うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

自己肯定感とは何なのか。漫画のキャラクターを使って解説してみる。

 

自己肯定感については、前に一度書いたことがある。

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自己肯定感の話題を見ると、「自分が考えているものと少し違うな」と思うことが多い。

なので自己肯定感については、もう一度まとめて書きたいと思っていた。

あくまで自分の考えだ。

 

自己肯定感と自信は違う。

たまに混同している意見を見る。

これがごっちゃになると「自分の意見ばかりを主張して、他人の話を聞かない人間ってダメじゃないか?」のような意見が出てくる。

 

自己肯定感と自信は違う。

正確には、自己肯定感と「自分の意見や行動の正しさに対する自信」は違う。

自己肯定感は「自分という存在が存在してもいいという自信」もっと言うと、「自分も含めた他者や世界は存在してもいいという自信」と言ってもいい。

 

上記の記事ではこの辺りを切り分けていないのだが、自己肯定感=自信という定義で使う場合は、「言動の正しさに対する自信」ではなく「存在することに対する自信」と考えていい。

 

自己肯定感の強い人は、他者の存在も肯定できる。

自己肯定感の強い人間は、自分の意見ばかりを主張したりしない。他人の意見を聞かず、自分の意見を押し付けたりもしない。

自分の意見も言うし、他人の意見にも耳を傾ける。

なぜかと言うと、強く主張しなくてもすでに「肯定されている」という感覚があるからだ。自分の主張が認められるかどうかに固執する必要がない。

他人の意見は、「自分を否定するもの」ではなく、「自分とは違う存在である他人だから、違って当たり前のもの」なので耳を傾けることができる。

 

自分で自分を肯定しているので、そもそも他人から肯定してもらう必要がない。

「自分の存在を否定したことがない」ので、「存在を否定する」という発想そのものがない。だから他人の否定意見は、「自分の存在に対する否定」ではなく「自分の意見や行動に対する否定」と考えることができる。

「存在に対する否定」は存在が危機に瀕するので強い反発の感情が起こるが、「意見や行動に対する否定」は、他人と自分の価値観の相違から起こるものだと分かる、もしくは合意に向けての一段階にすぎないと分かっているので、存在を攻撃されているとは思わない。

 

自己肯定感は「外出しても撃たれることはない」と信じる感覚に似ている。

自分が考える自己肯定感は、安全な国で生まれ育った人間が「外に出たら銃撃されるかもしれない」と考えずに外出できる感覚に似ている。

自分たちが外に出るたびに「このルートは安全か」「武器は持たなくていいか」「あの角を曲がったら撃たれるんじゃないか」「この道に地雷は埋まっていないか」といちいち考えないで外出するように、自己肯定感を持っている人は「自分に自己肯定感があるかどうか」などと考えない。

自己肯定感の低い人が「こんなことを言って大丈夫か」「こんなことをしていいのか」「自分は間違っているんじゃないか」と考える感覚が、そもそも理解できない。

自分たちが紛争地帯で生まれ育った人から「なぜ、何も考えないで道を歩けるんだ?」と聞かれるのと同じ感覚だ。

そもそも「外に出たら銃撃されるなんてありえない。だから外出しても大丈夫」ということすら、外出するときに考えないと思う。

持っている人にとっては「持っている」という感覚さえないから、その得かたや成り立ちを人に聞くことはできない。だから「自己肯定感を得る」のは、非常に難しい。

 

自己肯定感は感覚だから、得るのは難しい

「外に出ても銃撃されるなんてありえない、という感覚を、あなたはどうやって得たのか。その感覚を得る方法を教えて欲しい」と言われていると考えれば、その難しさが分かる。

「日本はどことも戦争していないし、銃の所持も規制されているから」という知識を頭でわかっていても、隣人同士が殺し合ったり、道を歩いたらいきなり銃の乱射に巻き込まれるような場所からやってきた人が、知識を得た瞬間から「外を歩いても大丈夫」という感覚を得ることはできない。 

感覚は経験則からくるものなので、「外に出ても撃たれることはない」という感覚を得られるまで、何千回も外出をしても大丈夫だ、という安心(感覚)を繰り返すしかない。

 

さらに難しいのは、感覚というのは、一番始めに感じたものがその人の中で基準となる点だ。

自己肯定感「自分以外の世界から、無条件で受け入れられている」という感覚は、幼少期の世界との関わりが大きく左右する。

幼少期に自己肯定感が得られないと、その「存在を無条件で肯定されていない感覚」がその人の中で標準になってしまう。

そしてそれが感覚の標準になってしまうと、その標準に合わない感覚「自分という存在への無条件の肯定」に違和感や不快感、居心地の悪さを感じるようになる。

さらに「存在を肯定されていない感覚」が標準装備されてしまうと、他人のことを「条件抜きで肯定すること」が難しくなる。

 

これが「条件つきの肯定」になってしまうと、その条件をクリアしているのかどうか、たえず相手の判断を伺わなければならなくなる。存在意義において、相手に依存するようになる。

自己肯定感のない人というのは、この依存にハマりやすい。

一歩間違えると、相手からの肯定が欲しくて相手の言うがまま、どこまでも受け入れてしまったり、条件をクリアするために限界以上に頑張ってしまったり、相手から無理やり肯定を引き出そうとして付きまとってしまったり、他人に対しても条件をクリアすることを押し付けてしまったり、自分の価値を高めるために、相手の価値を下げようとしたりしてしまう。

DVやモラハラも形を変えた依存だと思うが、そういう罠にもハマりやすい。

 

自己肯定感のない人というのは、「条件をクリアしなければ、自分という存在には価値がない」と考えている。

だからその条件をクリアしているときには、自信があるように見える。

ただそれは「条件をクリアしている状態の自分に対する自信」であり、「無条件の存在に対する自信」ではない。

「条件をクリアしなければ認められない。愛されない」という感覚をどこかで刷り込まれてしまったのだ。

自分の存在価値が「条件をクリアするかどうかにかかっている」というのは、非常に苦しい。

 

ジャンプの主人公は、自己肯定感が高いキャラが多い。

自己肯定感というのは感覚なので、言葉で説明すると難しいが、他人を見ていると「この人は自己肯定感がありそうだ」「この人は低そうだ」と何となく分かる。

ジャンプの主人公は、パッと思いつくだけでも自己肯定感が高そうなキャラが多い。

「ワンピース」のルフィが代表格だが、「ドラゴンボール」の悟空も、「HUNTER×HUNTER」のゴンも、「ダイの大冒険」のダイも、作中の言動を見ても自己肯定感が高い。

 

逆に自己肯定感が低そうなのは誰か。

一番わかりやすいと思うのは、「ダイの大冒険」のヒュンケルだ。

ヒュンケルは自信と自己肯定感がどう違うのか、ということを見るうえでも非常に分かりやすい。ヒムから「自信満々の面をしている」と言われているが、それはヒュンケルが「仲間のために戦う」という、自分を肯定できる条件をクリアしているからだ。

だからヒュンケルはボロボロになろうが、戦えなくなろうが、とにかく「戦ったほうが楽だ」という。

「戦えない(条件をクリアできない)」自分には、存在価値はないと考えている。

 

 自己肯定感というのはあったほうが生きやすいのは確かなので、得られるものなら得たほうがいいが、感覚の反復によって得るしかない。

それ以外にも得られる方法が何かないか、考えてみたい。

 

自己肯定感を得る方法① 頭で自分の状態や感情を理解する。

「感覚を得る」ためには、頭が納得することも前提として大事なので、まずは自分が感じる「自己を肯定できない」感覚はどこからくるのか、どんな時に感じやすいのか、どんな相手だとわきやすいのか、頭で納得するまで考えてみるといいかもしれない。

 

恐らくこの辺りは、人それぞれ違う。

原因が幼少期の親との関わり方の場合もあるし、ヒュンケルのように何かの罪悪感、挫折感が原因の場合もある。

「自己肯定感」という字面だけを追わずに、「自分が感じている自分固有の感覚は何なのか。何からくるのか」ということを、納得がいくまで細かく切り分けることが大事だと思う。

納得がいかないのに、こういう行動をとって、そのときの感覚を再現しろというのはなかなか難しい。

 

自己肯定感を得る方法② 他人に存在を肯定する言葉を言ってみる。

自分に自分を肯定する言葉をかけるのは、もやっとするし嫌な感じがする、という人は他人、もしくは自分を赤の他人だと想定してやってみるといい。

自分の好きな人が(二次元キャラでも何でもいい)「自分なんてゴミで、何の価値もないんです」と言っていたら、どう声をかけるか。それを書き出して、今度は第三者として自分に言ってみるのもいいと思う。

 

「ゴミかもしれないけれど、私はあなたのことが好きだよ」

 

「ゴミじゃない」というと「(その人の定義する)ゴミではない」という条件をクリアしなければならなくなるので、「まあゴミでもいいんじゃない?」くらいの姿勢がいいと思う。

言動がゴミの場合は、言動だけを否定すればいい。

 

これについていいお手本だな、と思ったのが「進撃の巨人」16巻のヒストリアの言動だ。

父親のグリシャがレイス家の子どもたちを皆殺しにし「始祖の巨人」を盗み、自分に託したために、「たくさんの人が死んだ」とエレンが自分を責める。

「オレはいらなかったんだ。(無価値どころか有害な存在だ。)」

「だからオレを殺して、人類を救ってくれ」

エレンは元々は自己肯定感が高いが、ここで自分の存在価値を見失い、いっきに自己否定に走る。

こういう価値観が転倒する出来事でも、自己肯定感は損なわれやすい。

 

エレンの言葉を聞いて、父親に捨てられ母親にも愛されず自己肯定感が非常に低いヒストリアはこう叫ぶ。

「もうこれ以上、私を殺してたまるものか」

「巨人を駆逐するって? 誰がそんな面倒なことやるもんか。 むしろ人類なんて大嫌いだ。巨人に滅ぼされたらいいんだ!」

 「つまり私は人類の敵!! 超最低最悪の悪い子!」

「いい子にもなれないし、神さまにもなりたくない。でも、自分なんていらないなんて言って泣いている人がいたら」

「そんなことないよって伝えに行きたい」

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(引用元:「進撃の巨人」16巻 諌山創 講談社)

「エレンを殺して始祖の巨人を取り返せ」という人類の言動を否定し、「人類の敵だ」というエレンの存在を肯定する。

 

例え人類の敵だとしても、超最低最悪の悪い子だとしても「存在」は否定しない。

「いい子」でいることで他人に認めてもらおう肯定されようとしていたヒストリアは、自分にはこういう言葉を言うことができなかった。

でもエレンが「自分はいらない人間なんだ」と言ったときに、初めて「それがどんな人であれ、存在そのものを否定することは誰にもできない」という言葉を口にする。

 自分には受け入れがたい感覚も、他人に投影すると言うことができる。

 「存在を肯定する」言動と「肯定を受け入れる」感覚の両方をいっぺんにやるのはしんどい、という場合はヒストリアのように前者からやってみてもいいかもしれない。

 

自己肯定感を得る方法③ 「条件つきの肯定」の条件を意識的に引き下げてみる。

便宜的な方法だけれど「条件付きではないと肯定されない」の「条件」を意識的に引き下げてみるのもいい。

 

何せよ「これは自己肯定感が低いせいだ。高める方法を実践しなければ」「すぐに自己肯定感を得なければ」と四角四面にならなくていいと思う。

言葉は、他人同士が物事を共有したり意思の疎通をしたりするのには便利だけれど、自分の感覚や感情を理解するのには割と不便だったり、袋小路にハマりやすいものだと思う。自分の感覚の定義を外側に求めるよりも、自分で自分自身を理解しようとする姿勢が、一番自分を肯定する近道じゃないかなと思う。

理解していなければ、肯定もできないと思うので。

 

うまくできないときもあるし、へこたれるときもある。どうでもよくなって、投げ出してしまうかもしれない。

そんなダメな自分でいいじゃん、気が向いたらやればいい、くらいの気持ちになることが自分を肯定する最初の一歩かもしれない。

 

自己肯定感を得る方法④ 自己肯定感の低い状態を客観視する。

「ib-インスタントバレット-」は、自己肯定感の低い登場人物のそれぞれの苦しみが描かれた物語だ。この漫画の登場人物はほぼ全員が、驚くほど自己肯定感が低い。

そういうのを見て「他人には優しいのに、何で自分にはそんなに厳しいんだ」「何で自分には優しくできないのかな、この人たち」など考えているうちに、そういう心の仕組みに思い至ったりする。

まあ別に思い至らなくてもいいんだけど。

 

「私はよくやっている」

自己肯定感はあったほうが生きやすいのは確かだと思う。

ただ無くても、人生に行き詰ったり、生きにくかったりしていないのであれば、何が何でも得なければいけないものでもない。

結局はあるものでやっていくしかない。

そういう中で特に大きな滞りもなく生きてきたのであれば、「これがない」と考えるよりも、そういう自分を「よくやってきたし、よくやっている」と認めてあげるのが一番かもしれない。

 

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白神山地で十二湖散策→八甲田山ロープウェイ→奥入瀬渓流を旅行したので、関連書籍と一緒にご紹介。

 

お盆休みはリゾートしらかみに乗って秋田から青森、次いで八甲田山、奥入瀬渓流を旅行してきました。

自分は旅行に行くと「電車の接続はうまくいくのか」「バスには乗れるか」「車で行ったら、駐車場に止められるか」「現地は暑いのか寒いのか、どんな服装で行けばいいか」などそういうことが気になって仕方がないタイプなので、自分と同じタイプの人のために「実際に行ったら、こんな感じだったよ」ということを書いておきたいと思います。

 

ちなみに昨年は知床に行ってきました。

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あとは実際に行くとより楽しく読めそうな関連書籍なども合わせてご紹介します。

「あの登場人物たちは、こういう場所で生活をしていたのか」「あの事件があったのは、こういう場所なのか」などと思えるのも、旅行に行ったときの大きな楽しみのひとつです。

昨年は羅臼に行きましたが、夏でも涼しい……というよりは寒かったです。知床峠の反対側の宇登呂は普通に暑かったんですが。

冬は極寒だろうな、と思いました。

羅臼と言えば「ひかりごけ」。そして「ゴールデンカムイ」

【小説】 人肉を食べた罪を裁けるのか。カニバリズムをテーマにした問題作 武田泰淳「ひかりごけ」の謎を考える。

【漫画】 人生の生き方や価値観に悩む人は、刮目して読むべし。野田サトル「ゴールデンカムイ」 

「ゴールデンカムイ」はアニメ化するみたいですね。

 

