うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【読書感想】「チャイルド・オブ・ゴッド」 「ジョーカー」や「アンチマン」よりもラディカルな「社会から孤立し疎外される男の物語」

 

主人公のレスターの動向を終始追っている話なので、マッカーシーの小説にしては読みやすい。

 

マッカーシーの小説の特徴は

①叙景と叙事で成り立っていて叙情がほぼない

②引用符を使わず、読点がほぼない

③必要なことだけが端的に書かれているので、時系列が追いにくい

無味乾燥で取り付く島がないという印象なので、読みにくい、合わないという人もいると思う。

「ザ・ロード」はマッカーシーの小説の中では主人公親子のキャラが立っていてストーリーが追いやすい、情緒的な部分があり「優しい世界」なので読みやすいけれど、自分の中では「マッカーシーらしさ」が薄味な気がする。

「チャイルド・オブ・ゴッド」は中編でサクッと読めるので、「何から読んだらいいかわからない」という人は踏み絵的に読んでみるといいのではと思う。

 

自分の中でマッカーシーの小説を読むのは「フロムのゲームを周回する感覚」に似ている。

「内容を読みたい、ゲームをプレイしたい」というよりも、「この世界にいたい」という気持ちになる。

面白い創作は他にもあるし、面白いゲームは他にもある。

だが「読んで(プレイして)面白い」という感覚とは違い、ずっとこの世界を歩いていたい、もっと言うなら「この世界に帰って来た」みたいな感覚になるのだ。

なので「この世界に生まれた人はそこで生まれたことを思い出して」*1どっぷりハマるんじゃないかなと思う。

 

「チャイルド・オブ・ゴッド」は、「ジョーカー」や最近話題になった漫画「アンチマン」の系譜に連なる、「社会から無視され疎外された男の物語」だが、内容は「ジョーカー」や「アンチマン」よりもずっと冷徹だ。

主人公のレスター・バラードは、幼い頃母親が失踪し、十歳の時に父親を自殺で亡くす。

首を吊った父親の遺体を下ろしてもらうように、大人に頼みにいかなければならなかったという事実から、元々バラード親子は社会とのつながりが希薄だったのだろうと推測できる。(バラードの内面や背景の説明はほぼなく、淡々と語られる状況からそれを推測する作りになっている)

物語の開始時点でバラードは二十七歳だが、定職につかず(恐らくついたこともなく)、住んでいた家は不注意から火事で失ってしまう。

極寒の中に放り出され、山奥の洞窟に住みつき、強盗をし、殺した人間の遺体を家に飾り一緒に住む。

バラードは街の人間とまったくつながりがないわけではなく、顔見知りが幾人かいる。だからなぜそんな残虐な行為をするようになったのか疑問がわく。

だがよくよく状況をつなぎ合わせていくと、いかにバラードが社会から孤立し、そのために社会という枠組みを理解することが難しかったかがわかる。

 

相手は自分が悪いことをしていると考えて咎めている。相手が「こいつは悪いことをした」と考えていると、自分は捕まる。

この理屈は経験からわかる。

だがその背後の、相手が自分のしたことの何が悪いと思っているのか、悪いことをしたと判断されたらなぜ、どんな法則に則って捕まるのか。それはわからない。

バラードは社会のルールを僅かなつながりから経験則として学ぶしかなかった。

それでいながら言葉が通じ、一見普通に生活できているように見えるためにほっとかれていた。

 

理解できず、理解する機会も与えられなかったルールで構成された社会でバラードは一人で何とか生きようとする。だが、その生きる場所は次々と奪われていく。

心の中には人とつながれない寂しさだけが降り積もっていく。

「チャイルド・オブ・ゴッド」は、社会の輪の中に入れず、孤独に生きているバラードにまったく寄り添わず、ただ事実だけを鋼鉄の眼差しで描写している。

そのためにかえってバラードの心情が際立つときがある。

祭りの夜に花火を見上げるシーンと洞窟が浸水する中でぬいぐるみは持っていくシーンは、バラードの寂しさが伝わってくるようで読んでいて泣きそうになった。

花火を見上げるシーンも前後の描写を合わせると、ぬいぐるみで女の子を釣ろうとしているようにしか読めない。

だがそれは性欲であると共に、バラードの孤独と寂しさも含まれている。

noteの記事で書いたが、それが性欲であるか孤独からくる寂しさであるかは本人にとっては判然としないもので、それを分類することは社会(他人)にとってしか意味がない。

女性向けの恋愛モノと男向けの恋愛モノは文脈がまったく違う。むしろ男向けのバトル漫画と女性向けの恋愛モノのほうが内実は近い。|うさる

 

ぬいぐるみを並べるように、人を殺してその遺体を並べることは社会にとっては許されない行為だ。

それを禁忌としている「社会の枠組み」を、人は成長する過程で学ぶ。そうして社会を守ることで、社会から守られて生きていく。

だがバラードは、そもそもその社会から生まれた時から疎外されていた。

ぬいぐるみと遺体の何が違うのかを誰からも教えられなかった。(“父親が首を吊ったことを「雨が降り出したよ」と知らせるくらいの感覚で知らせた”(P25)ので、死生観を学んでいないという推測もできる)

 

バラードの元々の性格は、それほどひどかったわけではない。*2

普通に優しさもあり、その優しさを年老いた娼婦に発揮したがそれもはねつけられ八つ当たり的に陥れられた。

自分が理不尽な目に遭ったということを説明し訴える力がなく、周りからは理解されずに放置されて終わる。

社会はバラードを受け入れようとせず、率先して輪の外へと疎外したためにバラードは社会の論理を逸脱し、自分の内部の理にのみ従った、ということが分かる。

 

社会から疎外され社会性を失った人間は、追い詰められれば獣になってしまう。

社会を守るためにこういう人たちをどうすればいいか、どう社会の中に包摂するかということは現実でも考えられ、創作のテーマとしても数多く語られている。

 

「チャイルド・オブ・ゴッド」は社会からの逸脱のしかたのすさまじさと、情緒を排して淡々と事実のみを追う冷徹な眼差しで、バラードへの安易な同情を拒否している。

通りすがりのカップルを殺害し、女性の遺体を犯し、その頭皮をはいだ鬘や衣服をまとって生活するという行為は、社会で生きている人間からすれば、いかなる背景や事情も以てしても許せず、嫌悪しかわかない。

しかしこの「嫌悪というブレーキ」は、自分の中に生来備わっているものではなく、社会という枠組みの中で幸運にも与えられたものなのかもしれない。

マッカーシーはそう考えたのではないか。

巻末の訳者・黒原敏行の解説によると、マッカーシーはバラードの生きざまをマッカーシー自身も含めたすべての人間の本質に通じていると考えたために、「あなたによく似た神の子だ」というタイトルをつけたのでは、と語っている。

 

「社会」という人の輪から外れ、その恩恵を受けられていないと感じた時、いかなる倫理も食い破る自分の中の獣とどう戦うか。

それはまずは自分自身の問題として考えなければなあと思うのだ。

 

*結末はだいぶやや残念だったけれど、「君が獣になる前に」はこのテーマを扱った作品として面白かった。

www.saiusaruzzz.com

note.com

 

*1:厨二病的言い方。

*2:小学生のころの暴力的な描写は出てくるが、これが強調されていること自体はミスリードではないかと思う。

佐藤究のマッカーシーの作品の解説にいいねを百連打したい&「ブラッド・メリディアン」の感想続き。

 

www.hayakawabooks.com

「それな!」という感想しかなく(失礼)いいねを百個くらい押したい。

 特に文章に言及した箇所には共感しかない。

 

どのページを開いてもおわかりのように、コーマック・マッカーシーは会話にカギ括弧を使わず、地の文に読点をほとんど打たない。

だからといって、書き手の感情にまかせた饒舌に陥ることはなく、行為と事物が淡々と描かれる。

神なき時代の叙事詩的文体とも呼べる。

言うまでもないが、たんに文章からカギ括弧や読点を排除するだけでは、マッカーシーのような文体にはならない。

それは事実への冷徹な観察眼から生まれたもの(後略)

(引用元「コーマック・マッカーシーが教えてくれた『書くことの本質』」 佐藤究/太字は引用者)

専門家ではない自分の適当な印象を話すと、アメリカの現代文学はハードボイルドの影響が強いのか「叙情を徹底的に排除する」文体の人(特に男の作家)が多い。

ヘミングウェイ、フォークナー、ハードボイルド御三家、トマス・ピンチョン辺りは、読んでいてそう感じる。

暴力や人の残酷さに関する話は感情を表に出したら読んでいるのがキツイ内容が多いので、「語り」にマッチした文体なのだと思う。

 

「ブラッド・メリディアン」は、残酷な内容であることを差し引いても、一読すると作内で意味が書かれていない描写が多い。何の意味付けもされていない描写の連続で話が出来上がっているため、「起こったことを加工もせず登場人物が何の判断もせず、ただ並べることに何の意味があるのか」という疑問がわく。

