことに、エラリー・クイーンは「人間が描けていないのではないか」と悩んで、ミステリーではなく人間性を重視する作品を発表するようになります。(後期クイーン問題)

恐らく「物語最優先派」は、常にこういう葛藤と戦いながら物語を生み出していると思います。

確かに人間が描けていなければ、「底が浅い」「しょせんエンターテイメント」という批判を受けやすいと思いますが、読み手を楽しませるエンターテイメントを描けるというだけで、十分素晴らしい才能だと思います。

 

自分は色々と文句は言いますが、物語をまったくのゼロから作り上げることがどれほど大変なことかは想像がつくつもりです。

村上春樹も言っていましたが、「どれほどたいしたことがないように見える物語でも、まったくの無からひとつの物語を作り上げることは大変なことだ」自分もそう思います。

読み手としての自分の願いは、ただ面白くて素晴らしい物語を見てみたいそれだけです。

 

今までいくつもの素晴らしい物語に出会い、時には強い影響を受けたり、時には支えてもらったりしてきました。そのときの感動を忘れることができず、素晴らしい物語を見てみたいという期待が強すぎるのかもしれません。

どれほど頭にきても、この期待を捨てることはないと思いますので、これからも素晴らしい物語が見れることを願いながら、小説やドラマ、漫画を見続けたいと思っています。

 

【漫画】最新刊があまりに面白いので、諌山創「進撃の巨人」がすごいと思う理由を全力で語ってみた。

 

先日、最新刊である20巻が発売された「進撃の巨人」ですが、たいへん面白かったです。

 

 

「進撃の巨人」との出会い

自分と「進撃の巨人」の出会いは、週刊少年マガジンに掲載されたリヴァイが主人公の読み切り漫画でした。

絵は下手くそ。演出は下手くそ。一般受けしにくそうな内容。ひと目で新人が書いたとわかる。

それでもこう思いました。

 

「これはすごい漫画だ」

 

兄ちゃんに大興奮して、「今週のマガジンに載っていた漫画、すごくね?!」と語ったら、奇妙な習性で動く虫を見るような眼で見られたこともいい思い出です。

 

最初のころは熱中していて、じょじょに冷めた

最初の数巻は、何回読んだか分からないほど繰り返して読みました。

ネットの考察サイトも読み漁って、自分でも考察したりしました。

女型巨人の正体がアニだ、と分かった時点で急激にテンションが下がり、鎧型巨人と超大型巨人がライナーとベルトルトだと判明した時点で完全に熱が冷めました。

 

結局、人間対人間なのか。

 

好みの問題だと思うのですが、巨人が未知の、人間とはまったく違う習性で理解不能な生物であって欲しかったのです。

クトゥルフ神話の神々や、作者が影響を受けたというマブラブのBETAのように、相互理解が不能な、人間の温かい情や冷静な論理などを全て無意味になぎ倒す、不気味な脅威と人間が闘う姿を期待していたのです。

これは自分の勝手な期待であり、だから「進撃の巨人」はダメだとは少しも思いません。

 

ただ個人的には、相互理解が可能な者同士が戦う漫画はもういいかなと思っていたのです。なので、そのあとは割と惰性で読んでいました。

コミュニケーション可能だと、どれだけ敵が無慈悲で残酷に見えても、結局は「現代社会の人間の価値観をベースにして」無慈悲さも残酷さも表現しますよね。

書いている作者が、現代社会の価値観で生きているのですから当たり前なのですが。

その価値観や倫理観を前提にして、アンチテーゼを主張されるのは、もういいかと思っていたのです。

例えば「人間にも残酷な面がある。だから滅ぼしてもいい」という主張。

「残酷なことはいけないことだ」という現代社会の倫理観を、敵役も踏襲しています。

そういう主張合戦みたいなのは、お腹いっぱいだったのです。

 

人間なんて老いも若きもいい人も悪い人も、才能がある人もない人もまとめてゴミみたいに簡単に殺される、

何で殺されるのかその理由もよく分からない、

自分たちの正当性を主張する暇もない、自分の存在意義なんて追求する暇もない、

そういうことが当たり前の世界で人間がどう生きていくか、という内容を勝手に期待していました。

 

だから「ああ、また“正しいこと”がある世界で、正当性の主張合戦をするわけね」と思って、完全に冷めきった心で「進撃の巨人」を読んでいました。

 

しかし!!

 

突然また、ものすごく面白くなってきた

どこからまた面白いと思うようになったのかは、はっきりしていています。

第69話「友人」からです。

ケニーとウーリの出会いから別れ、その後のケニーの心情を描いた物語です。

ここからまた目が離せなくなり、最新巻の20巻の余りに熱すぎる展開に全自分が大興奮しています。

 

自分が思う「進撃の巨人」の一番すごいところ

否定的なことを言っておいて何ですが、第69話より前の「進撃の巨人」もとても優れた漫画だと思っています。

世界観は斬新なのに破綻していていない。(世界観を破綻させないでなおかつオリジナリティを出すのは、非常に難しいと思っています。)

物語の展開は、文句なく面白い。キャラクターは魅力的。

これだけ爆発的にヒットしたことがむしろ当然と思えるような、すごい漫画だと思っています。

 

ただ、それだけならば他にも同じ特徴を持った漫画はあります。

自分が「進撃の巨人」だけが持っていると思っているすごい点は、

 

①「自分は特別な存在ではなく、存在意義など分からず死んでいく可能性が高い」という思想

②「①であっても、その集合体である人類は絶対に生き抜くべきである」という思想

 

この二つの思想が、まったく等価で矛盾なく作品の中に内包されているところだと思います。

①の思想を「自分」ではなく、「他の登場人物」に置き換えた場合は、ほぼ全ての漫画がそうではないかと思います。

「自分(=主人公や主要キャラクター)」は特別。いかなる危機にあっても恰好よく、最後には必ず勝って、周りから称賛される存在である。

これは創作物というものが、ある程度、読み手に自己投影させて承認欲求を満たす装置である面が強いことをを考えると、当然のことと思います。

*そういう構成の創作物が劣っていると言いたいわけではありません。そういう構成の創作物の中でも、好きな作品もたくさんあります。

 

「進撃の巨人」は登場人物が等しく無力である

「でも進撃の巨人も、主人公のエレンは巨人化できるし、リヴァイやミカサはアッカーマンの血を引いていて、他の奴らより強い特別な存在じゃないか」

そう思う方もいるかもしれません。

しかし人間たちの中では強く特別な存在に見えるエレンやリヴァイ、ミカサも大型巨人やサル型巨人の前では等しく無力です。

自分ひとりの力で彼らを倒せるどころか、他の人間と同じようになす術がありません。

巨人の前では、主人公であろうが主要登場人物であろうが他の人々と同じ無力な存在である、この前提が素晴らしいと思います。

 

「進撃の巨人」は感情移入ができそうなキャラクターたちが、見せ場もなくあっさりと死んでいきます。

リヴァイの部下だったオルオやぺトラ、調査兵団のナンバー2だったミケ、最新刊ではマルロが死にました。

一体、彼らは何のために死んだのだろう?と思えるような、無意味で残酷な死に方です。

こういう死の描写が積みあがってくると、ありがちな展開が「そもそも人間の生に意味などないのではないか?」「人類は滅んだ方がいいのではないのか?」という命題が作品内で出てくることです。

その考えに対して葛藤し、反対する主張を重ねることで、モチベーションを上げるという手法がよくとられます。(もしくは作品のテーマそのものにする。)

「進撃の巨人」が他の作品と一線を画する点は、この手法をとらないところです。

 

それでも生まれたからには生きなければならない

「進撃の巨人」のすごいところは、これほど人の生き死にが無意味で、残酷な世界でありながら、主要登場人物たちの「人類は生きなければならない」という意思がいささかも揺らがない点です。

 

これほど生きること死ぬことが意味のないことならば、生きていても意味がないのではないか?

存在意義を示せず、死んでいくのならば、生きることに何の意味があるのか?