秋田からリゾートしらかみに乗る

観光地はだいたい観光にくる人のルートに合わせて、交通の接続も考えられているんですよね。なのでそのルートを巡るぶんには、そんなに不自由はなかったです。旅館も駅もバスもみんな慣れたもので、「これに乗るならこの時間のこれで」とちゃんと時刻表も至るところに貼ってありました。

春に予約を取ったのですが、リゾートしらかみはすべて山側の座席でした。オンシーズンは大手旅行会社が毎年すべて抑えてしまっているのかもしれません。

 

秋田といえば、秋田犬が主人公のこの漫画を思い出します。

銀牙―流れ星 銀― 第1巻

銀牙―流れ星 銀― 第1巻

 

秋田奥羽山脈に現れた巨大な羆・赤カブトを倒すために、犬が全国から仲間を集める物語です。

 

子供のころは、犬たちの熱い生き様にしびれながら読んでいましたが、いま読むと最初のころの羆撃ちと犬が協力して羆と戦う流れも面白いです。猟師の生態や秋田の方言や暮らしなどが細かく描いてあって、郷土愛の深さが伺えます。

羆撃ち五兵衛が恰好いいので、じっ様が主人公でもいいくらいです。少年漫画じゃなくなりますが。

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(引用元:「銀牙ー流れ星銀-」1巻 高橋よしひろ 集英社)

たぶんイマイチ人気が出なくて、犬の仲間集めの話になったんでしょうが、大輔が一人前の羆猟師になっていく物語でも名作になったのではないかと思います。

今から描いてくれないかな。

 

能代駅でバスケフリースロー体験

秋田を出たリゾートしらかみは、能代駅で十五分ほど停車しました。能代駅にはバスケゴールがあり、フリースロー体験ができます。

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老若男女問わず、みんなバスケゴールに向かってシュートしていました。入るとボールペン、はずすとステッカーがもらえます。

 

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田臥勇太の高校時代のユニフォームも飾ってありました。

栃木ブレックスがBリーグの初代チャンピオンになりましたね。ファイナルを見に行きたかったのですが、チケットが即完売してとれませんでした…。来シーズンは観戦に行きたいです。

 

能代工業高校といえば、山王のモデルです。

 山王では丸ゴリが一番好きです。

「向かってくるなら、手加減はできねえ男だ。俺は」

河田△

 

白神山地、十二湖ルートを歩く

十二湖駅で降りて、バスで白神山地に向かいました。

荷物を預けられるのか心配したのですが、駅のコインロッカーのほかに、駅前のお店が手荷物一時預かりをしていました。コインロッカーは小が300円、手荷物預かりは200円。商売上手です。

バスで十五分ほど山道を登りましたが、車でいっぱいでした。渋滞はしていませんでしたが、すれ違うときは冷や冷やします。上手い人には何ということないのかもしれませんが、自分は運転が苦手なので車で来なくてよかったと思いました。

 

天気が良かったこともあり、十二湖は暑かったです。

半袖で行ったのですが、アブがけっこう飛んでいたので、通気性のいい長袖のほうがいいかもしれません。刺されなくてよかった。

白神岳に登る人も多いのか、登山の恰好をした人が多かったです。

白神山地は色々なルートがあるし、登山もできるので、次回はぜひ他の場所も見てみたいです。

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青池。

 

青森県に入る

昭和初期、故郷青森から、北海道室蘭の遊郭に女郎として売られてきた少女たちの物語を思い出します。

重く深い泥沼のような人生をもがくようにあがくように生きる姿が美しいと思える、そんな話です。何度読み返しても、胸を打たれます。

何度も何度も「青森に帰りたい」「他に何もいいことがなくてもいいから、故郷に帰りたい」という言葉が出てきます。

絵が昔の少女漫画風なので好き嫌いが分かれると思うのですが、絵で敬遠してしまうのはもったいない。ぜひ、多くの人に読んで欲しい漫画です。

 

深浦辺りから津軽海峡が見えてくるのですが、天気が良かったこともあって絶景でした。

そして右手には岩木山が見えました。

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 次回はぜひ、頂上まで登ってみたいと思います。

 

新青森駅から八甲田山へ

新青森駅でレンタカーを借りて、八甲田山へ向かいました。

八甲田山ではロープウェイに乗って山頂へ行ったのですが、山頂はけっこう寒かったです。寒がりの人は半袖だとちょっと厳しいかな、と感じました。

八甲田ゴードラインを一時間くらい歩きました。

ここでも赤倉岳や毛無岳のほうから下りてくる人が多かったです。案内を見ると、それほどハードなコースではなさそうなので、今度、準備をしたうえで歩いてみたいなと思いました。

ただゴードラインは晴れていても、山の上のほうは雨が降っていたようです。山の天気は変化が大きくて怖いですね。

 

八甲田山といえば、「八甲田山死の彷徨」。

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

 

読んでいるとほんと冬山は怖いなと思います。

「210名のうち199名が死亡」とロープウェイのガイドのお姉さん(美人)が淡々と説明していました。すさまじい死亡率。

読んだのはだいぶ前なので、また読み返したいと思います。

 

ちなみに八甲田山を越えたら、天気が一変して大雨になりました。

 

奥入瀬渓流散策

奥入瀬渓流は休憩所のある石ヶ戸まで車を止めて、そこから主な見どころを歩いて回ろうと思っていたのですが、雨が降ったので急きょバスで回ることにしました。

バスから見ると石ヶ戸の駐車場は車が溢れていて、路駐している人も多かったので、車で行く場合は早めに行ったほうがいいかもしれません。

ちなみに宿泊したのは有名な星野リゾートです。

宿泊施設も良かったのですが、何よりも渓流散策の拠点として色々考えられているのがすごく良かったです。

ホテルから渓流を往復する(途中の雲井の滝まで)シャトルバスが一時間ごとに出ているし、傘や長靴も貸してくれます。あとは無料の飲み物の置いてあるロビーでひと心地つけたり、待ち合わせもできるので、こういうところがいいなと思いました。

 自分は室内設備や食べ物などにはそれほどこだわりはないのですが、観光拠点として施設が気軽に使えるのはとても便利でした。

 

雨の中、傘をさしてぬかるんだ道を歩いたので、景色も十分満喫できませんでしたが、いいところでした。

今度は晴れたときにきて全行程を歩きたいです。

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八戸の八食センターが面白かった

最終的には十和田湖から八戸に出たのですが、時間をつぶすために入った八戸の八食センターが面白かったです。

食べ物や飲食店、みやげもの屋が入っているのですが、海産物がどれも美味しそうでした。

店で買ったものを七輪で焼いてその場で食べられる「七輪屋」が面白そうでしたが、時間がなかったので入れませんでした。

自分の住んでいる場所にもこういうところがあると楽しそうだなと思いました。

 

今回は初めて行った場所ばかりだったので、本当にさわりだけの旅行でした。今度行くときは、一個一個の場所をより深く楽しみたいと思います。

 

 

個人の思いを、「世間」や「常識」で解体して分かった気になることは罪

 

togetter.com

 

このまとめ記事を読んだだけの感想です。

 

誰でも、自分が今まで生きてきた過程の中で、自分独自のフィルターやモノサシを持っていると思います。

他人の話を、自分のフィルターを通してみたり、モノサシで測ったりするのは仕方ない、というかそうするしかないと思うんですよね。

 

問題なのは、「ぜんぜん関係ない場所」を「どこからか借りてきたモノサシではかってその数値を書きとめて」「これ、何センチですよね?」「この長さだと、今まで大変だったでしょう」「いやいや、今のあなたには分からないかもしれないけれど、これがどれほど大変かということは、将来分かりますよ」って勝手に結論づけることです。

「はあ? ふざけんな。こんなもの図る価値ねえ」ってぶっ叩かれるよりも、あるいは傷つくかもしれない。

自分であれば、後者よりも前者のほうが遥かに傷つきます。

 

「本当は相手のことなど分かる気がなくて、自分が言いたいことがあるだけなのに、相手のことを分かったふりをすること」

「分かったふりをするために、「世間」や「常識」などマクロな視点で、個人の事情を解体すること」

「君には分からないだろうけれど、先に行けば分かるよ、などと相手に関係ない場所で結論づけること」

 

自分の言っていることをまったく理解しようとしていないのに、自分とはまったく関係ない理屈で作品を解体して理解したような気になって、自分の投げかけた課題を勝手に結論づけて終わらせようとしている。

これをやられると本当にキツイなと思います。

 

この世で自分しか持たない、変な形のモノサシで測るのはいいと思うんですよ。意見や感想を言うというのは、そういうことだと思うので。

どこからか借りてきた「世間」や「常識」「誰かの知識」などのモノサシで相手を測って分かった気になって、自分自身で相手に相対しようとしないことがどうかな、と思います。

自分が分かりやすい形に手早く物事を切り分けて、多くの人に飲み込みやすい意見に落とし込むために、自分のものではないどデカいモノサシを持ってきて、他人の一挙手一投足を測って解体したくなる誘惑に駆られるときはあります。

どんなに不完全でもあくまで自分として向き合うことが、人や作品に対するときの最低限の誠意だと考えています。難しいと思うことも多々ありますが、この件を反面教師にしたいです。

 

以下余談ですが、自分のモノサシで測った作品の感想です。

その人の幸福はその人にしか分からないので、誰に何と言われようと、自分自身の幸福を追求できた人は幸せだと思います。

「その人がそんな選択に迫られない、そんな立場に陥らない社会にであれば」とは、余り感じません。

この食人された子のようなタイプの人は、前提によって生き方を変えるわけではないような気がします。こういう人たちは「こういう境遇だから、こういう生き方をせざるえなかった」のではなく、たぶんもともとこういう生き方をする人なのだと思います。

 

ただ境遇によって目に見える条件が変わるので、条件や設定によって周りの人は「それは幸福だ」「それは気の毒だ」と自分のモノサシで解釈するだろうけれど、本人の本質的な行動原理みたいなものは、変わらないんじゃないかと思います。

本人は表層的な事象(自分が食人されるとかそういうこと)には余り興味がなくて、自分の決断で自分が望むものを手に入れるということだけにひたすら熱意を傾けているのではないかと。

表層的な部分であれこれ解釈するのではなく、その人が「本当に幸せだった」というのなら、自分の考えはどうあれ、その感覚をまずは認めることが「他者を尊重する」ってことではないかな、と思います。

これを「そんなの幸せなわけないだろ!」って言うのは、それはそれで価値観の押しつけだと自分は感じます。

 

本質的には同じことを言っているのに細部の要素が違くなるだけで、賛成・反対が百八十度変わる例というのは見ていて残念だな、と最近特に思います。

ディティールが「食人」や「孤児の死」のような極端なものになると、特に本質を見失いやすくなります。(そういうことを問いたくて、極端な設定を用いているのだと思いますが。)

結局、語られていることがどうこうではなく、その細部の設定が自分が受け入れられるケースか否かで、物事に対する賛成反対が変わるのかなと。

この作品もそういうことを聞かれている面があると思います。

 

自分がこの物語で大切だと思ったのは、食人一家が「泣きながら」この子を食べた、という点です。

この子が幸せになれたのは、裕福な生活を与えられたからでも、好きな人の役に立てたからでもなく、生まれて初めて自分のことを「この世でたった一人しかいない自分」として認められたからではないでしょうか。

「誰かに、自分を自分と認められる」

ということは、人にとってすごく重要なことだと思います。 

 

 そのことについては、この記事で詳しく書きました。

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「自分を自分として認められること」の大切さも埋め込まれているのだとしたら、「その人本人をまったく見ずに、自分が正しいと思うことを語るための材料として、自分自身のものではないモノサシで作品を解体すること」は、二重の意味で罪深いです。

作品で「そういうことをしてはいけないのではないか」と語っていることを、キレイにやらかした感想が返ってきたら、自分だったら絶望の溜息しか出てこないです。

地獄だよ、ほんと。

幸せのものさし/うれしくてさみしい日(Your Wedding Day)

幸せのものさし/うれしくてさみしい日(Your Wedding Day)

 

 

突然、語りたくなったので、平松伸二「ブラック・エンジェルズ」についてうろ覚えだけど語りたい。

 

平松伸二「ブラック・エンジェルズ」は1980年代前半に、週刊少年ジャンプで連載していた漫画だ。

「ブラック・エンジェルズ」の内容には、子供のころはよく理解できなかったことがあった。その辺りのことを含めて、うろ覚えな思い出話を語りたい。

 

*この記事の内容は、筆者のうろ覚えな記憶に基づいています。記憶違いなどもあることをご了承のうえ、お読みください。またネタバレをしています。未読のかたはご注意ください。

 

「ブラック・エンジェルズ」あらすじ

主人公は高校生→フリーターの冴えない男・雪藤洋士。彼には裏の顔があり、法で裁けない悪党を、自転車のスポークを使い制裁している。決め台詞は「地獄に落ちろ」 

自転車で時速90キロ出せる。速い。自転車でバックできる。すごい。

 

最初のうちは一、二話で完結するよくある悪党を制裁する物語なのだが、この話の内容がけっこうキツかった。

覚えているなかで一番キツかったのは、夫に先立たれたお婆ちゃんが不良たちに目をつけられて、家に入りびたれて金を脅しとられる話。不良たちに虐待される描写が、無茶苦茶キツかった。

お婆ちゃんは耐えかねて自殺してしまい、雪藤が不良たちを殺す。

「ブラック・エンジェルズ」は途中で被害にあっている人間が死ぬことが多く(しかもその死に方が惨いことが多い。)悪党が死んでもまったくすっきりしない。爽快感ゼロで、憂鬱な気持ちが残る。

 

この悪党制裁の話から、胸に十字架の傷を持つ「ブラック・エンジェルズ」たちと「M計画」という関東壊滅の計画を練る謎の組織「竜牙会」との戦いの話になる。

「M計画」は防げたけれど、富士山の噴火で関東が壊滅し、北斗の拳のようなヒャッハーな世界になる。その壊滅した関東で、謎の力を持つ八枚の金貨を巡って抗争が行われる。

その後、新政府を操る謎の超能力集団「ホワイト・エンジェルズ」との戦いになる。

 

「ブラック・エンジェルズ」は謎描写が多かった。

「ブラック・エンジェルズ」は「よくよく考えると何なんだ?」という描写や設定が、特に説明もなくサラリと出てきて、特に説明もないまま終わる。

子供のころは何の知識もないので、「大人には色々な事情があるのだろう」とほとんどすべての描写を流していたけれど、大人になった今でもよく分からない描写が多い。

その謎描写について語りたい。

 

物語の謎

松田とボクサーの話

松田と仲良くなった元ボクサーが、悪党に薬を飲まされて強盗殺人を起こしていた話。

何の罪もない一家四人が、殴り殺される描写がある。

松田は警察官を辞めさせられた自分を元ボクサーに重ね合わせており、ボクサーを自らの手で殺したあとに、彼の亡骸を抱えながら「夢を見続けちゃ悪いっていうのかよ!」と雪藤に反発する。

 

ええっ!!? そこ??? そこに共感して話が終わるのか???

