うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

狂気のゲーム「ムーンライトシンドローム」にみる、謎ときコンテンツの面白さ

 

狂気のゲーム「ムーンライトシンドローム」の面白さ

このブログで何度か紹介している「ムーンライトシンドローム」というゲームがある 。

ムーンライトシンドローム

ムーンライトシンドローム

 

 このゲームは、非常に癖のあるゲームだ。

まず第一に、ゲームなのにゲームの態をなしていない。

 

ジャンルとしてはノベルゲームで選択肢が用意されているのだが、この選択肢に意味はない。どの選択を選んでも、物語の進行は変わらない。

たまに歩き回れるシーンになって無駄に広いマップを探索させられたりするのだが、この探索にも意味はない。

モブたちと会話しても、その情報がゲームの進行に影響を与えることはほとんどない。

 

登場人物たちは、意味不明なことばかりを話す。

例えば冬葉スミオという人物は、出てきたと思ったら、突然こんなことを話し出す。

 

「人は誰しも詩人たれ。言霊を尊く思うよ。野人だね、きみは。もっとチャーミングな男だと思っていたけれど」

 「ただオレは、きみに執着しようと思っている。精神において、きみのどこかに滞在するよ。特に意味はない。これはオレ独特のメタファーだよ。深い意味はない。簡単なことなんだよ」

 

控えめに言って、ちょっと言っている意味がよく分からない。

このスミオという男だけではなく、「ムーンライトシンドローム」の登場人物たちは、こんな会話ばかりする。

物語も、突然焼身自殺をしたり、気持ちの悪い変質者に追い回されたり、友達が実は神様の下僕??だったり、プレイしているこちらのほうがおかしくなりそうになる。

 

恐らくプレイした人間が10人いたら全員、まぎれもないクソゲーだと認めると思う。自分もゲームとしてはクソだと思っている。

 

意味不明な会話をする狂気じみた登場人物たちが、ぶっ飛んだ鬱展開の物語を繰り広げる。やっていても楽しい気分にならないし、ストレス発散にもならない。(むしろ、操作性が悪さと話の訳の分からなさにイライラする。)そんなゲームだ。

それにも関わらず、一部でカルト的な人気がある。

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このゲームの最大の魅力は、「事実」「真実」と思われるものが一切語られていない点にある。

あの登場人物のあの言葉は、本当はどんな意味があるのか?

あの登場人物は、あのときどうしてあんな行動をとったのか?

あのシーンは、何のためのものだったのか?

結局、このムーンライトシンドロームという物語は、何を言いたかったのか?

そういうことが、いっさい明確には語られていない。

 

「ムーンライトシンドローム」の中でも、比較的分かりやすい「浮誘」という話がある。

巨大な集合住宅で、そこに住む中学生たちが飛び降り自殺を繰り返すという物語だ。

この話は比較的多くのことが語られているので、何となく「真実は、こういうことではないか」ということは分かる。

 

でもひとつひとつの言葉の意味や、行動の意味、結局、中学生たちに飛び降り自殺を強いたものは何だったのか? 本当の目的は何だったのか? ということは何ひとつ説明されずに終わる。

だから表に出た情報から、「本当はこういう話だったのではないか?」ということを考えたくなる。

 

ちなみに自分なりの考察はコチラ↓

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もちろん、これが合っているとは限らない。

真相は分からないけれど、人によって分析や考察が違い、多種多様な解釈ができる、それが「ムーンライトシンドローム」の、他のゲームにはない面白さだと思う。

 

出題編だけのコンテンツが好きだ。

「ムーンライトシンドローム」のように「出題編だけでできている物語」が好きだ。考える楽しみがある。

 

自分が考える出題編だけで、できている物語はコチラ。

「うみねこのなく頃に」

「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」

「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」

「新世紀エヴァンゲリオン」(テレビ版・旧劇場版)

 

最もシンプルで優れていると思ったのは、この話だ。

元ネタは読んだことがないのだけれど。

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しかし、この出題編だけでできている物語というのは、作る側からすると相当大変だと思う。

まず根底となる物語を、しっかり作りこまなければならない。

そして表に出せる情報だけで、読み手の興味を引き、なおかつ面白い物語を作らなければならない。

 

物語に明確な答えがないので当然、「は?? 結局、何が言いたかったの?」と思い、そこでつまらない物語だと断じて去ってしまう読者も大勢いると思う。

魅力のない出題ならば、読者はそこで考えることを放棄するので、考えてもらうところまで持っていくのも難しい。

 

どこまで情報を出し、どの情報を隠すか。

 この兼ね合いが非常に難しいと思う。

 

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、自分は最初、これが出題編の物語だと気づかなかった。

ぼんやりと寝ぼけたスッキリしない話だな、と思っていた。

ネットでたまたま、この本の考察をしたブログを読んで飛び上がるほどびっくりした。

自分も今は、村上春樹はこれを「出題編」として書いたのだろうと思っているが、ほとんどそういう感想を見たことがない。

今までの作品が暗喩で書かれた物語であり、「村上春樹の書く作品は、明確な答えがないことに読者が慣れている」ことを完全に逆手にとっている。

「題名がラノベっぽい、よくわからない話」くらいの扱いをされているが、そのことに対していっさい何も言わないところが、なんだかんだ言われててもやはりすごい人だなと思う。

 

逆にそういう上手い仕掛けをしているのに、その仕掛けに対して弁明、というか「それが分からないのは読者が悪い」という言い方をして、評判を地にまで落としたのが竜騎士07だ。

「うみねこのなく頃に」自体は、今までにない仕掛けをほどこした面白い物語だと思っているだけに、作者の言動を非常に残念に思う。

村上春樹との言動と比べて、これがプロとアマの差か、と思っている。

 

出題編だけのコンテンツで、もっと謎解きがしたい。

「ムーンライトシンドローム」も最初にプレイしたときは、「登場人物がみんな頭がおかしい、訳の分からないゲーム」としか思わなかった。

しかしいざ、謎解きをしてみると、「こんな風にも考えられる」「もしかしたら、この人のこの言葉には、こんな意味があったのでは?」と様々なことを思いついて考えることが楽しくて仕方がなかった。

 

こんな風に謎だらけで、読み手に解き明かす楽しみを与えてくれるコンテンツをもっと生み出してほしい。

少なくとも自分は、明確な解答がないことに文句も言わず、自分だけの解答を考えることを楽しみ続けると思う。

 

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「人間の真価は自分自身でさえギリギリまで分からない」。「銀河英雄伝説」ウォルター・アイランズから学ぶ。

 

ウォルター・アイランズは権力機構にひそむ寄生虫だった。

 

田中芳樹の大人気SF小説「銀河英雄伝説」に、ウォルター・アイランズという登場人物が出てくる。

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(引用元:「銀河英雄伝説」©田中芳樹/徳間書店

「銀河英雄伝説」は、専制君主国家である銀河帝国と民主主義国家である自由惑星同盟が宇宙の覇権をかけて、長い戦争をしている物語だ。

この二つの国は、長い年月の中でどちらも腐敗している。

銀河帝国は貴族の横暴がひどく民衆が虐げられているし、自由惑星同盟は政治家の腐敗がひどく、終わらぬ戦争のために労働人口が激減している。

 

この自由惑星同盟の国家元首となる、ヨブ・トリューニヒトという悪徳政治家がいる。

戦争を賛美することで国民の人気者になっているが、国のことなんてまったく考えていない。自分の保身と利権のことしか頭にない。「悪い政治家」を絵に描いたような男だ。

自由惑星同盟側の主人公であるヤン・ウェンリーの、国内の最大の敵役である。

 

ウォルター・アイランズは、このトリューニヒトの腰ぎんちゃくである。

小説の中では

「伴食という言葉の生きた実例」だの

「権力機構の薄汚れた底部にひそむ寄生虫」だのと言われている。

「銀河英雄伝説」は、人に罵声を浴びせるときも、こういう華麗な表現が使われる。

「腰ぎんちゃく」では済まない。「寄生虫」だ。しかも残念なことにぜんぶ事実だ。

 

「銀河英雄伝説」は、作者視点による「いい人間」と「悪い人間」がはっきりと分かれている。

小説の中で主要登場人物の言葉や地の文章で悪い評価を下されたら、まず浮かび上がれない。

「権力機構の薄汚れた底部にひそむ寄生虫」と言われた人間は、小説の始めから終わりまで「権力機構の薄汚れた底部にひそむ寄生虫」なのだ。(それにしてもすごい表現だ。)

 

実際、親玉であるトリューニヒトは、「民主主義をヤドリギにする怪物」(これもすごい言われようだ。)として、主要登場人物たちの軽蔑を一身に浴びながら死ぬ。

ウォルター・アイランズはこの「ヤドリギ」トリューニヒトにこびへつらい、利権をむさぼり食っていた人物だ。偉い地位につけてもらうために、トリューニヒトに銀食器(!!)をプレゼントしたりする。

「銀河英雄伝説」の物語上のお約束として、小悪党としてろくでもない末路をたどるだろう、そう思われた。

 

しかし・・・!!

 

アイランズは、とつぜん思いもよらない変貌を遂げる。

 

同盟が滅亡の瀬戸際に立たされたとき、突如覚醒する

帝国軍が自由惑星同盟の領土に侵入したとき、トリューニヒトは国家元首にも拘わらず、国民をおいて一人だけどこかに逃げてしまう。悪党として、最低っぷりをいかんなく発揮する。

「悪い奴」は、一挙手一投足に至るまで悪い行動をとるのだ。

 しかし、祖国が滅亡の危機に瀕し、国家元首が逃げ出したとき、

 

「寄生虫」アイランズは突如覚醒する。

 

国防委員長であったアイランズが政府を主導して意思の統一をはかり、今まで理不尽に敵対視してきたヤンたちに全面的に協力するようになった。

 

「半世紀の惰眠よりも半年間の覚醒で、歴史に名前を残した」

 

祖国が平和であったとき、アイランズは悪徳政治家の腰ぎんちゃくの一人だった。平気で賄賂をわたし、利権をむさぼり、公費を横領し、政治家としての理想も大義もへったくれもないような男だった。

 

国を傾ける悪党の才すらないただの小悪党、それがアイランズだった。

 

しかし、祖国が危機に瀕したとたん、突然、人が変わったように強烈なリーダーシップを発揮するようになる。祖国と国民のために戦う真の民主主義政治家になった。

 

アイランズ自身さえ、自分にこんな面があったことを知らなかったのだ。

二十五年もの間、自分は民主主義の端っこに生息して利権をむさぼる、大悪党にすらなれない小悪党だと信じていたのだ。

そして同盟が滅亡の危機に立たなければ、アイランズは生涯を権力におもねり、こびへつらってそれなりに平和に終えただろう。

 

結局、自由惑星同盟は帝国に占領され、アイランズはその後、抜け殻のようになってしまう。

 

自分はこのアイランズのエピソードが大好きだ。

人間というのは自分自身でさえ自分がどんな人間か分かっていないし、人間の真価というのはギリギリまで分からないと思う。

人というのは、そのときの状況や環境で百八十度変わる。

昨日までは「ろくでなしの無能、甘い汁を吸うことだけを考えて生きていた小悪党」で自分でも自分がそうだと信じていた人間が、環境が変わったとたん、思わぬ変身を遂げたりするかもしれない。

 

アイランズの一生が幸せだったのか不幸だったのかは分からない。

そして、どちらが本当のアイランズなのかは分からない。

どちらも本当のアイランズだったのだと思う。

 

でもウォルター・アイランズの名前は、

二十五年にもわたって自分自身でさえそう信じていた「トリューニヒトの腰ぎんちゃくで、利権のおこぼれを預かる寄生虫」としてではなく、

たった半年間だったけれど、自分でも自分にそんな面があるとは知らなかった「自由惑星同盟が滅亡の危機に瀕したとき、強力なリーダーシップを発揮した優れた政治家」として、ずっと歴史に残った。

 

後世の人間は「寄生虫アイランズ」のことはまったく知らず、半年間だけ覚醒したアイランズをアイランズだと信じ「専制君主国家に最後まで抵抗した、真の民主主義政治家」としてたたえ続けると思う。

 

(余談1)アニメ版のアイランズが、すごく立派な外見でびっくりした。夜中に銀食器をプレゼントしに行くタイプにはとても見えない。

(余談2)アイランズの逆パターンがレベロだと思う。

(追記)「トップ画は、レベロではないですか?」というコメントをいただきましたが、アイランズで合っているようです。

コメントを寄せて下さるのは、とてもありがたいです。ありがとうございました。

 

(余談3)ネットで「もともとは理想家で変節したのではないか」という意見もあった。自分は色々と考え合わせるとそうは思わないけれど、面白い意見だなと思う。

 

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覚醒したアイランズの大活躍?が読めるのは、5巻。みんなで応援しよう。

ラインハルトとヤンの最初で最後の会合も載っている。

銀河英雄伝説〈5〉風雲篇 (創元SF文庫)

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銀河英雄伝説 DVD-BOX SET1

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人生が学べる、福本伸行「銀と金」の好きなセリフベスト10

「銀と金」とは

「カイジ」や「アカギ」で有名な福本伸行が、1992年から1996年にかけて「アクションピザッツ」に連載していた漫画。(文庫版は全8巻)

天涯孤独で定職にもつかずふらふらしていた森田鉄雄(髪を結んだカイジ)が、平井銀二(オールバックのアカギ)という男に声をかけられ、頭脳を使って巨額の金をつかみとっていくというお話。

対象となる事件が株の仕手戦や絵画詐欺、ポーカー、殺人鬼との心理戦など多種多様である、1エピソードが比較的短めにキレイに纏まっている、などから、福本伸行の最高傑作だという声も少なくない。

 

「銀と金」は名言・名シーンの宝庫だ

「銀と金」は、作者の経験からきたのであろう人間に対する洞察や人生訓が数多く含まれている。基本的にはエンターテイメントに徹しながら、その底には作者独自の哲学が感じられる。

人生哲学が感じられる数々の名言、名シーンの中から、特に自分が好きなものをベスト10形式で紹介したい。

 10位

彼は出会った者の財産・未来・良心を喰いちらかす。この世で最も性悪な魔物。ギャンブル!(3巻)

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(引用元:「銀と金」3巻 福本伸行 双葉社) 

福本伸行作品ではお馴染みの、福本節。ギャンブルをここまでかっこよく語れるのは、福本伸行だけだろう。

  

9位 

地獄を見つめて生きるより、希望を追って死にたい。そう望む……それが人間の末期……(4巻蔵前)

 

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 (引用元:「銀と金」4巻 福本伸行 双葉社) 

「人はギリギリせっぱつまってくると、無為に耐えられないものなんだ」

「そして勇気を出す。今までの人生で使ったことのない勇気をな……。とんでもない弱虫が、限りなく死に近い決断だってするもの」

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(引用元:「銀と金」4巻 福本伸行 双葉社) 