 

「進撃の巨人」の登場人物たちは、こういう発想が一切ありません。

これほど人間の生き死にが無意味であり、無力で特別でも何でもない人間たちであっても、

 

この世界に生まれたからには、生きる。人類は巨人を倒して、生き残る。

自分たちは壁の外に出て、世界を見なければならない。それは、この世界に生まれたからだ。

どれほど無力でちっぽけな存在でも、人間は自由でいなければならない。

 

主人公たちのこの思想が一ミリたりとも揺らぐことがありません。

どれほど絶望的な状況でも終始一貫して、「巨人は倒すべきもの」であり「人類は生き残るべきもの」なのです。

これが驚異的なことだと思います。

 

「進撃の巨人」のさらにすごいところ

「人間は等しく、無力でゴミのような存在」

「それでも、人間は生まれたからには、絶対に生きなければならない」

 

この二つの思想の並列だけでも十分驚異的なのですが、最新刊の20巻で、さらにすごいことを言っています。

 

 自分が生まれてきた意味を、後世の生まれてくるかどうかも分からない人間に託す。

 

どういう経験をして、どういう環境におかれたら、こんな発想が出てくるのか分かりません。もはや、悟りのレベルです。

 

人間というのは、みんな、自分にとって自分が特別だから、他の人にも自分が特別であることを認めてもらうために生きている部分があります。

承認欲求、自己実現欲求と呼ばれるものです。

 

「自分が、かけがえのないただ一人のユニークな存在であることを、認めて欲しい」

 

社会の中で生きる人間ならば、誰でもそうだと思います。

しかし「進撃の巨人」の世界は、人は自分の個性を発揮する暇もなく、意味もなく死んでいきます。自己実現が非常に困難な世界です。

そんな世界に対して、エルヴィンは兵士に「怒りの声をあげろ」と言います。

最新巻の20巻で、エルヴィンが「無意味に死んだ兵士たちの生に、我々が意味を与えるのだ」というセリフを言っていますが、

 

見も知らぬ他者の人生の意味を、自分が証明する。

自分の人生の意味を、見も知らぬ他者が証明してくれると信じる。

 

この発想が、もうコロンブスの卵もびっくりの発想だと思います。

「顏も見たことのない……そもそもこの世に生まれてくるかどうかも分からない他人に、自分にとってはかけがえがない唯一の存在である、自分の生命の意味を託す」

 

自分の子供や、信頼している恋人や親友に託すのならば、理屈としては分かります。

人は、「その相手が生きることで自分の存在意義が証明される」と思うからこそ、自己犠牲がはかれるのだと思います。

 

「自分が死んでも、その人が生きている限りは自分の存在は証明され続ける」

 

ワンピースで「人が死ぬのは、肉体が滅んだときではなく、完全に忘れ去られたときだ」というようなセリフありましたが、それはこの発想からきていると思います。

「特攻の島」でも、主人公の渡辺を生かすために友人の関口が回天に乗りました。

そのときに「貴様のために死ぬよ」と言ったのは、渡辺が笑顔の関口の絵を描いたからだ、と思わせる描写ありました。

その絵を思い浮かべて、自分の肉体は滅んでも、渡辺の中で自分の存在は生き続けると信じることができたから、関口は「渡辺のために死ぬ」と言ったわけです。

「自分の肉体が死んでも、その相手の心の中に自分が存在している限り、自分が生きてきた意味が証明されるから」自己犠牲が払えるわけです。

自分ができるかと言われればできないと思いますが、理屈としては分かります。

 

しかし、「進撃の巨人」で語られている思想は、そういうことではありません。

自分があったこともない、そもそもまだ存在しているかどうかも分からない、後世の人間が、自分の存在に意味を与えると信じて死ぬ。

こう言っているわけです。

顏を知っている人間を信じることすら難しいのに、顏も見たことのない人間を自分の存在意義を託すほど信じて死んでいく。

果たして、そんなことが可能なのだろうか??

「等しく無力で特別でもない人間たちが、その信頼をつないで死んでいくことで、人間は生き続けていく」

こういう考え方が当たり前のように描かれている、この一点だけをみても「進撃の巨人」は他に類をみない漫画だと思います。

 

終わりに

いよいよ話が佳境に入り、終わりが見えてきました。

ベルトルトの「壁の中の人間たちは、悪魔の末裔」という言葉の意味や、ジークとエレンの関係も明らかになると思います。

そのとき、主要登場人物たちの心がどのように動くのか、今から楽しみです。 

 

21卷以降の感想。

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【漫画】「尊敬している人は?」という質問をされたときに答えるべき、生き方が尊敬できる漫画の男性キャラクター五選

 

その生きざまを尊敬している、二次元の男性キャラクター五選です。

 

受験や就職活動の面接などでよく聞かれる「尊敬している人は?」という質問、答えに悩みませんか。

 

そんなことを言われば、世の中の人には誰だって尊敬すべきところはあるし、誰だって「ちょっとなあ」と思うところはあります。

だから、世の中を人をほとんど尊敬していると言えばいえるし、誰も尊敬していないと言えば、誰も尊敬していない。

「尊敬している」と言い切れるほど、その人の深いところを知っている人なんて(親も含めて)誰もいないし……。

 

そんな頭でっかちなことを考えがちな自分ですが、二次元でよければ、尊敬している人がけっこういます。

 

今日は、その生きざまを掛け値なく尊敬している男性キャラを五人紹介したいと思います。

 

 

 

第5位 利根川幸雄(賭博黙示録カイジなど)

「賭博黙示録カイジ」や「中間管理職トネガワ」などでお馴染みの、帝愛グループの中間管理職利根川さんです。

高度成長期の働くお父さん像の代表だと思います。

 

カイジたちに対して厳しいことを言ったり、現実をつきつけたりします。

もちろん本当のお父さんとは違って、カイジたちのことなど微塵も思いやっているわけではありません。

利根川というのは、現実逃避型ニートのカイジにとっては乗り越えるべき壁なのだと思います。

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 (引用元:福本伸行「賭博黙示録カイジ」)

 

 

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(引用元:福本伸行「賭博黙示録カイジ」)

 

有名なこのセリフも、偽悪的だけれども、現代社会の真理をついていると思います。

ついているんだけれども、耳に痛いこの真理をわざわざ「言ってあげる」ことで、それだけが真理じゃないということを、逆説的に語っているのだと思います。

自分は、福本漫画のそういうところが、たまらなく好きです。

 

「中間管理職トネガワ」を見ると、今の日本は、こうやって上だけを見て働いた人たちが作り上げたものなんだなと思います。

「今の日本」がいいか悪いかはまったく別にしても、そのがんばりにはやはり頭が下がります。

 

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(引用元:福本伸行「賭博黙示録カイジ」)

 

社畜と呼ばれて、家族には「家族を犠牲にした」と言われても働き続けて、最後の最後が強制焼き土下座です。

利根川は高熱の上での焼き土下座を、強制されるのではなく自らの意思で行いました。

「俺に触るな」

「自分でやれば文句はないだろう」

利根川もタバコを吸いながら、鉄骨から落ちて死んでいく若者たちを、平然と見ていたのです。

勝負に負ければ、どんなひどい目に合わされても、命を失っても文句は言えない。

そういう世界で生きてきた利根川は、自分が敗者になっても、その生き方を貫きます。

 

他人にも厳しい生き方を強いるが、自分も逃げ出さず同じように厳しい生き方をしている、誇り高く仕事にすべてを捧げた男、それが利根川です。

中間管理録トネガワ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

中間管理録トネガワ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 

 利根川も兵藤会長も帝愛グループも、まとめて大好きになってしまう本。

 

 

第4位 モズグス(「ベルセルク」)

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(引用元:三浦健太郎「ベルセルク」) 

 

「神は沈黙を尊ばれます」

四位は「ベルセルク」で一番好きなキャラクター、血の経典のモズグスです。

モズグスのいいところは、とても純粋なところです。

 