という気持ちが否めない。

夢を見続けるのが悪いのではなくて、何の罪もない人を殴り殺したのが悪いのでは…。ちなみに殺された一家は、老夫婦と若奥さんと四歳の女の子。

「頭蓋骨陥没、内臓破裂」など描写がやたら生々しい。

薬を打たれたからとはいえ、そんな殺人を犯した相手に共感して終わる筋立てにものすごくもやる。

 

鷹沢の言っていることが意味不明だった。

「竜牙会」のリーダー切人=「ブラック・エンジェルズ」の創始者・鷹沢神父という衝撃の事実が、「竜牙会」編最大のどんでん返しだった。

このときに鷹沢が、なぜこんなことをしたのかということを説明するのだが、

「本当は自然災害で関東は全滅するんだけれど、そんなことを神様がしていいはずがない。だから人災で壊滅させるために、M計画を起こした。でもM計画を起こすことに対する良心の呵責から、その計画を食いとめる「ブラック・エンジェルズ」を組織した」

というものだった。

子供のときは「大人ってそういうものなのかな」と思いつつ、「訳分からん」と思って流していた。

 

大人になった今でも訳わからん。

 

理屈ではわかるけれど、そんな良心の呵責がある割には人をどんどん殺しているし。

「それがわしの中の鷹沢神父と切人だ(ドヤ!)」って言いたかっただけじゃないか? と思ってしまう。二重人格というわけでもないし。

こういう形而上の理由で犯罪を犯す、というパターンは少年漫画ではほとんど見ないので、今思うとけっこう画期的だったなと思う。

そういう理念的な話を、ほとんど突っ込まずサラッと流したところが逆にすごい。初めて読んだのが大人になってからだったら、「そんな話もサラッと終わらせるのか?」というほうにびっくりしたかもしれない。

 

勇気は何で突然、邪悪になったのか?

「人間には誰でも二面性がある」と言っても、いくら何でもいきなり変わりすぎだろう。

雪藤が「勇気、いったい何がお前をそこまで変えた」って言っていたけれど、それはこっちが聞きたい。勇気本人も聞きたいに違いない。

勇気にそういう素質があったなどの伏線があればいいのだが、そんな描写は一切なく、後付けの説明すらない。

そこが「ブラック・エンジェルズ」の面白いところと言えばそうなんだけれど。

 

松田はなぜ、全裸にされたのか?

脱獄犯に、松田(男)と雪藤が山小屋に監禁される話がある。この話で松田が全裸で手錠をされるんだけれど、なぜ松田だけ全裸にされたのかが分からない。一人だけ反抗したから?? 武器を持っていないか、確認するため?? 

ちなみに加藤という松田の元同期の刑事も一緒にいたけれど、彼も服は脱がされていない。何だったんだろう???

吹雪の雪山で、全裸にコート1枚羽織っただけの姿で、脱獄犯に空手の技を繰り出す松田が無茶苦茶シュールだった。

 

武器の謎

飛鳥のトランプは、何でできているのか?

飛鳥のトランプの攻撃は子供のときによく真似をしたのだが、なぜ刺さらないのかが不思議だった。普通の紙製のトランプなんだから当たり前なのだが。

飛鳥のトランプは鋼鉄でできているとか、設定があったのだろうか?? シャッフルとかしていたような記憶があるんだけど…。

 

閻魔球は、あのまま生活していたのか?

どう見ても着脱できないよな。あのまま生活していたのか? トイレ事情が気になって仕方ない。

もしかしたら中央で割れるようになっているなどの仕組みがあるのかもしれない。見たところ継ぎ目がまったく見当たらないけれど。

 

神麗院の耳は、なぜ尖っていたのか?

つけ耳か? と思いきや、飛鳥にトランプで切られていたので本物のようだ。エルフ? 気になる。

 

男女間の謎

切人と卑弥子の関係

切人が寝ている御簾の中から卑弥子が起き上がって全裸で出てくるシーンがある。

この二人って親子だよね?? 義理の親子??(それでもどうかと思うが。)添い寝していただけなのかな…。

「お父様の力をもらいましたもの」みたいなセリフがすごく意味深だった。

気になって仕方がない。どういうこと?? そういうこと??

 

ジュディと牙の関係

「あのジュディという女、俺はてっきり雪藤の女だと思っていたがな」

同感だ。

読者のほとんどが同じことを思ったと思う。どうしてクライマックスにこういういらない恋愛描写をいきなりぶっこんでくるんだろう。

余りに唐突すぎてポカンとした。

 

「ブラック・エンジェルズ」の根底にある考え方

相手が悪党でも、殺人は悪。

大人になってから読み直して気づいたのは、「ブラック・エンジェルズ」では「どんな悪党でも殺人は良くない」というメッセージが繰り返し出てくることだ。

「ブラック・エンジェルズ」に出てきて制裁の対象となる悪党は、小悪党レベルではない。人間の皮をかぶった鬼畜としか思えない悪党が山のように出てくる。一分一秒でも早く地獄に落ちてくれと言いたくなるような悪党ばかりなのだが、そんな悪党でも殺せば松田や露口、飛鳥と言った面々は、殺した雪藤を「殺人者」と罵る。

決して「奴らは殺されて当然。いいことをした」という風にはならない。

亜里沙は雪藤を「ブラック・エンジェルズ」にすることを非常に嫌がるし、雪藤は「どんなきれいごとを言っても、自分たちはしょせん殺人者」という姿勢を一貫させている。

「死んで当然だ」と思うような悪党に対する殺人でも、きちんと「殺すこと」への嫌悪感や葛藤を描いている。

 

悪党が反省も改心もしない。

「ブラック・エンジェルズ」には様々な悪党が出てくる。街のチンピラから国家の裏で暗躍する大悪党、たいした力のない奴から、強大な力でブラック・エンジェルズを苦しめる強敵まで出てくるが、全員に共通していることが、誰一人として改心しないということだ。

彼らは改心どころか反省もしない。読者が少しは感情移入しそうな、悲惨な境遇や不幸な生い立ちのような裏話もほとんどしない。

最初は敵でも味方になったり、事情がある敵が出てきたり、最後は分かり合えたりする描写が多い漫画が多い中で、これはかなり珍しい。

 

牙と飛鳥の仲間だった武蔵も、他の少年漫画であれば少しは背景事情や心の弱さなどを描きそうなものだが、何で裏切ったのかぜんぜんわからないまま死んだ。

風剣と恋人だった魔導沙は、昔の情をカケラも残していない。割り切りがすごい。風剣が色々と過去を思い出す描写が切ない。 

唯一、幽姫と幽魔だけは改心はしないけれど肉親の情を見せたために、雪藤が許している。ただこれは同じように肉親を手先として使った女性、妖姫との差別化を図っただけな気もする。

勇気は特に理由もなく伏線もなく、突然悪になったけれど、むしろそこがいいのかもしれない。

悪は理由もなく仮借もなくただ徹頭徹尾、悪としてそこに存在する。

「ただの殺人者」であるブラック・エンジェルズの正しさは、そういう悪に対する「相対的な正しさ」にしかなりえない。

という構造も、いま読むと作者の考えを感じる。

 

男性が一途で女性がフラフラしている。

「ブラック・エンジェルズ」の男性陣は、非常に一途だ。自分の好きな女性以外には、一切目をくれない。浮気をしない云々レベルではなく、性的な反応自体を好きな女性以外に一切しない。

例えば雪藤は、麗羅の胸がはだけようが、太ももが見えようが無反応。ジュディが相手だと、「添い寝しようよ」と言われたくらいで滅茶苦茶照れているのに。

水鵬の麗羅に対する尽くしぶりもすごい。

 

それに対して女性陣は、余りはっきりした意思がない。

麗羅は水鵬が自分に気があるのは明らかなのに、きちんと突き放さないで尽くされるがままになっているし、ジュディは牙といつのまにかいい関係になっていて「あなたと雪藤どっちを選べばいいのか」などと言い出す。

 

男性陣はそういうフラフラしている女性に対して特に何か言うでもなく、黙って受け入れている。

「都合のいい男」ではなく、「相手がどうあろうと、そういう相手を自分は自分の意思で好きなだけ」というスタンスだ。

「相手が自分を好きになってくれなければ、見返りをくれなくては、自分も相手を愛さない」という、結局「自分の愛情は相手次第」という愛しかたとは一線を画している。

 

「北斗の拳」のトキやジュウザもそうだけれど、自分の好きな女性の意思をきちんと尊重しており、自分も普段はその女性とは離れた場所で自由に生きている。でも、いざ相手の女性がピンチに陥ったら、相手が自分のことを好きとか好きじゃないとか、他の男が好きとかはまったく関係なく、見返りなく駆けつける。

それが犠牲だとも損だとも思わない。自分は自分の意思で、その人のことを愛しているだけだから。

こういう愛し方ができる人は、最高に格好いい。

このころの少年漫画は「こういう生き方や愛し方をする男が格好いい」というメッセージを伝えているものが多かった。

 自分もこの頃の少年漫画の女性キャラは、お色気要員やお飾りみたいな扱われ方をしているだけかな、と思っていたし、そういう面があることも否定はできないけれど、敵はともかく主要男性キャラクター陣は女性という他者をきちんと尊重している。

過激描写ばかりではなく、こういう面からの影響も見て欲しい。

  

「悪」に対する哲学。

「ブラック・エンジェルズ」は読み返してみると、大人になってからこそ色々と考えさせられることが多い。

どんな悪に対しても私的制裁というのは、相対的な正しさにしかなりえない。

「悪」によって「より大きな悪」を打ち消すことはできるのか。果たしてそれは正しいのか。

「ブラック・エンジェルズ」がやっていることが、「より大きな悪」であるM計画を倒し、そのM計画が自然災害の「悪」を打ち消すことができるのか、など。

勇気のように、理解の余地のない「悪」は、誰の心にも生まれることがある。そういうものとどう向き合うのか。

そもそも物語のモチーフに「天使」「切人」「神父」「神」「悪魔」など、キリスト教の概念が頻繁に出てくる。

最後に雪藤をキリストになぞらえて、ブラック・エンジェルズの罪や宿命を一人で背負わせているところを見ても、単に物語のモチーフとして利用したというよりは、作者の考えが色濃く反映されている気がする。

 

話がやや複雑だし、理解しづらい描写も多いので子供のころはそんなに面白いとは思わなかったけれど、大人になってから読み返したらとても面白かった。子供のころはわからなかった、雪藤や松田、牙などの格好よさにも気づいた。

 

 読んだことがない人も、「そういえばそんな漫画があったな」と思う人も、ぜひ手にとってみて欲しい。

 一番好きなキャラは水鵬。生きざま死にざま戦いかた、すべてが格好いい。

妖姫や卑弥子も好きだ。本気でぶん殴りたくなる女性の極悪キャラは珍しい。

 

【漫画感想】世界を壊したいほどの孤独と悲しみを描く 赤坂アカ「ib インスタントバレット」

 

赤坂アカ「ib インスタントバレット」全5巻を読んだ。最後は打ち切りになってしまったようだ。とても読み応えがある話だったのに残念だ。

 

「ib インスタントバレット」は、異なる能力を持つ子どもたちがそれぞれの思いを抱えて世界を破壊しようとしたり、敵対して救おうとする姿を描いている。彼らは全員、複雑な背景と癒されない孤独を抱えており、それが能力と深く関わっている。

 

個人的には絵は余り上手くないなあ、と思う。好みも分かれると思う。アクションシーンは何が起こっているのかよく分からないことがある。

ストーリー運び(ストーリーそのものはともかく)も手慣れておらず上手いと思わない。話の軸が定まっておらず、演出とストーリーがうまくかみ合っていないように見えることがある。

絵も物語もすごく不器用でゴツゴツとした作りだ。欠点はいくらでも指摘できる。

 

そういう漫画の構造自体が、欠点を抱え、試行錯誤しながら必死に生きる登場人物たちの姿を重なる。

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(引用元:「ib インスタントバレット」赤坂アカ/KADOKAWA」)

 

感想

「愛して欲しい」という叫びを「悪意」と呼ぶ。

インスタントバレットは、人の悪意から生まれる破壊願望から生まれた能力だ。主人公のクロは、この「悪意」で世界を破壊しようとする。

「怒り」が「認めて欲しい」「助けて欲しい」「愛して欲しい」という深層意識の発露だ、というのは割と有名な話だが、「インスタントバレット」の登場人物たちは、ほぼ全編にわたってこの「怒り」を叫んでいる。そしてその「愛して欲しい」という叫びを彼らは「悪意」と呼び、自分たちは優しさを持たない普通ではない、だから疎まれて当然の存在なのだと言う。

彼らは複雑な背景を抱えており、人から愛される(認められる)とはどういうことなのかを誰からも学ぶことができなかった。

 

愛されたことがないから、愛しかたが分からない。そんな自分だから人から愛されなくても仕方がない。そんな自分だから周囲から疎まれる。それは自分が悪いのだから仕方がない。でも自分に愛しかたを教えてくれなかった世界が憎い。でもそれは自分の身勝手なことは十分わかっている。身勝手で自分のことしか考えられず世界を憎む自分は悪者だ。個人的な憎しみから悪意をたぎらせている自分は、疎まれて当然の存在だ。そんな自分を好きになれない。こんな自分を作り出した世界が憎い。

 

ハードルが高すぎる「優しさ」

彼らが定義する「優しさ」は、自分がどんなに辛い境遇にあっても他人を思いやらなければならず、それまで思いやっていたとしても、一回でも相手を傷つけしまえばそれは消えない罪になる。

彼らがこれほど完璧で、普通の人間にはとても不可能だと思うことを「優しさ」と定義するのは、彼らが人よりも傷つきやすいからだ。

傷つきやすいから、人を傷つけることを極度に恐れる。優しいから、他人の幸福よりも自分の心情を優先してしまうことが許せない。

人間では不可能な「優しさ」の定義を掲げて、それができない自分は「優しくない」「間違っている」といい、全てを自分のせいにし、抱えきれない罪悪感に苦しむ。

 

例えば木陰がマリア・ドラッグを提供した不良たちは、毒があることを知らされてもなお「優しい人間でありたい」と願い、マリア・ドラッグを飲み続けることを選ぶ。そして木陰がマリア・ドラッグを作らないことに決めたとき、「優しくない自分」に戻らないために死ぬことを選ぶ。

