うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

新海誠監督「天気の子」を他の作品と比べて、あれこれ考えた。

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*内容のネタバレを前提にして書いています。未視聴のかたはご注意ください。

 

しつこく「天気の子」の話を続ける。

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「天気の子」を観ているあいだ、色々な作品が頭に浮かんだのでその話。

 

その1「火垂るの墓」

前回の記事でも書いたように、後半の三人で行くあてもなく逃げるシーンでは「火垂るの墓」が頭に浮かんだ。

ホテルで帆高が「もう十分だから、ここで時を止めてくれ」みたいなセリフを言ったときは、「『火垂るの墓』を見せられるのか」と焦った。

「火垂るの墓」はすごい話だとは思うけれど、「火垂るの墓」を観るつもりで観てもキツイ話なので勘弁してほしい……と思ったら違った。(よかった)

 

「火垂るの墓」を観た各国の人の意見を読んで、これまでぼんやりと「反戦がテーマなのかな」と思っていたが、「人が手離してはならないイノセンスが、傷つき失われることを批判した話なのでは」と 気づいたという話を書いたことがある。

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宮崎駿が「火垂るの墓」の「清太無能説」に対して「兄の甲斐性なしを指摘する者がいるが、彼の意志は強固だ。その意志は生命を守るためではなく、妹の無垢なるものを守るために働いたのだ」こう指摘しているらしい。

「天気の子」は「火垂るの墓」の別ルート、無垢(イノセンス)を守り切ったルートと観ることもできる。

「社会を維持するために人柱として捧げられる陽菜」を「人の心の中にあるイノセンスの象徴」として観ると、「東京が水没しても、人の救いになる、手放してはいけないものがある。それが無力であっても、人々のために祈り続けるイノセンス」というエンドは、なかなかいいエンドだなと思う。

そういう角度で観ると、「イノセンスの大切さを知っており、それを守ろうとした清太は無能ではない」のと同じように、「イノセンスを守ろうとした帆高は自分勝手なのではなく、人には絶対にそれが必要だと気づいていた」という話になる。

この点は余りしっくりこない。帆高は自分勝手な奴だと思う。新海作品の主人公は、ほとんどが自分勝手だ(というより驚くほど視野が狭い)がそこがいい。

 

その2「ワンダと巨像」

描かれていることが似ていると思ったのが「ワンダと巨像」。

個人的には帆高と陽菜の関係において、帆高が陽菜を求める気持ちが余りに強すぎてほとんど一方的になっているところが似ていると思った。人によって感じ方がだいぶ違う部分だと思うけれど。

自分の目にはそう見えたのでその考えをベースにして話すと、陽菜は「ワンダと巨像」のモノのように表層的には少女の姿をしているけれど、人がすべてを捨ててまで求める人それぞれの「何か」を象徴しているように見えた。

 

「『天気の子』は、自分をとりまく社会性を付与した『ワンダと巨像』」という見方もできる。

「ワンダと巨像」に「天気の子」のように社会が存在したら、「ドルミンを目覚めさせるのをやめろ」という圧力がかなりあったと思う。

そういう「他者からの圧力もないが、恩恵もない世界」で、賭けているものと見返りの差がすさまじいことを(自分は穢れ続けるのに、恐らくモノに会うことはできないとわかっている)ただ「自分はどうするのか、自分がどこまで続けるのか」を問われ続けるところが、「ワンダと巨像」のすごいところだと思っている。

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反応がない……というよりほんの少しの負のフィードバックしかない世界で鴻上さんがいう「夢を見続ける力」が問われ続ける。普通はやめる。

「天気の子」と「ワンダと巨像」を比べると、周囲からの圧力がある世界と反応がほぼ皆無の世界、どちらのほうが人は物事を追い求め続けられるのだろう、というのが個人的には面白い命題だなと思った。

どんな反応でもないよりはマシ、という言説をそこかしこで聞くので、やっぱり「ワンダと巨像」のほうがキツイかもしれない。

 

その3「雲のむこう、約束の場所」

総合的に一番似ていると思ったのが、新海誠の過去の作品である「雲のむこう、約束の場所」。

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「雲のむこう、約束の場所」は面白かったけれど、拙いというかあらゆる面でぎこちなさみたいなものが目立った。その粗削りなところが魅力でもあるけれど。