モズグスが信仰する宗教は、恐らくキリスト教をモデルにしていると思うのですが、キリスト教の元になったユダヤ教が

「原罪を持つ人間は、厳しい父なる神に罰せられなければならない」

という思想があります。

なので、自罰的行為や自傷行為というのは、

「罰っせられることは、人間全体の罪を背負い償うことができる」

という発想があるんですね。

 

そういう「厳格な父なる神」であるユダヤ教の神ヤハウェに対して、

「神様はそんなに、人間を罰し続けるような厳しいだけの存在じゃないよ。愛に満ちた存在なんだよ」

という教えを広めたのが、キリストです。

 

拷問は確かに残酷なことですが、

「自罰行為は、人類の原罪を背負い清める尊い行為。拷問は、それをやらせてあげること」

という思想なんですね。

だから、無実でありながら、すべての人の罪を背負って死んだキリストは偉大なのです。

この辺りは、日本の現代社会の価値観ではかると分かりにくい部分があると思います。

 

そんな思想を忘れ去って、ただ自分たちの権力欲のためだけに汚職をしたり、人を痛めつけたり、戦争を起こしたりした神職に対して、モズグスは自分自身も一日千回頂礼をしています。

これがすごいな、と思います。

 

どんなに楽しいことでも、毎日続けるのは大変です。

例えばブログ書くのでも、ジョンギングするのでも、始めるのは簡単ですが、続けることはとても大変だと思います。

「継続は力なり」「ローマは1日にしてならず」とは、よく言ったものです。

モズグスは、頂礼を毎日千回欠かさず続けています。(何年続けているのかは、忘れましたが。)

 

自分が痛みを受けたり、罰せられたりすることが信仰であると信じているからです。

 

特定の神さまを信じたことはありませんが、別に宗教でなくても、人間というのは自分が信じるもののために生きるのが一番いいのではないかと思います。

ジョブズが言っていたとおり、

「他人のドグマに従うのは時間の無駄。己の内なる声にだけ、耳を澄ませ」です。

 

ただ、モズグスは他人に自分の信念を押し付けるところが、ちょっとなあと思います。

その信念の強さに救われた人もいましたが、強烈な信念はどちらかというと人を傷つけがちな気がします。

「信仰とは、死ぬことと見つけたり」

いいセリフですけれど、やはり自分ひとりにとどめないとね、と個人的には思います。

ベルセルク 38 (ヤングアニマルコミックス)

ベルセルク 38 (ヤングアニマルコミックス)

 

 

 

第3位 ガフ・ガフガリオン(ファイナルファンタジータクティクス)

過去記事でも書きましたが、創作上の登場人物の中で五指に入るくらい好きです。(ゲームのキャラクターでは、たぶん一番好き。)

何よりも、ガフガリオンは、利根川やモズグスとは違い、己の腕一本で生きているところが好きです。

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(引用元:http://blog.livedoor.jp/kamisamadq7/archives/5863791.html

 

「請け負った仕事は、それがどんな内容でもやりとげる。それがプロってもんだ」

 

世の中の裏表を知り尽くし、酸いも甘いもかみわけて、

「誇りなんて、そんな役に立たないものは、とっくのとうに捨てた」

と言いながら、ダイスダークが弟のラムザも邪魔なら始末してもいい、と言うと、

「実の兄とは思えン台詞だな。胸くそが悪くなるぜ」

雲の上の立場のダイスダークにすら、こんな風に毒づく。

金のために何でもやるのに、どこか誇り高い性格をしています。

世間の倫理や法則とはまったく無縁の、自分独自の価値観で生きていて、しかもその価値観に絶対的に従うというところが好きです。

 

ガフ・ガフガリオンをよく表しているのが、オヴェリアを殺そうとしたときに、自分を責めるラムザに対して言い返したこのセリフだと思います。

 

「“しかし”って言うンじゃねぇ!」

「おまえは“現実”から 目を背け、逃げているだけの子供なンだよ!
「それがイヤなら自分の足で誰にも頼らずに歩けッ! 独りで生きてみせろッ!!」
「それができないうちはオレにでかい口をきくンじゃねぇッ!」

 

恵まれた立場にいるくせに、人にあーだこーだ言うラムザが大嫌いな主は、ガフガリオンのセリフにいつもスカッとしていました。

「自分の足で立っていない奴の言葉は、聞くに値しない」

ガフガリオンが言いたかったことは、そういうことだと思います。

ファイナルファンタジータクティクス 獅子戦争

ファイナルファンタジータクティクス 獅子戦争

 

 

 

 

第2位 赤木茂(「アカギ~闇に降りたった天才~」など)

同性視点であれば、一番大好きで一番尊敬している人。

赤木の恰好よさは、今更、わたくしごときが語るまでもないと思います。

赤木に対して一番共感を覚えるポイントは、

「自分が自分であること、が一番大切」

という点です。

お金よりも名誉よりも、愛よりも、理想よりも、「自分が自分であり続けること」がこの世で一番大切な人って、なかなかいないと思います。

 

だから、勝負に勝つ負けるよりも、

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(引用元:福本伸行「天ー天和通りの快男児ー」)

 

これが、大切なんですよね。

アカギ 31 (近代麻雀コミックス)

アカギ 31 (近代麻雀コミックス)

 

 まだ、鷲巣と麻雀しているのか……。

 

 

 

第1位 マニゴルド(聖闘士星矢 冥王神話)

二次元界で最もリスペクトしている赤木を抜いて、一位がこの人。

「聖闘士星矢」シリーズの蟹座は下衆という伝統を、見事に打ち破りました。

 

「言行不一致」という言葉は、たいていは言うことは偉そうなのに、行動が伴ってないという意味で使われますが、マニゴルドに限っては逆です。

言うことは冷めていて適当ですが、行動は情にあふれた熱い人間です。

「アルデバランが死んだのは、自分のせいだ」

と、自分を責める主人公・天馬に、登場早々こんなことを言います。

 

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(引用元:手代木沙織「聖闘士星矢 冥王神話」)

 

蟹座らしく、悪役ばりのひどいセリフを吐くのですが、責任感があり、命令されたので主人公たちを保護します。

…。

…。

…。

すみません、画像を探していて、完全にマニゴルドに見入っていました。

 

ビジュアルは後輩のデスマスクに似ていますが、中身はまるで違います。

デスマスクと蟹座を馬鹿にしていたあの頃を、若干申し訳なく思うほどです。

デスマスクが使っていたときは、いかにも悪役っぽいだっせえ技だなと思っていた積尸気冥界波(せきしきめいかいは)も、マニゴルドが使うと何故か恰好よく見えます。

 

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(引用元:手代木沙織「聖闘士星矢 冥王神話」)

 

かっこいい(・∀・) 

 

一見、そういう人には見えないのですが、マニゴルドは「冥王軍」と戦うという自分の使命に対して、特に文句も言いませんし、疑問も口にしません。

冥王神話は黄金聖闘士がほぼ全滅する話なので、全員そうだと言えば(アスミタ以外)そうなのですが、他の黄金聖闘士は、真面目な性格なのでどこか悲壮感が漂います。

唯一、マニゴルドは、肩に力も入らずに変に悲愴にも真面目にもならずに、飄々としていながら、冥王軍と戦うという黄金聖闘士としての自分の使命を何ひとつ文句をいわずにきっちりとこなします。

 

「自分が選んだわけではないのに、自分のためでもないのに、なぜ死を賭して戦わなければならないのか」

そんな風に思わずに、

「自分に与えられた環境を受け入れる」

「自分に与えられた義務をしっかりとこなす」

「黄金聖闘士となって、命がけで戦う⇒結果、命を落とす」

という運命に、最後まで疑問を呈さずに、自分に与えられた運命として受け入れて戦って死んだというところが、すごく恰好いいなと思います。

聖闘士星矢THE LOST CANVAS冥王神話外伝 4 (少年チャンピオン・コミックス)

聖闘士星矢THE LOST CANVAS冥王神話外伝 4 (少年チャンピオン・コミックス)

 

 

この五人は、どんな環境の中でも己の生き方を貫く、漢の中の漢です。

(モズグスは「漢」と呼んでいいのか分かりませんが。)

自分もぜひ、このスタンスを見習って生きていきたいと思います。

 

どうでしょうか? 

