うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【小説感想】「クイズ」という異世界を描く、小川哲「君のクイズ」の三つの読みかた。

 

インタビューの答えがそのまま書いてあった。

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小川哲のインタビューを読んで、「君のクイズ」に興味を持ち読んでみた。

自分は創作を読む時には作者という概念が頭から消えるタイプなのだが、これは読み終わったとあとに「インタビューの答えがそのまま書いてあったな」と思った。

 

*以下はネタバレが含まれる感想なので注意。

 

「君のクイズ」は自分にとって、三つの読みかたが出来る話だった。

①クイズという競技の特性と競技者であるクイズプレイヤーの思考について。

②クイズに仮託された主人公の世界観、人生観。

③本庄絆に集約されるものへの皮肉。

 

「クイズ」という異世界。

クイズはクイズプレイヤーではない人間が一般的に考えるような「知識の量を競うもの」ではない。作内ではそのことを、しつこいくらい明記している。

クイズとは覚えた知識の量を競うものではなく、クイズに正解する能力を競うものだからだ。

(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)

「ちなみに、クイズは知識の量を競っているわけじゃないよ」(略)

「じゃあ、何を競っているんですか?」

「クイズの強さを競っている」

(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)

クイズは知識や頭の良さといった「現実の世界の基準」で競うものではない。

ルールがあり、ルールから生成されている文脈がある。その文脈によって形成されている、現実とは異なる法則性を持つひとつの世界なのだ。

 

三島はクイズを始める前の幼いころから、「クイズ」という自分独自の世界を作ってきた。

この下りは自分と重なる部分が多かった。

その後、「深夜」という言葉を初めて知ったとき、僕はしばらく納得がいかなかった。(略)

当時の僕は「夜が深いとはどういうことだろうか」と真剣に悩み、結局そのときは納得することができなかった。(略)

そのころには「深夜」という言葉の詩的な含意が気に入るようになった。

太陽が夜の海に溶けてゆっくり沈んでいく。やがて太陽は夜の海の深い底へ潜ってしまう。人類で初めて「深夜」という言葉を発した人の心と僕の心が、長い時を経てつながる。

(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)

自分と似ているなと思ったのは、「言葉の意味に強い引っかかりを感じることがあった」という具体的な事象ではない。

まったく知らないものを知ったことがきっかけで、想像の力で現実とはまったく別の世界を創造してしまう、そしてそこに現実と同じくらい(むしろそれよりも)強烈なリアリティを感じて生きてきた。

そういう点だ。

自分は三島とは違い、自分が身を置いている世界のルールしかよくわからず、現実の世界のルールがうまく把握できなかった。いま思えば*1現実が異世界みたいで、そこで訳のわからんゲームをやらされているみたいでキツかったな、とその時のことを思い出した。(ちょっと泣けた)

 

主人公の三島玲央は、幼いころから作り続けてきた「クイズ世界」で生きている。

三島と本庄絆との戦いは、「クイズ世界」と「現実(の世界)」との戦いなのだ。

本庄絆は「現在、日本で一番クイズの理に近づいている人物だと思います」と答えてから「ですが」と続ける。「私の頭には世界が入っています」(略)

「さて、クイズ対世界、どちらが勝つのでしょうか」

(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)

 

「クイズ」という異世界にいるから、光も暗闇も知ることが出来る。

なかなか眠りにつけない夜、僕はときどき「アンナ・カレーニナ」がどんな話か想像するという遊びをしていた。(略)

アンナという女の子と、カレーに関係する話だと思って、いくつもの話を想像した。

(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)

まだ字が読めなかった時、自分は家にあった絵本を繰り返し読んでいた。

字が読めないから絵を見て、自分で勝手に話を作り続けていた。10ページくらいしかない絵本だけど、話が無限に出来る。字が読めない時は、本は一冊で十分だった。

字が読めるようになって、どんな話かわかったら凄くがっかりしたことを覚えている。この本はこの話になってしまい、もう無限に話を生み出せるものではなくなってしまった。

物事というのは知れば知るほど世界が広がるのではなく、限定されていくのだ。

子供の時に自分が感じた失望は、言葉にしたらこういうものだったと思う。

だけどすぐに気付いた。それは「一冊の本の可能性」を限定しているだけで、文字を覚えたから「それ以外の多くの本」に世界の可能性を広げることが出来るのだ。

 