 

これは彼らの自由意思の選択なのだから、木陰が責任を感じる必要はない。少なくとも彼らの死は彼女の責任ではない。

それなのに木陰は彼らの死に責任を感じ、すさまじい罪悪感を抱き、自分を「人を傷つけることしかできない人間」「死ぬまで汚い心を抱えた棘にまみれた人間」だと言う。

 

死ぬにしても何で木陰の目の前で、しかも彼女が握ったナイフで死ぬんだ。そんなの相手が罪悪感とトラウマを抱くに決まっているのに。

と自分は不良たちに腹が立つ。

 

彼らが死んだのは本人たちの自由だし、むしろ心の底から彼女に感謝して死んだのだ。彼らのためにも良かった、と思ってよいと思うのだが、木陰はその死の決断に対して責任を感じ、自分を「汚い心の持ち主」と責める。

 

他人には「どんなにクズでも馬鹿でも生きていて欲しい」と願う木陰。これが自分に対しては「生きている資格がない」のように途端に厳しくなる。

彼らは自分に優しくしたり、自分を愛することが異常に下手くそだ。

「ただ一人だけでも愛してくれる人がいればよかった」

「だけどその一人がどうやっても見つからない」

「自分を好きになりたかった」

自分を好きだと言ってくれる人がいれば、自分のことを好きになれるのに。

ただ、こういう人はいくら「好きだ」と言っても受け取らない。余りに傷つきやすくて弱くて、相手の「好き」を信じることができない。正確には、どれほど他人が認めてくれても、自分の価値を受け取ることができない。

そういう姿が見ていてもどかしい。

 

「悪」に生まれてしまったら、どうすればいいのか。

自分が作中で最も感情移入したのが瀬良だったので、打ち切られてしまったのが非常に残念だった。

 

純粋な1個の悪意が、他人に甚大な被害を及ぼすということは実は余りないと思う。

アイヒマンの例を引くまでもなく、「悪」とは能動的なものではなく、平凡な人間たちの、他人に対する少しの想像力の欠如が積み重なったときに、恐るべき巨大な「悪」になると思っている。

「悪の行動」の原因になるのは「悪」よりも、「正しさ」のほうが多いのではないか。人間が尤も他人に対して残酷になるのは、何等かの免罪符を用いて自分の正しさを確信したときだと思う。

人間はそんなに強い生き物ではないので、他人に害を為す場合は何等かの言い訳「社会のため」だの「上からの命令」だの「みんなやっている」だの「自分の不幸な境遇」だのが必要だ。そしてその中で最も強力な言い訳が「正しさ」だと思う。

 

どんな正しさであれ、それが行動の重大性の免罪符にならないように、行動が正しいものならば、その動機が仮に悪であっても、もしくはその正しさを実行した人物の心の中がどれほど悪意に満ち溢れていても、問題はない。

ただ心の中で思うだけならば、どれだけ残虐なことを考えていても、どれほど卑猥な妄想にふけっていても自由だ。それが外部に漏れ出ず、誰にも影響を与えないのならば、心の中は自由なはずだ。

 

瀬良のように人として当たり前の倫理が理解できない、人の感情が理解できない、むしろ他人の苦痛に喜びを感じてしまうという人間に生まれたことは、相当孤独だと思う。

 

彼女が考えていることが分かれば、人は「正しさ」の名の下に彼女を疎外し、袋叩きにするだろう。このとき、自分がやっている「他人を疎外する」「他人を多数で袋叩きにする」という行為の悪質さは、「相手が悪である」という言い訳の下、簡単に免罪される。そして自分が「悪」であることを知っている瀬良も、それを当然だと思う。

何故なら、自分は悪だから。人の心が理解できないから。人を傷つけて喜びを感じるような人間は、袋叩きにされて当然だから。

自分はこういう、人を殴るという行為すら言い訳を見つけて正当化する、もしくは黙認してしまうことの積み重ねからこそ、本当の「悪」は生まれると思う。

 

瀬良は自分という存在が「悪そのもの」であることを自覚しながら、それでも必死に正しくあろうとする。父親が昔教えてくれた「正義の味方」であろうとする。

それは「人のことを思いやることが正しいことだ」と考える前に、心の底から当たり前だと感じられる人間には考えられないような大変さだと思う。

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(引用元:「ib インスタントバレット」赤坂アカ/KADOKAWA」)

 

そして「悪でも正しくありたい」と願う瀬良のために、クロは「僕はお前より間違っている」存在になる。

みんなが叩かれる側に回らず、叩く側に回るために必死で「正しさ」を掲げるような現代では驚異的なことだと思う。

 

自分の本能を押さえつけ、自分には理解できない概念である「正しさ」を必死で追求する瀬良は、それだけで十分「正しい」。

そして瀬良のために、他人から否定され叩かれる「間違った悪」になるクロは十分に優しい。

 

人は誰しも間違うし、ろくでもないことで他人を傷つけてしまうこともある。相手にそんなつもりがなくとも、勝手に傷ついてしまうこともある。醜く卑怯でとんでもないことを考えてしまうこともある。いつも正しくはいられないし、自己中で身勝手で、地球の裏側で人がたくさん死んでいることが頭ではわかっていても、涼しい部屋でアイスを食べて幸福を感じてしまうのが人間だ。

そういうことに罪悪感を持つだけでも、人を愛することができているし十分優しい。 

 バカ高いハードルを設けて「自分は間違っている。優しくない。悪意の塊だ。疎まれて当然だ」と言い出す人がいたら、何百回でも「違うよ」と言ってやりたい。

 

物語世界の謎を解くことを楽しむ「世界解明系の物語」 みんなのおススメ作品リスト

 

 

「世界の謎を解く物語」でおススメのものを聞いてみた。

先日、「世界解明系の物語が読みたい」という記事を書きました。

www.saiusaruzzz.com

 

「世界解明系の物語」とは自分の造語で、

「主人公や読者が知らない法則で世界が動いており、主人公が「どんな理由で起こっているのか分からない物事」からその法則性を解き明かしていくことを主たる目的としている物語」

と定義しています。

自分が例としてあげたのは「進撃の巨人」「ひぐらしのなく頃に」「SIREN」などです。こういう系統の物語が読みたいのですが、何か面白いものはありませんか、といったところ色々とおススメのものを教えていただきました。

コメントを寄せていただいた方々にお礼を申し上げます。ありがとうございます。

 

ジャンルが不明確なので探しづらかった。

なぜ記事を書いたかと言うと、「世界解明系の物語」を読みたいと思っても探す方法が思いつかなかったからです。

「ラブコメ」「サイコホラー」「ダークファンタジー」など、細分化したジャンルでも検索すると探せるのですが、こういう物語は定義する言葉もないし、どうすれば探せるのか。キーワードを変えて色々と検索してみましたが、なかなか思うように探せませんでした。

「世界の謎を解明する物語」という言葉自体がネタバレになる可能性があるので、「こういう物語です」とレビューにも書きにくいということもあると思います。

 

「世界解明系物語」愛好家のためにリストにした。

当初は「教えてもらったものを読んでみよう」くらいの気分だったのですが、思ったよりもたくさん情報をいただけたので、自分一人で楽しむにはもったいないと思いリスト化することにしました。

「話の本筋にさえ触れなければ、その点はネタバレされても構わないので、こういう物語を探しあてられる方法があるといいのに」

という自分のような人間のためにも、ひとつくらいこういうものがあるといいかもしれないと思ったことが理由です

いただいた情報の中で「ある程度このジャンルとして認知されているのでは」「このジャンルとは考えにくい」と思ったものは自分の判断で外させていただきました。 

 

以下の点を留意したうえで、こういった物語を選ぶための参考にしていただければと思います。

①「上記の定義に沿っている物語と考えられる」という点に関しては、ネタバレされてもいい。

②上の定義を上げたうえで、色々な人から推薦してもらった作品である。中身がその定義に沿っているかどうかは、保障はできない。 

③ジャンルはあらすじを読んだり、紹介文に書かれたカテゴリーを手掛かりに、好みのものを探しやすいように便宜的につけた分類である。厳密な分類ではない。

 

「世界解明系の物語」みんなのおススメ作品リスト

小説(日本SF)

「驚愕の曠野」(筒井康隆/1977) 

「ドリームバスター」(宮部みゆき/2001)

「導きの星」(小川一水/2002)

「天冥の標」(小川一水/2009)大長編です。

「神は沈黙せず」(山本弘/2003)

「新世界より」(貴志祐介/2008)推薦者が一番多かったです。

新世界より 文庫 全3巻完結セット (講談社文庫)

新世界より 文庫 全3巻完結セット (講談社文庫)

 

 

小説(日本ホラー)

「リング」シリーズ (鈴木光司/1991)

「酔歩する男」(「玩具修理者」に所収/小林泰三/2002)

表題作「玩具修理者」は第二回日本ホラー大賞短編賞受賞作です。

玩具修理者 (角川ホラー文庫)

玩具修理者 (角川ホラー文庫)

 

 

小説(ライトノベル)

「スクラップド・プリンセス」(榊一郎/1999)二票獲得。

「幽霊には微笑を、生者には花束を」(飛田甲/2004)

「鋼穀のレギオス」(雨木シュウスケ/2006)

「人類は衰退しました」(田中ロミオ/2007)

「とある飛空士シリーズ」(犬村小六/2008)

「【映】アムリタ」(野崎まど/2013)

第16回電撃小説大賞メディアワークス文庫賞受賞作。

「マギクラフト・マイスター」(秋ぎつね/2013 )

「オカルティック・ナイン」(志倉千代丸/2014)

「セルフ・クラフト・ワールド」(芝村裕吏/2015)

スクラップド・プリンセス 捨て猫王女の前奏曲 (富士見ファンタジア文庫)

スクラップド・プリンセス 捨て猫王女の前奏曲 (富士見ファンタジア文庫)

 

 

小説(海外SF)

「星を継ぐもの」(ジェイムズ・P・ホーガン/1977)

「白銀の聖域」(マイケル・ムアコック/1996)

「クロックワーク・ロケット」(グレッグ・イーガン/2015)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

 

 

漫画

「11人いる!」(萩尾望都/1975)

「孔子暗黒伝」(諸星大二郎/1988)

「百万畳ラビリンス」(たかみち/2015)

 

映画

「ミッション:8ミニッツ」(2011年/アメリカ)

ダンカン・ジョーンズ監督の二作目。一作目の「月に囚われた男」も謎を解き明かすスリラーのようです。

「ホット・ファズ ー俺たちスーパーポリスメン!-」(2007年/イギリス)

タイトルは微妙(失礼)ですが、あらすじを読むと面白そうです。

ミッション:8ミニッツ (字幕版)

ミッション:8ミニッツ (字幕版)

 

 

アニメ

「交響詩篇エウレカセブン」(2005年)

「ゼーガペイン」(2006年)

ゼーガペインADP

ゼーガペインADP

 

 

ゲーム

「シュタインズ・ゲート」(2009年)

STEINS;GATE

STEINS;GATE

 

  

管理人うさるのおススメ

「ひぐらしのなく頃に」(竜騎士07/2002/ゲーム・アニメ・漫画)

「うみねこのなく頃に」(竜騎士07/2007/ゲーム・アニメ・漫画)

「匣の中の失楽」(竹本健治/1983/小説/)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹/2013/小説)

「ムーンライトシンドローム」(ゲーム/1997)

「SIREN」(ゲーム/2003)

 

新しいものを見つけたら順次、リストに加えていきたいと思っています。

 

 関連記事

以前にも謎解きコンテンツへの愛を語っていました。

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ドラマ「銀と金」第13話「殺人鬼有賀編」が色々と残念だったので、その理由を書きたい。

 

Amazonプライムビデオでドラマ「銀と金」の第13話「有賀編」を視聴しました。

第13話

第13話

 

 

地上波で放送されたドラマが満足の出来だったので楽しみにしていましたが、非常に残念な内容でした。制作スタッフは同一のようなので、一体、なぜこうなってしまったのかよく分かりません。

「良かった」というかたには申し訳ないのですが、個人的にはだいぶひどいと思いましたし、不満が多いです。

どういうところが気になったか、具体的に書いていきたいと思います。

 

森田のすごいところがすべて削られている。

一番、ひどいと思ったのがここです。

森田は普通の青年に見えて、鋭い嗅覚や判断の素早さ、いざというときの度胸などすごいところがたくさんあります。

原作の「有賀編」は、一人で仕事を請け負うことで、その「普通に見えて常人離れしているところ」「なぜ、銀二が森田を仲間にしたのか」という森田のすごさを読者に説明する編でもあります。

 

扉の開け閉めの回数で、部屋から出てきたのが有賀と分かる。

有賀に罠をしかけて、不意をつく。

有賀に「逃げていいよ」と言われても「逃げないで戦う」と言う。

 

これらがほとんど削られている。

そして「窮地を切り抜けるために判断し戦う」という役割のほとんどが、ドラマのオリジナルキャラクターで、しかもこの回にしか出てこない女殺し屋??に割り振られています。

「女殺し屋」という現実離れした設定は実写で出すのは厳しいと思うのですが、それを押して出したのだから何か目論見があるのかと思いきや、特に何もなかったです。

「逃げない」という森田のセリフを強奪し、ただ撃たれて死にました。

何だったんだ???

 

伏線の使い方や回収のしかたがおかしい

これは「銀と金」には関係なく、物語の構成としておかしいと思った箇所です。

有賀が「子どものころ火事に巻き込まれている」ということを森田が知る、という伏線から、「有賀は火を怖がるのではないか」ということを森田が思いつく点です。しかしこれは、火が風で消えてしまったために、物語の展開としては何の意味もないものになりました。

展開に影響を与えない描写を伏線まで張って入れるというのは、物語の描きかたとしては拙いと思います。単なる尺稼ぎに見えてしまうし。

 

あともうひとつ、撃たれたときに女暗殺者が実は生きている、という描写があったのですが、これも最終的には死んでいるうえに理屈ではなく情緒に回収されるので、あんなに意味深に描写する必要がないです。

伏線というのは「物語が大きく展開し」「読者がああそういえばそれを遠因となる描写があった」と思わせるための装置です。

読者が十分想定できるストーリーラインで物語を展開させているのであれば、伏線というのはいらない描写です。

物語がレールに沿って走っていれば、切り替え装置はいりません。むしろ「何で切り替えたんだ?」「切り替えたあとも、元のレールに沿ったまんまなんだけれど?」という疑問が湧くだけです。

「でも、女暗殺者が船田に電話をかけたから、船田が駆けつけられたのでは?」と思う向きもあると思います。この展開、設定について遡って色々と言いたいのですが、ものすごく長くなるのでやめておきます。

 

そもそもなぜこんな出す必要のないオリキャラを出したのか、ということが分かりません。

物語の展開には関与しない、意味のない、それでいながら世界観を壊しかねない非現実的な設定、主人公森田の役割を奪いとって原作のファンをがっくりさせ、それでいながらほとんど自分のキャラは立たずに死ぬ、という悪夢のような登場人物でした。

 

ドラマ制作陣は、森田に興味がないのか?