「尊敬する人は?」と聞かれたときの参考になりそうでしょうか?

正直、そんな質問、するほうがどうかと思います。

帝愛グループの面接なら、そんな質問は絶対にされませんよ。

就職をお考えのさいは、ぜひ、帝愛グループにご連絡ください。

「中間管理職トネガワ」を読んだ限りでは、超絶ブラックですけれど。

 

 

 

「エヴァンゲリオン」が苦手だ。

 

 「新世紀エヴァンゲリオン」についての感想です。新劇場版は見ておらず、TV版、旧劇場版をみての感想です。

 

昔から「エヴァンゲリオン」が苦手だった。

「面白いな」と思いますし、好きな部分もある。でも、どうしてもモヤモヤする部分があり、全面的に受け入れられない。見た当初は、なぜ、あんなにも熱狂的に人気が出たのか、理解ができなかった。

 

それは何故なのかということを考えたときに、長編アニメの中では自分の中では不動の一位の座にい続けている「オネアミスの翼 ~王立宇宙軍~」と比較すると分かりやすかったので、それについて書きたいと思う。

 

*あくまで、個人的な一解釈です。

 

「エヴァンゲリオン」が苦手な一番の理由

「個人の問題が、社会や世界に強い影響力を持つ」ということに対する違和感。

言葉にすると、こういうことだと思う。

 

「エヴァンゲリオン」の不思議なところは、「社会」が出てこないところだ。一般市民が逃げ惑ったり、普通に生活をする、そういうシーンがほとんど出てこない。

「NERV」は、設定では「社会的組織」だが、物語としての内実は主人公・碇シンジの家庭の役割を果たしている。「NERV」内の人間関係は、「シンジを中心とした」疑似家族という匂いが非常に強い。

そう考えると、「エヴァンゲリオン」には実社会では誰もが経験する「ビジネスライク(社会的)な人間関係」というものが、ほとんど出てこない。

 

他のアニメや漫画でも、主人公が特別な力を持ち、世界を救う(などの影響力を及ぼす)ものはたくさんある。

他の創作物と「エヴァンゲリオン」が一線を画す点は、「エヴァンゲリオン」は、

主人公と関係がない「社会(世間と言い換えてもいい)」の存在が一切、感じられない点だ

 

「エヴァンゲリオン」の世界全てが、主人公シンジとの関連でのみ成り立っているように見える。

旧劇場版でゼーレの兵士がNERVに侵入してきたときに、すごい違和感があった。

「この世界に、シンジに関係ない人間が存在するんだ。」

という当たり前の事実に驚いたのだ。

固有名詞もなく「NERVに侵入する」という役割を与えられただけの存在を、「物語上の人間(人格)」と定義していいのかどうかはさておいて、あのシーンを見たとき、

「この世界は、シンジの周りの空間を切り取って密閉された空間ではなかったんだ」

ということを再認識した。

 

TV版のシリーズを見た限りでは、主人公シンジは、恐ろしく狭い関係(疑似家族)の中で生き、自分の存在証明という究極的に個人的な問題で使徒と戦い、そんな社会とは切断された場所で、社会とはまったく関係ない問題で悩み、戦い、傷ついている。

それが「人類の存亡」という最も巨大な社会問題と結びついている、ということに強烈な違和感を覚えるのだ。

こういう構造の物語を作っている人に対して、「自意識過剰もたいがいにしろ」と言いたくなる

 

社会に出ることを拒みながら、社会に影響力を持ちたい

この辺りの精神構造が、「エヴァンゲリオン」が爆発的にヒットした理由だと思うのだが、そう思うのが非常に残念だ。

 

「社会に出て(他人と関わって)、否定されて傷つくのは怖い。社会(他者)から一切、否定されることなく認知されたい」

 

現実で疎外感を感じている若者が抱きがちな、自意識からくる未熟な願望を物語として表現したのだと思う。

自意識自体を、否定しているわけではない。「自分を重要人物と認めて欲しい」という願望は、多かれ少なかれ誰にでもある。むしろ「自分は自分にとっては特別な存在」なのだから、そのことを他者に承認して欲しい、というのは当然の欲求だと思う。

 

ただ「社会に出ていくことが怖い」自分と「社会(人類)を救う」自分を、何の羞恥もなく両立して並び立たせてしまうこの物語を見ると、いくら何でも弱すぎるし、図々しすぎると思ってしまう。

どんなに怖くても、社会に出て、他者と関わりを持ち、その中で生きていかなければ、社会に影響力を与えたり、ましてや動かすという対価を得ることはできない。

 

「他者に関わることないが、絶大な影響は与えられる。そんなに都合のいい世界はないよ」

 

そう思う。

これについては、「使徒との戦いが、社会で他人と接することのメタファーだ」という説も見たのですが、個人的には、これは全くメタファーになりえないと思う。

「社会で他者と接して生きていく」ことと「使徒と戦う」ことは、要求されることがまったく違うからだ。

 

旧劇場版のラストで、シンジは巨大化したレイに取り込まれて、集合的意識となることを拒み、アスカと共に世界に新しく生まれた。

アスカ(=他者)を殺そうとして殺さなかっただけマシだけれど、アスカもいわば、シンジの疑似家族……どころか、シンジの仮想別人格と言っていいくらいの存在だ。

社会(他者)は、相手を殺そうとしたら「気持ち悪い」くらいでは済まない。

エンディングまできても、あまり成長しないんだなあ、と思った記憶がある。(新劇場版は、この辺りはどうなのでしょうか)

 

「オネアミスの翼~王立宇宙軍~」は成長の物語

 「エヴァンゲリオン」が「社会から隔絶された場所で生きる、非成長の物語」だとすれば、「王立宇宙軍」は「社会に出て生きることを決意した、成長の物語」だ

 

主人公のシロツグは、「落ちこぼれの金喰い虫集団」と揶揄される宇宙軍に所属し、怠惰に毎日を過ごしている。

一目ぼれした女の子に、いいところを見せたくて宇宙飛行士に立候補するが、この後に社会からの洗礼が待っている。

「貴重な税金を、そんなことで消費していいのか」と言われたり、他国の暗殺者に命を狙われたり、自分がやろうとしていることを否定したり、自分を傷つける「他人」が現れる。

 

そこで、シロツグは悩む。

路上生活者を見て、「自分のやっていることは意味のあることなのか。ロケットの開発よりも、そのお金をこの人たちの救済に回したほうがいいのではないか」

そんな風に考えたりもする。

 

迷い、傷つき、考えながら、「恋をした勢いで」というきっかけで立候補しただけの計画に、真剣に打ち込み、自分自身の意思で宇宙飛行士になり宇宙にいきたいと思うようになる。

生きる目標もなく、怠惰に日々を過ごしていた21歳の若者が、真剣にうちこめる仕事を見つけ、周りの人から賛否両論様々な対応をされ、それでも自分自身の意思でその仕事をやり遂げる物語だ。

 

「王立宇宙軍」は物語もいいが、何よりも世界観が詳細に設定されているところが素晴らしい。本記事では、「エヴァンゲリオン」との比較が目的なので、この辺りでやめておくが、ぜひたくさんの方に見て欲しい。

 

「エヴァンゲリオン」についてまとめ

このような点で、自分には全面的には受け入れがたい物語だが、「エヴァンゲリオン」が多くの人を夢中にさせるアニメであることは、まぎれもない事実だと思う。人の心をとらえるものがあったから多くの人が熱狂し、社会現象にまでなったのだろう。

旧劇場版「まごころを、君に」で、自分の存在を証明するために戦うアスカの姿には、とても感動した。

 

その作品にしかないものを持った、時代を代表する傑作であることは間違いないと思っている。

 

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【漫画感想】 漫画史上、一番のもったいない漫画 樹なつみ「獣王星」

 

「もったいない漫画」

というのは、何かと言いますと、最初のほうはすごく面白いのに、もしくは設定や世界観がとても魅力的なのに、後半で面白さが大失速する漫画のことです。

 

「最初からつまらない」のならば、読むことをやめて忘れておしまいなのですが、この「もったいない漫画」に出会ってしまうと、もったいなくてもったいなくて、作者のもとに出向いて、襟首をつかんでガクガク揺さぶりたくなります。

 

「あんなに面白かったものをどうしてこんな風にしてしまったんだ」

 

誰しもそういう漫画にひとつやふたつ出会ったことはあると思います。

自分の中で、今まで読んだ中で一番もったいなくて歯噛みをしたのはこの漫画です。

獣王星 完全版 1 (花とゆめコミックス)

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 漫画は少年漫画、青年漫画、少女漫画問わず色々と読みましたが、これが「もったいない漫画」ぶっちぎりで1位です。

 

深夜アニメになって、主人公とメインキャラの声優を堂本光一と小栗旬がつとめたので、世間の認知度はあるのでしょうか? 