クイズに正解したからといって、答えに関する事象をすべて知っているわけではない。

ガガーリンの「地球は青かった」という言葉を知っていたとしても、ガガーリンが見た地球の青さがわかるわけではない。

むしろクイズに正解するということは、その先に自分がまだ知らない世界が広がっていることを知るということでもある。

ちなみに、正確にはガガーリンは「地球は青かった」とは言っていない。彼は「空はとても暗かった一方で、地球は青みがかっていた」と言った。

僕はクイズをしていたから、この言葉を知っている。

僕はこっちの方が好きだ。

僕たちが空だと思っているものが、実は太陽光が見せる幻にすぎず、それでもやはり地球は青いのだと教えてくれる。

僕は「深夜」という言葉を思い出す。

僕は深い海に沈んだ太陽だった。光を照らす部分を、僕は見ることができる。しかし、光は海底までは届かない。

僕は海の中を漂うにつれ、自分の目に見える景色の小ささと、海の広さを知る。

見ることができなかった暗闇の深さを知る、そんなことを考える。

(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)

この箇所が滅茶苦茶好きだ。この本の中で屈指の名シーンだと思う。

三島は「深夜」という言葉によって、深い海に沈んだ太陽になる。そこは「深夜」という言葉を最初に発した過去の人とつながることが出来る異世界だ。

その自分がいる異世界から「クイズ」という媒介を通すことで、現実で光で照らされた部分を見ることが出来る。

そうしてその現実を照らす光を見たからこそ、自分の周りにあるものを暗闇であると認識し、「深夜」を知ることができた。

「深夜」という言葉を知っていることが、「深夜」を知ることではない。

クイズをすることで、三島は「深夜」を、世界を知ることができる。

読んでいて「本当にその通りだ」といちいち泣けてしまう。

 

クイズなのか? 魔法なのか? それは三島の実存に関わる。

三島は自分が培ってきた「クイズ」という世界観を通して、本庄絆を見る。

三島は本庄絆に対しては何の思入れもない。だが「クイズ」には強い信仰(というよりは実存的な実感)がある。

気がつくとパソコンを殴っていた。(略)

彼らは一見謝罪しているように見えて、実は何も謝っていない。

混乱を招いた? 期待を裏切った? そういうことじゃない。(略)

最終問題がヤラセだったのか魔法だったのか、それともクイズだったのかわからなかった。

これが「説明」だというのなら、すべてのクイズプレイヤーを舐めている。

(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)

 

まずはこれが「クイズの世界の話」なのか「現実の世界の話」なのかはっきりさせて欲しいのだ。

ヤラセだったらヤラセでいい。(良くはないが、この時点では問題ではない。次の段階の話である)

ヤラセであれば、それは「クイズの世界」の話ではないからだ。

 

本庄絆が一文字も聞いていない問題を解答できたのは、ヤラセだったのか(現実の世界の範疇か)クイズなのか、魔法なのかを知ろうとするのは、三島が「クイズの世界」で生きている人間だからだ。

世界に広がりはある。しかし限定されることによって世界は世界なのだ。

無限の広がりがあり可能性が限定できない。そうなったら「クイズ」は「世界」ではなくなってしまう。そこでは三島はクイズオタクではなく魔法使いにされてしまう。

だからクイズは魔法であってはならない。

そういったやりとりが積み重なって、クイズプレイヤーは魔法使いだと見なされていく。(略)

視聴者はそうやって信じてしまう。クイズプレイヤーは、魔法使いなんだ、と。(略)

僕は自分が魔法使いではないことをきちんと説明すべきだった。説明しなかったせいで、本庄絆の優勝に正当性があると考える人や、僕がヤラセに加担したと見なす人が出てきたのだ。

(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)

僕たちは魔法使いなのではない。ただのクイズオタクなのだ。

(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)

「本庄絆が一文字も問題文を聞かずに解答できた理由」を知らずに三島は生きていくことは出来ない。自分が生きるために、何としてもその謎を解かなければならない。

他人事ながら緊張で心臓がバクバクする。

 

「クイズの世界」が導き出した誤答

そして三島は、ついに「本庄絆が解答できた理由」がやはりクイズであったことを本庄自身の口から突きとめる。

三島は「本庄絆が解答できた理由が、ヤラセなのか魔法なのかクイズなのか知りたい」と思ううちに、知らず知らず自分と本庄を重ね合わせていた。

たくさんの過ちを犯したかもしれないが、その過ちのおかげで答えられるクイズもある。クイズに正解すると、「そんな過ちも成長のための経験だったのだ」と言ってもらえたような気がした。

世界が変わればクイズも変わる。世界とクイズと自分はつながっているのだ。人生がクイズの連続なんだ。

本庄絆もきっとそういう思いをクイズに抱いていたのだろう。だから一文字も聞かないクイズに答えることが出来たのだ。

しかし本庄絆の言葉は、そんな三島の思いをあっさりと裏切る。

 