例えば主人公たち一行が立ち寄った鉱山の町の廃砦に、アパッチ族に襲われた旅人三人が立てこもっている。

主人公たちは、この旅人たちと砦で一夜を過ごす。

しばらくして主人公たちは、砦の中に旅人たちの他に子供が一人いることに気付く。

この子供は何も話さず、隅のほうで隠れるようにジッとしていて、ただ主人公たちを見ている。

夜中に凄い雷雨になる。

朝になって雨が上がると、子供は首の骨が折れて死んでいる。

主人公たちはそのまま旅人三人に別れを告げて、砦を去る。

子供がなぜ死んだのか、そもそもこの子が誰なのか、旅人三人と何の関係があったのか。作内で一切説明がない。

このエピソード自体が、他の話の流れと「実際にあった出来事」以外の結びつきも意味もなく、ただ「それがあった」という事実だけを残して終わる。

 

「ブラッド・メリディアン」がどういう話かを唯一語っているように見えるのは、判事が唐突に話し始める馬具職人の話だ。(P214)

言葉にしてしまうと陳腐なのだけれど、「悪」というのは個人という一個の生命に収まりきれるものではなく、もっと遠く長く深いところから連綿と続いているもので、人間はその部品に過ぎないのではないか。

そう思わせる。

「ブラッド・メリディアン」の判事が恐ろしいのは、「個人の範疇、個人の形で表現できる悪」ではなく、人が「個を失って」その一部に容易くなってしまうもの、「個」という概念は幻想にすぎず、人間は元々その大きくて黒いものの一部にすぎないのではないかと思わせるものを体現しているからだ。

マッカーシーが「感情」という個人的なものを排した文体を用いているのは、これを表現したいからではないか、というのが自分の考えだ。

 

「『自分』が消失して何か大きくて黒いものの一部になってしまう」

という感覚なり視点は、「ネットの世論や炎上」のように、何か大きなものの一部になること、それでいながら「個人」という概念が信奉されるゆえにそのことに気付きにくい時代では、凄く重要だと思う。

「個人」という枠組みは、本人が意識的に維持しなければたやすく崩れるものだというのが自分の昔から変わらない考えだ。

 

そういう内容的な部分とは別に、単純に「ギミック好き」の人はマッカーシーの作品は読んでいて楽しいだろうなと思う。

さらにマスターの隣にいた奥さんによれば、いかにも私が好きそうな武器が出てくるという話だった。(略)

そんな会話を真夜中にしていたときには、いずれ私自身がシガーの道具に匹敵するアイテムを考案しようと苦心するはめになる──などとは考えてもみなかった。

(引用元「コーマック・マッカーシーが教えてくれた『書くことの本質』」 佐藤究)

*凄く楽しそうで羨ましい。

銃やナイフの道具の描写もそうだし、「ブラッド・メリディアン」で出てきた判事が硝石と硫黄と尿を混ぜて弾丸を作る描写など、作業的な描写が無駄に細かい。

そんなに長々と説明するか?という気持ちになる。好きな人には堪らない描写なのかもしれないが。

訳者の黒原敏行が作内に出てくる飛びナイフについて質問したら、凄く細かい図が返ってきたという話をしているので、本人がこういう道具や作業が好きだったのだと思う。

 

自分が、佐藤究の文章で一番共感していいなと思ったのはこの箇所だ。

マッカーシーは饒舌を拒否する。

この世は謎めいた沈黙に支えられている──そんな信念こそが、彼の磨き上げられた文体に宿る眼差しではないだろうか。

読めば読むほど、私たちは世界の沈黙の深さを思い知らされる。

(引用元「コーマック・マッカーシーが教えてくれた『書くことの本質』」 佐藤究/太字は引用者)

自分もマッカーシーの真髄はここにあると思う。

「ブラッド・メリディアン」も話の基盤に、

「世界は人間に何ひとつ語りかけてなどいない。意味を提供することもない」

という冷徹な哲学が貫かれている。

そこがとても好きなのだ。

 

コーマック・マッカーシーが亡くなったので、「ブラッド・メリディアン」をもう一回読む。やっぱすげえ。(小波感)

 

www.hayakawabooks.com

朝イチでコーマック・マッカーシーの訃報を目にした。

もう89歳だったんだな。

 

一時期Twitterで流行っていた「名刺代わりの小説10選」を作るとしたら、必ず入るのがマッカーシーの「ブラッド・メリディアン」だ。

こんな小説を自分も書けたらなあ……なんて思っている話なのだ。(声が小さい)

凄惨な暴力だけが何の感慨もなく延々と続く無味乾燥な世界、「悪」という概念を超越した異常さと不気味さを持つ異形の判事。

歴史は、個という概念を抜き取られた人間を部品にして生成され、その建造物として世界は続いていくのだ、という冷徹な世界観。

私の記録簿に載ろうと載るまいとすべての人間はほかの人間のなかに宿るし宿られた人間もほかの人間のなかに宿るという具合に存在と証言の無限の複雑な連鎖ができてそれが世界の果てまで続くんだ。

(引用元:「ブラッド・メリディアン」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P212)

判事のこのセリフは、いつ読んでもちびりそうなくらい怖い。

 

そうか、死んじゃったのかと思い、久しぶりに「ブラッド・メリディアン」を読み始めた。

小説の書き方の作法として、視点は固定させろとかズームは広域から狭い範囲に絞るなど一定の方向にしろとか色々言われている。(確か)

マッカーシーは視点の移動のさせかたが凄く上手い。

カメラワークが自由自在なのだ。

今ようやく少年はそれまでの自分のすべてを脱ぎ棄てる。

彼の来し方も最終的な運命も遠いものになりこの世界全体がいつまでも回りつづけようと二度とお目にかからないような荒々しい野蛮な領域が現れて被造物の意志のとおりに形作られるものなのかそれとも人間の心もただの土くれにすぎないのかが試されることになる。

船客はみな内気だ。眼を合わせずほかの客に旅の目的を尋ねたりもしない。

少年は巡礼のように他の客に混じって甲板で眠る。模糊とした暗い岸が上下に動くのを眺める。大きく口をあける灰色の海の鳥。海岸に沿って灰色のうねる海面のうえに飛ぶペリカンの群れ。

(引用元:「ブラッド・メリディアン」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P11-12/彩色は引用者)

「俯瞰→客観少年の主観」と移り変わっているのに不自然さや引っかかりがまったくない。

文章のカメラワークに自然とついていける。

読点と引用符なしの書き方も本来ならただただ読みにくいだけなはずなのに、不思議と歌を歌うか詩でも読むように読めてしまう。

内容は陰惨で残酷な歴史なのに、文章の作りから寓話か神話のような印象を読み手に与える。

 

物語の枠組みを変幻自在に変形させて、どの場所にも表れる神出鬼没な視点に読み手を自然に同化させて、流れるように物語を紡ぐ。

こんな文章が書けたらなあと思う。

思うが、おっかなくて試すことすら出来ない。

「憧れても真似するな、危険」な奴だ。

 

マッカーシーの文章の凄さが翻訳でも十分に伝わってくるのは、黒原敏行の訳の力が大きいと感じる。

最初に読んだときは面白さがまったくわからなかった「八月の光」を黒原訳で読んだら、面白く読めた。それ以来、黒原敏行の訳なら複雑で理解しづらい小説も、わかりやすく読めるという信頼感がある。

「翻訳ブックカフェⅡ」で話していた、「マッカーシーに作品の内容について質問すると、『読めばわかるだろ』みたいな返事しか返ってこない」というエピソードが無茶苦茶好きだった。

作品を読んだだけの勝手なイメージだったが、自分の中でもマッカーシーは

「必要なことはすべて書いてある。それ以上、作品について語ることは何もない」

こういう人だったから嬉しかったのだ。

 

亡くなったのは残念だし、本人はまだまだ書きたいものがあったのかもしれない。

ただ一読者である自分は「読むべきものはもう残してくれたから、後は繰り返し読むだけだ」という気持ちだ。

未訳のものも何作かあるけれど、このあと邦訳されるかな。

 

「語ることができないこと」に意味がある。「隠蔽するための物語」について。

 

*「隠蔽するための物語」と思われる話についてのネタバレが含まれます。

www.saiusaruzzz.com

「一方通行の家」が自分にとって面白かった理由である「隠蔽するための物語」(造語)について話したい。

 

「隠蔽するための物語」とは何かは、以前↓のnoteに書いたことと重なる。

創作において「『作品が語ることができないこと』に注目する」という考え方。|うさる

ある作品において重要なのは、それが言っていないことがらである。これはしばしば不用意にそう表示されているような『それが言うことを拒絶していることがら』とは同じものではない。(略)

これよりもむしろ、作品が言うことをできなかったことがらのほうが重要である」

(「サバルタンは語ることができるか」G・C・スピヴァク/上村忠男訳 p47-48/太字は引用者)

「隠蔽するための物語」は「本来の構図を隠すために存在する物語」である。

表現は普通は「他の人に何かを伝えるために」行われる。

しかし「隠蔽するための物語」は何かを隠すため→「伝えないために」表現をする。

「語れないという事実を以て何かを語る」

 