福本伸行は本当に人間のことをよく知っているなと思う。

「何かをする」ことよりも、「何もしない」ことのほうが難しい。切羽詰まったときはなおさら「どんな結果でもいい。とにかく結果が知りたい」と思う。

他人に対しても「何もしないで見守る」ことが、一番難しい気がする。ついいらぬことを言ってしまったり、手を出してしまったり。

 

8位 

オレはただオレなんだ。それだけ……。名前は森田鉄雄。背景はない!(3巻森田)

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(引用元:「銀と金」3巻 福本伸行 双葉社)  

森田の恰好よさが炸裂するセリフ。さすが億単位のギャンブルをする男は、風格が違う。

「落ちている金は拾う主義さ」もいい。言ってみたい。

これくらいの自信が欲しい。

 

7位 

「兄さん……、おいらの唯一の友達。たった一人の優しい人……」(7巻 邦男)

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 (引用元:「銀と金」7巻 福本伸行 双葉社) 

邦男といえば「差別された」を思い浮かべる人が多いと思うが、自分はコチラのほうが印象深いので選んだ。

何故かというと、何回読んでもここで泣くから。

今もセリフを転載するために読み返していたら、涙でPC画面が見えない( ノД`)。

個人的には、神威編を読んで泣かない人は、人じゃないと思っている。

人か人じゃないかの踏み絵、それが「銀と金」の神威編。

相手がヤクザであれ誰であれ人殺しはいけないが、勝広も邦男も神威家に生まれていなければ、せめて人生のもっと前の段階で森田のような人に出会っていれば、と思わずにはいられない…。

 

6位 

ぼうず……それは、死人の考えや。(1巻梅谷)

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(引用元:「銀と金」1巻 福本伸行 双葉社) 

50億をドブに捨てた、丸宝総業グループのドン梅谷哲の言葉。

月の利息2500万で何もしないで安泰にただ生きていいのか。

それで本当に生きていると言えるのか。

自分ももし同じ状態になったら、「死にむかって緩慢に進む」よりも、「生きていると感じること」を望むのではないか。

そんな思考をおっさんの日常会話に組み込めるところが、福本伸行のすごいところだ。

 

自分はこの梅谷というキャラが大好きだ。梅谷の最もすごいところは、

「自分が品も何もない典型的な成り上がりで、不細工で野卑な男であり、他人にもそう思われている」という事実を認めたうえで、その事実をベースにして生きている潔さだ

 

「金は持つものや。わいなんて、金をもたにゃあサルやけんのう」

「しかし持っとるうちは、人として扱ってくれる。のー、銀行屋」

 

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(引用元:「銀と金」1巻 福本伸行 双葉社) 

梅谷と言えばこのセリフも好きだ。

「知性や品など、自分の人生には必要ない」という哲学を、知性や品を、姿にも言葉にも、「自分にひとかけらも組み込まないことによって」全身で語っている。

自分が生きる哲学を言葉で語るのではなく、自分という存在で示す梅谷はすごいと思う。

福本漫画の登場人物はみんな自分が生きる哲学を、自分の全存在をもって語っている。それが例え他人にとっては、クソみたいな哲学や生き方でも。

 自分が福本伸行の漫画が最も好きな理由は、たぶんここにある。

 

5位 

言わせておけばいい。元気がいいのも、今だけだ。いずれ、わしに許しをこう。哀れを誘う声でな。みなそうだった……。(4巻蔵前) 

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(引用元:「銀と金」4巻 福本伸行 双葉社) 

誠京の蔵前会長のありがたいお言葉。このセリフ、人生で一度くらいは言ってみたい

福本作品は、だいたい一人はこういう元気で悪魔のようなジジイが出てくる。

蔵前会長も好きだが「中間管理職トネガワ」を読んだら、兵藤会長も好きになってしまった。

「切りすぎた前髪だの、タイトなジーンズだの、ねじこむだの」

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 (引用元:「中間管理職トネガワ」1巻 萩原天晴/橋本智広/三好智樹 講談社)

 

4位 

金を得たのち、その向こう側を覗いてこないと(中略)鬼がいるのか……ひょっとして仏にでも遭えるのか。いや……案外、そこに座っているのも、やはり人かもしれない。(3巻 森田)

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(引用元:「銀と金」3巻 福本伸行 双葉社) 

 

自分の人生の道を定めて、その道を歩む。

その道を限界まで進んで極めた先には、一体なにがあるのか。

それは、限界まで突き進まないと分からない。

極めたその先に何があるのか、どんな風景が見えるのか、それともまた道が見えるだけなのか。

何も見えないかもしれないけれど、それでも何かを見るために突き進む。

道の先の深淵をのぞき込もうとしている人間の、決意のセリフ

 

3位 

いうてみいっ、森田っ! おどれは正しいのか……!! 正しさとはなんや?(中略)正しさとは都合や(中略)正しさをふりかざす奴は、それはただ、おどれの都合を声高に主張しているだけや。

わいはケチな悪党やが、口がさけても、人が間違っとるだとか正しさだとか、そんな口だけはきかんつもりや。それくらいの羞恥心は持っとる!(3巻 川田)

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 (引用元:「銀と金」3巻 福本伸行 双葉社) 

川田三成、魂の叫び。

これほどの血を吐くような叫びは、なかなかお目にかかれない。この後の「やっぱり、お前は間違っている」という森田の独白に、ただただ泣ける。

 

「やっぱり自分は間違っている」なんていうことは、川田自身も百も承知だと思う。

そして川田がそのことを誰よりも分かっている、ということを森田だって分かっている。川田も森田がすべて分かったうえで、それでも自分のために怒ってくれている、それも分かっている。

それでもなお、自分は「金がすべて」な「ケチな悪党」として生きていくことを、自分の意思で決めた。

金を稼ぐことが手段で、そのうえでその向こうを見たいと望む森田とは違う。

自分はそうではない生き方を、これからの人生で歩んでいく。

分かり合える部分もある、一緒に何事かを成し遂げた、でも、生き方が決定的に違う。そんな二人の人生の別れのシーンだ。

 

「迷えばいい人間なのか、悩めば素晴らしい人間なのか。そんなものはクソじゃないか。金が全てだろ」

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(引用元:「銀と金」3巻 福本伸行 双葉社) 

そういう川田が、誰よりも自分自身について迷い悩んだと思う。

そのことを森田も分かっているうえで、二人は理解し合った。自分たちは違う人生を歩むのだと。

これは「離れていても心はつながっている」とか、「これから一生会うことはなくても、それぞれの目標に向かって歩む」とか少年漫画などにありがちな、そういう別れではない。

生き方が違う、存在の仕方が違う、だから違う道を歩む、そういうシーン。

 

このシーンは、福本漫画屈指の名シーンだと思う。

自分とはまったく違う生き方をしていて、自分の生き方を否定していても、自分の気持ちを思いをはせて、無言で気持ちを飲み込んでくれる人がいる。

「お前が冷血漢じゃなくてホッとした」「兄弟ゲンカみたいなもの」と言ってくれる人がいる。川田が羨ましい。

 

2位 

裏に長くいると、周りは殺したい連中ばかりだよ。(中略)お前みたいなのが、一番そう思うようになるよ。殺したほうがいいダニども。でも、殺すな。オレたちは、世界を広げてなんぼの人間だ.

殺す人間の世界は……広がらない。必ず閉じていく……!(1巻 銀二)

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(引用元:「銀と金」1巻 福本伸行 双葉社) 

「何故、人を殺してはいけないのか?」という問いに対する答えの中で、自分が、最も共感した言葉

それがどういうことなのか、ということを話しだすと、果てしなく話が長くなる。 

ただちまたで起こっている無差別殺人は、自分を認識する他者を消すことで、自分という存在が在る「世界を閉ざして、消失させる」ということが、目的なのだと思っている。

しかしそれと同時に、無意識下にあるどんな方法であれ「他者(世界)とつながりたい」という気持ちの表現でもある。「その相手を傷つけ、殺す」という最低最悪のアプローチだが。

 

「自分をとりまく世界を破壊することで、自分を消失させたい」

「どんなアプローチであれ、とにかく世界とつながることによって存在したい」

 

この二つの相反する動機が、無差別殺人の動機なのではないか。

そんな漠然とした考えに、形を与えてくれたのが、銀二のこのセリフだ。

 

このセリフは「銀と金」という物語上でも非常に重要なセリフだ。

銀二が森田を相棒にするにあたって言ったこのセリフは、仕事をする上での森田にとって絶対的なルールになる同時に「銀と金」という物語における黄金律になるからだ。

 

例えば森田は神威秀峰を殺そうとして、逆に命を落としてしまった邦男を前にして「でも、それじゃあこいつは人を殺していた」と慟哭する。

普通に考えれば、「邦男が死ぬ」という最悪の事態よりは、

「仮に殺してしまって捕まっても、邦男が死ぬよりはいいじゃないか。とりあえず無念は、はらせたんだから」とか「秀峰を殺しても、逃亡生活をすればいいじゃないか」などの考えが浮かぶ。

 

森田がなぜそういうことを考える描写がないのかと言えば、森田にとって、「人を殺す」ということは絶対的な禁忌だからだ。殺害する相手が誰かとか、どんな事情があるなどは関係がない。

 「銀と金」という物語における「人間が人間であるための黄金律」は、「どんな相手であれ人を殺してはいけない」というものだ。

だから森田は、あれほど邦男を必死に止めたのだ。

 

1位 

信じろっ! 一度だけ人間を……オレを信じろっ! オレを……森田鉄雄を信じろっ……!(6巻森田)

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 (引用元:「銀と金」6巻 福本伸行 双葉社) 

1位は6巻で、森田が勝広言ったこのセリフ。

このセリフ、このシーンに、福本漫画の真髄がつまっている。

 

自分が福本作品で最もすごいと思っているところは、人間という存在に対する深い愛情と、その表現のしかただ。

 

他の創作物ではほめそやされる「人間(他人)に対する慈しみや深い愛情」は、福本漫画の世界ではまったく評価されない

悪党たちからは「甘い」だの「ばかばかしい」だのさんざん嘲笑されるし、森田の理解者である銀二ですら、「お前が誰かを助けたかったら……というか、贔屓したかったら……」なんてことを言う。

 

福本作品の深みや凄みは、主人公が示すこの「人間愛」という価値観が正しいように見える演出が一切なく、むしろ一見間違っているように、読者には見えるところだ。

 

悪党たちはおろか、主人公の味方や尊敬している人間でさえ、「なに、寝言を言っているんだ、ぼけ」という態度をとる。

しかも、その悪党たちや周りの人間が主張する理屈のほうが正論のように聞こえるので、主人公は言い返すことができない。

 福本作品の主人公たちは「人間愛」という価値観を言葉ではなく、すべて行動で示す。

 

同情すべき背景を持つ勝広や邦男だが、彼らは何の関係もない自分(森田)も、殺そうとしている。

それでも森田はこの二人に心の底から同情して、その信頼を得るために、マンシンガンの前に丸腰で飛び出す。

「勝広に、人生で一度でいいから、人間を信じて欲しい」

「勝広が、本来は人を殺すような人間じゃない」と思うからだ。

 そして邦男の死に際には、その手を握り締めて涙を流す。

他のどんな創作物でも、これほど深い他者への共感や無償の愛を、見たことがない。

 

しかも森田がこんなことをしても、誰もその行為を認めてくれない。

秀峰たちが改心するわけでもないし、銀二をはじめ仲間たちも森田を認めるどころか、理解すらできない。

人に認められ称賛されるとき、人は利他的な行動をとることができる。愛の大切さを語ることもできる。

しかし誰も認めてくれない、誰も褒めてくれない、それどころか「甘い」と蔑まれ、馬鹿にされ、時には裏切られるたときに、どれほどの人間が自分だけを信じて、いいと思ったことをやり続けられるだろう。

「優しさや温かさ」なんていうものが馬鹿にされ蔑まれる世界で、ただ一人、人のために涙を流し、人間愛を貫き通す森田はすごい人だと思う。

福本作品の真の凄みというのは、この辺りにあると思っている。

  

終わりに

「銀と金」は、福本伸行の最高傑作というだけではなく、人間の深い部分に触れながら、なおかつエンターテイメントとしても完成されている奇跡のような傑作だ

未読の方は絵柄で敬遠せずに、ぜひぜひ読んでみて欲しい。

 

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ドラマ化もした。2017年1月現在、絶賛放映中。

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名場面・名セリフがもりだくさん。物語も最高に面白い。

銀と金 文庫全8巻 完結セット (双葉文庫―名作シリーズ)

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【朗報】 土曜ドラマ24「銀と金」の第一話が予想に反してすごく良かったので、原作とは違う魅力を語る。

 

1月7日(土)に第一話が放映された、テレビ東京土曜ドラマ24「銀と金」が予想に反して、めちゃくちゃ良かったです。

文字通り、ちゃんと「ドラマ化」されていました。

www.tv-tokyo.co.jp

 

「銀と金」とは

「カイジ」や「アカギ」で有名な、福本伸行の初期の代表作です。

何の目的もない怠惰な人生を送っていた、フリーターの森田哲雄が、闇ブローカーとして裏社会で名の知れた平井銀二と出会い、株の仕手戦やギャンブル、名家の後継者争いなどに関わり、命がけの勝負に挑む物語です。

 

「ドラマ化」は、喜ぶよりも不安だった…。

「銀と金」は、福本伸行の最高傑作であるという呼び声も高いです。

自分は今まで読んだ漫画の中で、一、二を争うくらい「銀と金」が好きです。

好きな漫画はたくさんあるのですが、「自分の中でナンバー1の漫画は?」と聞かれたときにあげるのが、この「銀と金」か西原理恵子の「ぼくんち」です。

 

なので、ドラマ化と聞いたとき、喜ぶよりもとにかく不安でした。

福本伸行の漫画は、「漫画だからこその」セリフや演出、物語なので、それをそのままドラマ化されてしまうと、見るに堪えないものになってしまうのではないか、という怖さがありました。

下手したら、ただの荒唐無稽なコメディになってしまう。

ちゃんとそういうことを分かっている人が、脚本や演出をしてくれるのか。

俳優さんも、漫画的なキャラクターを違和感なくちゃんと演じてくれる人なのか。

 

余りに不安すぎて、見るのはやめようかな、と思っていました。

ひどい出来だったら、本気で立ち直れない…。

 

ただ公式ホームページで、「福本伸行の指名で、銀さんをリリー・フランキーが演じる」という情報を見て、かなり興味がわきました。

リリー・フランキーと言えば、映画「凶悪」で紳士の仮面をかぶった冷酷な悪党を演じたことで有名です。

 

「リリー・フランキーが演じる銀さんは、見てみたい」

 

そう思って、ドラマを見てみることにしました。

 

ドラマ「銀と金」には、原作とは違う魅力がある

第一話しか見ていませんが、ドラマ「銀と金」は、漫画とはまったく別モノでした。

いい意味で。

そして、いい意味で予想を裏切ってくれました!!