人物同士が作用し合わないシニカルさ。

三島は本庄の言動に失望する。

失望したことで、自分が当たり前のように「クイズ」という自分だけの世界観を通して本庄という他人を解釈していたことに初めて気付く。

別のもので解釈すべきところで、「クイズの世界」のルールに従ってしまったのだ。

僕だって、本庄のファンと変わらないのかもしれない。彼がSNSで沈黙しているのは、彼なりに反省しているからだと思っていた。(略)

でもそれは、僕が勝手に作りあげた「本庄絆」という偶像に過ぎなかった。

(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版)

三島はついに探し求めた本庄絆自身の説明を聞いて、「汚い言葉を口にしてしまいそう」になり席を立つ。もう二度と本庄絆には会わないと思いながら。

 

この話が徹底しているのは、話が始まる前と終わった後で三島がまったく変わらないところだ。

三島は元々、自分が拾えなかった問題については忘れて切り替えるようにしているし、「誤答することを恥ずかしいと思うこと」を克服している。

だから本庄絆に対して幻想を抱いた、という「誤答」もすぐに忘れて切り替える。

大昔に、クイズに強くなるために「恥ずかしい」という感情を捨てたときみたいに、綺麗さっぱり忘れ去った。(略)

彼はもう、僕の中で存在しない。

(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)

この話は「三島が本庄絆に勝手に幻想を抱いてその幻想を裏切られたが、そのことをすぐに忘れる話」だ

つまり三島と本庄の関わりは、作内世界に何ひとつ影響を与えない。

この話は「三島の本庄に対するこだわり」がすべてだから、字義通りの意味として「何の意味もない」のだ。

恐ろしくシニカルな話だ。

「本庄と三島の関係がお互いに何ひとつ作用しない徹底ぶり」は、インタビューで作者の小川哲が答えていた、他人に作用することに興味を示さず、他人からの作用を遠ざける考えに通じるものがある。

結果がついてくるかはあまり気にしない。自分に決められることではないからだ。(略)

自分が考えることを伝えることはできるけれど、他人の考えや信念を変えることはできないかもしれない。それは仕方がないことだ。(略)

本が売れればもちろん嬉しいけれど、売れなかったとしても仕方ない。読者がどんな本を求めていて、どんな本を買うかは僕が決めることではない。

(引用元:「直木賞が決まって」小川哲 読売新聞2023年1月24日(火)19面/太字は引用者)

 

それでも二人は「クイズの世界」でつながっている。

だが「本庄絆のことは綺麗さっぱり忘れた」三島は、まったく変わらなかったわけではない。前より少しだけ強くなったような気がし、前より少しだけクイズのことが好きになって嫌いになる。

本来は本庄のための問題である「Under tale」を、桐崎さんと付き合ったために三島が答えた。

本庄絆は動画ビジネスのために知名度とインパクトが欲しかっただけ、三島はそんな本庄に嫌悪を感じ綺麗さっぱり忘れることにした。それはそうなのだろう。現実の世界では。

でも彼らは本人たちの意思とは関係なく、クイズの世界で結びついている。

だから三島は前より少しだけ強くなれて、クイズのことが好きなって嫌いになったのだ。

 

自分の思いこみで時に苦い思いをしながらも、それもまた次のクイズを答える糧になる。

確かにクイズとは人生かもしれない。

君のクイズ

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皮肉たっぷりだけどいい話だった。

 

*1:昔は比較しようがないので、まあ人生とはこんなものなんだろうくらいの感覚だった。

「読者がどんな本を買うかは、僕が決めることではない」直木賞を受賞した小川哲のインタビューが凄く良かった。

 

2022年1月24日(火)に読売新聞掲載されていた小川哲のインタビュー「直木賞に決まって」がとても良かったので、特に印象に残ったところを抜粋して紹介したい。

高校生のころから、ずっと心に決めているルールがある。

「自分の力ではどうしようもないことに対して、必要以上に思い悩まない」ということだ。(略)

結果がついてくるかはあまり気にしない。自分に決められることではないからだ。(略)

自分が考えることを伝えることはできるけれど、他人の考えや信念を変えることはできないかもしれない。それは仕方がないことだ。(略)

僕ができることは、自分が信じる「面白さ」を追求することだけだ。(略)

その結果、本が売れればもちろん嬉しいけれど、売れなかったとしても仕方ない。読者がどんな本を求めていて、どんな本を買うかは僕か決めることではない。

(引用元:「直木賞が決まって」小川哲 読売新聞2023年1月24日(火)19面/太字は引用者)