「隠蔽するための物語」はその性質上、読んでいる人間には何ひとつ伝わらない、何が何だかわからずに終わってしまうことが多い。

「一体、何の意味があってこの話はあるのだろう?」と思われて終わってしまうにも関わらず、なぜわざわざ「隠蔽するための物語」があるのか。

「隠蔽するための物語」が、その効果を狙っているのは(真の物語を隠したい対象は)読み手ではないからだ。

「信頼のできない語り手」との大きな違いはここにある。

「信頼のできない語り手」は、作者から読者への効果を狙った手法である。

だから読者は大抵の場合、その「語り」が嘘であることに気付き(気付かされて)その上で物語を楽しむ。

「語りが十分ではないこと」自体は、読者に伝わるような仕掛けになっている。

対して「隠蔽するための物語」は、読者に「何が嘘か」が最後まで明かされないまま終わることが多い。

 

・幼馴染の家で一人で留守番をしていたら空き巣に入られた。空き巣は無事に警官に捕まったが、二人は家から出た途端に消えてしまった。

何年か後に、幼馴染の日記を読む機会があり、何年も前に急に消えてしまった母親の記述があったが、その箇所だけ文字がかすれて読めなかった。だから日記は幼馴染に返して忘れることにした。

「一方通行の家」において、上記の「語ることができる物語」を必要としていたのは誰か。

玉守である。

玉守は人に聞いてもらうためではなく、自分の心を守るために上記の話を「本当の話」として自分自身に語る必要があった。

 

創作として見れば、こんな造りの物語を作るのはどう考えても割に合わない。

赤の他人である読み手にとっては「微妙に辻褄が合わない話」「意味がよくわからない話」でしかないからだ。

もっと悪いことに「隠蔽するための物語が余りにうまく語れてしまった場合、そのそこにある隠蔽されたものが本当の意味で闇に葬られてしまう場合がある。

「隠蔽するための物語」は、隠蔽したいから語られるのではない。

「語れることを語ることで、語れないことを浮かび上がらせること」が本来の目的だと思っている。

 

自分は「隠蔽するための物語」が大好き*1なので、今後も収集を続けていこうと思う。

ある程度たまったら、一覧にして公開したい。

たぶん自分以外にも愛好家がいると思うので。

*1:最後まで「嘘であること」が明かされずに終わるなら、なぜ「隠蔽されている」とわかるかは、記事内で紹介したnoteに書いたり、「鬼滅の刃」の記事などで書いているので興味のある人は読んでもらえると嬉しい。

「帝銀事件と松本清張 74年目の真実」の感想 「事実」は多勢の認識によって作られているものに過ぎないのかもしれない。

 

年末に見逃した「帝銀事件と松本清張」が、たまたまテレビをつけたら放映していたので視聴。見たのは第二部のドキュメンタリー部分。

www.nhk.or.jp

 

結局「帝銀事件」の真相は未だに分かっていない。

 

731部隊の人間が、秘密兵器の実験を行っていた登戸研究所から青酸ニトリールを持ち出し、帝銀事件を引き起こした。

米ソの対立が激化していた当時の状況下では、GHQは731部隊の実験データが何としても欲しかった。生き残りの部隊員全ての戦争犯罪を不問に付す代わりに、データを渡すように取引を行っていた。

そのさなかに、部隊の生き残りが日本中を騒がせた凶悪事件を起こしたとなると取引が表沙汰になる可能性がある。それは困る。

731部隊と事件の関係を表沙汰にしないために、GHQが警視庁、報道機関、関係者に圧力をかけた。

しかしこれほどの大事件を迷宮入りさせるわけにはいかないから、平沢を犯人に仕立て上げた。

 

松本清張が「突きとめた事実」も、現代の視点で読むと陰謀論めいて見えてしまう。

ただ、この時代の背景を考えるとありえない話ではない。

犯人の人物像として、顔をさらした状態で、十何人もの人間に指示して毒物を飲ませる、被害者たちがもがき苦しんでいるさなか、金品を奪って逃走する。

倫理の問題を除いても、殺人という「労力」に対するハードルがかなり低い。

「人が苦しんで死ぬ状況」に慣れており、倫理も罪悪感もとっくに振り切れているような非人間性がある。

金銭欲などが極まって殺人というハードルを越えてしまったというより、最初からハードルを越えている人間が合理性を追求した結果の犯行に見える。

まったくの外部から見ても、平沢という一般人がこんな事件を起こすか……というよりも、起こせるのかという印象が強い。

 

また平沢が犯人だとしたら、毒物をどこから入手したのかなど不明な点は多い。

警察も当初は「731部隊に所属していた憲兵A犯人説」を最も有力視していた。731部隊の部隊長だった石井の家を何度も訪問したり、「憲兵A」に縁がある九州に捜査の手を伸ばそうとしていた。

ところがその線は唐突に消え、「平沢犯人説」一本に絞られていく。

それと共に、検事は平沢が自白するように誘導尋問を行い、報道機関は「平沢は過去に詐欺を働いている」などと印象操作を行う。最初は同情的だった世論も、警察や報道機関の動きを受けて平沢を「冷酷な殺人犯」という目で見るようになり、いつの間にか「平沢が真犯人」という空気が作り上げられていく。

 

「平沢犯人説」で周囲の見解が一致した瞬間に、その見解に沿って各々が操り人形のように動いていく。

「平沢は最初は犯行に使われた毒物が何かも知らなかった」

「犯行の状況を見れば、青酸カリよりも遅効性の毒物が使われた可能性が高い。その場合、一般人である平沢が手に入れられる可能性は低い」

「入手経路がいつまでたっても特定できない」

「生存者は、どうも犯人は平沢ではないような気がする、と証言している」

こういった「各々の見解が一致したストーリー」に反する事柄は、大したことではないと顧みられることなく捨てられ、ある日どこからともなく現れた「事実」が事実として広まっていく。

表向きは「始めから平沢が犯人かどうかの争点しかなかった」ということになってしまう。

平沢個人の人権や人生はもちろん、真相に誰も興味を持っていない。

「皆にとって都合がよく、それで事が丸く収まるもの」が事実になる。

 

「事実」というのは、確固として存在するものではなく、大勢の人が「それが事実だ」と認識することによって出来上がっているのではないか。

そして自分にとっての「事実」が他の人に認められなければ、どれだけ物的な証拠があろうと辻褄が合っていなかろうと、あたかもそんなものはなかったものかのようにされてしまうのではないか。

自分が見ていて一番怖いと思ったのは、ここだ。

「事実」は、そこに存在するものではなく、一人一人の人間が何とはなしに見ない振りをしたり、興味を持たなければ簡単になくなってしまうものなのだ。

 

ゲストのみうらじゅんが「平沢が画家ということもあり、こういう時は世間で何をやっているかよくわからなかったり、後ろ盾がないフリーランスの人間が犠牲になるということが身に染みた」というようなコメントをしていたが、自分も同じように、ある日突然「事実の陥穽」に落とされる怖さを感じた。

そういうことは誰の身にも起こりうるからこそ、事件から何年、何十年経っても「本当はどうだったのか」「何が起こっていたのか」を知ろうとする試みは大事だなと思った。

小説も買った。

 

【小説感想】村上春樹「沈黙」。ネットでは「顔というものを持たない人々」にならないようにしないといけない。

 

突然、村上春樹の「沈黙」が読みたくなったので再読。

短編集「レキシントンの幽霊」に収録されている短編。

 

村上春樹の作品にしては珍しく、起こる事象が現実的で具体的、抽象度が低いので読みやすい。「好きな作品」としてちらほら名前を見かける。

テーマはいじめだけれど、「生きる姿勢」を率直に語っている。

「ドライブ・マイ・カー」もそうだったが、この鋼鉄の精神はどこから来るのだろう。

長編の主人公たちが状況に流されがちなのとは対照的だ。

 

未読の人のために筋を簡単に説明すると、主人公の大沢は同級生の青木という男に事実無根の噂を流されてカッとして殴ってしまう。

青木はそのことを逆恨みして、クラス全員が大沢を無視するように仕向ける。

 

この話の最後に、大沢は学生時代のいじめの思い出から学んだことを語る。

でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。

自分では何も生みださず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。

彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりしないんです。

自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんて思い当たりもしないような連中です。

彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。

本当に怖いのはそういう連中です。そして僕が真夜中に夢を見るのはそういう連中の姿なんです。(略)

夢の中に出てくる人々は顔というものを持たないんです。

(引用元:「沈黙」村上春樹 P84 ㈱文藝春秋社/太字は引用者)

 

久し振りに読んで、今までさほど引っかからなかったこの箇所にドキッとした。

ネットにいると、自分が「顔というものを持たない人々」になっているかもしれない危うさを感じる。

何も考えずに「何となく正しく聞こえるから」「自分にとっていいこと風に聞こえるから」と言う理由で、賛同するのは余り好きではない。

好きではないけれど、「顔というものを持たない人々」になって「何かそれっぽいことを自分の考えでもないのに、多勢に乗っかって言うこと」は気楽だし、変な充実感もあるのでつい流されそうな時がある。

この話に出てくる「自分が軽蔑し侮蔑するものに簡単に押し潰されるわけにはいかない」(P81)というセリフが凄く好きなのだけれど、「顔(考え)というものを持たずに多勢に溶け込むことで充足したい願望」がまさに自分にとって「軽蔑し侮蔑するもの」なので、流されないようにしないとなあと思った。