少女漫画なので、男性は知らない人が多いかもしれません。

 

「獣王星」はジャンルがSFで、設定がとてもうまくできています。

 

主人公は、バルカン星系の中でも特権階級のみが住めるコロニー「ユノ」に住んでいる、少年・トールです。

 

トールは両親と双子の弟・ラーイと、何不自由なく暮らしていました。

しかしある日、「ユノ」のトップであるオーディンに両親を殺されてしまいます。

そして、ある人物の手によって、ラーイとともにバルカン星系では極秘の存在であった、「キマエラ」という惑星に送られます。

この「キマエラ」は環境が苛酷であり、死刑制度がないバルカン星系では「キマエラ」に送られることが事実上の死刑を意味します。

 

通称「獣王星」と呼ばれる、「キマエラ」の設定がとてもよくできています。

 

1年が181日あり、181日灼熱の昼が続きその後181日極寒の夜が続く。

それぞれ昼と夜の間の「夜明け」と「夕暮れ」にはビッグストーム(大嵐)が吹き荒れる。

そのため2年で1日たつ。

 

公転周期が自転周期の三分の二だから~~うんちゃらかんちゃら(ここは超うろ覚えなので、絶対に間違っています)という設定があり、そのために、50度の灼熱の昼が181日続き、「夕暮れ」に大嵐がきて、零下40度くらいの極寒の「夜」が181日続き、「夜明け」にまた、大嵐が吹き荒れるという星です。

この「夜」がとても苛酷で、住民の三分の一以上がここで命を落とします。

 

ブリザードが吹きすさぶ極寒の「夜」を乗り切るためには、それぞれの人種ごとに作られている組織「輪(リング)」に入れてもらい、砦に住まわせてもらわなければなりません。

この「輪」が四つあり、それぞれ肌の色で、「茶倫(オークル・リング)」「白輪(ブラン・リング)」「黄輪(サン・リング)」「黒輪(ナイト・リング)」と分かれています。

 この四つの「輪(リング)」のトップが決闘を行い、「キマエラ」の事実上の王である獣王を決めます。

 

キマエラの生態系は異常であり、生態系のトップに君臨するのが植物です。

自発的に人間を襲ってくる危険な植物も多く、人間は片隅でひっそりと生きています。

 

この設定だけで、ごはん五杯はいけます。 

苛酷な環境の中で、純粋培養で育った少年がどう生き残るのか、一体、どんな凶悪な植物が出てくるのか、「輪(リング)」同士で、どんな駆け引きと争いが行われるのか、

 

「夜は、砦の中の環境は閉鎖的で最悪になる」とはどんな状況になるのか。

少女漫画にあるまじき、疑心暗鬼での殺し合いなんていう、陰惨な展開もありうるのか。

胸をときめかせながら、夢中で読みました。

 

主人公のトールの少年期は、神展開です。

主人公のトールが成長して、青年期に入ります。

 

おおっ、立派に成長して……。

と思ったのも、つかの間、このあとの展開がとにかくひどい…orz。

 

途中でカリムという名前の美女が出てきますが、トールがあっという間にこの娘のことを好きになり、あっという間にくっつき、あっという間にカリムが死にます。

その勢い余って、トールが「白輪(ブラン・リング)」のトップであるザギを倒し、あっという間に獣王になります。

あれよあれよという間に、というか言う暇もなく、獣王になって恩赦となり、「ヘカテ」という惑星に向かいます。

 

このあとの展開も色々とひどいです。

とにかく何もかもがあっという間すぎて、謎の男・サードの正体とか、地球は実は大昔に滅んでいたとか、恩赦されたあとの歴代の獣王たちの末路はどうだったのかとか、主人公のトールの驚異的な強さは、何故なのかとか、色々と謎解きがされるのですが、

ただもう「へえ、そうなんだ」としか思えません。

 

割と初期に双子の弟のラーイが谷から落ちて死ぬのですが、これはラーイがラスボスになってトールの前に現れる伏線に違いないと信じていました。

最初は、そういう設定だったんじゃないかと、今でも疑っています。面倒くさくなって、やめたに違いない。

 

あんなに練られて、面白くなりそうな要素が満載な「キマエラ」という惑星の設定が、なにひとつ生かされず、結局は「選ばれし子供」である主人公の遺伝子を鍛えるため??の計画でした、で終わります。

 

なんじゃ、こりゃΣ(;゚Д゚)?!

 

この漫画の作者樹なつみは、こういう傾向の作品が多いです。

設定や始まりはとても魅力的なのに、最後は尻すぼみで終わります。

大風呂敷をたためないタイプではなく、見えないくらい小さくたたんでしまうタイプです。

壮大な設定を、個人レベルに収斂して終わらせてしまうというパターンが非常に多いです。

同じパターンだった「花咲ける青少年」も「デーモン聖典」も、それなりに楽しく読めます。

「獣王星」ほどやっつけ感が溢れる漫画は、初めてです。

 

同じ設定で、誰かに一から書き直して欲しい。

輪間の争いや内部闘争がメインの物語なら、絶対に読みます。

 トールの少年期までは、「神漫画」と思っていたのに……。

獣王星 完全版 全3巻 完結セット(花とゆめコミックス)

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【漫画】人間のすべてを描く現代の聖書 西原理恵子「ぼくんち」

 

 西原理恵子の最高傑作にして、現代の聖書とも言われている漫画「ぼくんち」の紹介です。

 

自分が今まで読んだ中で一番好きな漫画は、福本伸行の「銀と金」です。

「銀と金」を読むまで、ずっとベスト1だった漫画が西原理恵子の「ぼくんち」です。

 

このふたつは、未だに甲乙つけがたいです。

エンターテイメントとしても完成されているぶん、長いこと「銀と金」に軍配をあげていたのですが、「ぼくんち」を久しぶりに読んだら、心の揺さぶられ方が半端なかったです。

 

「ぼくんち」を初めて読んだのは、高校生のときだったと思います。

そのとき、とてもいい話だな、と思いました。

でもそれから長い年月がたったいま読むと、高校生のころの自分は何も分かっていなかったと思います。

この漫画は、長く生きれば生きるほど、人生を歩めば歩むほど、心に響く漫画です。

 

有名な漫画なので、読んでいる方も多いと思います。

読んでいない方は、今すぐ買うか借りるかして読んでくれといいたいところですが、とりあえず、紹介したいと思います。

 

「ぼくんち」あらすじ

「ぼくの住んでいるところは、山と海しかない静かな町で、はしに行くとどんどん貧乏になる」

「その一番はしっこがぼくんちだ」

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子 小学館)

 

 主人公は、一太と二太の兄弟。

生まれたときから父親は分からず、母親にも捨てられ、ピンサロ嬢のお姉ちゃん・かのこに育てられています。

 

一太と二太の周りの人たちは、「社会の底辺」と言われるような人たちばかりです。

一太の兄貴分になる、こういちくん。

 

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子 小学館)

 町で一番の不良で、トルエンとシンナーを売って生計を立てています。

 

 

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子 小学館)

 河原にボロ小屋を建てて暮らしている鉄じい。

鉄や銅線を売り買いしてくらいしているので、鉄じいと呼ばれています。

本名は誰も知りません。

 

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子 小学館)