 

「脚本と演出」

原作は時代がバブル直後の1990年代前半なのですが、ドラマは舞台が現代になっています。

画面が昔の映画のような演出で、暗い退廃的なムードが漂っています。グッと物語に重みが増して、これはいい演出だと思いました。

 

脚本も、「漫画だといい演出だけれども、実写だとおかしく見えそう」というものや「セリフだけで、ドラマだと分かりづらいかも」という点は、上手く改変してありました。

 

銀さんが森田に殺しを依頼するときに実際に病院に行ったり、 森田が「殺しはできないけれど、仲間に入れて欲しい」というときに、土下座などの過剰な演出がなかったり、脚本や演出の改変の仕方がすごく良かったです。

 

一番いい改変だな、と思ったのがこのシーンです。

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(引用元:「銀と金」一巻 福本伸行 双葉社)

 

前の債務者に対しては「金利8%なんて、馬鹿ぬかすな。18%だ!」と銀二が恫喝したので、森田が「金利6%なんて無理に決まっている」と心の中で思うシーンです。

 

漫画だから「読者の気持ちを森田が代弁してくれる」いい演出なのであって、ドラマのセリフとしては余りに説明的すぎて、これをそのままやってしまったら、とんでもなく悲惨なことになっていたと思います。

ドラマで「心の声」を言う演出って、そもそもおかしく見えることが多いし。

 

何とこのシーンは、森田の心の声は一切ナシでした。

森田役の池松壮亮の、大げさすぎない表情の演技と、音楽で、森田の心の声を表現していました。

 

俳優がいい

銀さんやアカギみたいに底知れぬ魅力を持つ存在は、セリフや物語でも頭がいいとかすごい人だとかは分かりますけれど、それ以前にその存在感だけで「この人はすごい人だ」って納得させなければならないと思います。

ただそこにいるだけで、「この人は何か違う」

ちょっと目線を動かしだけで「怖い」

そう思わせないといけないと思うんですけれど、リリー・フランキーは想像以上にすごかったです。

 

笑わないと怖いけれど、笑うとさらに怖い

ちょっと口の端を上げて、「ふっ」と笑うだけで、怖くて鳥肌がたちました。

「こいつは、やばい。人を殺してそう」って他人に思わせるのが、すごく上手いです。

俳優じゃなくて、本当に闇ブローカーなんじゃないだろうか。

「人を、一人殺して欲しい」という言葉も、あえてサラッと言っているところが良かったです。 

 

 原作の銀二はもちろん、悪の魅力を兼ね備えたダークヒーローなんですけれど、アカギと違って、余り狂気性は感じない、と個人的には思っています。とにかく頭が切れて、その計算通りに動くという印象です。

アカギと銀二は「哲学を体現しているか、狂気性を持っているか」がキャラクターとして徹底的に違うと思います。

外見は「オールバックかそうじゃないかの違いだけ」とよく言われているけれど。(まあ、そうだけどさ)

 

でも、ドラマの銀二は漫画の銀二とも、また少し違った存在です。

「この次の瞬間、何をしだすか分からない」

理屈とか会話が通じなさそう。

そんな怖さがあります。

 

原作の銀二よりもいいんじゃないかと思いました。

リリー・フランキー、すごすぎる。

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 (引用元:テレビ東京公式ホームページ)

画像を見ているだけで怖い。

 

もうひとつ嬉しい誤算は、森田役の池松壮亮がすごく良かったことです。

こんな上手い役者だったとは、ぜんぜん知りませんでした。

すまーぬ。

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(引用元http://www.cinra.net/news/20160318-nagaiiiwake

 

原作だと最初のほうは銀さんに喰われているのですが、損な立ち位置にも拘わらず、演技がリリー・フランキーにまったくひけをとっていませんでした。

原作の森田はやり場のない鬱屈を抱えた若者という印象ですが、ドラマの森田はそこからさらに、そんな世の中に静かな絶望を感じている雰囲気があって良かったです。

 

 物語は原作にきちんと沿ったものなのですが、演出やキャラクターの解釈の仕方で、まったく別の物語のような印象を受けます。

ただ「好きな漫画を実写で見ている」という感じではなく、まったく知らないドラマを見ているような、新鮮な気持ちになりました。

 

「ここがちょっと」と思った箇所

きちんと「ドラマ化」されている素晴らしい出来でしたが、一か所だけ、どうしても見逃せない不満箇所があります。

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(引用元:「銀と金」一巻 福本伸行 双葉社)

 

銀二が森田に殺しを依頼するシーンです。

ドラマでは、森田に「酸素マスクをはずせ」と言っているんですよね。

 

漫画で言っている

「誰もいなくなった時に、「事故」が起こる。お前は、誰か交替の付き添いが戻ると思っていたから長い食事に出た、ただそうすればいい」

「何もしないで、長い食事に出るだけで、大金がもらえる」

それでも森田が「そんなことはできない」と言って断る。

 

森田という人間を知るうえで、ここは絶対に変えてはいけない部分だと思います。

「自分がなにがしかの行動をしなきゃいけない」のと

「ただ、見ぬふりをするだけでいい」は、

天と地ほども違いますから。

 

「見ぬふり、知らぬふりをするだけで五千万という大金が手に入る」

それでも断るから、森田はすごいのだと思います。

森田の勝負強さも頭の良さも、勘の良さもぜんぶすごいんですけれど、自分は森田の一番すごいところは、こういうところだと思っています。ここが変わっていたのは(ここがはずしちゃいけないポイントだ、と思ってもらえなかったのは)すごく残念でした。

 

まとめ:少しは不満もあるものの、すごく面白かった

 まさか「原作通りだ」どころか、

「原作の主筋を追っていながら、まったく違った魅力を持つドラマ」なんていうものを見れるとは思いませんでした。

 

原作を暗記するほど読んでいる自分でも、これから先の展開が、まったく未知の物語を見るように楽しみです。 

原作未読の方も十分楽しめる内容だと思います。

 

このままの内容で続いていくことを願って、来週も楽しく視聴しようと思います。

 

*後日、ドラマの感想の続きを書きました。

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 「凶悪」の演技もすごいらしい。怖くて見れない…。

 

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「東京タラレバ娘」が「ハッピーマニア」を越えられない理由。

 

東村アキコ「東京タラレバ娘」を読んだ

今期TVドラマ化もされる、東村アキコの漫画「東京タラレバ娘」を読んだ。

昨今、よく見かけるアラサーの女性が結婚や恋愛に悩む姿を描いた漫画だ。

 

自分としては、ある程度共感して読めるのではないか、と考えたのだが、結果的にはまったく共感できなかった。

というよりも言葉を飾らずに言えば、かなり苛立ちを覚えた。

 

年代や立場は違えど、ほぼまったく同じ作りである安野モヨコの「ハッピーマニア」は、自分の中では女性漫画の中で一、二を争う名作であるにも関わらずである。

 

読んだ時点での自分の状況が違うからだろうか??

もし、「東京タラレバ娘」の登場人物たちと同じ状況のときに読んだとしたら、共感しながら読んだであろうか??

 

たぶん、違うと思う。

彼女たちのときと同じ立場のときに読んだら、「東京タラレバ娘」はそれなりに面白く読めただろう。

「うんうん、そうだよねえ」

「あはは、こういう人いる」

楽しく読み終えて、そしてそのあと、何も心に残らなかったと思う。

 

「ハッピーマニア」を同じ状況で読んだら、恐らく余りに痛くて読み進めるのが怖くなったと思う。

凍りつくようなひきつった笑いを浮かべながら、それでも自分の心をのぞき込むように、それでも繰り返し読んだと思う。

恐らく「面白い」という感想は吐けなかった。

「痛い」としか言いようがない。

そして今、「ハッピーマニア」を読み返すと、そのときに自分が感じていた「物理的な」(としか言いようがない)痛みを懐かしく思い出す。

 

両方とも「女性の幸せとは何なのか」ということを、恋愛・結婚を軸に語っていながら、この二者はまったく似て非なるものである。

 

「東京タラレバ娘」は、自分の不幸がすべて「結婚できないこと」に集約されている。

「東京タラレバ娘」の三人の主要登場人物たちの「不幸」は、「結婚できないこと」にすべて集約される。

「結婚したいけれど、相手がいない」

「結婚したいけれど、未だに元彼のセカンドに甘んじている」

「結婚したいけれど、相手は既婚で不倫をしている」

 

十年前の23歳の自分に、タイムマシーンで戻って言いたい。

「妥協して、その男にしておきなさい」と。

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(引用元:「東京タラレバ娘」 東村アキコ 講談社)

 

十年後の43歳の自分が、タイムマシーンに乗ってやってきたら、たぶんこう言う。

「少しくらいのことは我慢して、その男と結婚しなさい。みんな妥協したから、幸せになったのだ」と。

 

このエピソードを、作者は「妥協」という言葉を軸にして話を進めている。

「妥協して、そこそこの男と結婚をして幸せになった女性たち」と

「でも、その妥協がどうしてもできない主人公たち」を対比させている。

しかし、自分はこのことに強烈な違和感を覚える。

 

「妥協しないで心の底から愛した人と結婚さえすれば」、女性は幸福なのだろうか?

「パートナーが不誠実だから、既婚者だから、いいパートナーが見つからないから、自分は不幸なのだ」

つまり裏を返せば、

「自分が妥協していないパートナーが見つかって結婚さえすれば、幸福になれるばずだ」

 

「愛し愛された人と結婚さえすれば、女性は幸福である」

自分が「東京タラレバ娘」に感じた、一番の違和感は、この幻想を非常に無邪気に何の疑いもなく信じている点にある。

 

自分の幸福は自分で追求し続けるしかない

対して、「ハッピーマニア」はどうか。

「ハッピーマニア」は、一種の地獄めぐりの物語だ。

 

「いい男に出会いたい」

「専業主婦をして楽に暮らしたい」

「働きたくないから、フリーターとして適当に生きている」

「アルバイトすら、面倒くさくなるとすっぽかす」

 

そんなどこでもいる二十代半ばのダメ女、重田カヨコが、ありとあらゆる男を相手に、ありとあらゆるダメな恋愛をし続ける。

 

不倫もするし、元彼の都合のいい女にもなったし、うまくいったと思ったら、相手が突然海外に行ったり、相思相愛になったら相手がマレにみるダメ男だったり、プロポーズされても何か違うと思ったり。

人生のどこかで聞いたような話が繰り広げられ、人生のどこかで言ったことがあり言われたことがある言葉が延々と書き連ねられている。

 

「一体、自分は何が欲しいんだろう」

 

そう考えたときに、重田はこう呟く。

「震えるほどの幸福が欲しい」

「幸せって、しびれるようで、くるくるまわって、甘くて苦しくて目頭がアツくなるようで、なんかわかんないけれどそんなかんじなんだよ」

「わかるのは今のコレは、幸せじゃないってことだけ」

 

f:id:saiusaruzzz:20161225120440p:plain

(引用元:「ハッピーマニア」安野モヨコ 祥伝社)

 

誰かが愛してくれるのは幸せ。

誰かを愛することも幸せ。

結婚しようと言ってくれるのも幸せ。

結婚するのも幸せ。

 

でも、本当にそれが自分が追い求めている

「しびれるようで、くるくるまわって、甘くて苦しくて目頭がアツくなるようで、なんかわかんないけれどそんなかんじの」「震えるほどの幸福」なのか。

 

重田は恐ろしくいい加減な女であるが、この一点においてはまったく妥協しない。

 

自分が考える「震えるほどの幸福」を追い求めて、人を傷つけ、傷つけられ、他人の愛情を踏みつけ、自分の愛情も何度も何度も踏みつけられながら、それでもまだ見ぬ「自分だけの幸福」を追い求めて恋愛し続ける。

 

「ハッピーマニア」は物語の最後、重田のことをずっと好きだった高橋と結婚するシーンで終わる。

でも重田は、この後に及んで、結婚式の直前に何回も逃げ出す。

そして、最後に叫ぶ。

 

「あーーーーー、彼氏欲しい!!」

 

「彼氏欲しい」は、物語の始めから重田が叫び続ける、お決まりのフレーズである。

このころになると、読者はもう気付いている。

これは文字通りの「彼氏が欲しい」という意味ではない。

「自分自身で、自分だけの震えるほどの幸福を、もっと追求したい」

恐らくそういう意味だと思う。

 

自分の幸福は、自分にしか分からない。だから自分で追求し続けるしかない。

 

世間は「結婚が女の幸福」という。

だから「妥協してでも、結婚すればいい」という。

でも、「愛し愛されて結婚するのが一番の幸福だよね」という。(「東京タラレバ娘」はこの段階の話である。)

 

でも、本当にそうなのか?

愛し愛されることは確かに幸福である。

でも、それだけで自分の幸福はできているのか。

それさえ叶えば、自分は永遠に幸福なのか。

 

世間で「これが幸福だから」というから、「これが幸福なのか」

「自分が愛し、自分を愛してくれるパートナーを見つける」ただそれだけさえ叶えば、自分は幸福になれるのか。

 

自分にとっての本当の幸福とはなんなのか?