「天気の子」は「すべてにおいて洗練された『雲のむこう、約束の場所』」という風にも見えた。

この二作品を比べると、色々な面での「巧みさ」の向上ぶりがすごい。「雲のむこう、約束の場所」は2004年公開の作品なので、15年たつとこんなにも洗練されるものなのか。

 

この二作品はコアの部分が似ている、というよりは同じに見える。

「自分にとって大切なもの」を象徴する少女と世界を天秤にかけるというのもそうだし、個人の中の「社会性」と「個」が分離して葛藤する、というのもそうだ。

この二作品を比べると、「雲のむこう、約束の場所」は「個である浩紀」は佐由理がいなくなったあと、社会とつながりを断ちほとんど何もしていない。それを「社会性である拓也」に、「今さらのこのこやってきて、何かと思えば夢の話か」と怒られ殴られる。

それが後発の「天気の子」だと、「個である帆高」の主張のほうが優勢で、最後には「社会性である圭介」も個人の主張を取る。

また分離の仕方も「同じ夢を見て、同じ女の子を好きになった同い年の二人」から、「既存の社会を捨てた少年と、社会でそれなりに生きた大人」になっている。

こういう変化が面白い。

いい加減大人になって、社会の法則に従って生きろよ。

そういう人たちの言葉をはねのけて、「みんなの言うことが尤もで、それが正しいのでは」と思う自分に銃口を突き付けて、「天気の子」の世界にたどり着いたのだ。

 

「雲のむこう、約束の場所」の時点では、「みんなの言うことが尤もで、それが正しいのでは」という迷いが強かったのかな、とつい穿って見てしまう。

だから「拓也が浩紀に切れ、夢の象徴であるヴェラシーラを破壊しようとする展開」だったが、「天気の子」の時点では結果を出しているので、「社会とうまくやろうとする圭介に、帆高が銃口を突きつける展開」になったのかなと。

「個である」浩紀と帆高を比べても、自分の思考や行動に対する自信(というより確信)がまったく違う。その時点での精神状態がリアルタイムに反映されているとすると、「その時の状態」でしか作れないものがあると思うのでそれぞれ貴重だなと思う。

 

また「雲のむこう、約束の場所」では世界と天秤にかけたが、世界のほうがそのまま残り(というよりは現代世界になり)佐由理を失ってしまったけれど、「天気の子」は世界が水没したままで陽菜とは再会することができる、というのもだいぶ自信のほどがうかがえる。

個人的には祈られるよりは、その自信に満ちた世界観で殴られたほうがすっきりした。

仮にその推測が合っているとすると、「陽菜を失った帆高が、全世界を水に沈める『天気の子』」を見るためには、監督にもう一度そういう精神状態になってもらうしかないのかな」と考えるのは……ちょっと黒いか。

 

その4 「八月の光」

元々、「天気の子」に限らず、新海誠の作品は、

「結界の内に自分しかおらず気持ち悪いと思われても、結界の外の人間は気持ち悪い奴らとして切断する、というより存在しないものとして扱う」という極端な「対世界感覚」

「言の葉の庭」を見て、新海誠監督作品の何が気持ち悪く感じるのかやっとわかった。

 

が特徴だと思っているのだが、こういうときに自分と対立する社会として、いきなり「国」や「世界全体」が出てくることが、(新海作品に限らず)アニメなどを見ていると多い。もしくは学校や家族、親族などいきなり範囲が狭まる。

「八月の光」のように「自分の中にもその一部が存在することを日常的に実感する地域社会、風習、慣習」みたいなものを持ってくると、生々しすぎるからだろうか。「自分が何者なのか」をどこかに所属することで証明するしかない(明示せざるえない)アメリカと日本の、帰属意識をまずどこに求めやすいかの違いもあるのかもしれない、とちょっと思った。

 

自分は途中まで、「天気の子」は「八月の光」のような結論になると思っていた。

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「八月の光」は厨二にとっては鬼門のような話なので、それを新海誠がどう見せるかということに勝手に期待してしまったのだと思う。だから初見の感想が「もっと突き詰めろよ」という方向性にいったのだろう。

よく考えれば同じことをやっても仕方がないので、個人的な好みはともかくすべての整合性がとれ、社会にも「祈り」という個人からの恩恵があるほうが「天気の子」らしくて良いのかもしれない。

 

何はともあれ次回作も楽しみだ。(気が早い)

天気の子?愛にできることはまだあるかい?インスト集

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