二太の幼馴染で初恋の相手である、さおりちゃんのお父さん。

「さおりちゃんのとうちゃんはヤクザだ。でも、幹部でも構成員でもなくて、準構成員でもなくて、その下のチンピラでもなくて、時給二千円のパートのヤクザ」

「シャブをうったらやさしいけれど、酒を飲んだらあばれて、金のないときには、クズのチンピラにまでペコペコする」そんな人。

 

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子 小学館)

ニ太と仲良しのオリンピックの安藤くん。

刑務所に出たり入ったりしていて、四年にいっぺんくらいしかシャバに出てこないから、このあだ名がつけられました。

  

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子 小学館)

 競艇の日に、トロ箱を一回10円で人に貸すことで生計を立てている、トロちゃん。

全財産であるトロ箱に囲まれて、空き地で暮らしています。めちゃくちゃ魚臭いので、よくネコに襲われて泣きます。

 

他にも出てくるのは、風俗嬢やシャブ中のおじさんやら、どんどん子供を産んで育てないで捨ててしまうおばあちゃん。

そんな人たちばかりです。

その人たちは強くも優しくもなく、自分よりも弱い人間には平気で当たり散らしたり、子供を捨てても何の良心の呵責も感じなかったり、それどころか自分の子供から暴れてお金を奪う、卑しく弱い人たちです。

 

人間の弱さや醜さ、卑しさに対する赦し

弱く醜く、卑しいそんな人々に対する西原理恵子の眼差しは、限りなく穏やかです。

責めるでもなく、かばうわけでもなく、ただ淡々と彼らの日常が描かれています。

 

 心弱き普通の人たちが生きていく過程で、家族とは何なのか、人を愛するとはどういうことなのか、人間とはいったい何なのか、生きるとはいったいどういうことなのか、という生きていくうえで知らなければならないことのすべてが描かれています。

 

西原理恵子がこれを三十すぎで書いた、という事実に驚愕します。

 

自分は八十歳になっても、これだけのことを考えられるか自信がありません。

西原理恵子はすごい人だと思っていますが、それでも恐らく「ぼくんち」以上の作品は描けないだろうと思っています。

 

 大人になればなるほど、自分が歩んできた道筋と重ね合わせて涙します。

 

読んでいるほうがたじろぐほど深いことが書かれているのですが、ごらんのとおりのほのぼのタッチの絵柄と、シニカルなギャグが織り交ざっているので、読むときは割とあっさり読めます。

 

教科書に載せて、ぜひ多くの子供たちに読んで欲しい、そんな漫画です。 

 

*この記事は、2016年6月6日に投稿した記事を、再編集したものです。

ぼくんち【上中下 合本版】 (角川文庫)

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【漫画】 男性にもおすすめの少女漫画 「青空エール」の魅力を語る。

 

「俺物語」の原作者でも有名な河原和音著「青空エール」が、全19巻で完結しました。映画化もされるようなので、これを期に「青空エール」の魅力を語りたいと思います。

「青空エール」粗筋

吹奏楽野球の名門校として名高い北海道札幌市立白翔(しらと)高校[3]に入学したつばさ。いつかトランペット甲子園のスタンドに立って野球部を応援するのがつばさの夢だった。

トランペット初心者のつばさは何かとくじけることが多いが、同級生で野球部員の山田大介に励まされながら、共に甲子園を目指す。

(Wikipediaより引用)

 

吹奏楽の超名門校に入学した主人公が、まったくの初心者にも拘わらず仲間たちと全国大会金賞を目指すという話です。

 

粗筋だけを聞くと、少年漫画のスポーツものとよく似た構造です。

バスケ漫画の名作「SLAMDUNK」を彷彿させます。

ただ「青空エール」は、これらの漫画とも一線を画します。

 

「青空エール」のすごいところ

「青空エール」のすごいところは、他の漫画とは違い、主人公に吹奏楽の才能が、まったく無いということです。

最初のころは、周りからまったく期待も理解もされません。

「スラムダンク」のように誰かが眠っていた才能を認めてくれ、その才能を努力によって開花させる話ではないということです。

 

そこだけをみれば、「青空エール」は恐ろしいほどリアルな話です。

困難、挫折、困難、挫折の連続です。

この漫画のすごいところは、このリアルさと漫画的な非現実さが絶妙のバランスをとっているところです。

 

あと少しでもリアルに傾けば、読むのが辛いだけの話だったでしょうし、あと少しでも非現実的なほうに傾けば似たような凡百の漫画と同じような話になっていたと思います。

このリアルとファンタジーのバランスの絶妙さが、「青空エール」という漫画をこれほど面白くしているのだと思います。

 

「青空エール」のリアル

「青空エール」のリアルさは、恐ろしいです。

過去にこれほど、「主人公の才能のなさ」を真正面から描いた作品があったでしょうか? 

 

「平凡」なだけならば、まだいいです。自分の実力を知ろうとして、傷つくことはないから。

でも「青空エール」の主人公つばさにはかなえたい夢があります。周り全員から「とても無理だ」と言われる夢が。

才能が無いのにその夢を追うがゆえに、主人公のつばさは何度も何度も打ちのめされます。自分の才能の無さを、いやというほど思い知られます。

 

「わたしには才能が無いから、わたしがトランペットを止めるって言っても誰も止めないじゃん。だから、あきらめないでやるしかないじゃん」

                    (引用元:「青空エール」河原和音 集英社)

十一巻でつばさが、後輩の瀬名に言ったセリフです。

つばさの場合は謙遜でも、努力漫画の主人公特有の「本人だけは、自分の眠っている才能に気づいていない」がゆえの思い込みでも何でもなく、これが事実そのものです。

 

最初のころなんて、「やめたほうがいいんじゃないか」とか「やめてくれ」とか言われます。

周りがひどい人間だからとかそうではなく、むしろ周りが正常な感覚で、つばさが一人で勝手に無謀なことをやろうとしている、この漫画はそういう環境から物語がスタートします。

 

顧問の杉村先生からは

「やる気だけはあるけど、これが才能のある子だったら」と言われ、

慕っていた先輩からは

「本気で夢見て、ずっと馬鹿じゃないかと思っていた」と言われ、

挙句の果てに才能のある同級生の水島からは

「本気だとしてもやめて。他の部員の迷惑になる」と言われます。

みんな後から謝るのですが、言っていることは全部事実なんです。(「本音だった」と言われますし。)

つばさ本人が認めているように、みんな意地悪で言っているわけではない。

 

これが連載開始時点で、主人公つばさを取り巻く現実です。

誰一人として、つばさの夢、やろうとしていることを認めてくれない。

じゃあ、何故、そんな環境で、つばさがあきらめずに頑張れるのか? 

それが、この漫画の面白さのもう一端であるファンタジー部分なのです。

 

「青空エール」はピグマリオン効果教の聖典

「ピグマリオン効果」という言葉をご存じでしょうか?