 

そういう疑問を持っているから、重田は結婚式直前の最終回になっても「彼氏、欲しい」と叫ぶのである。 

 

たとえ、どれほど傷つけられても、どれほど相手を傷つけても、「自分にしか分からない、自分だけの幸福を自分自身で」妥協なくひたすら追求するからこそ、「ハッピーマニア」はこれほどの痛みを感じさせる物語なのだと思う。

外殻のストーリーラインは、恋愛や結婚を巡る物語でありながら、これは女性の…というよりも、人生の命題の物語なのだと思っている。

 

「東京タラレバ娘」の三人はそれなりに働いている設定であるが、内面を見るとまったく自立していない。

「東京タラレバ娘」の三人が「何か誤ったこと」をやったときに、軌道修正するのは、常に本人たちではなく男である鍵谷である。

彼女たちは男である鍵谷に、自分の人生や恋愛に対する姿勢の甘さを指摘され、彼に指摘されるままにその姿勢の甘さを修正する。

六巻で香が元彼との関係を、鍵谷に言われたことによって、断ち切るシーンが象徴的である。

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(引用元:「東京タラレバ娘」 東村アキコ 講談社)

 

残念ながら、「(作内の流れにおける)彼女たちの誤った行動」を指摘したり正したりするのは、常に男である鍵谷である。

自分自身で正すことはおろか、女性同士で指摘したり正す力すらない。

 

それに対して、重田はどんな行動も最終的には自分自身で決める。

そしてそんな重田の状況に正確で鋭い突っ込みを入れ行動を厳しく叱責するのも、女友達であるフクちゃんである。

重田のすごいところは、周りにどれほど厳しいことを言われ、どれほど強く止められても、本当に「自分がこうしたい」と思ったら一切躊躇しない点である。

そしてその行動によって、後でどれほど傷つき、どれほど周りから馬鹿にされても、それを一切他人のせいにはしない。

 

自分で選び、自分で行動し、その傷も痛みもすべて自分で引き受けている重田は、どれほど外面的には馬鹿でいい加減な女性に見えても、自立した強い人間である。

誰かの強い指図がなければ、自分の行動すら決められない人間とは違う。

 

「東京タラレバ娘」では、「妥協」という言葉が繰り返し使われる。

「パートナー選びに妥協した女性は、いま幸せだ」

「自分も妥協しておけば」

「世の中には妥協できる女と妥協できない女がいる」

 

妥協したければ、妥協するのもいいと思う。

ただその際、「妥協した」ということが、自分が自分の意思で選んだ最良の選択であったと言い切る気概が欲しい。

 

「妥協した、ということが、妥協しない選択だったのだ」

 

そう思えない人間は、「妥協」という言葉を、責任を逃れたり、言い訳するための道具として使う。

そして、そういう人間だからこそ、自分ではない誰かに(「東京タラレバ娘」であれば、男である鍵谷に)人生を指示してもらわなければ生きられないのだ。

 

「妥協した」という言葉を言い訳のように口にして、人生を自分の意思で主体的に生きていない人間が、「なぜ幸福になれないのか」と言われても、それはそうだろうとしか言いようがない。

自分が「東京タラレバ娘」を読んだ感想は、最終的にはこの一点だけだ。

 

他人は自分の人生の幸福を考えてはくれない。

自分の幸福は、自分にしかわからず、だから自分自身で追求するしかない。

例え、それがどれほど辛く痛みを伴うものでも。

 

今の時代に、特に社会的に問題になりやすい、「女性の主体性と依存」という課題を乗り越えられていない、その課題が見えてすらいない物語が描かれていることが、個人的には非常に残念だった。

ただ「東京タラレバ娘」は、まだ物語が続いているので、今後どういう道筋を辿りどういう結末になるか見守りたいと思う。

 

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諌山創「進撃の巨人」21巻の感想&この物語は「世界への違和感の表明の物語」だと思う。

 

2016年12月9日(金)に発売された諌山創「進撃の巨人」21巻の感想&この漫画全体のテーマについての語りです。

 

20巻の感想のときにもさんざん語りましたが、語りたりないので語ります。

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21巻の前半 物語における登場人物の役割

サル型巨人に特攻して重傷を負ったエルヴィンと、ベルトルトに特攻して瀕死の全身火傷を負ったアルミン、どちらを巨人化の薬を使って助けるか、という話が21巻の前半の話でした。

 

最終的にはアルミンが助かります。物語的にはそれが妥当だろうと思いました。

 

「進撃の巨人」という物語で、アルミンは非常に重要な登場人物だと思います。

何故か?

アルミンだけが「巨人を倒したあとの世界」のことを考えている、唯一の登場人物だからです。

エレンが言ったとおり、アルミンだけが、

 

「こいつは戦うだけじゃない。夢を見ている」

 

からです。

あくまで物語のテーマだけで登場人物の重要さを考えると、アルミンはエレン以上に重要だと思います。

 

「虫けらみたいに人が死ぬ、こんな残酷で絶望的な世界でも、夢や希望を持つことができる」

 

これは「進撃の巨人」のテーマで、すごく重要なことだと思います。

この役割を主人公のエレンではなく、友人のアルミンが果たしている(むしろ、主人公であるエレンに教えている)ところが、「進撃の巨人」の面白いところだと思っています。

 

「進撃の巨人」は普通の物語だと主人公に集中している要素が、色々な登場人物に分散して与えられています。

特にアルミンが持っている「こんな世界でも巨人への憎悪一色に染まることなく、絶望することもなく、巨人にまったく関係ないことに興味を持ち、夢や希望を抱き続ける」という特性は、本来、主人公が持つにふさわしいものだと思います。

それを主人公でもヒロインでもなく、幼いころから主人公にくっついていた幼馴染が持っている、というのが面白いです。

 

そこに作者の考え方がよく出ているような気がします。

「主人公は別にスーパーマンでも何でもなく、人に素晴らしいものを与えられる存在でもなく、主人公だろうが誰だろうが、みんな何かを与え与えられ生きている」

 

エルヴィンも知識欲は持っているけれど、それは結局、過去につながるものなんですよね。他の登場人物でも代替することができるものです。

 

エルヴィンにはエルヴィンにしかできない、

 

「悪魔になって、新兵たちを地獄に導く」

 

という役割があるわけです。

これは、エレンにもできない、アルミンにもできない、リヴァイにもできない、エルヴィンにしかできないことです。

「自分しかできない役割を果たした登場人物は、物語上では機能を失う」ので、エルヴィンではなくアルミンが生き残るのは、物語として考えた場合は当然だと思います。

もちろん「物語内の登場人物たち」には、様々な葛藤があるでしょうが。

 

20巻の話になりますが、リヴァイがエルヴィンに言っていました。

 

「俺は選ぶぞ。夢を諦めて死んでくれ。新兵たちを地獄に導け。獣の巨人は俺が仕留める」

 

エルヴィンがこの世界に生まれてきたのは、このためです。

この瞬間に、リヴァイが獣の巨人を倒すための陽動をするために、その陽動をして死ぬことを新兵たちに強いるために生まれてきたんです。

エルヴィンもそれが分かったから、リヴァイにそう言われたときにこの表情なんですよね。

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 (引用元:「進撃の巨人」20巻 諌山創 講談社)

 

死ぬことも、夢を諦めることも、ましてや自分の部下で、実戦経験の浅い新兵たちに「必ず死ぬ」と分かる特攻を強いることは辛いことです。

フロックには「エルヴィン隊長は悪魔だ」と言われていますし。

幼いころから夢見てきた、「この世界の謎を知りたい」という願い、それがようやく実現するところまできた。それでも、

 

人間には誰しも役割があり、死ぬべきときがきたら死ななければならない。

 

エルヴィンはこの理を悟り、リヴァイの言葉を受け入れました。

 

「自分が何のために死ぬのか」と理解することは、「自分が何のために生きたのか」を理解することと表裏一体だと思います。

それを心の底から理解できた、そしてリヴァイという赤の他人にも理解してもらえたエルヴィンは幸運だと思います。

 

後半は世界の謎が解明される、グリシャの過去編

それに対して後半の展開は、個人的には少し微妙でした。

元々、壁の外にも人類がいて、エレンたちが住んでいる壁の中はエルディアの王族を隔離する場所にすぎなかった。

壁の外は、マーレ人がエルディア人を支配する世界だった。巨人の力を利用して長く大陸を支配してきたエルディア人は、他民族に対する民族浄化などを長く行っており、そのために「悪魔の末裔」と呼ばれている。

 

というのが、長く謎だった、この世界の真実の姿です。

 

アニ・ライナー・ベルトルトの三人は、エルディアの王が持つ「始祖の巨人」の力を奪うために壁内に潜入した「マーレの戦士」であり、ジークもその一員でした。

ユミルは、何等かの理由で「楽園送り」になり、巨人化してずっと壁外をさまよっていたようです。

 

二民族間の憎悪の歴史というのは、長く追い求めてきた世界の謎にしては、ちょっと平凡すぎるなあと思いました。

若い日のグリシャにも、イマイチ共感しづらかったです。

妹がマーレ人に面白半分に殺された、というのは気の毒ですけれど、展開としてはありがちすぎます。

一巻でエレンの母親・カルラを食い殺した巨人が、グリシャの前の奥さんのダイナという事実は「おおっ」と思いましたけれどね。何という運命。

色々な事実が判明したので、また一巻から読み返したくなりました。

 

最も重要なテーマは、「世界への違和感の表明」だと思う

「進撃の巨人」は、「自分が生きる世界への違和感の表明」の物語だと思っています。

 

「進撃の巨人」の世界は、「この世界が生きる人にとって、苛酷であり残酷であることが明確な」世界です。

 

「この世界の違和感、おかしさ」が「人間を虫けらのように無差別に殺戮する、不気味で意思の疎通のできない、人間と同じ倫理観どころか意思や感情すら持たない」巨人たちに集約されています。

「この世界に生まれてきたのに、巨人に無意味に殺されなければならないなんておかしい」

「この世界は理不尽だ。そして、自分はその理不尽さをどうしても受け入れることができない。だから戦う」

「進撃の巨人」は、そういう物語です。

 

あくまで自分の勝手な想像ですが、作者はこの「違和感」を、自分が生きる現代社会に対して持っているのではないかと思います。

 

この現代社会の「違和感」は、「進撃の巨人」の巨人たちほど明確でもないし、可視化もできません。

自分は明らかにおかしい、と感じるのに、「おかしくない」と考える人のほうが多数いることなんてざらにあります。

 

「進撃の巨人」の登場人物たちが感じている「世界への違和感」「理不尽な世界への怒り」20巻でエルヴィンが言っていた、

「(この残酷な世界に抗うために)兵士よ、怒れ。兵士よ、叫べ。兵士よ、戦え」

この言葉に、すさまじい共感を覚えました。

 

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 (引用元:「進撃の巨人」20巻 諌山創 講談社)

 

自分自身がそういう気持ちを抱えてこの世界で生きているからです。

 

この社会で生きていると

「それはちょっと、おかしいのではないか」

「自分はそうは思わない。たとえ、世界中の人間がそうだと言っても、自分はそれは違うと思う」

という違和感を表明したくなることが、たびたびあります。(実際にしているし。)

 

この社会で、ありとあらゆる局面で感じる、

「当然、こうでしょう? 当然こう思うよね。これが正しいのが、当然でしょう?」

社会・時代という巨人の、真綿でくるむような無言の圧力に対して、

「自分は違う。自分が言いたいことはそういうことじゃない。自分の言いたいことを勝手に決めるな」

潜在的にそういうすさまじい怒りを抱いて生きているのが、恐らくは自分という人間なんだろうと思います。

 

社会や時代というものに左右されない、自分独自の価値観というものを守り抜きたい。

そんなことは自分には不可能だと分かっていても、そういう人間を目指すために、思考停止を強いてくるようなものに対しては、怒りの声を上げ続けたい。

 

自分が感じている、この世界に対する違和感を、常に叫び続けたい。

 

エレンのように、アルミンのように、リヴァイのように、ミカサのように。

例え、どれほど巨人が無慈悲で恐ろしい存在でも、例え、この世界の現実がどれほど残酷で、人間がちっぽけな存在でも。

この世界の理不尽さを認めることはできない。

どれほど苛酷で絶望的な環境でも「それが運命だ、仕方ない」と屈さず、戦うことによって「違和感」を表明し続けるエレンたちに激しく共感します。

 

理不尽に個人の思いを淘汰するような、「社会や時代の正しさ、価値観、論理」という巨人と戦い続けたい。

そう思っているから、「進撃の巨人」は自分にとって強い共感を覚える物語なのだと思います。

 

 世界の謎も解明され、いよいよ物語は佳境に入りました。

この世界の戦いの物語を、最後まで見届けたいと思います。

 

余談:「進撃の巨人」を読んでいるとき、いつも「ワンダと巨像」の「開かれる道」が頭に流れます~~♪♪

 

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ロボットアニメの主人公は、なぜロボットに乗るのか??

 

ロボットアニメの主人公は、なぜロボットに乗るのか?

なぜ、主人公が乗るものがロボットでなければいけないのか??

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商品化しやすいからでしょう?? 

というメタ視点の大人の事情はおいておいて、その作品の設定において「ロボットでなければならない必然性」が説得力をもって語られている物語が好きだ。

 

兵器を一から開発するとなると、莫大な開発費がかかるはずである。

しかも、二足歩行というのは接地面が極端に少ないので、安定させることが大変だと思う。

そもそも人体だって、四足歩行の動物よりも、圧倒的にバランスが悪い。

そのバランスを安定させるシステムを開発することから始めるのは大変なことだ。

 

なぜ、従来の飛行機や戦車などではダメなのか??

なぜ、莫大な費用を投じてまで、二足歩行型の戦闘機を作ったのか??

 

制作者が「ただロボットが出したいから、細かいことは気にするな」という物語は好きではない。

物語で起きる事象というのは、「なぜ、そうなったのか? なぜ、そうならなければいけないのか?」という因果が、物語内できちんと説明されなければならない。

 

物語の設定に説得力があるかどうか。

これは物語の生命線である。

 

今回は、その設定がしっかりしている物語の魅力を語りたい。

 

 「機動戦士ガンダム」シリーズ

ガンダムで敵も味方も「モビルスーツ」に乗って戦う理由は、ミノフスキー粒子が存在するからだ

 

ミノフスキー粒子が散布されると、通信機器やレーダーなどが使えなくなり、遠距離攻撃が一切できなくなる。

ミノフスキー粒子が散布された空間では、近接戦闘しかできなくなる。だから小型戦闘機以上に近接戦闘に強い兵器として、モビルスーツが開発された。

戦闘機というよりは、宇宙で白兵戦ができるようにした機械、という認識のほうが正しい気がする。

 

ミノフスキー粒子の存在と、その散布下で強力な力を発揮できるモビルスーツを開発できたからこそ、ジオンは圧倒的な国力の差がある地球連邦に戦いが挑めた。

そういう背景を聞くと「なるほど」と思う。

機動戦士ガンダム THE ORIGIN I [DVD]

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「マブラヴ」シリーズ

世界設定の緻密さに感動したのが、この作品。

 「マブラヴ」シリーズ。

よく作りこまれた世界観に惚れこみ、上記の設定資料集も買ってしまった。

 

マブラヴはBETA(「人類に敵対的な地球外起源種」の略称)という、突如地球にやってきた、不気味な姿をした謎の生命体と戦う物語である。

BETAの余りの数の多さと、無慈悲なまでの圧倒的な強さからくる絶望感がたまらない物語だ。

マブラヴでは、このBETAと、戦術機という人型の機械に乗って戦う。

 

なぜ、航空機に乗って戦わないのか??というと、こいつらがいるから。

 

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(引用元:https://www9.atwiki.jp/alternative/pages/9.html

 

作品内ではレーザー級と呼ばれているBETA。

下のほうにいる緑色のちびっこい奴が、身長3メートルくらいで、人間よりも少し大きいくらいだ。

ゆるキャラのように可愛く見えるが、

 

「380㎞離れた高度1万mの飛翔体を的確に捕捉し、大気圏内では半径200~300㎞という射程を持つ」という超高性能な光線を、目から放つ。

初めの照射から次の照射までのインターバルが約12秒なので、ほとんど連続して撃てる感覚だ。

 

一つ目の大きいほうは重レーザー級と呼ばれており、小さいレーザー級以上の高性能のレーザーを持っている。

航空機が飛んでいても、こいつらにすぐに撃ち落とされる。

制空権が完全に奪われている状態だ。

なので、戦闘も移動も、地上で行うしかないという状況である。

 

マブラヴの怖く面白いところは、もともとは人間は航空兵器で戦っていたのに、それに対応して新しくこのレーザー級という種が生み出されたところだ。

 

敵がこちらの戦術に対応して、急速に進化する。

 

ひとつの新兵器の開発で、それまでの戦況がガラリと変わってしまうということは歴史でもよくあるが、そういうことをよく表している。

 

またBETAは蟻の巣のような構造をしたハイヴという巨大な地下空間を各所に作り、そこを拠点として攻め込んでくる。

ハイヴを攻略することを目的として、戦術機という二足歩行型の兵器が生み出された。

 

この戦術機も、各国ごとに開発の歴史が考えられており、その設定を読んでいるだけでも楽しい。

ひとつひとつの事柄に対して、驚くほど設定が作りこまれている。

 

ただひとつ難点が……もともとがエロゲなので話題にしにくい。(全年齢対応用も出ているけれど、グロ描写も規制されている。)

そこがいいんだよ、という人には申し訳ないけれど、何でギャルゲなんだよ、何でアニメ絵なんだよ、と何度思ったことか。

(マブラヴのすごいところは、パイロットスーツがほぼ裸なのは何故なのか、周りが女性ばかりなのは何故なのか、という設定までちゃんと考えられているところだ。)

 

この骨太の設定のまま、もっとクールな絵で作り直してくれることを切実に希望している。

マブラヴ オルタネイティヴ - PS Vita

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「機動警察パトレイバー」

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 設定がマブラヴと同じくらい、よく練られている。

パトレイバーは、レイバーを動かすためのソフトウェアの開発や、警察にレイバーを導入する権利をどこの企業が手にするか、という話まで触れられている。

 

元々は危険な場所で作業するための道具としてレイバーが開発され、レイバーを使った犯罪が多発するようになったため、それに対抗して警察もレイバーを導入したという設定だ。

 

なぜ、レイバーがロボットのような外観をしているのかという理由が物語の中で、

「そういうものを見て育った世代が開発に携わっているから、自然と発想がそうなったんじゃないか」

と語られていて、「なるほど」と思った。

 

なぜ、主人公がロボットなどという非合理的なものに乗らなければならないのか?