 

人にとっては大して意味がない、こうやって「考えた道筋」が自分には重要だ。

「どうしてその結論にたどり着いたか」がわからないと、間違えた時に「どこで間違えたか」がわからない。

どこで何がどうしてズレたのかと考えて修正すること。その繰り返しが「自分自身の思考の体系」を作るのだと思う。

「自分独自の体系化された思考回路」がなければ自分で考えることが出来ず、「顔というものを持たない人々」になるしかない。

自分はそう思うので、今後も興味を惹かれたことは、まずは一人でゆっくりじっくり考えていきたい。

ブログを続けているのはそのため……というわけでもなく、ただ単に書くことが好きだから考えたことをツラツラ書いているだけなんだけど。

 

対話型AI「チャットGPT」に小説のあらすじを考えてもらったら、思った以上に学びが深かった。

 

shinonomen.hatenablog.com

↑の東雲さんの記事を読んで滅茶苦茶面白いと思い、自分も「Chat(チャット)GPT」に「400字で小説のあらすじを考えて」と頼んで三種類出してもらった。

タイトルのみ自分で考えた。

 

あらすじ① 世界にひとつだけの美術品

 ある日、主人公の高橋真一は街で美術展を開催していた。

 彼は会場で美術作品を鑑賞していたが、ひとつの絵画に目が止まった。それは美しい花が描かれた絵だった。

 真一はその絵の現代美術としての価値を見いだし、一目惚れしてしまう。  

 しかし、真一が購入しようと思ったとき、その絵画はすでに売り切れていた。

 彼は落胆しながらその場を後にしたが、その絵に強い執着心を抱き続ける。

 真一はその後、インターネット上である人物が同じ花の絵を販売しているのを見つける。彼はすぐに購入しようとするが、その人物は販売することはできないと断られてしまう。

 真一は諦めきれず、その人物の住所を調べ出し、直接会って購入を試みることにした。彼はその人物の家に辿り着くが、そこで彼が見たものは予期せぬ展開を迎えることになる。

 その人物は実は美術作品泥棒だったのだ。彼は美術作品を盗み、転売していたのだった。真一は激しく動揺し、その人物を警察に通報することにした。

 その後、真一はその警察署に呼ばれ、その花の絵を発見した人物が実は真一自身であることがわかる。

 結局、真一は自分が持っていた花の絵を寄贈することにし、その絵は美術館に収蔵されることとなった。彼は自分の持っていた一枚の美術品を、社会に還元することができた。

 

もう十分、ショートショートとして面白くないかと思った。

「予期せぬ展開を迎えることになる」という中盤の引きもいいし、「その人物が泥棒だった」という展開も意外性が十分ある。

「花の絵を発見したのは真一自身」というオチは意味が分からないが(妄想だったということ?)この辺りは手直しすればいい。

「自分の絵を社会に還元する」という結末も「一目ぼれした美術品への執着から解放される」というストーリーとして、始まりから終わりまで一貫性がある。

AI、凄い。

そうは言っても似たような筋しか出せないのではと思い、もう一度同じ質問をしてみた。

もっと面白いものが出てきた。

 

あらすじ②呪われた富士山

 富士山をテーマに撮影するために、カメラマンの岩田は富士山近くの村に訪れる。

 しかし、滞在中に彼は不思議なことに気付く。村人たちは富士山に関することに口を閉ざしている。さらには、彼らは富士山が呪われていると信じているという。

 岩田は興味を持ちつつも、撮影に専念しようとする。

 だが、撮影をしている最中、不思議な現象が起こる。テントに不気味な生物がやってきたのだ。キャンプ場近くで岩田は一人で富士山を映写するために撮影を続けるが、何か不穏な雰囲気を感じた。

 村の人々が抱える過去のトラウマと現在の不思議な現象の真相を突き止めようと、岩田は彼らに話を聞きに行く。彼は過去に村で起きた悲劇と、それが村人たちの信仰心に繋がることを知る。

 一方、岩田が不思議な現象に遭遇した時から彼に呪いがかけられたように感じた。ある日、彼が撮影した写真には不可解なものが描かれていた。それは富士山の姿ではなく、何かブレた影のようなものだった。 

 結局、岩田は村人たちの信仰心と過去を受け入れ、自らの夢である富士山の写真を撮ることができた。彼は富士山の真の姿を撮り出し、自身の人生の中で最高の作品を生み出した。

 

「テントにやってきた不気味な生物とは何か」「村人の抱えるトラウマとは何か」「村人の信仰は何か」「そのトラウマや信仰と不気味な生物がどう関わっているのか」というディティール次第だと思うけれど、「あらすじを読んで読みたいと思わせること」は十分出来ている。

うわっ、すごっ!(小並感)

 

このクオリティで無限に出し続けられるのではと思い、もう一度「400字で小説のあらすじを考えて」と言ってみた。

 

あらすじ③蒼い石の勇者は、何故か人から嫌われる。

 ある露店で、主人公の高岡翔太は美しい蒼い石を見つける。

 彼は石の美しさに惹かれ、購入しようとするが、露店の店主から「蒼い石は身につける者によって呪われる」と話される。しかし、翔太はその話を聞き流し、蒼い石を手に入れる。

 翔太は蒼い石を身につけて帰るが、その夜から怪奇現象が起こり始める。彼は鏡に映る自分の姿に違和感を感じ、翌日からは周囲の人々に嫌われるようになる。これを機に、翔太は蒼い石に呪われたことを認め、対処法を探すことにする。

 翔太はインターネットで調べ、蒼い石の呪いと戦う方法を見つける。それは、自分が悪いことをしたら、蒼い石から力を得られるというものだった。翔太は自分を導いてくれる友達に支えられ、呪われた力を使うことを決意する。

 翔太は自分ができる限りの悪い行いをし、蒼い石から力を得るが、その行動は周囲の人々を傷つけていく。

 友達が彼を見捨ててしまい、孤独な戦いを強いられた翔太は、最後には呪われた力に打ち勝ち、蒼い石を持ち主に返却することができた。

 翔太は自分の行いに反省し、過ちを修正するために、今度は人々を救うことに専念する。彼は人々に優しさを与え、過去の過ちを克服するために、一歩ずつ前進することを決めた。

 

ラノベファンタジー風のものが出てきた。

指定しなくても色々なジャンルのものが出てくるのが凄い。

凄いのだが、これは一読してすぐに「うん?」と思った。

①②のように面白く感じない。

最初は内容が好みではないからかと思ったが、違う。

 

ひと言で言えば「話に一貫性がない」。

翔太は「蒼い石から呪われた」(受動的に被害を受けること)が話の始まりなのに、途中から「呪われた力を使うことを決意する」(呪いが主体的にコントロールできるものになっている)

それと同時に本来「人から嫌われること」は翔太にはどうにも出来ない呪いだったのに(それを解決することが課題だったのに)、いつの間にか「嫌われることは翔太自身が力を得るために選んだことになっている→課題が自然に解決してしまっている」。

にも関わらず、最後は「呪われた力に打ち勝ち」と最初の課題に立ち返っているので、「使うことを決意した」ことと矛盾している。

そもそも持っただけで嫌われる呪いがかかっているのに、「悪いことをすればするほど力を得る」では要素が重なってしまっている。

「悪いことをすればするほど力を得るが、悪いことをすれば当然嫌われる。どちらを取るか」ではないと葛藤が生まれづらい。

もしくは「嫌われる呪いのみ」のほうがいい。

これは細かく考えたら「こういうことか」と理解しただけで、一読してすぐに「③は、①と②に比べて面白くない」という直観がくる。

 

話に一貫性がなくてストーリーが混乱していても面白い話はある。

ただそれはあくまで例外で、話の骨格の時点で筋道が混乱しているものは、面白いとは感じにくいと改めて思った。

①②のあらすじは、視点や主人公の行動のモチベーションが一貫しているので読んでいてわかりやすい。引っかかることなく話の筋が頭に入ってくる。

視点が混乱している話は、それだけで話の意味が取りにくい。

群像劇が大変なのは、キャラを考えたり、そのキャラを生きた人間として描けるかという以上に視点が混乱しやすいことにある。

自分も読んでいる時は当たり前のように読んでいるけれど、いざ書く時は視点問題には悩まされる。

 

冷静に後から読めば、直観的に「面白い」と感じた①②のあらすじもそれほど独創的ではない。

特に②は、何度も読んだことがあるような話である。(たくさんの情報を組み合わせているので、何かと何かと何かを掛け合わせた筋が出てくるのだろうが*1

それにも関わらずあらすじを読んだ時に、「面白そう」「読みたい」と思った。

「何度も読んだ似たような話」であっても、見せ方によって直観的な期待値を高めることが出来る、としみじみ感じた

 

本当に色々な種類のあらすじが出せるのか? と半信半疑でやったが、思った以上に学びが深く面白かった。

 