テレビ放映されたドラマを見ていたときから、自分はドラマの森田に非常に違和感を持っていました。

原作の森田は「一見、どこにでもいる普通の青年」でいながら「いざというときは優れた判断力を発揮する」

そして一番の特徴は、情が深いところです。

少し前まで自分を殺そうとした人間でも、その境遇に同情して涙を流すし、自分を殺そうとした人間を助けるために、マシンガンの前に丸腰で飛び出す、そういう深い人間愛が森田の一番すごいところです。

ところがドラマの森田からは、そういう「熱いところ」「深い情愛」みたいなものがほとんど感じられません。

「ただクールで頭が切れる男」という印象です。

 

第13話ではそういった森田の「人よりも情が深いところ」「普通の青年らしいところ」が描写されていたのですが、そうすると今度は有賀に「逃げていいよ」と言われたらすぐに逃げようとしたり、炎が消えて慌てふためいたりする小物臭満載になってしまって、がっくりしました。

 

俳優の演技はとても良かった。

このドラマは相変わらず、俳優の選択だけは間違いがありません。

今回、有賀を演じた手塚とおるさんも素晴らしい演技でした。

「銀と金」を見ていて思うのは、俳優というのは本来、このレベルのことができて当たり前なんだな、ということです。笑い方、表情、言葉の抑揚の付け方、間の取り方、そういうもののひとつひとつをどうすれば、見ている人が驚くか、怖いと思うか、どういう感情を抱くか、全部熟知している印象です。

 

船田のカッコよさは異常。

原作では出番どころか、セリフもほぼなかった船田ですが、ドラマでは大活躍しています。今回もカッコよかったです。

 

まとめ

テレビで放映されたぶんは、原作の大ファンである自分も十分楽しみ満足できたので、最後の最後でこれ、というのは非常に残念でした。

あの女殺し屋を主人公にした物語を描きたくて、「銀と金」の話に無理矢理組み込んできたのでは、と邪推してしまいます。そういうことがやりたければ、オリジナルドラマでやって欲しいです。

安田、巽、船田の三人のスピンオフでもいいと思いますよ。

 

この感じで神威編を作ったら、田中が大活躍しそうだな。

 

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銀と金 文庫全8巻 完結セット (双葉文庫―名作シリーズ)

銀と金 文庫全8巻 完結セット (双葉文庫―名作シリーズ)

 

 

「男女の友情はあるかないか論」で思い出す「バクマン。」のサイコーと見吉のステキな関係。

 

*この記事には、「バクマン。」のネタバレが含まれています。未読の方はご注意ください。

 

 

見吉香耶はすごい女性だ

「男女の友情はあるかないか論」については、実はそんなに興味がない。そもそも「友情」というのがフワフワした言葉だし、関係性というのは外野が名前をつけるものではなく、本人同士が了解し合っていればいいものだと思っているからだ。

 

ただ、「恋愛感情抜きの男女の関係」で一番理想的な関係はどんな関係か、と言われたときに思いついたのが「バクマン。」(原作:大場つぐみ 作画:小畑健)の主人公・真城最高と見吉香耶の関係だ。

自分は見吉がすごく好きで、「二次元キャラで結婚したい女性」の五指には確実に入る。

 

役割的には「糟糠の妻」「物分かりのいい女」なのだが、そういうことに対して恨みがましいことは一切言わず「自分で選んでそうしている」と意思がはっきりしていること、そして「仕事に対しては、物分かりのいい女」でありながら、プライべートではシュージンやサイコーに対して自分の意見をはっきり言うところもいい。

シュージンに浮気疑惑が出たときは、五年付き合ってシュージン(とサイコー)の夢を支えてきたにも関わらず、きっぱり別れることを選ぶ決断力もいい。

 

「糟糠の妻」で「支える奥さん」なのだが、見吉は「献身的に尽くすことを、自分の意思で選んでいる」ので、社会的な立場はどうあれ、内面的には自立している。自分が好きでやっているから、「あれだけ尽くしたのに」「これだけやってあげているのに」のような恨みがましいことは一切言わない。

そして、相手の気持ちが自分から離れたと思ったら、「殴る気にもならない」と言ってすっぱりと離れる。(実際は誤解だから、結婚したが。)

 

「いい女」なんだけれど、「都合のいい女」ではない。

ちょっとひねくれているけれど、若くて才能もあってモテるシュージンがずっと付き合って結婚したのも頷ける。こんなできた女性は、二次元でもなかなかいない。

 

「バクマン。」の中では、シュージンと見吉の関係、サイコーと亜豆の関係よりも、サイコーと見吉の関係が好きだ。

「関係性が育つ、成長する」というのは、こういうことを言うのかと思う。

というわけで、この二人のステキすぎる関係を振り返りたい。

 

サイコーと見吉の関係の変遷

最初、見吉のことを嫌っているように見えるサイコー。

最初のころ、サイコーは見吉にかなり冷たい。

「興味のない赤の他人+ちょっとうざったい」くらいの扱いだ。

自分の相棒の彼女であり、好きな人の親友なので、多少対抗心もある(のちに嫉妬もあったと認めているし。)にしても、かなり冷たい。

「まったく興味がない赤の他人だけれど、つながりがあるから口出ししてきてうざい」二人の関係はここからスタートする。

文字にするとけっこうキツイ。

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(引用元「バクマン。」2巻 原作:大場つぐみ 作画:小畑健 集英社)

 

そのあと、「見吉って基本いい奴だよな」「見吉、優しいじゃん」と言うなど、少しずつ見吉のいいところを口にするようになるが、それでも「亜豆の親友」「シュージンの彼女」という域から脱しない。

「亜豆の親友としてはいい奴」であり「シュージンの彼女としてはちょっと邪魔」。というのが、サイコーの見吉に対する評価だ。

後者が色濃く表れたときのサイコーのシュージンに対する不信感が原因で、二人は決裂する。

 

これはサイコーの誤解だったので、サイコーとシュージンは仲直りをする。

この辺りはそれほどクローズアップされていないが、「漫画のために見吉との関係が邪魔になっているのではないか」という言いがかり(としか言いようがない)をつけているサイコーを、見吉は一切責めたりしない。

むしろ「確かに邪魔かもしれない」と自分を責めている。

見吉が声を荒げたり、怒ったりするのは、例えば亜豆とサイコーの関係に対してのように、常に他人のためだ。

おせっかいなのだが、サイコーも他人の関係にこうやって口出ししているのだから、見吉のことを言えない。むしろ「漫画のため」という大義名分を掲げて、その口出しを正しいと思っているだけ、サイコーのほうが性質が悪い。

しかし見吉は、そういったことをまったく言わない。

「どんな時でも、自分のことよりも他人のこと。でもそれは自分で選んでいることだから、犠牲とは思わない」

見吉のこういうところが、後にサイコーの信頼につながるのだと思う。

 

 サイコーが、少しずつ見吉を気遣うようになる

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 (引用元「バクマン。」5巻 原作:大場つぐみ 作画:小畑健 集英社)

「クリスマスもサイコーが遊ばないなら遊ばない」

ちゃんと仕事をしていれば、そこは合わせなくても良くないか?

シュージンの訳の分からない理屈を、受け入れる見吉。

普通だったらこの辺りで別れると思う。

 

その後も「色々とやってくれる見吉」に対して「アシスタント代をあげたほうがいいのではないか」「ありがとな」という言葉を言う。

「色々とやってくれる」のは、見吉本人は好きでやっているというし「二人の夢は自分の夢」と言っている。

でもそれは決して当たり前のことではない。自分がやっていることに対して見返りを求めるのは、ごく当然の感情だ。見吉にとって、その見返りが「二人が成功し、喜ぶ姿。真城と亜豆が結婚すること」なのだ。

何ていい子なんだ。

こういう姿勢に触れて、真城の態度はどんどん軟化していくのは当たり前だと思う。

 

この辺りになるとサイコーは、「シュージンの彼女」ではなく、「亜城木夢叶の同志」として見吉を見ている。

シュージンとサイコーを合わせた仮想人格としての「亜城木夢叶」は、例えばアシスタントと上手くやっていけるかなど、自分たちが苦手とする場面でかなり見吉を頼りにしている。

その事実よりも、そこに「余り気づいていないところ」が「甘え」と思うし、見吉にも「そんなに甘やかさないでも」とは思うものの、こういう「無意識の甘え」も突き詰めたりせず、引き受けるところが見吉の魅力だと思う。

 

サイコーが見吉に仕事場の合いかぎを渡したシーンは、サイコーが見吉のことを「同志」として認めた象徴的なシーンだ。

このあとシュージンの浮気疑惑が持ち上がる。

しかし「漫画に影響したらイヤだから、描きあがるまでは絶対に言わないで」と泣きながら亜豆に頼む見吉。

どんだけいい子なんだよ!

 

「香耶ちゃん」の心を配慮するようになる。

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(引用元「バクマン。」9巻 原作:大場つぐみ 作画:小畑健 集英社)

ファースト「香耶ちゃん」呼び。

呼び方が変わるのは「結婚したから」という理由なのだが、意外とこういう形式から心境も変わってくるのが呼び方の変化の萌えるところだ。

話の内容は、二人の関係にはまったく関係ないが。

 

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(引用元「バクマン。」11巻 原作:大場つぐみ 作画:小畑健 集英社)

5巻とまったく同じシュチュエーションだが、明らかにサイコーの態度が違う。

5巻のときは「仕事をしてくれればいい」と言い、シュージンが断ると「悪いな、見吉」とそれ以上すすめることはしていない。多少気を遣っているが、二人の関係だから好きにすればいいというスタンスだ。

それに対して今回は、明確に見吉の気持ちを慮った発言をしている。そのため、シュージンに対する言葉も「帰れば?」とか「帰らないのか?」ではなく、「帰れよ」という命令形になっている。

こういう言葉から、サイコーの見吉に対する心境の変化がうかがえる。

 

シュージンと結婚して以降、サイコーは見吉のことを非常に尊重するようになる。

見吉が「シュージンの配偶者」という公的な立場になったこともあるが、「夫婦だから」という社会的な側面を尊重しているというよりは、「香耶ちゃんに寂しい思いをさせるな」という言葉のように、見吉の心情をかなり気にするようになる。

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(引用元「バクマン。」13巻 原作:大場つぐみ 作画:小畑健 集英社)

自分もだいぶシュージンと気まずい状態なのにも関わらず、「(言いにくいなら)俺が言ってやろうか?」というサイコー。

漫画関連のこと以外は他人のことには余り口出ししないサイコーが、こういう気遣いを見せるのは、見吉に対してだけだ。

関係性の違いもあるが、ある面ではシュージン以上に見吉の気持ちを大事にしている。

 

そして亜豆のことは元より、仕事のことまで相談するようになる。

「邪魔者」と言わんばかりの態度で「漫画のことに見吉が口出しするって、駄目だろ」と言っていた初期のサイコーからすると、信じられない変化だ。

 

見吉は「亜城木夢叶の妻」

なぜ結婚以降、サイコーの態度がこれほど変化したのかは、見吉がさりげなく言っている「亜城木夢叶の妻」という言葉に象徴される。

「シュージンの妻」という存在以上に、見吉はサイコー、シュージン、亜豆の未来と夢の集合体の妻であり、同志なのだ。

「シュージンを忙しくさせてごめん」という言葉の返事に対して「(自分が)わかった、頑張る」と返すのはよくよく考えるとやや不自然なのだが、その不自然さが見吉とサイコーの関係では自然なのだ。

 

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 (引用元「バクマン。」20巻 原作:大場つぐみ 作画:小畑健 集英社)

そして最後のこのシーン。

サイコーが、どれほど自分たちを献身的に支えてくれた見吉に感謝しているかが伝わってくる。

遠くで自分と同じ夢を追いかける亜豆とも、自分の分身とも言えるシュージンとも違う、すぐ近くから自分たちとはまったく違う視点を持って、自分たちを無償で見守って支えてくれる存在として、非常に強い信頼と感謝を寄せていたのだなと思う。

 

恋愛感情のまったくない異性が、これほど強い信頼で結びついているのが羨ましい。逆に「信頼」という一点だけを考えるなら、恋愛感情というのはむしろ邪魔なのかもしれない、と思うほどだ。

亜城木夢叶のペンネームの逸話が回収されたこともあり、このシーンが、個人的には「バクマン。」のクライマックスだ。

 

この二人の関係性がメインテーマでないのにも関わらず、これほど関係性が変化していく様が描かれるのはけっこう珍しいと思う。

サイコーが中学生から20歳を超えた大人になったということも大きいとは思うのだが、漫画と亜豆のことしか頭にないサイコーの信頼を、漫画を描けない見吉が勝ち取ったのは、やはり見吉の性格によるところが大きいと思う。

「見返りを求めない自由な意思からの献身」

ひと言で言えることだが、これを出来る人間は万に一人もいないのではないかと思う。どれほど自分からやったことでも、つい「これだけやってあげているのに」と思いがちになってしまう。

少年漫画だからほとんどフォーカスされないし、物語としてもそのほうがバランスがいいと思うけれど、読めば読むほどすごい女性だと思う。

 

シュージンと見吉の関係など

シュージンと見吉の関係も、結婚前は連絡がなくてもほとんど気にしない、常に仕事が優先、嫌なら別れて一向にかまわないという態度に見え、シュージンのほうは惰性で付き合っているんじゃないかと思うような関係なのだが、結婚後はびっくりするほど見吉を大事にしている。

まったくそうは見えないが、シュージンも付き合っていたころから見吉のことが好きだったし、言葉の端々では「見吉が好きだから頑張る」など言っている。

 

このシュージンの態度から、仕事や趣味を最優先にしている男性の交際に対する姿勢がよく分かると思う。

たいていの女性はこういう態度を見ると「自分はないがしろにされているのではないか」と思うし、そこから自滅するパターンもよく見る。そして彼女がそういう心境を表に出したときにフォローに回るのではなく、蒼樹さんとの関係を疑われたときのシュージンのように「信じてくれないならそれでいい」という結論に達する。