なぜ巨額の費用を投じてまで、ロボットを開発しなければならないのか?

 

そういう背景まで作りこまれた物語はとても面白いし、人気が出る理由もそのあたりにある気がする。。

 

場面緘黙症の漫画「元かんもく少女は考える。」から、生きづらさの正体を学んだ。

 

 

先日、ちょっとしたきっかけで「場面緘黙症」の体験をつづった漫画を読んだ。

morinagaame.blog.jp

 

「場面緘黙症」という症状を知ったのは少し前で、そんな症状で悩んでいる人がいることさえ知らなかった。

 

場面緘黙症というのは、特定の場面でのみまったく話せなくなる症状で、いわゆる「人見知り」などとは違う。

 

場面緘黙は、ある特定の場面でだけ全く話せなくなってしまう現象である。子供が自宅では家族らと問題なく会話をしていても、学校や幼稚園など家の外では全く、あるいはそれほど話さず、誰とも話さないという例は多い。そして、その子供は非常に内気な様子に見え、グループでの活動に入りたがらなかったりする。 たいていの場合、発話以外の、表情や動作やその他のやり方であれば、人とコミュニケーションを取ることができる。また、脳機能そのものに問題があるわけではなく、行動面や学習面などでも問題を持たない。

単なる人見知り恥ずかしがり屋との大きな違いは、症状が大変強く、何年たっても自然には症状が改善せずに長く続く場合があるという点である。

                           (Wikipediaから引用)

 

原因については色々な説があるようだが、心因性が今のところ一番有力らしい。自宅などでは問題なく話せるので、身体的・構造的な問題ではないことは分かる。

心因性と呼ばれる症状の多くはそうだが、この症状を持つ人も周りから「単なる甘えでは?」といわれ理解を得られないことが多いようだ。

 

場面緘黙症については、リンク先の漫画を読んでもらうと非常によく理解できると思う。

(作者の方はBL(ボーイズラブのこと)の同人活動をしています。そこに興味を惹かれる過程なども多少出てくるので、BLに忌避感を持つ方はそのことを承知のうえで読んでください。そのことがメインテーマではないので、大丈夫だと思うけれど。)

 

この漫画は場面緘黙症について描かれているが、その二次被害とも思える「生きづらさ」についても非常によく分かる。

「場面緘黙症」という言葉は聞いたことがなくても、作者が幼稚園時代から感じ続け、いまなお後遺症のように悩み続けている「生きづらさ」については、共感を感じる人も多いのではないかと思う。

 

「元かんもく少女」の状況

元かんもく少女の家庭環境は過酷だ。

作者は子どものころなので、それが普通だと思って当時はよく分からなかったと言っているが、読めば読むほどこの年までよく生き延びてきた、そう思える。

 

父親が少しのことでもキレやすい暴君であり、子供とのコミュニケーションがほとんどない。唯一のコミュニケーションが、子供に命令すること。最終的には子供の学費も払わず、家に生活費を入れないなどモラハラ、経済的DVをする。

母親は外面がよく、自分にも子供にも完璧を求める。夫婦仲が悪く、精神的なよりどころとして宗教活動をしており、その集会に子供を連れていく。子供のしつけとして、体罰をする。子供に対しては「できて当たり前」という姿勢なので褒めず、常に否定的な言葉を投げかける。

 

「犯罪が関わる環境以外で、どんなに素晴らしい素質を持った子供でも、ダメにすることができる環境を考えなさい」と言われたとき、これ以上の環境はなかなか思いつかない。

 

父親はちょっとした物音を立てても、自分の部屋に怒鳴り込んでくる、風呂やトイレに入っていても「早く出ろ」と言われ、実際にドアをこじ開けられたこともあるなど、聞いていて唖然とするようなエピソードが出てくる。

 

作者は「家庭環境が主因とは限らないけれど」と断りを入れているが、そりゃあこんな家庭で育てば、一言、物を言うのも緊張するようになるよ、と思う。小さいころから、自分が何かしたり言ったりするとキレる人がいたら、喋ることは文字通り命がけになるだろう。

本当にこの作者がグレもせず、犯罪も犯さずに生きてきただけで十分立派だと思う。

 

幼稚園時代に場面緘黙を発症した作者は、そのあと小中学校時代を通してほとんど喋れずに日々を過ごす。

暴力をふるわれても「痛い」と叫べず、いじめられても「自分がしゃべれないのが悪い。しゃべれないから気持ち悪いと思われて当然だ」と考える。

何をされても「相手は悪くはない。自分に責任がある。自分はどんなことをされても、それを受け入れなくてはならない」

この恐ろしいほどの自己肯定感の低さ、これが生きづらさの正体なのではないかと作者は考える。

 

自信がない人間は生きづらい

自分も人生で何人か生きづらそうな人に出会ってきたが、やはり共通するのはこれではないかと思う。

「自信のなさ」「自己肯定感の低さ」

無理に言葉にすれば「自分という存在に対する無条件の肯定がない」と言っていいかもしれない。

これがあるのとないのでは、人生の生きやすさが百八十度違う。

 

もちろん、大人になって経験したことから、「あるジャンルにおいての自信」を身につけることはできる。だからこの自己肯定感を持っている人間は「自信なんて、自分の力でいくらでも身につけられるのでは?」と考えがちである。

しかしこれは、多くの場合、子供のころ親に与えられるものである。幼少期にこれを与えられないと、大人になって回復するのは至難だと思う。

 

この「自分という存在に対する無条件の肯定感」を持たない人間は、基本的に人間関係で悪循環に陥ることが多い。「自分がそこにいていい」という許しや安心感を、自分で自分に与えることができないからだ。

なので、他人からそれを得ようとする。そうすると他人の顔色を窺うようになる。他人の顔色を窺うようになると、自分の行動が他人次第になるので、他人と一緒にいるのがしんどくなる。他人と一緒にいるのがしんどいから、人間関係を避けるようになる。そうすると人間関係に慣れることができないので、ますます苦手意識を持つようになる。

そういった負のループに入る。

 

「元かんもく少女」を読んでいると、その負のループがどういうものなのかよく分かる。

そしてこの自己肯定感の低さが大人になっても基盤となるので、仕事をするにしても恋愛するにしても、何か他のことに挑戦するにしても、そして仮にそれらが叶ったとしても、今度はその状態を維持するのに、人の何倍ものエネルギーを使わなければならなくなる。

結果、しんどくなりその状態から離脱する。そして「みんなが普通にやっていることができないなんて、自分は何てダメな人間なんだろう」と自分を責める。ますます自己肯定感を低め、自信がなくなっていく。

 

元かんもく少女が、親に対して「学校に行くのが疲れた」と訴える場面がある。

自分はこの気持ちがよく分かる。自分も学校に行くことに疲れきっていた時期があったからだ。

何か大きな問題があったわけではない。だから、理由を言えと言われても「疲れた」としか言いようがない。

大人になった今なら分かる。

人の顔色を伺ったり、その場の空気を読んで話を合わせたり、グループ内の力関係を探ったり、そういう人間関係を維持することに疲れきっていたのだ。

今考えてみると、あんなに狭い世界で毎日毎日、人間関係に気を使い続けたことは驚異的なことだと思う。

 

余談だが、自分の知人が「今の中高生女子は、学校にただ行っているだけでも偉いと思わないといけない。それくらい、人間関係のストレスが半端ない」と言っていたが、自分もそう思う。

学校の人間関係で悩んでいる子は、「自分は学校に行っているだけで偉い」と思ったほうがいい。少なくとも自分はそう思うし、行きたくなかったら行かなくていいと思う。心の底から。

 

「自己肯定感の低さ」それは親が子供に与える呪いに似ている。

「自己肯定感の低い人間」は、たいていが幼いころから自分の言動や存在を、親に否定され続けている人間だからだ。

「決して幸福になるな。お前が幸福になるなんて、そんなことは許さない」

無意識のうちに、親がそういう呪いをかけているのだ。

 

「親だって人間だ。子育てというのは大変なものなのだ」という言葉もよく分かる。悩み試行錯誤しながら、懸命に子供に愛情を注いでいる人もたくさんいることも知っている。

ただ自分はある一定数、こういった呪いを子供にかけている親が存在すると思っている。そしてこういった親は、多くの場合、無自覚であり自分は立派に親としての務めを果たしていると信じている。その事実を、最大限控えめに表現しても、腹ただしく苦々しく思っている。

 

自分は親が子供に与えられる最高の贈り物は、この「自分という存在に対する無条件の肯定感」なのではいかと考えている。これがあるのとないのとでは、苦境に立ったときの踏ん張りも違うし、挫折したときの立ち直り方も違う。

そしてそれは、人生において親にしか与えられないものなのだ。(ごくまれに例外もある。ただ大人になってからだと、その価値観を無条件に受け取るのが難しくなるという問題もある。)

 

「生きづらさ」と抱えている人を見たり、色々なケースを読んだりして感じたことは、何となく感じていたけれどその正体が分からず、その感情を解消するための努力の方向性すら分からないということが多いということだ。

感じている感情の正体が分からないとそこから抜け出すのは難しいと思う。生きていく中でいつも「生きづらさ」のようなものに悩まされていたら、同じように悩んでいる人がいるんだということを知って欲しいなと思う。 

そして、できればその呪いから抜け出して生きて欲しい。

 

*ちなみに著者は「自分のケースでは、親が原因なのかもしれない」と推測しているが、場面緘黙症の発症の原因が育て方にあるといっているわけではない。ひと口に場面緘黙症と言っても性格や症状も様々のようである。

*「生きづらさ」の原因も、この記事では親子関係を取り上げたが、親子関係以外にも様々な原因があると思っている。

私はかんもくガール: しゃべりたいのにしゃべれない 場面緘黙症のなんかおかしな日常

私はかんもくガール: しゃべりたいのにしゃべれない 場面緘黙症のなんかおかしな日常

 

 

「君に届け」にみる女子のプリンセス願望と、女性にとっての自己実現。

 

先日読んだこの記事が面白く、とても興味深かった。

papuriko.hatenablog.com

 

自分が理解した限りでは、「闇を抱える男性から、どんな目に合わされても超人的な耐久心で耐え、傷ついたその男性の心を母性で癒すことで、いつかその人のオンリーワンになれる。そういうファンタジーによって、不幸になっている女性が存在する」という話だった。そういった女性の恋愛観に影響を与えた漫画として、「彼氏彼女の事情」と「フルーツバスケット」という人気漫画があげられている。

 

この幻想にはまる女性がなぜ、それを幻想とは気づかずいつかかなう現実だと信じるのか。

この幻想は男性側からも十分、成立しうるからだと思う。成立しうるのだからファンタジーとは言い切れない。それが厄介な点だ。

男性側から成立している例として、ブコメでベルセルクのガッツとキャスカの例をあげていた人がいたが、自分の意見としてはこの典型例はダイの大冒険のマァムとヒュンケルだと思う。

 

saiusaru.hatenablog.com

 

つまり「傷ついて闇を抱えた男性の心を癒すことによって、その男性のオンリーワンになれる」という物語は、女性側の単なるおとぎ話ではなく、男性側にもニーズとして、存在しているということだ。(*男性全員がそういうニーズを持っているわけではなく、持っている男性も存在しうるという話。)

 

「彼氏彼女の事情」「フルーツバスケット」という話は構造がとても似ている。一口でいえば、「少女漫画という装置の構造と機能を、ギリギリまで先鋭化している」

少女漫画というものは、だいたい似た構造をしている。何故かというと、それがめざす目的が一緒だからである。

 

「周りの女子が魅力的と認める男子に選ばれることによる、自己実現」

 

恋愛をテーマにしているほとんどの少女漫画の目的は、この手法による自己実現を読者に疑似体験させることにある。

 

自分はこういった構造の少女漫画が多いことに、昔から不満があった。

「女というものは、結局、男性から選ばれることでしか自己実現ができないのか?女性自身もそう思っているのか?」

という思いが強くあったからである。

女性だって、冒険に出たり、戦って何かを勝ちうることによって自己実現を果たしてもいいのではないか?