続き。

note.com

*1:念のため検索をかけたが三作とも何も出てこなかった。

筒井康隆「虚人たち」を読みながら「去人たち」を読む。物語とはつくづく「現実的ではない」

 

kyojintachi.k2cee.com

最初「去人たち」を読んだ時に、よく意味がわからなかった。確か「Ⅱ」の途中で読むのを止めたと思う。

筒井康隆「虚人たち」のオマージュだと聞いたので、「虚人たち」を読めばわかるのかなと思っていた。

最近そのことを思い出して「虚人たち」を読みながら「去人たち」を読み始めたんだけど(ややこしい)、嘘みたいに面白い。

 

「虚人たち」は「物語」は「意味」によって支配されていることを、登場人物がメタ視点で理解しているという実験的な試みをしている。

・ある登場人物は、自分が物語の中で「ある事象を目撃すること」ということしか存在の意味を持たないことをわかっている。そのことに不満を持ち、自らの存在意義に反抗する。

・「モブ」でしかない登場人物が主人公の目の前で死ぬことで、物語に無理やり関係し、自分という存在に意味を付与しようとする。主人公はモブに存在意義を持たせてモブでなくしてしまうと、物語がややこしくなるからそれを拒否する。

・主人公は物語の特性は理解しているが、「虚人たち」という話がどういう展開になるかは知らない。そのため食事内容をいちいち詳細に記述して、そこから何か意味が生じるかどうかを試す。

・妻と娘が同時に別々にさらわれるが、主人公である自分の妻子がさらわれたのだからこの二つの事件は絶対関連があり、あるひとつの物事に収束するはずだ、そうでなければおかしい。そう思いながらも、もしそうでなかったらと不安を覚える。

・息子に対して、お前も母親と妹が同時にさらわれているんだから、主人公の息子として事件に関われ、さもないと本筋には関係ないお前の大学生活(におけるキャラ)も破綻するぞと脅す。

物語の構造に作内人物がいちいち入れるツッコミが面白い。

驚くのはこれをストーリーに組み込んでいて、さらに説明がまったく不自然ではないところだ。

面白くてスルスル読めてしまう。

 

「『去人たち』もこういう視点を入れている」ことを物語の仕組みとして頭に入れると、富絵が「自分が何者か(物語上の意味)」を主人公に会ったとたんに思い出したり、いちごみるくを手放す描写がないから、いちごみるくを持ったまま遺体を下ろすにはどうしたらいいんだと悩むシーンなどなるほどと思う。

只埜が突然、ストーリーにまったく関係ない(意味のない)「子供のときに溺れたエピソード」を話し出すのも、「物語においての意味にしかキャラの人間性を認めない」ストーリーへの反逆だ。

創作の読み方や解釈は自由だけれど、こういう話だとある一定の読み方をしないと、ルールを理解しないままスポーツを見ているようなものになってしまうんだなと思った。

 

「チェーホフの銃」の例えのように、物語は銃が描写され読者が認識したら「銃が描写された」という意味に支配されてしまう。

登場人物がこのことを理解している場合、意地でも銃を認識しなかったり、逆に話を先に進めたいのにまったく展開しない場合、「銃」に当たるものを物語に出現させるために周りのものを細かく認識したり描写する。

こう見ると、物語はつくづく「現実的ではない」。

ストーリーの展開が現実的か非現実的か以前に、ひとつの出来事や目にしたものややったことが、数秒先の展開を引き起こすこと、長期的に連続的な意味を持つことは現実ではほとんどない。

後から人の認識が特定の意味を付与して記憶を編集するだけだ。

「虚人たち」と「去人たち」を読むと「お話を現実的にすると、むしろありえないくらいおかしな、もしくは訳が分からない造りになってしまう」ということを再認識できる。

 

物語は「意味という神」に支配された現実とはまったく別の作りの世界なのだ。

だからこそ面白い。

「意味のみが、絶対的な力を持つ物語のありえなさ」を指摘しつつ、その指摘の意味を読んでいる人に「お話」として伝えられているところがこの二作の面白さだと思った。

 

 

「去人たち」はⅡがさらにシュール(非シュール?)になっていた記憶があるので、最後まで面白く読めるか、ちょっと不安。

 

 

「実際の物事や人物を元にしたフィクション」は、自分の中で「名作・傑作」であるほうが問題が根深い。

 

「フィクション」と銘を打っている場合は、まずはフィクションとして読む。

問題があれば指摘すると思うが、自分は自分にとってつまらない作品はすぐに忘れるので「フィクションと、モデルとおぼしき実際の物事や人物との関係性の問題をどう考えるのか」というところまでいかない。

自分の中でこの件で一番悩むのは「創作として名作、傑作なので否定できない場合」だ。

 

2018年6月にこの件について考えた時に、自分の中ではこういう結論だった。

自分が「実話をモデルにしたり元にした創作品で、その存在を否定する」のは以下の条件がすべてそろったときだ。

①著者がその事件を基にしている、と明言している。もしくは特定の事件をモデルにしている、と断定できるほど酷似している。

②事件関係者の(特に被害者の)内面や周辺事情に踏み込んでいる。

③②をするに当たって、関係者の証言などの事実に対する綿密な取材が行われておらず、犯罪に至るまでの経緯、被害者や加害者の環境や心情の描写が、作者の創作や憶測部分が多い。

④③において、事実よりも自分の書きたいことを優先させている、という作者の姿勢が顕著。

⑤その事件をモデルにした必要性が、「刺激が大きい」以外にほぼ感じない。

⑥③や④⑤に代表される姿勢など、作者に実際の事件を扱い、向き合う真剣さが見られない。

この条件がすべてそろったときは、該当した作品は恐らく否定する。

「綿密な取材」とは、どこまで取材したら「綿密」なのか? 「実際の事件に向き合う真剣さ」は誰が判断するのか、など基準が非常に曖昧だ。

結局のところ、自分の基準で許せるか許せないかの話でしかない、というのはその通りだと思う。

 

上記の記事では「八日目の蝉」と「疾走」を例にあげている。

「疾走」の主人公は池袋通り魔事件の犯人との類似点が多いと自分は思うが、そこまで事件に興味がない人が見れば「強いて言われれば」程度だと思う。

「疾走」は先日、TLで回って来た「鬱本ベスト10」にも入っていた。暗くて辛い話だが名作である。

でも「名作だ」と言えるのは、自分が池袋の事件の時に犠牲者にならなかったからではないか。事件の二日前に、まさに事件現場として映っていた場所に同じくらいの時刻にいた、という個人的な体験がそういう複雑な気持ちを起こさせる。

池袋の事件はさらに当時、犯人の生い立ちについて同情的な論調があって遺族の人が声明を出したという経緯もあるから、余計にそういう気持ちになる。

 

こう書いているけれど、上の記事ではこの件で自分が一番気にしている作品を出していない。自分は上の記事を書いている時に、ほとんどその作品についてしか考えていなかった。

いい機会だから、その作品について考えていることを述べたい。

東電OL事件をモデルにした作品なんだけれど、「八日目の蝉」や「疾走」と違うのは被害者をモデルにしているところだ。

犠牲になった被害者の生い立ちや内面を描いている。だから当然「自分をモデルにしているが事実とは違う」と言って訴えられない。

また、作内で犯人は「中国人の男である」と示唆されているけれど、犯人として起訴されたネパール人の男性は再審によって無罪が認められている。

モデルになった人が生きている、もしくは日本の裁判に訴えられる状況なら(まだしも)いい。

「沈まぬ太陽」は国民航空のモデルになった会社はもちろん、国民航空側の人間はモデルが誰か、知っている人はすぐにわかるらしい。大企業とその関係者なら、事実誤認があるなら訴えられる。

でも事件で被害を受けて亡くなった人、冤罪で十五年も拘束された外国の人の場合は、それはほぼ不可能だ。「被害者は死んでいるのだし、誰も気にしないからいい」という話ではない。(よな)

 

社会的にインパクトがある公共性がある出来事だから、というなら、フィクションではなく取材したことを明記して周りの声などをそのまま載せるルポ形式にすべきではないか。

どれだけ取材していても「フィクション」と銘を打てば、それは「そのものを伝えるのではなく、描きたいことのために素材として利用すること」になるのではないか。

まだ関係者が生きている事件について、被害者の環境や内面まで推測で描くことが許されるのか。「亡くなっている被害者のことを、内面も含めて推測で詳細に描くこと。それをフィクションとして世に出すこと」が、凄く引っかかる。

 

引っかかるのだが、これだけ色々言っても「グロテスク」という作品をどうしても否定できない。

「グロテスク」は東電OL事件をモデルにしているが、描いているのは女性が女性としてこの社会で生きていくうえではめられる枷の重さや葛藤なのだ。女性は性的魅力があってもなくても、賢くとも愚かであっても、規範から逃れようとしても諦めてそれに従っても、同じ枷につながられて苦しむ。

そうして同じ枷にはめられている同士が、時にお互いを理解できずに傷つけあう。決して男に抑圧されるだけの弱者ではない、醜さも愚かさも卑怯さも狡猾さも強さも持つのに、なぜ誰もこの枷から逃れられないのか。