 

「自分ではない誰かが自分を信じてくれることで、結果を出すことができる」

 

これが「ピグマリオン効果」ですが、「青空エール」はこのピグマリオン効果への信仰が全編を通して貫かれています。

大介とつばさの関係が代表的ですが、

 自分ではない誰かが自分のことを信じ応援してくれることで、とてつもない力を発揮できる、

 「青空エール」その力を描いた話です。

 

主人公のつばさが恋をする野球部員の山田大介は、その「ピグマリオン効果教」への信仰を具現化した存在だと思っています。

つばさの驚異的な努力は、その神様=大介への信仰の力なのだと思いました。

つばさが苦しさの余り生み出した幻覚だった、というオチで最終回を迎えるんじゃないかとどきどきしていましたが、結局、最終回まで生身の人間のままでした

 

「青空エール」は登場人物がすごい

「学校一のモテ男」「どエス王子」で、行動原理が「主人公との恋愛」という一点しかないペラペラの紙人形みたいな登場人物は一人も出てきません。

 主人公つばさが恋をする山田大介は、「学校一のモテ男」とか「高校生のくせに俺様」などとはまた別の意味で、非現実的なキャラクターです。

 

山田は一見すると少女漫画の登場人物とは思えないほど、リアルなキャラクターに見えます。

野球部でキャッチャーで坊主頭、内面的な恰好よさがあるいい男ですが、少女漫画に出てくるモテ男たちとはほど遠いキャラクターです。

 ただ、内面は恐ろしいほど非現実的です。

強くて明るくて優しくて、友達の悪いところを真面目に指摘できる、面倒見がよく後輩からは慕われ、先輩からは信頼され、かわいがられる。

責任感が強くて、努力家。野球にすべてをかけているストイックな性格。

 

水島に厳しいことを言われたと、つばさに相談されたときの大介の答えが、素晴らしいです。

 

「その人、きっと真剣にやってきた人だと思うんだよね。真剣になると、どうしても周りとぶつかるから」

                  (引用元:「青空エール」河原和音 集英社)

お前、本当に高校生か?と言いたくなるような答えです。

自分は、とっくに高校を卒業しましたが、未だにこんな答えを言える自信がありません。

この答えだけでも、大介は人間ではなく、ピグマリオン教の神に違いないと思います。

 

才能のない自分、そして、その事実をイヤというほど突きつけてくる環境、そんな現実の中で、大介という神様への信仰だけを糧にして、

ひたすら絵空事としか思えない目標に向かってつき進んでいく、「青空エール」はそんな話です。

 

大人になった今でも「学校って、何の意味があるんだろう?」と思っている自分にですら、「高校生に戻って、部活に三年間全部賭けるのも楽しそうだな」と思わせる漫画です。

青空エール リマスター版 1 (マーガレットコミックスDIGITAL)

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  春日先輩と杉村先生が好きです。

 

【漫画】 「北斗の拳」から学ぶ、男性の愛情表現

 

「北斗の拳」懐かしい…。

家に全巻そろっているので、たまに読み返している。名作というのは、大人になっても面白い。

 

読み返して驚いたのは、

①意外に、展開がはやい。

レイとかアインとか、けっこう出ている期間が短い。それなのに、こんなに印象深いキャラなのがすごい

 

②愛について、めちゃくちゃ語っている。

少年漫画でこんなに愛について語っている漫画はないんじゃないかと思うくらい、「北斗の拳」は、様々な愛について語られている。

 

ラオウ「ユリアも、俺の野望のひとつ」

トキ「ラオウ、それは野望ではない。愛だ

 

すごい会話だな。とても素面で喋っているとは思えない。

 

というように(?)「北斗の拳」は、愛の物語でもある。

少年漫画なので、特に男性から女性への愛の形が語られている。

今回は、女性にとっては今いちピンとこない男性の愛情表現を、「北斗の拳」から学びたい。

男性の愛情表現というのは、女性には今いちピンときていないことが多い

それは何故か??? という理由が、この記事を読んでもらうと分かるかも……しれない。

 

「北斗の拳」で愛に生きた登場人物といえば、真っ先に思い浮かぶのが南斗水鳥拳のレイだ。

余命いくばくもない身で愛するマミヤのためにユダと戦い、死んでいく。

ユダ戦からレイの死までの展開は、いつ読んでも泣ける。

 

でも冷静に考えたとき、なんか変だなと思う。

なぜ、ユダを倒すことがマミヤのためになるのだろう?

 

ユダが死んだことでマミヤは死兆星が見えなくなったので、結果的にはマミヤのためになったけれどそれはあくまで結果的に、だ。

 ユダと戦った時点で、レイは「ユダが死ねば、マミヤが死兆星が見えなくなる」ということを知らなかった。

「マミヤには、死兆星が見えている」という事実すら、ユダと戦う直前に、ユダに教えてもらったくらいだ。

 

じゃあ、なぜユダを倒すことがマミヤのためになるのか???

なぜ、レイはそう思ったのか???

 

マミヤは、昔ユダにさらわれたことが心の傷になっている。

ユダという存在を消せば、心置きなく幸せになれるんじゃないか。

理屈はそうなんだろうけれど、この理屈、今いちピンとこない。

相手が死んだからって、心の傷って消えるか??

それよりも、傷を負った自分のそばにいてくれたほうが心の傷って癒えないか??

レイは確かに余命がない身だが、それでもマミヤのそばにいて見守っていてあげたほうが心の傷は癒えるような気がする。

それに余命が少ないなら、好きな人のそばにいたいものじゃないのか???

というのが、女性の発想だ。

 

たぶん、男は違う。

とにかく何か行動がしたい。

とにかく何かすることを与えてくれ。

 

よくよく読み返してみると、レイはマミヤの過去の話を聞いたとたん、誰も頼んでいないしユダは何もしていないのに、ユダを倒しにいっている

完全にただの辻斬りだ。

ユダはむしろ喜んでいたので、まあいいんだろうけれど。←え?

 

愛する女のために、自分ができることを作り出す。無理やりにでも。

これが男性の愛情なんだろうな。

相手の女性のために自分ができることが何もなくなったとき、もしくは何もできることがないと思ってしまったとき、男性は例え、その相手が好きでも一緒にいられないのではと思う。

「ただ、一緒にいる」ことは、男性にとっては愛の表現にはならない。

 

ただそばにいて、話を聞いてくれるだけでいいんだよ。

という女性に対して、

君のために何もすることがない、なんていう状態は耐えられない。

という男性。

女性がよく言う「ただ話を聞いてくれるだけでいいのに、男はどうして余計なアドバイスとかするの?」というのは、たぶんこれじゃないかと思っている。

 

逆に言えば彼女がピンチでも何でもなく、日常をつつがなく過ごせている場合は、彼女のことはそれほど気にしていない、という男性はけっこう多いのではないだろうか。

それに対して「気にしていない」(連絡をくれない)ということは、もう愛情がないのではないだろうか? と考えてしまうのが女性。

 

女性は「つながりの積み重ねが好意や愛情」と感じやすい。

この辺の根本的な考え方の違いを、お互いに分かっていないのでは、と思う相談事や事象をたまに見かける。

 

日常では、「彼女の存在なんて忘れているんじゃ??」というくらいほったらかしでも、(実際、忘れている。)彼女がピンチのときや必要としているときに、突然、いろいろやり出すのが男性の愛情表現なのだと思う。

 

トキも普段はユリアを見守っているだけなのに、いざ、ユリアがラオウにさらわれそうになったときは、別に自分の彼女でも何でもないのに、ラオウと戦おうとする。

「北斗の拳」は、すごく分かりにくい男の愛情表現がすごく分かりやすく描かれている。

別に頼んでもいないし何の役に立つかもよく分からないのに、ユダを倒しに行くレイのように斜め上45度の愛情表現に突っ走られた場合、それはそれでうまく受け取りつつ「自分はこんな風にしてくれたほうが嬉しいな」と誘導してあげるのが愛情の受け取り力の見せどころかもしれない。

ここでそんなことされても、ちっとも嬉しくないけど??などどいう、本当のことだけを言うと話がややこしい方向へいく。基本的にはまあ好意からやってくれている、ということは忘れないほうがお互いのためになる。

 

「北斗の拳」を読むと、男性の愛情は(男女間に限らず)シンプルでいながら深いものだなあと感じる。

 愛する人のためには、命をかけて戦う。

 「北斗の拳」は、そんな男性の愛情を語った物語でもある。

 

 

【漫画考察】「ドラゴンクエスト ダイの大冒険」 ポップ、マァム、ヒュンケルの三角関係について考えてみた。(ヒュンケル編)

 

「ドラゴンクエスト ダイの大冒険」の三角関係について考えて見ました。

 前回(マァム編)からの続きです。

saiusaru.hatenablog.com

 

次は、当然のようにヒュンケルはマァムのことが好きなんだろうか? という疑問がわきます。

作中では、マァムがヒュンケルのことを好きかどうかはたびたび言及されるのですが、ヒュンケルがマァムのことを好きなのかどうかは、誰も言及しません。(絡み辛いから???)