恋愛ももちろん楽しいし、当然、恋愛をテーマにした漫画でも面白い漫画はたくさんある。だが、いくらなんでも恋愛ばかりにテーマが偏りすぎだろうと思っていた。

 

「青空エール」が、自分が今まで読んだ少女漫画の中でも一、二を争うくらい優れた漫画だと思うのは、ひとつはその点にある。

青空エールでも主人公の恋愛は描かれるが、最も重要なテーマは主人公が驚異的な努力によって、初心者でありながら最終的に全国大会で金賞を仲間と共にとるという点にある。

saiusaru.hatenablog.com

 

もうひとつ言えば、恋愛をテーマにすることが気に食わないわけではなく、「恋愛を自己実現の道具にすること」に強烈な違和感があるのだと思う。

恋愛というのは確かに上手くいけば、他者に「この世でたった一人の自分」と認められるのだからすんなりと自己実現できる。だがそのぶん、上手くいかなかったときのダメージも大きい。恋愛をテーマにするならば安易に道具として扱うのではなく、その辺りのキツさと難しさも丹念に描いて欲しい。

この本のように↓

この漫画以上に、女性の生態がわかるものはないんじゃないかと思う。

  

「君に届け」ほど、少女漫画の基本構造が分かりやすい漫画はない。

「彼氏彼女の事情」と「フルーツバスケット」は、少女漫画の構造が極端に先鋭化されていると書いたが、この二作品をマイルドな形にしたのが「君に届け」である。

「君に届け」は、「魅力的な男性に認められることによって、自己実現する少女漫画」の最も典型的な例である。

 

映画化もされた有名な漫画なので知らない人もいないと思うが、一応あらすじを説明すると…。

 

無口で地味で「リング」の貞子に似た容姿をしていることから、クラスで浮いた存在になっている黒沢爽子。対してクラスメイトの風早翔太は、さわやかで友達が多く人気者の男子である。二人は仲良くなり、恋に落ちる。

 

細かいエピソードなどをのぞいたメインストーリーはこれだけである。

ストーリーらしいものがほとんどなく、自分と自分の周りの人間の心象風景だけを延々と描き続けるというのも、この構造の少女漫画の大きな特徴だと思う。

 

「君に届け」に類する少女漫画の構造は、だいたい同じである。(*細かい差違はある。)

①主人公の少女は平凡かそれより少し上程度、もしくは冴えないタイプである。

②相手の男子は、異性にモテるタイプである。

③非常に献身的な同性の友人が、たいてい一人か二人いる。その友人は、決して主人公のことを裏切らない。

④主人公に恋愛のライバルがいた場合(友人が兼ねることもある。)、そのライバルと和解したり、別の恋の相手が出てくるなど救済策が用意される。

⑤主人公と相手役、主人公の友人、その相手役などで主人公を中心とした小世界が形成される。

⑥この小世界の中で話の種が尽きるまで、延々と小エピソードが繰り返される。

 

「主人公がその中心に居座る、主人公にとっての都合のいい世界でありながら、誰にも悪く思われず、誰にも攻撃されず、誰にも罪悪感を抱くことのない世界」

 

これがこの構造を持つ少女漫画が最終的に目指す、ユートピアだ。

ちなみにこの世界の外にいるモブにならば、いくら攻撃されても攻撃には入らない。なぜならば、主人公は自分が作り上げた世界によって、世界外からの攻撃から守られているからだ。

これは言葉を変えれば、「世界で唯一のプリンセスになる」ということだ。全女性の夢や欲望は、結局のところここに帰結するのだろうか。

 

「君に届け」が他の作品と違って巧妙なところは、主人公がこの世界を作るために一見、努力しているように見える点である。

例えば、千鶴やあやねという友達を得るために、爽子は二人の悪口を言っていた同級生に立ち向かうし、恋敵であったくるみと和解するために騙されたにも関わらず、自分から話しかけにいく。恋愛勝者としてくるみに罪悪感を抱くどころか、恋に破れたくるみのほうが「ごめんなさい」と謝る始末だ。

 

「爽子はがんばっている。しかもピュアないい子だ。だから風早に選ばれ、それでも妬まれもせず、みんなから愛されて当然なのだ」

 

というエクスキューズが全編を通して、ぬかりなく配備されている。

かくして、くるみも罪を許され、プリンセスが形成する世界の一員として向かい入れてもらえる。

 

恋愛をテーマとする少女漫画のほとんどは、だいたいこういった構図をとっている。

ただ余りに露骨だと、逆に同性の読者から反感を買う。読み手が主人公ではなく、その周りのモブに感情移入するようになるからだ。個人的な意見だが、青木琴美や北川みゆきは、その辺りを失敗している気がする。

より先鋭化して、周りの人間が主人公の信者のようになってしまっているのが、「彼氏彼女の事情」と「フルーツバスケット」だと思っている。この二作品は、プリンセスどころか女神にでもなろうとしているのかとさえ思える、作者の承認欲求の余りの強さに、薄気味悪さを感じた。

まだしも「同性などすべて敵。必要なし」と割り切っている、青木琴美や北川みゆきのほうが潔くていいと思っている。(話自体は好きではないが。)

 

みんなが魅力的と認める男性に選ばれることによって、世界で唯一無二のプリンセスになる。

それはそれで、とても幸せだと思う。

でも、そうではないことを目的とした生き方を示すような少女漫画も、そろそろ出てきていいと思う。

 

女性にとって自己実現とは何なんだろう? 自分は何のために生きるのだろう?

というテーマは、既に女性漫画では「イマジン」という強烈な漫画がある。少女漫画でも、多種多様なテーマの漫画が出てきて欲しいなと思っている。

好きだけど、メッセージ性が強すぎて賛否両論あるのもわかる。

イマジン 1 (クイーンズコミックスDIGITAL)

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 恋愛に依存した自己実現って、結局は相手次第になるから、ゆくゆくは辛くなるほうが多いと思う。

恋愛を楽しみながら、人生の様々な可能性を模索しながら生きて欲しいなと思う。

君に届け リマスター版 1 (マーガレットコミックスDIGITAL)

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創作物において、物語はどう作るべきか。

小説、漫画、ドラマ、映画などの媒体を問わず、創作物において物語をどう作るべきか考えてみました。

物語を発信したことはないので、一介の読み手の意見であることをご承知いただければと思います。

 

ドラマ「そして、誰もいなくなった」の何をそんな批判しているのか?

現在、日曜日の22時半から放送されている日本テレビのドラマ「そして、誰もいなくなった」の感想記事を書いているのですが、クソみそにけなしいます。

楽しんでみている方には大変申し訳ないのですが、自分はあのドラマの物語の構成の雑さに非常な憤りを感じています。

 

最新話第6話の感想はコチラ↓ 

*批判的な内容なので、閲覧は自己責任でお願いします。

saiusaru.hatenablog.com

 

今までにさんざん批判しているのですが、今一度、ドラマ「そして、誰もいなくなった」の何にそんな不満があるのかを述べながら、創作物における物語の構造とはどういう風に作るのかということを考えてみたいと思います。

 

自分が考える物語を構成する二本の柱は、

①登場人物の造形

②物語のあらすじ

この二つです。

 

両方とも物語の両輪とも言うべき大切な要素ですが、物語全体の基盤となるのは、①のほうだと思います。

 

人物は、ひとつの人格として統合されていなければならない。

 

これが人物を描く上での、絶対条件だと思います。例え傍から見て矛盾があろうとも、人格というのはその人物の中では必ず統合されているはずです。

より正確に言うと、その矛盾も全て内包したうえで統合されているのが「人格」というものです。(これが統合されていなくて、人格的に規則性のない行動をするのが統合失調症という病気です。)

名探偵エルキュール・ポアロが言うように「どんな人間も、自分の人格にない行動はできない。自分の固有の性格から逃れることはできない」と思います。

人間の行動というのは、

 

人格 → 理由 → 行動

 

という風に、人格から生まれ出た思考なり打算なり感情なりに基づいて行動します。

その人物の全ての行動は、その人物の人格から派生したものでなければならない、ということです。

だからある程度、キャラクターが動いているのを見ていれば、「このキャラクターのこの行動は、こういう考えやこういう理由やこういう感情からだな」ということが分かり、そういう数々の言行から帰納して、人格を想像します

そしてその想像した人格から演繹して、キャラクターの行動法則が分かるようになるのです。

この作業を繰り返して「このキャラクターはこういう人格を持っているんだ」と、そのキャラクターを一人の人間として理解するのです。

 

ところが「そして、誰もいなくなった」というドラマは、登場人物の誰一人として人格を類推することができません。そのキャラクターが何が目的で、何を思ってその行動をするか分からないから、行動から人格を導き出すことができないからです。

 

例えば、

新一は何故、事件の黒幕を追求しないで唯々諾々と黒幕の要求に従っているのだろう?

日下はともかく、なぜ、馬場や砂央里と抵抗なく共同生活ができるのだろう?

なぜ万紀子にだけ、ウィルス付きの電子メールを送ったのだろう?

なぜ、馬場に小山内を殴って拉致するように頼んだのだろう?(まだ、確定ではありませんが。)

なぜ、早苗が自分の子供を身ごもっているのに、連絡しないのだろう。

 

新一の第6回の行動だけで、これだけ疑問がわいてきます。

この行動の理由を全て満たす新一の人格が、少なくとも自分は想像ができません。

分かりやすいように早苗の件だけに絞って話すと、新一が早苗を裏切ったと新一が思った根拠は、はるかに見せられた写真だけです。(五木の言動は、具体的な行動に話が及んでいないので根拠にはなりません。)

そのとき、新一ははるかが自分を陥れる片棒を担っていたのではないかと疑っていました。しかも、新一はミス・イレイズの開発をするような天才プログラマーの設定のはずです。

「自分が疑っている女から見せられた一枚の写真を鵜呑みにして、長く付き合った婚約者が裏切ったと信じて、自分の子供を妊娠しているのに話し合いどころか、連絡ひとつしないということか?」

自分の中では五木ばりに最低の男か、残念なほど頭が弱くて騙されやすい男性としか思えないのですが、新一って頭のいい天才プログラマーなんですよね????

でも、早苗も自分を陥れた一味とつながっているかもしれない、そう疑って連絡しないということですか??

そんなに疑い深い性格なら、正体不明の馬場とか砂央里とあんなに楽しそうに共同生活しねえだろうが。

 

「自分の子供を身ごもっている女性を、写真ひとつを信じてほったらかし」

「一か月前に知りあった、正体不明の奴らと共同生活して疑似家族ごっこ」

「大学時代の親友を、話もせずに暴行監禁するように頼む」

「頭がよい天才プログラマー」

「その割には、田嶋や五木の正体が見抜けない」

 

これ全部を満たす藤堂新一って、どういう人物なんですか????

第1回から見ているのですが、ぜんぜん分かりません。

頭がいいのかバカなのか、優しいのか冷たいのか、信じやすいのか疑い深いのか。

まったく統一性がないので、唯一の納得がいく答えが「その場のみの反射で動く節足動物に違いない」だったのです。

 

新一のみを例に上げましたが、「そして、誰もいなくなった」は主要登場人物ほぼ全員がこんな感じです。

はるかの自殺の原因はなんですか?

新一に振られたから??

でも、そんなの十年前からそうですよね?? 何で今さら?

死ぬほど好きなら、十年前振られたときにとっくに死んでませんか??

だからここに何か他の要素が加わらないと、今になって突然、新一に執着しはじめ自殺までするのはおかしいです。

 

人格が分からない人間たちの物語なんて、行動原理が分からないのですから、「何でもアリ」です。全部、昆虫と一緒です。

昆虫の物語を見せられたって、面白くないです。

 と言いたいところですが、昆虫のほうが習性があるからまだマシだと思います。

 

「人物設定」と「物語構成」どちらかを捨てる。

人物を彫り上げれば掘り下げるほど、物語を展開するのは難しくなります。

人物を掘り下げれば、その人物の「行動原理」が細かく設定されてしまうので、「この人物がこんなことを言うのはおかしい。(こんな行動をとるのはおかしい。)」という風に、その人物を使って物語を展開させるのが難しくなるからです。

そのいい例がコチラの漫画↓

アカギ?闇に降り立った天才 33

アカギ?闇に降り立った天才 33

 

 「人物設定」と「物語構成」は、物語の両輪でありながら、コチラがたてばアチラがたたずというものです。

この二つを両方、掘り下げるのは至難で、この二つとも優れている物語を生み出すということは、一部の天才のみがなしえることだと思います。

「そして、誰もいなくなった」の惨状を見るにつけ、そう思います。

 

一部の天才が作った作品例がコチラ↓

HUNTER×HUNTER モノクロ版 33 (ジャンプコミックスDIGITAL)

HUNTER×HUNTER モノクロ版 33 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

「人物」か「物語」かどちらかを捨てるという手法をとる作家もいます。

どちらかを捨てても、もう片方が高レベルを保っていれば、創作物は十分面白くなりえます。

 

例えば、「ライ麦畑でつかまえて」で有名なサリンジャーは、「物語」を作るのがうまくないので、そもそも初めから物語を作ることを放棄しています。サリンジャーの「フラニーとゾーイ」は、そもそも物語と呼びうるようなものが存在しません。

「恋人の俗っぽさに傷ついた妹を、兄が説教する話(というか場面)」これだけです。

妹に対して兄が説教するシーンをただ見せられるだけなのですが、「フラニーとゾーイ」は素晴らしい名作だと思います。

 

また綾辻行人やアガサ・クリスティーは登場人物をステレオタイプにすることで、多くのバリエーションのミステリーを生み出してきました。

特に「本格物」と呼ばれるミステリーは、「物語最優先で登場人物を記号化する」手法と相性がいいです。

この「登場人物を記号化する」ことに、エラリー・クイーンは「人間が描けていないのではないか」と悩んで、ミステリーではなく人間性を重視する作品を発表するようになります。(後期クイーン問題)

恐らく「物語最優先派」は、常にこういう葛藤と戦いながら物語を生み出していると思います。

確かに人間が描けていなければ、「底が浅い」「しょせんエンターテイメント」という批判を受けやすいと思いますが、読み手を楽しませるエンターテイメントを描けるというだけで、十分素晴らしい才能だと思います。

 

自分は色々と文句は言いますが、物語をまったくのゼロから作り上げることがどれほど大変なことかは想像がつくつもりです。

村上春樹も言っていましたが、「どれほどたいしたことがないように見える物語でも、まったくの無からひとつの物語を作り上げることは大変なことだ」自分もそう思います。

読み手としての自分の願いは、ただ面白くて素晴らしい物語を見てみたいそれだけです。

 

今までいくつもの素晴らしい物語に出会い、時には強い影響を受けたり、時には支えてもらったりしてきました。そのときの感動を忘れることができず、素晴らしい物語を見てみたいという期待が強すぎるのかもしれません。

どれほど頭にきても、この期待を捨てることはないと思いますので、これからも素晴らしい物語が見れることを願いながら、小説やドラマ、漫画を見続けたいと思っています。

 

【漫画】最新刊があまりに面白いので、諌山創「進撃の巨人」がすごいと思う理由を全力で語ってみた。

 

先日、最新刊である20巻が発売された「進撃の巨人」ですが、たいへん面白かったです。

 

 

「進撃の巨人」との出会い

自分と「進撃の巨人」の出会いは、週刊少年マガジンに掲載されたリヴァイが主人公の読み切り漫画でした。

絵は下手くそ。演出は下手くそ。一般受けしにくそうな内容。ひと目で新人が書いたとわかる。

それでもこう思いました。

 