そういうことを描いた話なのだ。

「この時代を女性として生きる葛藤」をここまで描いた小説はなかなかない。ぜひ残って欲しいし読まれて欲しい(もう十分読まれているが)。

そう思うけれど、もし「実際の事件や人物をモデルにしている絡み」でこの作品の問題点を指摘されても自分の中でそれを否定する理屈が見つからない。

自分は「グロテスク」は、この社会の中で器用に生きられなかった被害者に、同じ女性として愛憎を向けながら*1共感している作品だと思う。思うが、それも個人的な感想に過ぎないと言われればそうだ、と言うしかない。

「実際の物事や人物をフィクションのモデルにすること問題」は、「名作、傑作だ」と思う作品のほうが、読者としての自分の中では問題が根深い。

 

桐野夏生の描く女性は、「虐げられた可哀想で無垢な被害者」ではない。

「路上のX」の女子高生たちも、大人や男を利用し、狡猾に立ち回り、時には仲間同士でも陥れ合う、「路上でサバイブする術」を身に付けた生身の一人の人間だった。

時にはいがみ合い、不信の目を向け合いながらも、助け合い支え合うからその生きる姿の力強さに心を打たれる。

www.saiusaruzzz.com

自分も仁藤さんの言動には色々思うところはあるが、「路上のX」の巻末の解説は、この人が一体、何にそれほど怒っているかというのが垣間見えるところが良かった。

 

「三菱重工爆破事件」の絡みではなく、「虹作戦」の描写で圧力があったというところが何とも。

www.saiusaruzzz.com

 

「光の雨」のように、著作権の問題でいったん執筆を取りやめながらも、モデルとなった人物から「執筆を続けて欲しい」と言われる場合もあるしな。

 

*1:「肯定的に描いていないが寄り添う」という絶妙な描き方なのだ。

【小説感想】実際の事件を基にして発刊中止になった「パルチザン伝説」 これを「個人的な物語」と読めないところに分かり合えなさを感じる。

 

文藝賞の最終候補になり単行本化が決まっていたが、抗議によって急遽発売中止になったいわくつきの作品。

パルチザン伝説

パルチザン伝説

Amazon

東アジア反日武装戦線が起こした事件をモデルにしているため、抗議を受けて発売が困難になったらしい。自分は「虹作戦」よりも「三菱重工爆破事件」を「M事件」としてそのまま用いていることが気になった。

創作の表現は自由で守られるべきだと思うけれど、実際のどの事件をモデルにしているかはっきりとわかる、しかもその事件を否定せずに描かれていると創作としての評価云々以前に忌避感がわく。三菱重工爆破事件は亡くなっている人もいるし。

それ以外も終戦間際に内乱を起こす(天〇暗殺を目論む)ことで日本社会を変革しようとする、死人が出ても日本の民衆は戦争を支持したという罪があるから仕方ないとするなど、引っかかる描写が多い。

反体制の活動をしていた人間がどういう心境を持っていたかということを、現代の価値観で相対化しないで書いた話なので、そういうものだと割り切らないと読み進めるのが難しい。

 

「パルチザン伝説」の面白さは

①現代では理解しにくい、この時代の活動家たちがどういう思想を持ち、どういう心境だったかが描かれている。

②独特な文体が良い。

③戦後の反体制的な活動を「戦前から続く『父の体系』を破壊する試み」として描くことで、活動の個人的な側面が押し出されている。

自分はこの三点だと感じた。

 

この本を読んで、当時、新左翼などの反体制的な活動に携わっていた人間の心境がわからないのは思想や言動が過激だからではない、と感じた。

自分が主人公たちの言動に見出した意味は、③の読みかたのようなどこまでも個人的なものだ。

ところが巻末の解説を読むと、解説者も文藝賞の選者たちもそういう読み方はしていない。主人公たちの言動に「社会的な意味」を見出して、それを批判なり評価なりをしている。

大道寺将司は獄中から、『パルチザン伝説』評の求めに対して、「全共闘運動を敗北と総括し、反日革命の展望を見出せない」という「結論を急がれても困る」と不満を述べていた。(前掲「『パルチザン伝説』出版弾圧事件)

大道寺の洞察は的を射ている。

(引用元:「パルチザン伝説」桐山襲/解説・友常勉 河出書房出版社 P168/太字は引用者)

 

自分が所属した組織を明らかにモデルにした話だから(だから評を求められたのだろうし)、大道寺将司の感想がこういう返答になるのはわかる。

わかるんだが、「お話」としてではなく「自分たちの活動に対する何らかの結論(意見)」としてのみとらえて感想を言うなら、それは「本の感想」ではないのではないか。

 

自分は「パルチザン伝説」はその背景に関わらず、とても個人的な物語だと思う。

だがこの年代の人たちは(作者も含めて)、「あの時代に起きた出来事の個人的な意味合いのみを語る」のは難しいのかもしれない。

「個人的なことが運動のモチベーションだったのではないか」と指摘したのではない、

結局「社会が変わる」という場所に行き着かなかったんだから、当事者は「個人的な意味合い(物語)」として総括するしかないのでは?ということだ。

 

「パルチザン伝説」の面白さは、「社会を破壊しようとしている人間の中には『社会』が存在しないのだから*1、いくら物語を社会的(歴史的)なもので覆おうとしても個人的なものになってしまう」ことがもろに出ているところだ。

だから「『全共闘運動を敗北と総括し、反日革命の展望を見出せない』という結論を急がれても困る」という「社会的な話として読んだ感想」を言われると、「ちゃんと作品を読んだのだろうか、それとも読んだけどスルーしているのだろうか」と思ってしまう。

 

文藝賞の選評で江藤淳や島野敏雄、野間宏が「作者の戦時中の理解の仕方に疑問を表明している」(P157)と書かれていたが、自分も「パルチザン伝説」の戦争の認識のしかた、描き方は独特に感じた。

主人公の父親が生きた戦時中の描写は、他の戦時中のことを描いた作品に比べて生活感がない。Sが見た夢の世界か、現実とはまったく関係ない異世界の話みたいだ。

戦時中の話なのに「戦争」が凄く遠い。原爆が出てきても、「突然起きた超常現象」のようで「歴史において実際に落とされた原爆」と頭の中で結びつかない。

歴史を描いているのに、蜃気楼の中にいるような感じだ。

このぼんやりとした戦争(現実)への認識が、作内の「社会」であり、それを集約するものとして唯一、主人公や主人公の父が殺すべき対象として認識できるのが「天〇(制)=父」なんじゃないか。

この話が一から十まで個人的な話だと感じるのはそのためだ。

 

「パルチザン伝説」は、「どこまでいっても父を殺せない話」だ。

なぜ殺せないのかと言えば「父を認識できないから」だ。しかし認識したらしたで殺せない。なのでどこまでいっても父を殺すことは出来ない。

「父を殺すという可能性」の一点のみで社会と接続していたのだから、父を殺せないとわかれば喋れなくなったり、「ユタ」という新しい父親だけが存在する場所にいくしかなくなる。

「結局ユタという新しい制度(父)に回収されて終わるのか」という感想に対しては、「社会とつながるために『父を殺すという目標』が必要だっただけであって、本当に殺したかったわけではないから仕方ないのでは」と思う。

前述した通り、結局社会は変わらなかったのだから、そう総括する視点も必要だと思う

だから解説や文藝賞の選者たちの語る「社会的な事象のライン」で語る感想に違和感を覚える。

 

「パルチザン伝説」は、「唯一認識出来る対象である『父』への拘泥でのみ社会につながる男たちが、父を殺すことで社会に接続しようとして失敗した物語」だと思う。

面白かったので、著者の他の作品も読んでみたい。

 

続き。

note.com

 

 

*1:内部に存在しないから、外部の社会を破壊することで、内外の整合性を取ろうとしているのでは。

「忌録 document X」の考察をしてみた。

 

 

そういえばkindleで購入したなあと思い出し読んでみた。

 

考察をやってみたが、うまくつながらない部分が多い。細部を詰めるには材料が少なすぎるので、これは細部を詰めると迷路に迷い込むパターンかなと思った。

なので考え方を変えて、つながりそうなキーワードを拾ってみた。

 

①白チ(知的障害・心神喪失)

美咲は知的障碍者だった。(みさき)

川上喜代子は七歳まで白チだった。(みさき)

結城フクは統合失調症(みさき)

光子ボサツを見ると心身喪失状態に陥る。(光子ボサツ)

坂本夫妻の前の前の入居者の夫は狂死した。(忌避)

 

②女の子

美咲は明日七歳とになる7月7日に行方不明になった。(みさき)

川上喜代子は七歳になったら、突然神がかりになった。(みさき)

奥薗博士は娘・幸江の眼球を取り出さなければならなくなった。(光子ボサツ)

小学校に上がる前の娘・清美が昏睡状態に陥る。(忌避)

 

③娘が行方不明

美咲が神隠しにあう。(みさき)

亡くなった清美の姉・まや(忌避)

 

④井戸(水場)

川上喜代子は井戸に落ちて死んだ。(みさき)

古墳は水で囲まれている。(みさき)

坂本夫妻の家はイビである井戸の上に建てられた。(忌避)

 

⑤吉田さん

川上喜代子が落ちた井戸を見に行った吉田さん。(みさき)