それがいいとか悪いとかではなく、こういう男性はこういう人なのだから仕方ない。

 

そういう態度を非難するのではなく、そういう人と一緒にいるかいないかを自分で決め、どうしても許せなくなったときは即座に別れるという決断を下す見吉は、稀に見る女性だと思う。

「こういう男性が何を考えているか」「交際に対してどれくらい重きを置いているのか」ということがよく分かる点も面白い。

「彼女が大事」と「交際が大事」がイコールではない。この辺りをごっちゃにすると、話がややこしくなるだなあとシュージンを見ていて思った。

 

あとはシュージンと亜豆(岩瀬ではない)の「相容れないけれど、お互いの力量を認め合っている好敵手」という関係もなかなか好きだ。シュージンと亜豆の絡みは、常に緊張感が伴う。これも異性だとなかなか見ない関係だと思う。

サイコーと岩瀬の「お互いまったく興味がないし、好きでもないけれど、認めている」という関係もいい。

「バクマン。」は他の漫画では見ない、面白い関係が多い。

 

色々な登場人物が出てきて、色々な心情が読み取れるところも「バクマン。」の面白いところのひとつだと思う。

 

 

諌山創「進撃の巨人」22巻の感想&この物語のテーマの特異性について、徹底的に語りたい。

 

2017年4月に発売した諌山創「進撃の巨人」22巻の感想及びテーマについての再考です。

テーマについては新刊が出るたびに考えていますが、新たな考えも出てきたので、改めて語りたいと思います。

 

20巻までの感想はコチラ↓

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21巻の感想はコチラ↓

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ついに「進撃の巨人」という言葉が出てくる。

22巻では巨人の正体も含め、世界の真実の姿がだいたいわかりました。

タイトルの「進撃の巨人」も、物語の中でその意味が語られました。

 

最近の巻では物語の謎が次第に明かされていっているのですが、それと同時にこの物語のテーマも語られています。

そのテーマというのが、かなり不思議なものというよりは、今までの少年漫画ではそのテーマ自体もその語られ方も余り見たことがないものです。

 

「進撃の巨人」のテーマは見たことがない。

「進撃の巨人」は、気持ちの悪い巨人が出てきて残虐なシーンも描写されていること、主要登場人物もあっさりと死んでいくことなどから、一見すると少年漫画の中では異質さを放っています。

そういう外枠を取っ払えば、中身はごくまっとうな王道の少年漫画ではないかと今まで思っていました。

 

でもここ最近の巻を見て、「進撃の巨人」が最も強く打ち出しているテーマ、そのテーマの語られかたを見ると、「今までの少年漫画、というよりは他の漫画にない考え」を今までにない語り口で語っているように見えます。

この特異性が、この漫画を「一見、王道の少年漫画でありながら、今まで読んだことのない漫画」にしているのではないか、と22巻を読んでいて思いました。

 

「進撃の巨人」で最も重要な思想

「進撃の巨人」では個人の命や人生は尊重されていない。

ジャンプに代表される少年漫画で、たいてい重要視される思想というのは「優しさ」「夢」「努力」「友情」この辺りの現代社会で「道徳的」と言われるものです。

「命の尊さ」「個人の尊厳」などもそうです。

 

「進撃の巨人」では、この「一人の人間の絶対的な尊さ」というものは肯定されていません。

「人間は一人一人違うのだから、その人の代わりなんていない。一人の命と大勢の命の尊さは比べられるものではない」

という現代社会的な価値観は、初期の段階からほとんど組み込まれていません。

それどころか、20巻でリヴァイがエルヴィンに「新兵を地獄に導け。夢を諦めて死んでくれ」と言った時点で、明確に否定されます。

 

「組織(多数)を救うために、個人を犠牲にする」

「組織(多数)を救うために、個人が死ぬことを是とする」

 

というのは、戦時戦前の価値観に対する反動もあり、現代社会では基本的には忌まれている考え方です。

少年漫画で、自己犠牲という形をとり「犠牲になるのは本人なんだからいい」という言い訳めいた描写のされ方をすることはたまにありますが、他人に対して、しかも弱者である新兵に対して「組織や大義のために死んでくれ」と主要登場人物が強いるのは前代未聞の描写です。

マルロを含め新兵たちの死に方は、特攻以外の何物でもないですし、読んだ人の中には嫌悪感とまではいかないまでも違和感を感じた人もいるのではないかと思います。

 

「フクロウ」として生きたクルーガーの人生も、「エルディア人全体のために、自分の人生を犠牲にする」という「多数のために個人を犠牲にする」という考え方に基づいています。

アルミンが大型巨人を倒すために犠牲になった描写もそうですし、グリシャが息子のジークに「エルディア人復権のために生きろ」と強いた描写もそうです。

 

「進撃の巨人」は「大儀やその他大勢の人のために、個人を犠牲にする」「個人の幸せよりも、大切なことがある」そういう考えが語られているのか?? それが「進撃の巨人」で最も重要なテーマなのだろうか??

特にエルヴィンの死にざまを見ていると、そんな気がしてしまいます。

 

でも、そうではないのです。

もし「個人の人生よりも、大勢の人生のほうが大事。そのための犠牲は尊い」というテーマならば、生き返るのはアルミンではなく、エルヴィンのはずだからです。

リヴァイやハンジがエレンとミカサを論破したように、「人類のため」という観点ならば、どう考えてもアルミンよりもエルヴィンが生き返るのがスジだからです。

 

なぜ、エルヴィンではなくアルミンが生き返ったのか。

ここで「単にエレンの友達だからじゃないの?」という理由でアルミンが生き返るならば、「進撃の巨人」という物語自体が破たんします。戦友であるエルヴィンに「夢を諦めて、死んでくれ」といったリヴァイが、そんな理由でアルミンを生き返らせることに同意するはずがないからです。物語の重みや、登場人物の考え方が無茶苦茶になります。

 

エルヴィンではなく、アルミンが生き返ったのは、主人公であるエレンとの関係がどうこうではなく、物語としてとても重要なことだと思います。

 

エルヴィンはいわば「個人の人生よりも、大勢の人生のほうが大事」という考え方の象徴です。エルヴィンはそのために、自分が長年追い求めた夢を諦め、自分どころか他人にまで死ねと命じて死んだ人物だからです。

エルヴィンこそが「人類を救う人物だ」ということは、最終的にはエレンもミカサも納得しています。

「人類のために、個人(私情)は犠牲になるべき」という考えが、この物語の最上位にくる考えならば、生き返るのはエルヴィンのはずです。

 

では、アルミンはどんな人物なんだろう??

エレンが「なぜ、生き返らせるのがエルヴィンではなく、アルミンでなければいけないのか」という理由で、はっきりと語っています。

「この壁の向こうにある海を見に行こうって」

「アルミンは戦うだけじゃない。夢を見ている」

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(引用元:「進撃の巨人」21巻 諌山創 講談社)

これが、「進撃の巨人」で最も重要なテーマなのだと思います。

 

「個人の命」よりも「人類を救うこと」

そして「人類を救うこと」よりも「壁の外に出る、という夢を見ること」

 

「進撃の巨人」の不思議なところは、「個人の命や尊厳」よりも「夢を見ること。外の世界を見ること。そういう自由があること」のほうが絶対的に重要だという考えが語られていることです。

 

「命を捨ててでも、自由のために戦わなければならない」

アルミンの件だけだと、それは「進撃の巨人」のテーマではなく、あくまでアルミンという登場人物だけに課せられた属性ではないか、とも思いますが、22巻でグリシャが「進撃の巨人」を受け継ぐと決意する場面で、まったく同じテーマが繰り返されています。

 

「何も知らないで、良き夫、良き父親として平和で穏やかな一生を過ごすよりも、飛行船を見るために外の世界に出る自由を得ることが一番大切だ」

グリシャが最終的に「進撃の巨人」を継承することを決意するこの理由は、一見、尤もらしく聞こえます。

しかし、この「自由」のためにグリシャが支払った代償は余りにすさまじいです。

妹を犬に食い殺され、息子には見切りをつけられて裏切られ、仲間は崩壊し無能と罵られ皆殺しにされ、愛した妻は巨人にされ、最終的には二度目の妻を食い殺し、息子に殺される。自分は拷問を受け、指を全て斬りおとされる。

「フクロウ」となったクルーガーは何年も敵地で過ごし、仲間を拷問し、死に追いやらなければならなかった。

 

「進撃の巨人」で語られているのは、例えこういう凄まじい経験をしてでも、人は「穏やかで平和に生きる」よりも自由であるために戦わなければならない、そういう考え方です。

 

妹を犬に食い殺されても、拷問を受けて指を切り落とされても、子供に裏切られても、心ならず仲間を死に追いやり続けてでも、新兵を地獄に導いてでも、人間は自由のために戦わなければいけない。外の世界を見なければならない。

 

「自由」というのは、これほどの対価を支払わなければ得られないものなのだ、と当たり前のように描かれています。

 

「進撃の巨人」のいいところは、フロックやグリシャの父親のように「なぜ、それほどの対価を支払ってまで自由を求めなくてはいけないのか。真の自由ではないかもしれないけれど、平和で穏やかな暮らしにも十分価値はある」という対立する価値観も、まったく等価に語られていることです。

クルーガーがグリシャの父親をまったく嫌味なく「お前の父親は賢い男だった」と語ったり、フロックがエレンに対して「何だって自分が一番正しいと思ってんだろ?」と言うことで、グリシャの父親やフロックの価値観も尤もだと思わせています。

グリシャが「これが自由の代償だとわかっていたなら、払わなかった」「もう何も憎んでいない」と語ったシーンは、読み手の心を「ここまでして自由を追い求めなくてもいいのではないか」とぐらつかせます。

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(引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)

 

物語の枠内で見ても、この「自由を追い求める」というのは非常に困難ですが、枠外から見ても、仲間はどんどん死んでいき、ベルトルトやアニ、ライナーとは戦わなければならず、リヴァイやハンジという人たちとも時には殴り合うレベルで対立しなければならず、ヒロインであるミカサでさえ、ギリギリのところで自由(=アルミンを生き返らす)を諦めてしまっています。

 

ここまで自分の価値観を徹底的に追いつめて、「これほど苛酷なものだとしても、誰にどれほど非難されても、例え自分が特攻して死ぬ新兵の一人だったとしても、自分は自由を絶対的に追い求める」という「人間にとっては命よりも愛よりも平和よりも他の何物よりも、自由が大切なんだ」という作者の考えの強烈さが、この物語を特異なものしているのではないかと考えています。

 

「命があればこその自由」「家族を犠牲にしてまで、自由を追い求めて何になる」というグリシャの父親的発想も尤もだけれど、それでも自分は飛空船を見るために外に出てしまった。

だから「どれほど苛酷な目に合おうが、命ある限り自由を追い求める」

それが「進撃の巨人」なんだ、とクルーガーはグリシャに語ります。

 

自分も今の時代に語られている「就職しなければ自由」みたいな字面だけの自由ではなく、本当に自由でいるというのは、かなり対価を支払わなければならないと思っていますが、それにしてもここまで対価を支払っても人間は自由でいなければいけない、という発想はどころからくるのか、すごく不思議です。

すごく不思議ですが共感します。

 

本当の意味で自分の求める生き方をする困難さ

本当に何かのために生きるというのは生易しいことではないし、聞いているコチラもしごく真っ当だと思う非難を山ほど浴びせられるだろうし、最初は同じ考えを持っていた仲間も、途中で考えが変わったり、脱落していったりします。

本当の意味での「自由」は身を切り、対価を支払い、戦って得なければならないものだ、そうすることによって逆説的にその価値を語り続けているのが、この漫画のすごいところだと改めて思いました。

 

22巻でエレンが「きっと壁の外には、自由が」と語ったときに、犬に食われた死体の映像が出てきました。「壁の外の自由」が、エレンが夢見たものではない可能性があります。

 

そういう絶望に直面しても、エレンは自由を追い求め続けられるのか。

この先の展開が楽しみです。

進撃の巨人(22) (週刊少年マガジンコミックス)

進撃の巨人(22) (週刊少年マガジンコミックス)

 

 

【福本伸行原作】土曜ドラマ「銀と金」が最終回を迎えたので、感想&総評を熱く語りたい。

 

土曜ドラマ「銀と金」が最終回を迎えたので、全12話の感想及びドラマ全体の総評を語りたいと思います。

第一回を見たときの感想はコチラ↓

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ポーカー編を見終わった段階での、くっそうるさい文句はコチラ↓

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「原作よりもいいのでは」と思う部分が多々あった。

上記の「こうるさい文句」とは矛盾していますが、「原作よりもいい」と思う部分が多々ありました。

第一に、脚本の改編の仕方が上手かったです。

 

安田、船田、巽のキャラの変更

脚本で一番いいと思ったのは、この三人のキャラ変更です。

原作は三人のキャラにそれほど差がなく、特に船田と巽はモブとほぼ変わりありません。船田って、セリフありましたっけ?

巽の女体化に関しては色々と物議を醸したようですし、自分も最初は気になりました。

 

ただ女性にすると、「女性である」という一事だけで船田・安田とキャラ分けできるし、使い勝手も大幅に広がります。

例えば「麻雀編」。

漫画と違い、ドラマでは麻雀のルールなどもセリフで説明しなければなりません。ドラマでは巽が「麻雀のルールをよく知らない」と言って、船田に説明を求めています。

このシーンは巽が男性だと「裏社会に精通している男が、麻雀のルールを知らないのか?」と不自然に感じますが、女性で店を経営している情報屋という立ち位置のキャラだと不自然さが軽減されます。

感覚的なものですが、こういう「自然さ」というのはすごく大事だと思っています。

原作を読んでいない人にも、視覚的に「強面が安田で、若いのが船田で、女が巽」とすぐに区別がつきます。

 

絵画編で川田の役割を船田に代えたのもよかったです。

川田はすごく好きなキャラですし、森田と川田の別れのシーンは福本漫画屈指の名場面だと思っているので残念な気持ちもあります。でもドラマの放送時間が限られていることを考えれば、あの役割を船田に差し替えたのは英断だと思います。

 

原作の船田と巽は「いるだけキャラ」ですが、ドラマのこの三人はそれぞれ個性がきちんと出ています。

安田は「アカギ」の安岡と見分けがつかない、福本漫画定番の「説明おっさんキャラ」なので、原作の三人にはほとんど興味が持てませんが、ドラマの三人はこの三人でもドラマが作れるのではないかと思うほど個性的です。

演じていたマキタスポーツ、臼田あさ美、村上淳もキャラにぴったりでよかったです。

 

俳優陣の演技がすごかった

ドラマで一番いいと思ったのは、出演していた俳優さんたちの演技が素晴らしかったことです。

「ポーカー編」で西条を演じた大東駿介さんも良かったですが、「麻雀編」で蔵前を演じた柄本さんもすごかったです。

 

蔵前は福本作品に一人は出てくる「巨額の資産と権力を持つ、倫理観のねじ曲がった金持ちの老人」で、漫画的なキャラなのですが、柄本さんはとてつもなく深い闇を抱えた人物として非常にうまく演じていました。

 

福本伸行の作品は魅力的なセリフが多いのですが、それはすべて漫画ならでは、のセリフです。

ドラマでセリフとして喋ってしまうと、とんでもないものになってしまうのではないかと見る前から心配していました。

一話を見た段階では「漫画的なセリフはぜんぶ削るのかな?」と思っていましたが、蔵前の印象的なセリフはほとんど脚本に入っていてびっくりしました。

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(引用元:「銀と金」福本伸行 双葉社)

 

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(引用元:「銀と金」福本伸行 双葉社)

 

この二つもだいぶ驚きましたが、一番驚いたのはこれ。

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 (引用元:「銀と金」福本伸行 双葉社)

 

「ヘル・エッジ・ロード」言っちゃうんだ?!!