「これはすごい漫画だ」

 

兄ちゃんに大興奮して、「今週のマガジンに載っていた漫画、すごくね?!」と語ったら、奇妙な習性で動く虫を見るような眼で見られたこともいい思い出です。

 

最初のころは熱中していて、じょじょに冷めた

最初の数巻は、何回読んだか分からないほど繰り返して読みました。

ネットの考察サイトも読み漁って、自分でも考察したりしました。

女型巨人の正体がアニだ、と分かった時点で急激にテンションが下がり、鎧型巨人と超大型巨人がライナーとベルトルトだと判明した時点で完全に熱が冷めました。

 

結局、人間対人間なのか。

 

好みの問題だと思うのですが、巨人が未知の、人間とはまったく違う習性で理解不能な生物であって欲しかったのです。

クトゥルフ神話の神々や、作者が影響を受けたというマブラブのBETAのように、相互理解が不能な、人間の温かい情や冷静な論理などを全て無意味になぎ倒す、不気味な脅威と人間が闘う姿を期待していたのです。

これは自分の勝手な期待であり、だから「進撃の巨人」はダメだとは少しも思いません。

 

ただ個人的には、相互理解が可能な者同士が戦う漫画はもういいかなと思っていたのです。なので、そのあとは割と惰性で読んでいました。

コミュニケーション可能だと、どれだけ敵が無慈悲で残酷に見えても、結局は「現代社会の人間の価値観をベースにして」無慈悲さも残酷さも表現しますよね。

書いている作者が、現代社会の価値観で生きているのですから当たり前なのですが。

その価値観や倫理観を前提にして、アンチテーゼを主張されるのは、もういいかと思っていたのです。

例えば「人間にも残酷な面がある。だから滅ぼしてもいい」という主張。

「残酷なことはいけないことだ」という現代社会の倫理観を、敵役も踏襲しています。

そういう主張合戦みたいなのは、お腹いっぱいだったのです。

 

人間なんて老いも若きもいい人も悪い人も、才能がある人もない人もまとめてゴミみたいに簡単に殺される、

何で殺されるのかその理由もよく分からない、

自分たちの正当性を主張する暇もない、自分の存在意義なんて追求する暇もない、

そういうことが当たり前の世界で人間がどう生きていくか、という内容を勝手に期待していました。

 

だから「ああ、また“正しいこと”がある世界で、正当性の主張合戦をするわけね」と思って、完全に冷めきった心で「進撃の巨人」を読んでいました。

 

しかし!!

 

突然また、ものすごく面白くなってきた

どこからまた面白いと思うようになったのかは、はっきりしていています。

第69話「友人」からです。

ケニーとウーリの出会いから別れ、その後のケニーの心情を描いた物語です。

ここからまた目が離せなくなり、最新巻の20巻の余りに熱すぎる展開に全自分が大興奮しています。

 

自分が思う「進撃の巨人」の一番すごいところ

否定的なことを言っておいて何ですが、第69話より前の「進撃の巨人」もとても優れた漫画だと思っています。

世界観は斬新なのに破綻していていない。(世界観を破綻させないでなおかつオリジナリティを出すのは、非常に難しいと思っています。)

物語の展開は、文句なく面白い。キャラクターは魅力的。

これだけ爆発的にヒットしたことがむしろ当然と思えるような、すごい漫画だと思っています。

 

ただ、それだけならば他にも同じ特徴を持った漫画はあります。

自分が「進撃の巨人」だけが持っていると思っているすごい点は、

 

①「自分は特別な存在ではなく、存在意義など分からず死んでいく可能性が高い」という思想

②「①であっても、その集合体である人類は絶対に生き抜くべきである」という思想

 

この二つの思想が、まったく等価で矛盾なく作品の中に内包されているところだと思います。

①の思想を「自分」ではなく、「他の登場人物」に置き換えた場合は、ほぼ全ての漫画がそうではないかと思います。

「自分(=主人公や主要キャラクター)」は特別。いかなる危機にあっても恰好よく、最後には必ず勝って、周りから称賛される存在である。

これは創作物というものが、ある程度、読み手に自己投影させて承認欲求を満たす装置である面が強いことをを考えると、当然のことと思います。

*そういう構成の創作物が劣っていると言いたいわけではありません。そういう構成の創作物の中でも、好きな作品もたくさんあります。

 

「進撃の巨人」は登場人物が等しく無力である

「でも進撃の巨人も、主人公のエレンは巨人化できるし、リヴァイやミカサはアッカーマンの血を引いていて、他の奴らより強い特別な存在じゃないか」

そう思う方もいるかもしれません。

しかし人間たちの中では強く特別な存在に見えるエレンやリヴァイ、ミカサも大型巨人やサル型巨人の前では等しく無力です。

自分ひとりの力で彼らを倒せるどころか、他の人間と同じようになす術がありません。

巨人の前では、主人公であろうが主要登場人物であろうが他の人々と同じ無力な存在である、この前提が素晴らしいと思います。

 

「進撃の巨人」は感情移入ができそうなキャラクターたちが、見せ場もなくあっさりと死んでいきます。

リヴァイの部下だったオルオやぺトラ、調査兵団のナンバー2だったミケ、最新刊ではマルロが死にました。

一体、彼らは何のために死んだのだろう?と思えるような、無意味で残酷な死に方です。

こういう死の描写が積みあがってくると、ありがちな展開が「そもそも人間の生に意味などないのではないか?」「人類は滅んだ方がいいのではないのか?」という命題が作品内で出てくることです。

その考えに対して葛藤し、反対する主張を重ねることで、モチベーションを上げるという手法がよくとられます。(もしくは作品のテーマそのものにする。)

「進撃の巨人」が他の作品と一線を画する点は、この手法をとらないところです。

 

それでも生まれたからには生きなければならない

「進撃の巨人」のすごいところは、これほど人の生き死にが無意味で、残酷な世界でありながら、主要登場人物たちの「人類は生きなければならない」という意思がいささかも揺らがない点です。

 

これほど生きること死ぬことが意味のないことならば、生きていても意味がないのではないか?

存在意義を示せず、死んでいくのならば、生きることに何の意味があるのか?

 

「進撃の巨人」の登場人物たちは、こういう発想が一切ありません。

これほど人間の生き死にが無意味であり、無力で特別でも何でもない人間たちであっても、

 

この世界に生まれたからには、生きる。人類は巨人を倒して、生き残る。

自分たちは壁の外に出て、世界を見なければならない。それは、この世界に生まれたからだ。

どれほど無力でちっぽけな存在でも、人間は自由でいなければならない。

 

主人公たちのこの思想が一ミリたりとも揺らぐことがありません。

どれほど絶望的な状況でも終始一貫して、「巨人は倒すべきもの」であり「人類は生き残るべきもの」なのです。

これが驚異的なことだと思います。

 

「進撃の巨人」のさらにすごいところ

「人間は等しく、無力でゴミのような存在」

「それでも、人間は生まれたからには、絶対に生きなければならない」

 

この二つの思想の並列だけでも十分驚異的なのですが、最新刊の20巻で、さらにすごいことを言っています。

 

 自分が生まれてきた意味を、後世の生まれてくるかどうかも分からない人間に託す。

 

どういう経験をして、どういう環境におかれたら、こんな発想が出てくるのか分かりません。もはや、悟りのレベルです。

 

人間というのは、みんな、自分にとって自分が特別だから、他の人にも自分が特別であることを認めてもらうために生きている部分があります。

承認欲求、自己実現欲求と呼ばれるものです。

 

「自分が、かけがえのないただ一人のユニークな存在であることを、認めて欲しい」

 

社会の中で生きる人間ならば、誰でもそうだと思います。

しかし「進撃の巨人」の世界は、人は自分の個性を発揮する暇もなく、意味もなく死んでいきます。自己実現が非常に困難な世界です。

そんな世界に対して、エルヴィンは兵士に「怒りの声をあげろ」と言います。

最新巻の20巻で、エルヴィンが「無意味に死んだ兵士たちの生に、我々が意味を与えるのだ」というセリフを言っていますが、

 

見も知らぬ他者の人生の意味を、自分が証明する。

自分の人生の意味を、見も知らぬ他者が証明してくれると信じる。

 

この発想が、もうコロンブスの卵もびっくりの発想だと思います。

「顏も見たことのない……そもそもこの世に生まれてくるかどうかも分からない他人に、自分にとってはかけがえがない唯一の存在である、自分の生命の意味を託す」

 

自分の子供や、信頼している恋人や親友に託すのならば、理屈としては分かります。

人は、「その相手が生きることで自分の存在意義が証明される」と思うからこそ、自己犠牲がはかれるのだと思います。

 

「自分が死んでも、その人が生きている限りは自分の存在は証明され続ける」

 

ワンピースで「人が死ぬのは、肉体が滅んだときではなく、完全に忘れ去られたときだ」というようなセリフありましたが、それはこの発想からきていると思います。

「特攻の島」でも、主人公の渡辺を生かすために友人の関口が回天に乗りました。

そのときに「貴様のために死ぬよ」と言ったのは、渡辺が笑顔の関口の絵を描いたからだ、と思わせる描写ありました。

その絵を思い浮かべて、自分の肉体は滅んでも、渡辺の中で自分の存在は生き続けると信じることができたから、関口は「渡辺のために死ぬ」と言ったわけです。

「自分の肉体が死んでも、その相手の心の中に自分が存在している限り、自分が生きてきた意味が証明されるから」自己犠牲が払えるわけです。

自分ができるかと言われればできないと思いますが、理屈としては分かります。

 

しかし、「進撃の巨人」で語られている思想は、そういうことではありません。

自分があったこともない、そもそもまだ存在しているかどうかも分からない、後世の人間が、自分の存在に意味を与えると信じて死ぬ。

こう言っているわけです。

顏を知っている人間を信じることすら難しいのに、顏も見たことのない人間を自分の存在意義を託すほど信じて死んでいく。

果たして、そんなことが可能なのだろうか??

「等しく無力で特別でもない人間たちが、その信頼をつないで死んでいくことで、人間は生き続けていく」

こういう考え方が当たり前のように描かれている、この一点だけをみても「進撃の巨人」は他に類をみない漫画だと思います。

 

終わりに

いよいよ話が佳境に入り、終わりが見えてきました。

ベルトルトの「壁の中の人間たちは、悪魔の末裔」という言葉の意味や、ジークとエレンの関係も明らかになると思います。

そのとき、主要登場人物たちの心がどのように動くのか、今から楽しみです。 

 

21卷以降の感想。

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【漫画】「尊敬している人は?」という質問をされたときに答えるべき、生き方が尊敬できる漫画の男性キャラクター五選

 

その生きざまを尊敬している、二次元の男性キャラクター五選です。

 

受験や就職活動の面接などでよく聞かれる「尊敬している人は?」という質問、答えに悩みませんか。

 

そんなことを言われば、世の中の人には誰だって尊敬すべきところはあるし、誰だって「ちょっとなあ」と思うところはあります。

だから、世の中を人をほとんど尊敬していると言えばいえるし、誰も尊敬していないと言えば、誰も尊敬していない。

「尊敬している」と言い切れるほど、その人の深いところを知っている人なんて(親も含めて)誰もいないし……。

 

そんな頭でっかちなことを考えがちな自分ですが、二次元でよければ、尊敬している人がけっこういます。

 

今日は、その生きざまを掛け値なく尊敬している男性キャラを五人紹介したいと思います。

 

 

 

第5位 利根川幸雄(賭博黙示録カイジなど)

「賭博黙示録カイジ」や「中間管理職トネガワ」などでお馴染みの、帝愛グループの中間管理職利根川さんです。

高度成長期の働くお父さん像の代表だと思います。

 

カイジたちに対して厳しいことを言ったり、現実をつきつけたりします。

もちろん本当のお父さんとは違って、カイジたちのことなど微塵も思いやっているわけではありません。

利根川というのは、現実逃避型ニートのカイジにとっては乗り越えるべき壁なのだと思います。

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 (引用元:福本伸行「賭博黙示録カイジ」)

 

 

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(引用元:福本伸行「賭博黙示録カイジ」)

 

有名なこのセリフも、偽悪的だけれども、現代社会の真理をついていると思います。

ついているんだけれども、耳に痛いこの真理をわざわざ「言ってあげる」ことで、それだけが真理じゃないということを、逆説的に語っているのだと思います。

自分は、福本漫画のそういうところが、たまらなく好きです。

 

「中間管理職トネガワ」を見ると、今の日本は、こうやって上だけを見て働いた人たちが作り上げたものなんだなと思います。

「今の日本」がいいか悪いかはまったく別にしても、そのがんばりにはやはり頭が下がります。

 

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(引用元:福本伸行「賭博黙示録カイジ」)

 

社畜と呼ばれて、家族には「家族を犠牲にした」と言われても働き続けて、最後の最後が強制焼き土下座です。

利根川は高熱の上での焼き土下座を、強制されるのではなく自らの意思で行いました。

「俺に触るな」

「自分でやれば文句はないだろう」

利根川もタバコを吸いながら、鉄骨から落ちて死んでいく若者たちを、平然と見ていたのです。

勝負に負ければ、どんなひどい目に合わされても、命を失っても文句は言えない。

そういう世界で生きてきた利根川は、自分が敗者になっても、その生き方を貫きます。

 

他人にも厳しい生き方を強いるが、自分も逃げ出さず同じように厳しい生き方をしている、誇り高く仕事にすべてを捧げた男、それが利根川です。

中間管理録トネガワ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

中間管理録トネガワ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 

 利根川も兵藤会長も帝愛グループも、まとめて大好きになってしまう本。

 

 

第4位 モズグス(「ベルセルク」)

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(引用元:三浦健太郎「ベルセルク」) 

 

「神は沈黙を尊ばれます」

四位は「ベルセルク」で一番好きなキャラクター、血の経典のモズグスです。

モズグスのいいところは、とても純粋なところです。

 

モズグスが信仰する宗教は、恐らくキリスト教をモデルにしていると思うのですが、キリスト教の元になったユダヤ教が

「原罪を持つ人間は、厳しい父なる神に罰せられなければならない」

という思想があります。

なので、自罰的行為や自傷行為というのは、

「罰っせられることは、人間全体の罪を背負い償うことができる」

という発想があるんですね。

 

そういう「厳格な父なる神」であるユダヤ教の神ヤハウェに対して、

「神様はそんなに、人間を罰し続けるような厳しいだけの存在じゃないよ。愛に満ちた存在なんだよ」

という教えを広めたのが、キリストです。

 

拷問は確かに残酷なことですが、

「自罰行為は、人類の原罪を背負い清める尊い行為。拷問は、それをやらせてあげること」

という思想なんですね。

だから、無実でありながら、すべての人の罪を背負って死んだキリストは偉大なのです。

この辺りは、日本の現代社会の価値観ではかると分かりにくい部分があると思います。

 