谷中の眼球くりぬき事件の被害者で一人だけ正気を保っている吉田弘道。(光子ボサツ)

 

⑥美恵子姉さん。

「美恵子姉さんがえらい事故を起こして重体」(みさき)

ミエ子さん。(光子ボサツ)

 

⑦状況の一致

夫婦+小学生未満の娘で娘が犠牲になる。(みさき・忌避)

 

綾のーと。だけがリンクするものが見つからない。

なのでこれは置いておいて、上の三つのキーワードのつながりからおぼろげに見えてくるものをストーリーにすると、

光子ボサツに出てくる視神経乳頭(盲点)に憑依して心身喪失に陥らせる悪霊(細菌のようなもの?)が、川上喜代子が住む村に生息している。

これを見てしまって(もしくはわざと見させて)白チになった子の魂を柱にして、神へと変化させている。

というストーリーに基づいて、障害を持って生まれた子を殺していたのではないか。また「神」を作るためにそういう名目で殺された子がいた。

殺した子は井戸へ捨てられる。

川上喜代子は自分が七つの時に殺されることを免れていたために、このことを知っていた。

美咲の母親である美幸も自分の母親の出身地である、その地の風習が染みついていた。だから七歳になる前に、障害を持っていた娘を殺した。

結城フクはそのことに気付いたため、喜代子に見てもらうよう熱心にすすめた。

 

「光子ボサツ」「忌避」は「みさき」の解答編なのではないか。

「忌避」を読むと、井戸の底に大量のガスが溜まっており、これが液状化現象や低酸素症のような症状を引き起こすということが書かれている。

また坂本一家の父親が恐らく清美の姉のまやを殺し、家のどこかに埋めている。だから死臭がしたり蠅が大量にわく。

その構図が、「みさき」で母親が美咲を殺したことを示唆しているのではないか。

 

現実のみで考えるとこういう感じではと思う。

ただそうすると川上喜代子は9日から行方不明なのだから、14日に吉田家に来たのは誰なのかなどまだ色々な疑問がある。

喜代子を口封じの殺したことを隠蔽するために荒唐無稽な怪談を作るのもおかしな話なので、「黒い人物」や三次の春子の家に喜代子が現れたのは本当ではないか。

また交霊の時に降りたものは、首を絞められて殺された喜代子ではないかと思う。

 

とりあえず大枠はこんな感じで考えたが細部までは詰めきれない。

また思いついたことがあったら、もう少し詳しく考えてみようと思う。

 

 

文庫本の一ページの文字数は何文字が読みやすいか? 比べてみた。

 

文庫本を作ってみたいと思ったので、一ページの文字数は何文字くらいが読みやすいか、家にある文庫を元に考えてみた。

出版社によっても違うし、出版年数によっても違うし、シリーズによっても違うので「タイトル・出版年数」を参考に記載しておいた。

 

各出版社の文庫の一ページの文字数

(13種類・アイウエオ順)

・岩波文庫(「ムシュー・テスト」初版2004年)

40文字×15行=675文字

 

・角川文庫クラシックス(「阿Q正伝」初版1961年)

42文字×18行=756文字

 

・河出文庫(「無知の涙」初版1990年」)

45文字×20行=900文字

 

・講談社文芸文庫(「補陀落渡海記」初版2000年)

40文字×17行=680文字

 

・光文社古典新訳文庫(「八月の光」初版2018年)

38文字×16行=608文字

 

・集英社文庫(「荒野へ」初版2007年)

41文字×18行=738文字

 

・小学館文庫(「下町ロケット」初版2013年)

38文字×17行=646文字

 

・新潮文庫(「沈黙」初版1981年)

38文字×16行=608文字

 

・創元推理文庫(「ノヴァーリスの引用/滝」初版2015年)

42文字×18行=756文字

 

・ちくま学芸文庫(「ラカン入門」初版2016年)

40文字×17行=680文字

 

・中央文庫(「自殺論」初版1985年)

40文字×17行=680文字

 

・ハヤカワ文庫(「少年トレチア」初版2020年)

40文字×17行=680文字

 

・文春文庫(「ユニクロ帝国の光と影」初版2013年)

39文字×17行=663文字

 

一番ポピュラーなのは「40文字×17行=660文字」

調べてみると出版社によってバラバラだ。同じ出版社の文庫でも年代や作品よっても文字数が変わることがある。

調べた限りだと

・講談社文芸文庫

・ちくま学芸文庫

・中央文庫

・ハヤカワ文庫

の「40文字×17行=680文字」が最もポピュラーな文字数だった。

(「補陀落渡海記」井上靖 講談社)

個人的な感覚だと、学術書やドキュメンタリーだとこの文字数が最適に感じる。

小説だともう少し文字数が少ないほうが読みやすい印象だ。何故かはわからない。

 

小説で一番読みやすいのが「38文字×16行=608文字」

次に

・光文社古典新訳文庫

・新潮文庫

の「38文字×16行=608文字」。

(「八月の光」フォークナー 光文社)

小説はこれが一番読みやすい。

新潮文庫の中で「シッダールタ」は「37文字×15行=555文字」だった。

これだと今度はフォントが大きすぎるように感じる。読みづらくはないけれど。

 

「42文字×18行=756文字」だと少し読みづらく感じる。

角川文庫クラシックス

創元推理文庫

42文字×18行=756文字」だと「もう少し文字が大きく隙間があるといいな」と感じる。

(「ノヴァーリスの引用/滝」奥泉光 創元社)

まとめ

一ページの文字数が少なくなれば当然ページ数は増えるので難しいところだ。

ただ「一ページ608文字」を読んだあとに「一ページ900文字」を読むと目が滑る感覚がある。

自分は「小説は一ページ608文字、他の物は一ページ660文字」が最も読みやすかった。

 

【小説感想】高山真「エゴイスト」 恋愛小説かと思いきや……。読後にタイトルの意味を考えて深く頷いた。

 

鈴木亮平主演で映画化された「エゴイスト」の原作を読んだ。(映画は未視聴)

鈴木亮平の寄稿文によると、作者にRと呼ばれる恋人がいたこととその母親と交流があったことは事実らしいが、「小説」と銘を打っているので「小説として」読んだ感想を書きたい。

 

「エゴイスト」は恋愛小説ではない。罪を犯した*1主人公による懺悔と赦しの物語である。

*以下ネタバレを含むので、未読のかたは注意。

 

恋愛小説のはずなのに、という妙な違和感。

主人公の浩輔は友人の紹介で出会ったパーソナルトレーナーの龍太に惹かれる。初めて会った時から強く惹かれて、龍太から別れを告げられた後も、追いかけて生活の困窮から売春をしている龍太に、月々の援助を申し出る。

ここまで読んだときは、龍太は愛情がありつつも浩輔を利用する関係になり、「愛だけでも利己的な気持ちだけでもない」という退屈な恋愛話になるのかなと思っていた。

浩輔の人物像がいいだけに、失望が大きかった。

まあでもせっかく買ったんだし、と思い読み進めて行くうちに妙な違和感を覚えた。

恋愛に話がフォーカスされている感じがない。

浩輔は龍太ではなく、明らかに龍太の向こう側にいる母親に干渉したがっている。

 

浩輔が龍太と恋人になった理由。

そう考えた時に、浩輔が龍太に惹かれた理由を述べた箇所を思い出した。

龍太は、僕が読んでいる途中で取り上げられてしまった本の続きを持っている男だった。(略)

龍太が持っている物語が、自分のものであるはずがないことくらいはわかっている。けれども龍太の物語に関われたら、僕は僕の物語を紡いでいくことができるかもしれない。

たったそれだけのために、僕は、会って二週間も経っていない、赤の他人を使おうとしているのだ。卑しいにもほどがある。でも、もう止められない。

体の相性などものの数には入らない。あの男を絶対に手放さない。

(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)

自分が龍太に関わろうとしているのは「龍太の物語が必要であり」「それだけのためで」「(龍太を)使おうとしている」と、本人がはっきり言っている。

こう書かれていた場合、普通は恋愛感情の比喩であり、相手に惹かれた理由をあえてシニカルに表現していると思う。

しかしこの話は違う。このままの意味である。

浩輔は「我が身を犠牲にして病弱な母親に献身する息子」という属性を持つ龍太の物語を乗っ取ろうとしたのだ。

浩輔にとって、自分が途中で取り上げられた物語取り戻し読むことが、生きるためにどうしても必要だからだ。

 

浩輔は龍太が死ぬかもしれないことに薄々気付いていた。

浩輔が龍太に売春を止めさせるために援助を申し出たのは、龍太に対する愛情からでも独占欲からでもない。売春を止めれば、龍太はもっと長い時間体を酷使して、肉体的にキツイ仕事をしなければならなくなることをわかっていたからだ。

少なくとも浩輔は、龍太がそういう状態にいても助けたり止めたりしない。龍太が疲弊して弱っていく様子をただ見ている。

 

昼も夜も入れられるだけ仕事をして、残りの時間で会う龍太が、いつしかそのほとんどを寝て過ごすようになったことに驚きはなかった。(略)