 さらに驚いたのは、こういうセリフがまったく漫画っぽく聞こえなかったことです。

 

リリーフランキーや柄本明の演技を見て思ったのは、「狂気性」などの非日常的なインパクトの強いもの(キャラであろうとセリフであろうと行動であろうと)は、むしろサラッと演じたほうがいいんだということです。

「ここ!! ここがこの登場人物の特異なところですよ!!」

っていう演技をやられると、完全に漫画になってしまいます。

 

「ポーカー編」の大東俊介の演技も良かったですが、蔵前のような「ザ・漫画」というキャラクターをここまでリアルに落とし込める、それでいながら個性はむしろ漫画よりも際立っている柄本明の演技に脱帽しました。

こういうものを見ると、俳優って、演技ってすごいと思います。

 

話の都合上、余り出番がなかったリリー・フランキーですが、最後の最後は全部さらっていったなという印象です。

「運命に対する冒涜云々」のシーンも、演技が控えめなところが良かったです。

ベテランの俳優は、引き算の演技が上手いですね。

抑制された静かな演技で逆に存在感を際立たせられる、そういうベテラン俳優陣の底力が銀二や蔵前の凄みにつながっている、というメタ構造がよかったです。

 

まとめ&「有賀編」について

ドラマ「銀と金」は「脚本の上手さ」「演技のすごさ」というものが改めて感じられる、とても上質なドラマでした。

原作と比べてどうこうではなく、ドラマにはドラマにしかない良さがありました。

原作の大ファンである自分も、三か月間、楽しく見ることができました。

面白いドラマをありがとうございました。

 

Amazonプライム限定で、第13話「有賀編」がやるらしいですね。すごい好きな話なので見たいのですが、プライムに入るのはちょっと…悩みどころです。

銀と金 DVD BOX

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福本伸行「アカギ~闇に降り立った天才~」の魅力を名セリフをあげながら、全力で語りたい【7巻まで】

 

「アカギ~闇に降り立った天才~」という麻雀漫画がある。

「天ー天和通りの快男児ー」という漫画で、主人公の天以上に人気があった、伝説の天才雀士・赤木茂の若き日のことを描いた漫画だ。

アカギ?闇に降り立った天才 1

アカギ?闇に降り立った天才 1

 

 

「アカギ」という漫画はひと言で言えば、この赤木茂というキャラクターの天才と狂気と格好良さをひたすら描く漫画だ。

もちろん、福本漫画ではおなじみの勝負や駆け引きの面白さも描かれているのだが、それ以上に赤木茂の人間性とその生きざまに痺れる物語である。

そしてその魅力が、独特の言い回しのセリフ、通称「福本節」にうまく凝縮されている。

今日は「アカギ」の名言の数々をあげながら、この漫画と赤木茂というキャラの魅力について語りたい。

 

ちなみに自分の中では「アカギ」は全七巻だ。

鷲巣が地獄めぐりをしたり、配牌だけで一巻丸ごと使うような漫画は読んだことがないのでご了承いただければと思う。

 

周りの人間がアカギの天才に気づく

初登場時、アカギは何の変哲もない普通の中学生として雀荘に現れる。

しかし、じょじょにその天性の才能に、他の人間と一線を画す狂気性に周りが気付き始める。

 

まだ心のどこかでオレは、このガキを軽んじていた。なんせ見かけは中学生だからね。しかし、もう舐めない。毛ほども舐めたりしない。

なぜなら……このガキの薄皮一枚剥いだその下は、魔物だから(一巻 八木)

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(引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

一巻で十三歳の中学生のアカギと戦った、ヤクザの代打ちである八木。アカギの麻雀を見て、すぐに只者じゃないと気づくところがむしろすごい。

 

だから関わりあうな、あの男には。そっとしておくんだ。虎の尾をわざわざ踏むことはない。奴は「別」なんだ。(4巻 安岡)

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 (引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

2.38%の確率でしか引けない三牌を「牌が透けてみえるくらいの感覚がなければ、今までの勝負は生き残れなかった」と豪語して引いたアカギ。

別にイカサマしなくとも引いているのに、イカサマしたフリをするところが華麗すぎる。

圧倒的な才能、まぶしすぎるスター性をいかんなく発揮したエピソード。

こんな人間のニセモノになることを、本人を知らずに引き受けたニセアカギ(本名:平山幸雄さん)が気の毒すぎる。

 

そばにおいてください。オレ、アカギさんのようになりたいんです。(4巻 治)

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 (引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

無理だよ。

と思うが気持ちはわかる。自分が治でも、同じことを言いそうだ。

常に冷静沈着なアカギが困った顔をしているのは、唯一このシーンくらいだ。そして何だかんだ言って、治の面倒をよく見ている。後年、「神域」になってからも、ひろゆきの面倒をよく見ていた。

クールに見えて、意外と面倒見がいい。アカギのこういうところがいい。

 

 周囲が畏怖するアカギの狂気

アカギの最も大きな特徴は、冷静さの奥に秘めた常人には理解しがたい狂気性にある。

 

この世の中、バカな真似ほど、狂気の沙汰ほど面白い。(2巻)

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 (引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

アカギの代名詞とも言える有名なセリフ……なのだが、実はこのセリフを初めに言ったのは市川だ。アカギの精神性をひと言で表したセリフだと思う。

 

まだまだ終わらせない、地獄の淵が見えるまで。限度いっぱいまでいく。どちらかが完全に倒れるまで。勝負の後は、骨も残さない。(2巻)

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 (引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

相手にも、自分と同じ、命を賭けた極限までの勝負を求めるアカギ。「ブレーキの壊れた生き方」という南郷の言葉が、言いえて妙だと思う。

 

アカギの生き方と哲学

天才性であったり狂気性だったり色々な要素を持っているアカギだが、最もすごいところは、自らの哲学をすでに確立しており、その哲学に殉じた生き方を徹底している点にある。

その哲学が世の中の常識や倫理観、社会性から逸脱しているので、周りはアカギという人間が理解できず、狂人のように見えてしまう。

しかし、アカギが語る自分の生き方というのは、世の中の人間の大多数の価値観とはまったく違うが首尾一貫している。

 

アカギにとって最も大事なことは、常識でも倫理でも愛情でも損得でも他者からの評価でも社会の価値観でも自他の生き死にですらなく、自分を自分として成立させている己の哲学を貫徹することだけにある。

その哲学は他人から見るとまったく無価値かつ無意味なものなのだが、アカギはそれを守るために命すら平然と捨てようとする。

「他人には何の意味もないように見える、自分を自分たらしめている己の価値観と哲学が最も大事であり、その他のものは命ですらそれほど価値はない」

アカギというキャラの凄みというのは、この辺りにあると思う。

 

仮にこの国、いや、そんなスケールでなく、ユーラシアからヨーロッパ、北米、南米、この世界中の全ての国々を支配するような、そんな怪物、権力者が表れたとしてもねじ曲げられねえんだ。自分が死ぬことと、博打の出た目はよ。(7巻 アカギ)

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 (引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

ヤクザに脅されようが、殺されかけようが絶対に引かないアカギ。

どんな権力者だろうと、一度出た勝負の結果は絶対に覆せない。自分を殺そうが、その結果は絶対に覆らない。そういう強い信念を示す。

今まで「小僧」と馬鹿にされようが、自分のニセモノにコケにされようが、チンピラに金をむしられそうになろうが、銃を突きつけられようが、むしろ楽しそうだったアカギが唯一、声を荒げて激怒したシーン。

一度出た勝負の結果を覆すというのは、アカギにとっては命を取られそうになったり、リンチにかけられそうになる以上に怒りの対象なのだ。

なぜ、博打の出た目ごときに命まで賭けようとするのか、周りはまったく理解できない。

他人には理解できない、共感もされない自分の哲学を、極限まで突きつめるところが、アカギの最も特異な点だと思う。

 

不合理こそ博打。それが博打の本質。博打の快感。不合理に身をゆだねてこそギャンブル。(3巻)

 

無意味な死か。その「無意味な死」ってやつが、まさにギャンブルなんじゃないの?(4巻)

 

もともと損得で勝負事などしていない。ただ勝った負けたをして、その結果、無意味に人が死んだり不具になったりする。そっちのほうが望ましい。そのほうが、博打の本質であるところの理不尽な死、その淵に近づける。(6巻)

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(引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

アカギの面白い点のひとつに「ギャンブルに意味があってはならない」という考え方がある。

そしてこれは、アカギの人生に対する考え方に通底している。

アカギにとって人生というものは「意味があったり価値があったりするもの」の対極にある「意味がないかもしれないし、価値がないかもしれないもの」ですらなく、恐らく「人生に意味や価値があってはならない。人生とは無意味で理不尽で、それ自体に意味性を付与してはならない」という考え方なのだと思う。

 

「意味性が付与されない、そんなただ無意味な人生をどう生きるのか」

という哲学を体現しているのが、アカギという存在なのだと思う。

意味がないから、未来のことなど考える必要はない。「いまこの瞬間」の濃度を極限まで高めて、ただ生きればいい。

恐らくそういう考え方の持主であり、その生き方を体現しているのだと思う。

 

ただ「天」の最後で、死ぬ間際に「無念だが、その無念さを愛する」という言葉を言っているので、アカギも生きていく中で考え方が変わったのかもしれない。

 

他者の生きかたへの感想

周りとはまったく違う、自分独自の哲学に基づいた生き方をするアカギ。たまに周りの生き方に対して、すさまじい毒舌を吐く。「福本節」は、人をディするときにこそ真価を発揮する。

 

やっぱりね。見当はついていたけれど、案の定、ひねた打ち方。人をはめることばかり考えてきた人間の発想、痩せた考え。(一巻)

 

一巻でヤクザの代打ちである八木に対して。

自分がこんなことを中学生に言われたら、その場でぶん殴りそうだ。

こういう挑発にのらなかったり、中学生のアカギを相手に最初は「見」に回ったり、やられ役とはいえ、八木は大した人間だと思う。最後は地獄の淵まで追いつめられたが…。

 

しかし、どういうわけか、どこの職場にもあんなのが二、三人にかたまっているんだよな。どうしてなんだろうね。なんでもっとスカッと生きねぇのかな。(4巻)

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(引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

就職した先の工場の威圧的な先輩たちに対して。

 

なるほど、凡夫だ。的が外れてやがる。(4巻)

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(引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

確率だのなんだの理屈を言い出した平山幸雄さんに対して。

このセリフ、アカギらしくて大好きだが、自分が言われたらショックで気絶する。「凡人」じゃない。「凡夫」。

この単語、他には「三国志」くらいでしか聞いたことがない。

 

あんたは、運も運命も信じてなんかいねぇ。あんたが信じているのは耳。卓越した自分の能力だけ。違うかい? 実はオレもそうなんだ。(2巻)

 

「信じているものは、己の卓越した能力だけ」

こんな格好いいセリフを一度でいいから言ってみたい。

まあ、卓越した能力がないんで無理なんですけどね…。

 

他の登場人物たちの生きざま・思想

漫画「アカギ」には、様々なタイプの敵役が登場するが、そのいずれも魅力がある悪役だ。そしてたびたび自分の生き方を支えてきた、考え方を語る。

 

リーチは、天才を凡夫に変える!(2巻 八木)

 

この言葉と「しかし、八木に電流走る!」は、読んだ当時、実家の兄ちゃんと自分の間だけで大流行した。

何か失敗したときに「リーチは天才を凡夫に変える!」

何かに気づいたときに「しかし、〇〇に電流走る!」と叫ぶのが、主な用法。

 

強打して自爆する素人などまれ。大抵は、「安心」という重りを体に巻き付け溺死する。(2巻 市川)

 

だから、その1000点がいばらの道なんよ。兄さんのやわな足じゃ、まず通りきらん。(4巻 浦部)

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 (引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

こういう経験からくる言葉は、そのキャラの哲学がにじみ出ていて好きだ。福本伸行のセリフ回しの上手さに惚れ惚れする。

 

アカギのこのセリフに励まされた

アカギは、「人生は閃光のように一瞬で消える瞬間の積み重ねでできている、意味などないもの。だからその一瞬を極限まで突き詰めて生きる」という独自の哲学を貫いて生きている。

普通の人間にはさっぱり理解できない、なぜ、そんな生き方をしなければならないのか共感もできない哲学を、自分の命すら惜しまずたった一人で貫いている。

そんな誰にも理解されない生き方を、誰にも理解を求めず一人で生きてきたアカギが、最期に言うこのセリフがすごく好きだ。

 

俺は偏っている。俺は、唯一それを誇りにここまで生きてきた。

 

自分も家族にですら「お前の考え方は極端すぎる。偏っている」と言われてきた。

当たり前だが、自分はアカギのように天才ではない。何の際立った才能もない、ごく平凡な人間だ。

だからアカギのように、その偏った思考に基づいて偏った生き方をすることはできない。それが「社会性を身につける」「大人になる」ということなのかもしれない。

でも、思考は相変わらず偏ったままだ。「社会で生きるには、偏っていてはいけない」そう誰も彼もから言われ、自分でもそう信じかけていた中でアカギのこの言葉を読んだ。

「偏っているからこそ、この偏りこそが自分なんだ」

初めてそう思えた。そして、それからはずっとそう思っている。

 