 ヒュンケルに告白したエイミですら、ヒュンケル自身に対して「マァムが好きなのか」と聞いたりしません。

 ヒュンケルは戦いの場以外ではほとんど自分の感情を口にしないため、周りの人間も今いち気持ちを把握できないようです。(というよりは、しようとすらしない。)

 ヒュンケルが独白などでマァムのことを思う描写があるので、これを基に検証を行いたいと思います。

 

ヒュンケルがマァムのことを思う描写を見ると、

「聖母だ(!)」と言ったり、「慈愛の天使(!!!)」

と言ったり、恋愛より,もっと崇高な感覚でマァムを見ている印象です。

 

もともとヒュンケルは5巻で倒されたときも、マァムの膝枕&涙で改心したような描写がありましたから、マァムに人生を変えられたと言っても過言ではないでしょう。

 感覚としては、宗教に近いのではないかと思います。

 

ただ、「ヒュンケルのマァムに対する気持ちは、女性に対するというよりは、崇高なものを崇拝する感情に近い」と考えとき、ちょっとひっかかるセリフがあります。

 バーンパレス突入後、ヒュンケルがマァムをポップのところへいかせたとき、前述の「慈愛の天使よ」から続く独白の最後で、ヒュンケルは「俺ではお前を幸せにできない」といいます。

 

マァムと違い、ヒュンケルは無私ではありません。

ここで「俺」がでてきます。

 「幸せにできない」というセリフを言うということは、「幸せにしたい」という気持ちが根底にあるということです。

「幸せにしたい」という気持ちが前提にあるからこそ、それを否定するために「幸せにできない」という言葉を言うわけです。

 ということは、否定する前の気持ちは「俺がお前を幸せにしたい」ということです。

 これは正に、男性が愛する女性に向かって言う言葉です。

 

ヒュンケルはマァムのことを女性として愛しているのですが、自分の過去の過ちがあったり、マァムが自分に向ける感情が自分がマァムに向ける感情とは違うものであることが分かっているので「自分自身のための愛を見つけてくれ」と言って、彼女の背中を押すのです。

 

この三角関係の真の姿は

「ポップとヒュンケルに愛されながら、まだ誰かを好きになったことのないマァム」

というもです。

 

3人の関係がその後、どうなるか最後まで書かれていません。

話の流れ的にはマァムはポップとくっつくのではないかと思います。

 心情的には、ヒュンケルとマァムに幸せになって欲しいのですが、(「俺ではお前を幸せにできない」というセリフは、グッときます。)マァムの心の流れを追っていくと成長したポップと一緒になるのが、自然ではないかと思います。

 

そして、ポップとマァムの間に生まれた子供に剣術を教えるヒュンケル。

そうなるのが自然かなという気がします。

 

改めて書いていると、「ダイの大冒険」って大人な話だよなあ。

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 ごめん、メルルの存在を忘れていた(・∀・)

 

【漫画考察】「ドラゴンクエスト ダイの大冒険」 ポップ、マァム、ヒュンケルの三角関係について考えてみた。(マァム編)

 

 「ドラゴンクエスト ダイの大冒険」の有名な三角関係について考えてみました。 

 

この漫画が大好きでした。

最後のバーンとの戦闘は、ポップの覚醒やら、(「オレの一番の友達」で号泣)ゴメちゃんとのエピソードやら(「僕の友達になってよ」で号泣)で涙腺が崩壊しっぱなしでした。

 

アバンの蘇りとバランの親バカには、最後まで納得がいかなかったものの、子供だった自分の一、二を争うお気に入りの漫画でした。

終わり方もジャンプの人気漫画にしては、珍しくすっきり終わりましたし、今でも大好きです。

 

当時、子供だったわたしは、ポップの告白後に、マァムが返事として伝える「私にチャンスをちょうだい。」から始まる言葉にただただポカーンとしました。

えっ? あなた、ヒュンケルが好きだったんじゃないの?

 

考えてみれば、この3人の関係を三角関係というのは、疑問がわいてきます。

作中ではっきりと好意の矢印が分かるのは、「ポップ⇒マァム」だけだからです。

本来であれば別に三角関係など成り立ってない関係なのですが、作中で再三再四この三人は三角関係であるように書かれているし、読者も、そのように認識している人が多いように思います。

 

何故なのでしょう?

 

自分も子供のころ読んだときは、マァムはヒュンケルのことが好きなんだと思っていました。なので、ポップの告白後の、マァムの返事の意味がよく分かりませんでした。

 

この関係性の真実を知るために、いくつかヒントがありましたので、それを手掛かりに検証していきたいと思います。

 

エイミがみんなの前でヒュンケルへの想いを告白したあと、ダイがこう言います。

 「第一、マァムが本当は誰が好きかなんて言い出したら、ポップも黙っちゃいないだろうし」

このセリフは3人の関係が外からどう見えるかを考えるとき、非常に重要です。

何故ならこのセリフは、ダイも「マァムはヒュンケルが好き」と考えていることが分かるからです。「恋愛は苦手」と認めているダイですら、です。

 

そのダイの言葉に対するレオナの反応も、レオナもマァムがヒュンケルに何らかの気持ちがあると考えているようなものでした。

エイミはもっとはっきりしていて、マァムに

「マァム、いいでしょう? わたしが渡しても?」

と聞いてきます。(このときのエイミは、子供心に、めっちゃ怖かった。(´Д`))

ポップは8巻の時点で既に、「あいつ(マァム)にはもう好きな奴がいるんだよ」と言っています。(好きな奴に、クロコダインを想定しているという可能性もありますが)

 

つまりマァムの周囲にいる人間のほとんどが、「マァムはヒュンケルが好き」と思っているわけです。

にも関わらず、マァム本人は

「ヒュンケルを男性として見ているのか分からない」

と、よくわからないことを言い出します。

 

何故、このような認識の差異が表れるのでしょう?

 

周りの人たちの観察が正しくて、マァム本人だけが「自分の気持ちに気づかない鈍感」ということなのでしょうか? 普通であれば、そう考えるのが妥当です。

 

でも、逆だったら?

周囲の方こそ、マァムの行動を見て「マァムはヒュンケルのことが好き」と勘違いしているにすぎないとしたらどうでしょう。

 そう考えると、マァムのその後の行動の意味や、ヒュンケルが、なぜマァムをポップの下に行かせたのかが分かってきます。

 

マァムの気持ちが誤解された原因は、マァムのヒュンケルに対する態度があげられます。

7巻のヒュンケル対ハドラー戦でも、後に残したヒュンケルのことを過度に心配する描写が見られたり、8巻の祝勝会のあと、クロコダインと鬼岩城を探しに旅立つヒュンケルと意味深に見つめ合ったり(クロコダインも呼び止めてあげてよ~)16巻でミストバーンに落とされたヒュンケルを身を挺して受け止めたりとヒュンケルのことを気にかける描写満載です。

 

ただこれをよくよくみると、恋愛感情というより別の何かに見えてきませんか? 

 

そう、母親の愛、母性です

 

マァムは、これほどヒュンケルを心配しているのにも関わらず、相手に対しては何も求めません。常に一方的な愛情を与え続けるだけです。恋人というよりは、息子に対する母親のようです。

 

マァムがヒュンケルに注いでいるのは母親としての愛情であるがために、「ヒュンケルに恋愛感情を抱いているのではないか」と問われたときに

「男として見ているのか分からない」(⇒そんなこと思いつきもしなかった)

という返答をしたのです。

 

作者のコメントで、「マァムはパーティーのお母さんである」という名前の由来に関する言及がありました。

正にその通りで、マァムはポップに対しても「弟みたいで放っておけない」と言っています。

 

ヒュンケルは、外見は冷静に見えても、「繊細でガラスのような心の持ち主」なので、マァムの庇護欲を一番かきたてるのでしょう。

ヒュンケルはマァムにとって、不器用なゆえに世渡り下手そうで心配な、愛息子なのではないでしょうか。

 そして、マァムの自分に対する感情がそういったものであることを、ヒュンケル自身が一番よく分かっているので、「自分自身のための愛を見つけてくれ」と言ってポップの下へ向かわせるのです。

 

続き。ヒュンケル編。 

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