そういう生活を選んだのは龍太だが、そういう生活を選ばせたのは僕で、だから僕は、むさぼるように眠り、目覚めたあとで決まって何度も謝る龍太に、怒りよりはむしろすまない気持ちを抱いていた。

僕たちは恋人というより共犯者のようだった。

(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)

この文章は「性行為の最中に恋人が眠ってしまうことに怒るゲイの友人」と比較して語られるため、一見すると「龍太を見守ることが浩輔の愛情」だと読める。

しかしこれも字義通りの意味である。

浩輔は意識的に、龍太を恋人と会っている最中も眠ってしまうような過酷な生活を「選ばせている」。

浩輔はこの果てに、何が待っているのか薄々気付いていたと思う。気付いていたから実際にそうなったときに、強烈な罪悪感を抱いたのだ。

 

浩輔は龍太が死んだとき、恋愛というレイヤーで見ると不自然なほど強烈な罪悪感を抱き、数ページに渡って謝罪を繰り返している。

「ジョバンニの部屋」の一説になぞらえて、「自分が龍太を断頭台のかげにおいた」とまで言っている。

龍太の母親は(略)息子の仕事相手が、裏では恋人面して自分たちの人生を破壊し尽くしたなんて、思いもしないだろう。(略)

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」(略)

「どうして謝るの? どうしてあなたが謝らなくちゃいけないの?」

(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)

「龍太を愛するがゆえの行動が、結局龍太を死に追いやったのではないか」

そう思っただけならば、龍太を失った喪失感がほとんど語られず、ひたすら罪悪感だけに囚われるのは不思議だ。

龍太を失った痛みよりも、自分が龍太の人生を破壊し尽くしたという自責が強烈なのは、浩輔が「そうなるかもしれない」と思っていたからだ。

 

浩輔にとって龍太は「母のために犠牲になる自分」だった。

浩輔は、なぜここまで赤の他人である龍太の人生を「破壊し尽くす」まで「使えた」のか。

浩輔にとって龍太は「もう一人の自分」だからだ。

僕も母にそう思われるのがは何より悲しかった。

お互いにそう思っていたことがわかったとき、僕、龍太のことは恋人というより、双子の弟のような感じがしました。

(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)

 

「我が身を犠牲にして病弱な母親に献身する息子」という物語を持つために、浩輔は龍太に「自分との同一性を見出した」のだ。

母が僕を見つけてくれたとき、しゃがみこんで泣いてしまった。(略)

母が病気になってから、僕は一度も、そんなふうには泣けなくなってしまった。

龍太、知っているよ。お前がずっと我慢してきたこと、知っている。だって、僕もそうだったから……。

(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)

 

浩輔と龍太は「病弱な母を助ける物語」においては、同一人物である。少なくとも浩輔の中の「物語」ではそうなっている。

その物語おいては、どれほど辛くとも苦しくとも母を助けるために限界まで頑張らなければならない。

そんなこと言うな、もう絶対に言うな。

俺も嫌いだったら別れている。お前だって俺のことが嫌いだったら別れてもいい。

でも、そうじゃない。そうじゃないだろう。(略)

お互いにいまだに大事に思ってて、しょうがいなから、やっていくしかないだろう。

(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)

父親が病気の母親を八年間支えたこの精神で、浩輔も「母」を支えたいと願っている。

無力な子供の時には出来なかったこの物語を、「龍太」という自己を通してやろうとしたのだ。龍太に対して「頑張れ」ではなく、「頑張ろう」と言うのはそのためだ。

浩輔が望んだのは、「自分が犠牲になり母を救う物語」だった。「犠牲になってもいい」ではなく、「犠牲になりたい」と願っていた。

だからこのままいけば龍太がどうなるかわかっていても、止めなかったのだ。龍太は浩輔の物語において「母親を救うために死ぬ自分」なのだ。

 

「母」に対する二重の罪。

「死」という犠牲を払うことで、浩輔は初めて母から欲しかった言葉をもらう。

「だって私、知っているから。あなたが龍太のこと愛してくれていたこと、私、知っているから」

(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館)

浩輔が母親から求めていた言葉は、「自分が同性愛者であることへの赦し*2」である。

 

母が死んで登校したあの教室で、手に入らない幸せをいつまでも夢に見るより、手に入りそうなほかの幸せをつかむために走ろうと誓った。(略)

手に入れたものは確かに僕にとって大切なものばかりだったのに、母の墓や仏壇の前ではずっと謝り続けてきた。

龍太との付き合いを、母は決して心から喜んでいないだろうと思っていた。

(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)

浩輔は自分が同性愛者であることに、特に引け目は感じていない。仕事も成功し友人もいる現在の環境に満足し、かつて自分を傷つけ母親を侮辱したクラスメイトに、惨めな思いをさせられるようになったことに満足している。

だが死んだ母親に対してだけは別だった。自分が同性愛者であることに、罪悪感を抱いてしまう。

それは母親が生前何度も、「こうちゃんが大人になってお嫁さんをもらうまで、お母さんは元気でいないとねえ」と言っていたためだ。

「お嫁さんをもらう」は、母親の中では「息子が大人になった姿」の象徴に過ぎない。

「余命二年」と告げられた状態で「息子が大人になるまで生きたい」と願い、「生きよう」と必死に自分を励ますための言葉なのだ。

もし母親が生きていれば、自分が同性愛者であることを打ち明けてもただ自分の幸せだけを願ってくれるだろうこと、母親の性格からしてそうであることは浩輔もわかっている。頭では。

だが母親が死んでしまったことで、それを確認する機会が失われてしまった。

だから、死んだ母親を救えなかった、そして死んだ母親が願う人生を歩めないという二重の罪悪感に、母の仏壇の前で謝罪の言葉しか出てこないほど苦しむ。

その苦しみのために「自分を犠牲にして母を救う物語」を、他人の人生を乗っ取ってでも必要としたのだ。

 

そして龍太(≒自分)の命を犠牲にした時に、ようやく「母」から欲しかった言葉を得られた。

「母」からそんなふうに言ってもらえる日が来るなんて、想像もしたことがなかった。想像してはいけないと思っていた。

(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)

「エゴイスト」で最も重要なのは、浩輔がこのシーンで感じた「『あなたが同性愛者であることを知っている』と母から言ってもらえた」という感動である。

だからわざわざ両方の行間を空けて強調されているのだ。

 

「エゴイスト」というタイトルの意味。

そのことを証明するように、このあと「母と息子」の物語が展開する。

浩輔と龍太の母は、最後に本当に「親子」になる。血のつながりなどの全ての現実的な理を越えて、主観的な物語世界では二人は「母と息子」なのだ。

帰らないよ、まだいる。

だって僕と母さんの新しい関係、いま始まったばかりじゃない。

(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)

浩輔の視点では、母に「罪」を許され和解したのだ。(「母」目線で見れば元々、息子のどんな部分も愛して受け入れているのだが)

 

浩輔は「母を救えなかった」「お嫁さんをもらえない」という、母に対する二重の罪を償い許しの言葉を得るために、龍太を半ば意識的に死に追いやり*3「母親を救う物語」を奪い取った。

「恋愛小説」という外形自体が叙述トリックになっているサスペンス小説、ノワール小説なのだ。

自分は「エゴイスト」はそういう話だと思うし、タイトルを見るとそういう話であることに相当自覚的な小説ではないかと思う。

 

まとめ:「エゴイスト」の魅力は、主人公・浩輔の人物像にある。

自分が最初に違和感を持ったのは、導入部分で示される浩輔という人物像にそのあとの龍太との恋愛がそぐわないところだ。

浩輔は自分が必要だと思ったものは手に入れる、過去に受けた傷はきっちり清算する、人から見た是非には関心はなく、自分の人生を自分の手でデザインする強固な意思と自立心を持っている。

こんな人間が、他人の身の上話に同情しただけで恋に落ちてしまう、そして自分の生活が苦しくなるほどの額の援助*4まで申し出る、そんなことがあるだろうか。しかも浩輔に比べると、龍太は心優しく善良ではあるが、さほど魅力を感じる人物ではない。

一体、なぜ浩輔がこれほど龍太に入れ込むのか、こんなありきたりな話にハマってしまうのかと思っていたが、浩輔はまさに物語の初めに描かれたような人物だった。

浩輔のような人物だったら、自分のしたことを、そうせざるえなかった自分を「エゴイスト」と評するだろう。

自分でも強烈な罪悪感を抱えることになるとわかっていても「でも、もう止められない」と思いおこなってしまう。

是非はおいておいて、自分の人生にどうしても必要だと思ったことは、それが「罪」だと感じることであってもやり遂げる浩輔という人物が魅力的な小説だった。

 

続き。

note.com

 

*1:法的には違うが、語り手が『罪』だと自覚しているため。

*2:同性愛者であることは罪ではないが、後述するように浩輔と母親の関係に限っては「罪」として機能してしまっている。

*3:ミステリーで「プロバビリティー犯罪」「期待の堆積」と呼ばれるもの。

*4:これも「母」に対する援助と考えると、自分の生活を犠牲にしていると思える程度に援助することが、浩輔にとってむしろ必要なのだ。