そんな思想を忘れ去って、ただ自分たちの権力欲のためだけに汚職をしたり、人を痛めつけたり、戦争を起こしたりした神職に対して、モズグスは自分自身も一日千回頂礼をしています。

これがすごいな、と思います。

 

どんなに楽しいことでも、毎日続けるのは大変です。

例えばブログ書くのでも、ジョンギングするのでも、始めるのは簡単ですが、続けることはとても大変だと思います。

「継続は力なり」「ローマは1日にしてならず」とは、よく言ったものです。

モズグスは、頂礼を毎日千回欠かさず続けています。(何年続けているのかは、忘れましたが。)

 

自分が痛みを受けたり、罰せられたりすることが信仰であると信じているからです。

 

特定の神さまを信じたことはありませんが、別に宗教でなくても、人間というのは自分が信じるもののために生きるのが一番いいのではないかと思います。

ジョブズが言っていたとおり、

「他人のドグマに従うのは時間の無駄。己の内なる声にだけ、耳を澄ませ」です。

 

ただ、モズグスは他人に自分の信念を押し付けるところが、ちょっとなあと思います。

その信念の強さに救われた人もいましたが、強烈な信念はどちらかというと人を傷つけがちな気がします。

「信仰とは、死ぬことと見つけたり」

いいセリフですけれど、やはり自分ひとりにとどめないとね、と個人的には思います。

ベルセルク 38 (ヤングアニマルコミックス)

ベルセルク 38 (ヤングアニマルコミックス)

 

 

 

第3位 ガフ・ガフガリオン(ファイナルファンタジータクティクス)

過去記事でも書きましたが、創作上の登場人物の中で五指に入るくらい好きです。(ゲームのキャラクターでは、たぶん一番好き。)

何よりも、ガフガリオンは、利根川やモズグスとは違い、己の腕一本で生きているところが好きです。

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(引用元:http://blog.livedoor.jp/kamisamadq7/archives/5863791.html

 

「請け負った仕事は、それがどんな内容でもやりとげる。それがプロってもんだ」

 

世の中の裏表を知り尽くし、酸いも甘いもかみわけて、

「誇りなんて、そんな役に立たないものは、とっくのとうに捨てた」

と言いながら、ダイスダークが弟のラムザも邪魔なら始末してもいい、と言うと、

「実の兄とは思えン台詞だな。胸くそが悪くなるぜ」

雲の上の立場のダイスダークにすら、こんな風に毒づく。

金のために何でもやるのに、どこか誇り高い性格をしています。

世間の倫理や法則とはまったく無縁の、自分独自の価値観で生きていて、しかもその価値観に絶対的に従うというところが好きです。

 

ガフ・ガフガリオンをよく表しているのが、オヴェリアを殺そうとしたときに、自分を責めるラムザに対して言い返したこのセリフだと思います。

 

「“しかし”って言うンじゃねぇ!」

「おまえは“現実”から 目を背け、逃げているだけの子供なンだよ!
「それがイヤなら自分の足で誰にも頼らずに歩けッ! 独りで生きてみせろッ!!」
「それができないうちはオレにでかい口をきくンじゃねぇッ!」

 

恵まれた立場にいるくせに、人にあーだこーだ言うラムザが大嫌いな主は、ガフガリオンのセリフにいつもスカッとしていました。

「自分の足で立っていない奴の言葉は、聞くに値しない」

ガフガリオンが言いたかったことは、そういうことだと思います。

ファイナルファンタジータクティクス 獅子戦争

ファイナルファンタジータクティクス 獅子戦争

 

 

 

 

第2位 赤木茂(「アカギ~闇に降りたった天才~」など)

同性視点であれば、一番大好きで一番尊敬している人。

赤木の恰好よさは、今更、わたくしごときが語るまでもないと思います。

赤木に対して一番共感を覚えるポイントは、

「自分が自分であること、が一番大切」

という点です。

お金よりも名誉よりも、愛よりも、理想よりも、「自分が自分であり続けること」がこの世で一番大切な人って、なかなかいないと思います。

 

だから、勝負に勝つ負けるよりも、

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(引用元:福本伸行「天ー天和通りの快男児ー」)

 

これが、大切なんですよね。

アカギ 31 (近代麻雀コミックス)

アカギ 31 (近代麻雀コミックス)

 

 まだ、鷲巣と麻雀しているのか……。

 

 

 

第1位 マニゴルド(聖闘士星矢 冥王神話)

二次元界で最もリスペクトしている赤木を抜いて、一位がこの人。

「聖闘士星矢」シリーズの蟹座は下衆という伝統を、見事に打ち破りました。

 

「言行不一致」という言葉は、たいていは言うことは偉そうなのに、行動が伴ってないという意味で使われますが、マニゴルドに限っては逆です。

言うことは冷めていて適当ですが、行動は情にあふれた熱い人間です。

「アルデバランが死んだのは、自分のせいだ」

と、自分を責める主人公・天馬に、登場早々こんなことを言います。

 

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(引用元:手代木沙織「聖闘士星矢 冥王神話」)

 

蟹座らしく、悪役ばりのひどいセリフを吐くのですが、責任感があり、命令されたので主人公たちを保護します。

…。

…。

…。

すみません、画像を探していて、完全にマニゴルドに見入っていました。

 

ビジュアルは後輩のデスマスクに似ていますが、中身はまるで違います。

デスマスクと蟹座を馬鹿にしていたあの頃を、若干申し訳なく思うほどです。

デスマスクが使っていたときは、いかにも悪役っぽいだっせえ技だなと思っていた積尸気冥界波(せきしきめいかいは)も、マニゴルドが使うと何故か恰好よく見えます。

 

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(引用元:手代木沙織「聖闘士星矢 冥王神話」)

 

かっこいい(・∀・) 

 

一見、そういう人には見えないのですが、マニゴルドは「冥王軍」と戦うという自分の使命に対して、特に文句も言いませんし、疑問も口にしません。

冥王神話は黄金聖闘士がほぼ全滅する話なので、全員そうだと言えば(アスミタ以外)そうなのですが、他の黄金聖闘士は、真面目な性格なのでどこか悲壮感が漂います。

唯一、マニゴルドは、肩に力も入らずに変に悲愴にも真面目にもならずに、飄々としていながら、冥王軍と戦うという黄金聖闘士としての自分の使命を何ひとつ文句をいわずにきっちりとこなします。

 

「自分が選んだわけではないのに、自分のためでもないのに、なぜ死を賭して戦わなければならないのか」

そんな風に思わずに、

「自分に与えられた環境を受け入れる」

「自分に与えられた義務をしっかりとこなす」

「黄金聖闘士となって、命がけで戦う⇒結果、命を落とす」

という運命に、最後まで疑問を呈さずに、自分に与えられた運命として受け入れて戦って死んだというところが、すごく恰好いいなと思います。

聖闘士星矢THE LOST CANVAS冥王神話外伝 4 (少年チャンピオン・コミックス)

聖闘士星矢THE LOST CANVAS冥王神話外伝 4 (少年チャンピオン・コミックス)

 

 

この五人は、どんな環境の中でも己の生き方を貫く、漢の中の漢です。

(モズグスは「漢」と呼んでいいのか分かりませんが。)

自分もぜひ、このスタンスを見習って生きていきたいと思います。

 

どうでしょうか? 

「尊敬する人は?」と聞かれたときの参考になりそうでしょうか?

正直、そんな質問、するほうがどうかと思います。

帝愛グループの面接なら、そんな質問は絶対にされませんよ。

就職をお考えのさいは、ぜひ、帝愛グループにご連絡ください。

「中間管理職トネガワ」を読んだ限りでは、超絶ブラックですけれど。

 

 

 

「エヴァンゲリオン」が苦手だ。

 

 「新世紀エヴァンゲリオン」についての感想です。新劇場版は見ておらず、TV版、旧劇場版をみての感想です。

 

昔から「エヴァンゲリオン」が苦手だった。

「面白いな」と思いますし、好きな部分もある。でも、どうしてもモヤモヤする部分があり、全面的に受け入れられない。見た当初は、なぜ、あんなにも熱狂的に人気が出たのか、理解ができなかった。

 

それは何故なのかということを考えたときに、長編アニメの中では自分の中では不動の一位の座にい続けている「オネアミスの翼 ~王立宇宙軍~」と比較すると分かりやすかったので、それについて書きたいと思う。

 

*あくまで、個人的な一解釈です。

 

「エヴァンゲリオン」が苦手な一番の理由

「個人の問題が、社会や世界に強い影響力を持つ」ということに対する違和感。

言葉にすると、こういうことだと思う。

 

「エヴァンゲリオン」の不思議なところは、「社会」が出てこないところだ。一般市民が逃げ惑ったり、普通に生活をする、そういうシーンがほとんど出てこない。

「NERV」は、設定では「社会的組織」だが、物語としての内実は主人公・碇シンジの家庭の役割を果たしている。「NERV」内の人間関係は、「シンジを中心とした」疑似家族という匂いが非常に強い。

そう考えると、「エヴァンゲリオン」には実社会では誰もが経験する「ビジネスライク(社会的)な人間関係」というものが、ほとんど出てこない。

 

他のアニメや漫画でも、主人公が特別な力を持ち、世界を救う(などの影響力を及ぼす)ものはたくさんある。

他の創作物と「エヴァンゲリオン」が一線を画す点は、「エヴァンゲリオン」は、

主人公と関係がない「社会(世間と言い換えてもいい)」の存在が一切、感じられない点だ

 

「エヴァンゲリオン」の世界全てが、主人公シンジとの関連でのみ成り立っているように見える。

旧劇場版でゼーレの兵士がNERVに侵入してきたときに、すごい違和感があった。

「この世界に、シンジに関係ない人間が存在するんだ。」

という当たり前の事実に驚いたのだ。

固有名詞もなく「NERVに侵入する」という役割を与えられただけの存在を、「物語上の人間(人格)」と定義していいのかどうかはさておいて、あのシーンを見たとき、

「この世界は、シンジの周りの空間を切り取って密閉された空間ではなかったんだ」

ということを再認識した。

 

TV版のシリーズを見た限りでは、主人公シンジは、恐ろしく狭い関係(疑似家族)の中で生き、自分の存在証明という究極的に個人的な問題で使徒と戦い、そんな社会とは切断された場所で、社会とはまったく関係ない問題で悩み、戦い、傷ついている。

それが「人類の存亡」という最も巨大な社会問題と結びついている、ということに強烈な違和感を覚えるのだ。

こういう構造の物語を作っている人に対して、「自意識過剰もたいがいにしろ」と言いたくなる

 

社会に出ることを拒みながら、社会に影響力を持ちたい

この辺りの精神構造が、「エヴァンゲリオン」が爆発的にヒットした理由だと思うのだが、そう思うのが非常に残念だ。

 

「社会に出て(他人と関わって)、否定されて傷つくのは怖い。社会(他者)から一切、否定されることなく認知されたい」

 

現実で疎外感を感じている若者が抱きがちな、自意識からくる未熟な願望を物語として表現したのだと思う。

自意識自体を、否定しているわけではない。「自分を重要人物と認めて欲しい」という願望は、多かれ少なかれ誰にでもある。むしろ「自分は自分にとっては特別な存在」なのだから、そのことを他者に承認して欲しい、というのは当然の欲求だと思う。

 

ただ「社会に出ていくことが怖い」自分と「社会(人類)を救う」自分を、何の羞恥もなく両立して並び立たせてしまうこの物語を見ると、いくら何でも弱すぎるし、図々しすぎると思ってしまう。

どんなに怖くても、社会に出て、他者と関わりを持ち、その中で生きていかなければ、社会に影響力を与えたり、ましてや動かすという対価を得ることはできない。

 

「他者に関わることないが、絶大な影響は与えられる。そんなに都合のいい世界はないよ」

 

そう思う。

これについては、「使徒との戦いが、社会で他人と接することのメタファーだ」という説も見たのですが、個人的には、これは全くメタファーになりえないと思う。

「社会で他者と接して生きていく」ことと「使徒と戦う」ことは、要求されることがまったく違うからだ。

 

旧劇場版のラストで、シンジは巨大化したレイに取り込まれて、集合的意識となることを拒み、アスカと共に世界に新しく生まれた。

アスカ(=他者)を殺そうとして殺さなかっただけマシだけれど、アスカもいわば、シンジの疑似家族……どころか、シンジの仮想別人格と言っていいくらいの存在だ。

社会(他者)は、相手を殺そうとしたら「気持ち悪い」くらいでは済まない。

エンディングまできても、あまり成長しないんだなあ、と思った記憶がある。(新劇場版は、この辺りはどうなのでしょうか)

 

「オネアミスの翼~王立宇宙軍~」は成長の物語

 「エヴァンゲリオン」が「社会から隔絶された場所で生きる、非成長の物語」だとすれば、「王立宇宙軍」は「社会に出て生きることを決意した、成長の物語」だ

 

主人公のシロツグは、「落ちこぼれの金喰い虫集団」と揶揄される宇宙軍に所属し、怠惰に毎日を過ごしている。

一目ぼれした女の子に、いいところを見せたくて宇宙飛行士に立候補するが、この後に社会からの洗礼が待っている。

「貴重な税金を、そんなことで消費していいのか」と言われたり、他国の暗殺者に命を狙われたり、自分がやろうとしていることを否定したり、自分を傷つける「他人」が現れる。

 

そこで、シロツグは悩む。

路上生活者を見て、「自分のやっていることは意味のあることなのか。ロケットの開発よりも、そのお金をこの人たちの救済に回したほうがいいのではないか」

そんな風に考えたりもする。

 

迷い、傷つき、考えながら、「恋をした勢いで」というきっかけで立候補しただけの計画に、真剣に打ち込み、自分自身の意思で宇宙飛行士になり宇宙にいきたいと思うようになる。

生きる目標もなく、怠惰に日々を過ごしていた21歳の若者が、真剣にうちこめる仕事を見つけ、周りの人から賛否両論様々な対応をされ、それでも自分自身の意思でその仕事をやり遂げる物語だ。

 

「王立宇宙軍」は物語もいいが、何よりも世界観が詳細に設定されているところが素晴らしい。本記事では、「エヴァンゲリオン」との比較が目的なので、この辺りでやめておくが、ぜひたくさんの方に見て欲しい。

 

「エヴァンゲリオン」についてまとめ

このような点で、自分には全面的には受け入れがたい物語だが、「エヴァンゲリオン」が多くの人を夢中にさせるアニメであることは、まぎれもない事実だと思う。人の心をとらえるものがあったから多くの人が熱狂し、社会現象にまでなったのだろう。

旧劇場版「まごころを、君に」で、自分の存在を証明するために戦うアスカの姿には、とても感動した。

 

その作品にしかないものを持った、時代を代表する傑作であることは間違いないと思っている。

 

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