自分は平凡な人間だから社会の中で、その規範を守って生きている。奇想天外な破天荒な生き方ができ、それを社会から許されるのは、才能がある者の特権なのだと思っている。

でも頭の中ならば、いくら偏っていても他人には迷惑はかけない。

自分の偏りなど、世界には何の影響も与えないし、何の関係もないし、何の意味も価値もない。

それでも自分の偏りを大事にして、生きていきたいと思っている。

 

まとめ

「アカギ」は、赤木茂という、創作上の登場人物で最も特異で魅力的なキャラクターの哲学と生きざまを、麻雀という手法を用いて描いた漫画だ。

「天才」というのは読者に納得がいくように描くことが難しいが、「アカギ」はこの難題を難なくクリアしており、しかも他のどの創作でも見たことのない種類の「天才」を描くことに成功している。

麻雀を知らなくても、文句なく面白いと思う。特に最初の三巻は、何度読んでも圧巻の面白さだ。

全7巻で絶賛発売中なので、読んだことのない人はぜひ一度手にとってみて欲しい。

アカギ?闇に降り立った天才 2

アカギ?闇に降り立った天才 2

 

八木がやったイカサマ、キャタピラを必死で練習したのもいい思い出。 

 

関連書籍

年をとった赤木・通称「神域」が活躍する「天ー天和通りの快男児ー」も面白い。

天―天和通りの快男児 全18巻 完結コミックセット (近代麻雀コミックス)

天―天和通りの快男児 全18巻 完結コミックセット (近代麻雀コミックス)

 

 

小島アジコ「はてな村奇譚」を読んではてな愛に心を打たれたので、今さら感想を書きたい。

 

 

はてな独自の文化を面白く綴った、「はてな村奇譚」を読みました。

はてな村奇譚上

はてな村奇譚上

 

はてなのサービスを少しでも使ったことがある人なら、楽しく読める内容だと思いました。 

 

もともと「村」と呼ばれるほど独自の文化が強いはてなですが、

「手斧が飛び交い、相手をつぶし合う」

そういう風によく聞きます。

 

自分がいま体感している感じを正直に話すと、ブコメを中心に他のブログサービスよりはキツい言葉を見る確率はあるけれど、それでもそんなに言うほどかな??と思っていました。

 

色々な言葉から察するに、おそらく昔はこんなものではなかったのだと思います。

実際、ブログ歴が長い方の過去記事を読むとその片鱗が見られて、「そうか、こういうきっつい言及の飛ばし合いが普通だったのか」と思いました。

過去記事を読むうちに、色々な人の言葉の端々で感じられる「旧来のはてな」とはどんな感じだったのだろう?? とはてなの歴史を知りたくなりました。

それがこの「はてな村奇譚」を読もうと思ったきっかけです。

 

結論から言うと、旧来のはてなを知る人が、「オレの知っているはてなじゃない」と言う気持ちが少しわかりました。

良くも悪くも、今、自分が体感しているはてなとはまったく別の世界の話のようでした。

 

自分が「はてな村奇譚」を読んで理解した限りでは、はてな村という場所は、

 

自分がまだ人間だと信じている承認欲求の亡者たちが溢れる場所であり、監視する火のみ櫓に上ったブクマカたちが、火の手があがったことを確認したとたん、自分たちも怪物と化し、口からブクマとスターを吐き出して地上にばらまく。

そのブクマを争って、地上で亡者たちが蠢きまわる。

 

黒々とした呪いの言葉を吐き出す人間たちが化け物と化し、人間たちが集まり、手斧を片手にその化け物と戦うが、その実、その人間たちも狂った化け物。

 

自分は人間の心の奥底に眠っているドス黒い感情の触れ合いを見ることが好きなので、「はてな村奇譚」をかなり楽しんで読みました。こんな世界があるなら、自分もぜひ訪れてみたい、そう思います。

道徳の教科書に載っているような言葉は、義務教育でさんざん聞いて聞き飽きました。

どんなに毒々しくても、日常生活では決して聞くことができないその人の心の絶叫を聞きたい、それが本音です。

はてなブログはブコメ、増田を含めて、そういったものの宝庫です。

そういうグチャグチャのドロドロした、醜いゴミの山の中をあさることでしか、自分にとって本当に価値のあるものは見つけられない、そう思っています。

呪詛と祝福の言葉は、実は同じものなのではないか、というのが自分のごく個人的な意見です。

 

そう思うのは、シニカルにクソみそにはてなのことを描いているのにも関わらず、本書が並々ならぬはてな愛で溢れているからです。

本書の底に巌のように存在する、化け物だらけの最果ての地獄はてなに対する深い愛情に心を打たれました。

自分はそれほどはてな歴が長くはないので、必ずしも「古き良きはてな」を語る意見に全面的に賛同というわけではありませんか、もし自分が長く「この本の中のようなはてな」を愛していたら、同じことを言っていたかもしれません。

 

過去にそういうはてな愛を語った記事で、心打たれたものがありました。この記事を最後にブログをやめてしまったみたいですが、それこそ新しいIDに転生しているといいなあと思います。

goodtaihoudai.hatenablog.com

 

自分の感覚では今のはてなは、この本に描かれているような世界とは違うと感じます。こういう世界にちょっと行ってみたかったです。

その世界は間違いなく、他のどのブログサービスにもない特色があったのだと思います。(それがどんなにネガティブな要素で溢れていたにせよ)

 

今のはてなだって楽しいけれど、この漫画に描かれている最果ての地獄のようなその世界を、自分はきっとそれ以上に大好きだっただろう、長くいればいるほど愛しただろう、そんな風に思いました。

手斧をザクザク刺されて、泣きながらIDを消して、二度と近寄らなかったかもしれないけれど。

いや、しぶとく転生しそうな気もする。

はてな村奇譚下

はてな村奇譚下

 

 

会社という理不尽な場所の楽しさと、理想の上司像を描く「中間管理録トネガワ」

 

はてなで昨年「レールの乗った人生は嫌だからフリーランスになる」という記事が話題になった。

どんなに他人から見て見通しが甘かろうと、人生は本人の自由に生きる権利がある。大学を中退しようが、就職しないでフリーで働こうが好きに生きればいいと思う。

自分が非難するのは、経験したこともない他人の生き方を勝手な想像で「レールに乗った人生」「そんな人生は嫌だ」と語ったことに対してだ。

 

ただ最近、少し違う考えも出てきた。

ネットでは、「働く」ということに対してネガティブなことが語られていることが多い。

もちろん仕事に必ずつきまとう理不尽さや後ろ向きな気持ちを吐き出しているだけで、そういう思いを抱えながらも真面目に日々仕事をこなしている人が大多数だと思う。

ネットでくらい、ネガティブな気持ちを吐き出したい、その気持ちは十分わかる。

 

ただネットでこういう言葉を見て、就職したことがない若い人が仕事や会社というものに対して、いいイメージがまったく持てないのも、また当然かもしれないと思った。

自分も就職前の学生の立場でネットを見ていたら、「就職するというのはレールに乗ったつまらない人生なんだな」と思うかもしれない。

 

ということで、今日は働くことや会社というものが楽しく思える本を紹介したい。

すごい、表紙からして、とても楽しそうだ。

 

利根川幸雄は、カイジの敵役だ。

「中間管理録トネガワ」は、福本伸行の大人気漫画「賭博黙示録カイジ」のスピンオフであり、物語初期の最大の敵役である利根川幸雄を主人公にした漫画だ。

 

利根川と言えば、このセリフが一番有名だろう。

「世間の大人が本当のことを言わないなら、オレが言ってやる」

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(引用元:「賭博黙示録カイジ」福本伸行 講談社)

「その認識を誤まるものは、生涯地を這う」

 

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(引用元:「賭博黙示録カイジ」福本伸行 講談社)

「世間は、お前らの母親ではない」

 

こういう厳しい言葉の数々で、カイジを始めとする集まった若者たちの心に喝を入れる。

「カイジ」の面白さ……、福本漫画の面白さのひとつは、悪党たちが吐く「辛辣だけれども現実的でぐうの音も出ないほどの正論」をカイジが命がけの行動で覆していく点にある。

 

トネガワは集まった若者たちに上から目線で厳しい正論を語るが、自分でもその厳しい正論を貫く。

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(引用元:「賭博黙示録カイジ」福本伸行 講談社)

勝負に負ければ、自らの意思で、約束通り高熱の鉄板の上で土下座する。

こういう善悪を越えた誇り高さや厳しさ、筋を通す強さが利根川の最大の魅力だ。

現実と向き合えず怠惰に日々を過ごしていたカイジにとっては、利根川は社会の厳しさや乗り越えるべき壁を体現した存在であり、自分が向き合えない厳しい社会で生きている人間でもあり、「疑似父親像」として機能している。

 

生まれて初めて所属する社会(家族)の中で、乗り越えるべき壁(父親)を乗り越えて、真の意味で社会(兵藤)に立ち向かう。

「カイジ」をそんな構造で見るのも面白い。

 

会社という場所は、理不尽の塊だ。

「中間管理録トネガワ」は、そんな利根川の普段の働きぶりを描いた漫画だ。

読めば読むほど、「会社あるある」で溢れている。

 

権力者の鶴の一声でくつがえる決定。

気分で動く上司。

何故あるのかが分からない、会社独自のローカルルール。

意味のない会議に、意味のない仕事。

世代間のジェネレーションギャップ。

空気が読めず、暴走する部下。

せっかくの休日に行われる、訳のわからない行事。

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 (引用元:「中間管理録トネガワ」 萩原天晴/橋本智広 三好智樹 講談社)

「何がレジャー! いい迷惑だ、せっかくの休日に……!」

全サラリーマンの心の叫び。

 

利根川は、理想の上司だ。

利根川は中間管理職なので、部下・黒服たちがいる。

上は気分屋で我儘な兵藤会長のご機嫌を常に伺い、下は同じように見えて個性がバラバラな黒服たちをまとめるのに苦労している。

「中間管理録トネガワ」は、上からは抑圧を受け、下からは突き上げをくらい、上も下も自分の苦労を理解しない、孤独な中間管理職の悲哀が描かれている。

 

部下の暴走の責任をとって減俸されたり、会長の顔色を窺いすぎて部下の信頼を失ったりする。

利根川のすごいところは、そういったことをいっさい周りのせいにしない。

ましてや、自分がしてきた苦労を部下に味合わせたり、仕事の価値観を押しつけたりもしない。

利根川は兵藤の命令で20連勤もこなすが、部下の黒服たちにそれを強いたりしない。

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(引用元:「中間管理録トネガワ」 萩原天晴/橋本智広 三好智樹 講談社)

黒服がこれだけ驚いているところを見ると、普段も「忙しいときは休日出勤も当たり前」などの自分の価値観を語ることもないのだと思う。

 

先日、電通社員が過労が原因で自殺したときも問題になったが、人というのは自分がやってきた苦労を他人に(特に下の人間に)押し付けがちだ。

「自分もそれをやってきたのだから、お前たちにできないはずがない」

「あの苦労があったから、今の自分があるのだ。自分は、あの苦難を乗り越えてきた人間なのだ」

自分が苦労していたときはどれほど心の中でそれを強いる上司を毒づこうと、自分が上に立ったときは、自分の過去の苦労を意味のある美しいものにするために、同じことを繰り返してしまう。

そうすることによって、自分のやってきたことに価値を持たせようとする。

 

しかし利根川はむしろ、そういった悪しき連環を断ち切ろうとする。

自分が嫌悪した過去の上司たちと同じことはしない、そういう思いがある。

 

また自分と同じことを言っても、まったく会長から怒られない黒崎に対しても、嫉妬をほとんど抱かない。

会長の不公平を責めたりもしない。

周りの理不尽さを責めることなく、「そういう環境で自分がどうするか」だけを常に考える。

黒崎に嫉妬したり、蹴落とそうとするのではなく、黒崎のいいところを真似し、取り入れようとする。

ギャグ漫画だからまったくクローズアップされないけれど、こういうところがすごいと思う。

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(引用元:「中間管理録トネガワ」 萩原天晴/橋本智広 三好智樹 講談社)

「槍…、アウツ?!」

でも、失敗する。

何でミゾレがよくて、槍が言いすぎなのかはわからない。すごい理不尽。

 

「部下によく言われる上司はいない」とよく言うけれど、そんな利根川だから、黒服たちも、たまには反発したり意見したりしながらも慕っている。

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(引用元:「中間管理録トネガワ」 萩原天晴/橋本智広 三好智樹 講談社)

どんな時も他責的にならず、周りの環境ではなく自分が変わろうとする。

自分の価値観を押し付けず、部下の気持ちをくみ取ろうとし、様々な個性を持つ部下を管理し指導する術を常に学ぼうとする利根川は、稀にみる理想の上司だと思う。 

 

会社というのは、確かに理不尽な場所だが…。

会社というのは、確かに理不尽さばかりを感じる場所だ。

自分の保身しか考えないクソみたいな上司がいて、気分で動くトップが朝令暮改で方針をコロコロ変え、言ったことを言わないと言う奴がおり、言っていないことを言ったという奴がおり、何もできなくせに態度だけはデカいクソ生意気な後輩がいて、自分がやっていない失敗で客に頭を下げなければならず、忙しいときに限ってまったく意味のない会議が開かれ、他人の訳のわからないたわごとに一時間も付き合わなければならず、

 

そういうことを別に自分だけではなく、お互い思っていたり思われていたりする中で、特にやりたくもない仕事を、非合理的で理不尽なルールの中でしなければならない。

そんなことを毎日やるのが仕事であり、それが会社だ。イヤにもなる。

 

どんなに自分が会社や周りのことを考えても、会社というのは会社のことしか考えていない。自分の心身を犠牲にしてまで働こうなどと考える必要は、まったくないと思う。

 

ただ、理不尽でもイヤなことがあっても、気の合わない苦手な人間がいても、仕事というのはそれだけでもない。

楽しいこともあるし、達成感もあるし、喜びもある。

中には仲良くなれる人もいるし、尊敬できるような人に出会えることもある。

環境にもよるし、人にもよる。千差万別だ。

そんな年齢も性別も考え方も性格も、何かもかもがまったく違う人間がひとつの場所に集まり、家族よりも長い時間を一緒に過ごす。よく考えると不思議な場所だ。

そんな場所だから、今まで出会ったことのない人たちにたくさん出会えたし、今まで知らなかった自分自身を知ることもできた、そんな風に思う。

 

[まとめ買い] 中間管理録トネガワ(ヤングマガジンコミックス)

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とっても 楽しそうだけど、帝愛グループは超絶ブラック。そして何故か女性社員がいない。(追記:博多っ子西口さん登場! さっそく社内恋愛勃発。悪魔的事態!) 

 

 カイジは「沼」までしか読んでいない。