特に共感を覚えたのは太字の箇所だ。

 

ネットを見ても、何かの対象に対する人の反応は千差万別だ。対象への評価は受け取る側の認識が大きく作用する。

本来は当たり前のことだが、人は自分の認識しか実感できないように出来るので、自分の認識が普遍的なもの、もしくは一般的なものと錯覚しがちだ。

頭では「対象への評価は自分の認識も作用している」とわかっていても、自分が対象から受けとった影響を万人が受ける、そしてそれは対象だけの作用である(自分の認識の作用は考えない)という感覚が強くなってしまう。

また自分とは違う他人の認識を特殊なものと思い、「そんな風に認識する(読む・見る)のはおかしい」とも思いがちである。

 

認識自体には特に善悪も是非も正誤もなく、ただパターンの違いがあるだけだと思っている。

自分が出来ることは、「どの相手、どの物事について、どこまでパターンをすり合わせるために努力するか」を選ぶことだけだ。*1

この相手、この事柄だったら、理解してもらうためにこれだけやろうと思ったことを思ったなりに出来た、と思ったら、どう受け取るかは相手に任せるしかない。どう受け取るかは相手の領域の話だ。

こういう考え方を持つこと自体が、自分にとっては相手を自分とは違う他人として尊重することだ。

そう思っているので、インタビューを読んで自分も似た考えだなと共感した。

 

読者がどんな本を求めていて、どんな本を買うかは、僕が決めることではない。

(引用元:「直木賞が決まって」小川哲 読売新聞2023年1月24日(火)19面)

ゼロから自分が作った創作は、書いた人にとっては並々ならぬ思い入れがあるものだと想像はつく。

だからこそ「作った自分の思い入れは、他人である読者には何の関係もない」とはっきり言いきり、「読者は読者個人の領域の中で、自分が読みたいと思うものを読み、好きに感じればいい」と、「自分の創作」が媒介であっても自他の領域をきっちり分ける考えかたがいいなと思った。

作品に対する自負と読者に対する信頼を感じる。

 

上記の考えとは逆に「自分が面白いものではなく、大勢の人が面白いと思うものを書いて売れなければ(読まれなければ)意味がない」という、「読んでくれる人ありき」の人も多いと思う。

どちらが正しい、上だということではなく、ただタイプが違うだけだ。

「周りが求めているから、という理由ではできない」という人もいれば、「周りに求められていることをすることが楽しい」という人もいる。

今回のマツコ会議を見て思ったのは、マツコも雨穴も「自分が何が出来て何が得意で、どういう人間か」をよく分かっている。だからそういう自分でいて(いるしかなくて)周りがそれをどう評価するかは結果論だと思っているのではないか、ということだ。

「マツコ会議」感想。大人気ホラー作家・雨穴から大ヒットの極意を学ぶ。 - うさるの厨二病な読書日記

「時代のニーズにあったことをしたほうがいいのか」「周りの流れから外れていても、自分がやりたいことをやるべきか」という問いは、話が逆だと思う。

前者のほうがいい、後者をやるべきだという答えがあったとして、自分がやり続けることができるのか。

自分がやるのだとすれば「自分」という条件を外して普遍的な答えを求めても、それは答えにはならない。

 

小説を執筆している作業は常に孤独で、先の見えない暗闇をたった一人で歩いているようなものだ。

今日も明日も、できれば何十年先も、そうやって一人で、誰にも邪魔されずに一歩ずつ進んでいくことができれば、これ以上の幸せはないと思う。

(引用元:「直木賞が決まって」小川哲 読売新聞2023年1月24日(火)19面/太字は引用者)

ここの箇所が凄く良かった。

「暗闇」がまったくのゼロからの想像や考えの暗喩だとすると、「そういう状態が幸せだ」と思えるのはちょっと羨ましい。

 

「氷点下で生きるということ」の中で、出演者の一人がなぜアラスカで生活をするのかという問いに「(アラスカを)静かに散歩していると、自分の思考を遮るものは何もない。まるで教会だ」と答えている。

自分もよく夜に散歩に出かけるが、それは自分の頭の中と現実の感覚をリンクさせると考えやすいからだ。

「人(社会)が苦手、嫌い、人といると疲れる」という理由でこういう場所に来る人もいるだろうけれど、自分は「世界の広がりが思考の広がりとリンクしている感じがあり、思考がどこにもぶつからず好きなように歩き広がっていく空間を確保してそこで一人の時間を過ごす」ために、アラスカみたいなところに行きたい。

まあ自分がアラスカの荒野に行ったら、二日くらいで死ぬと思うが。(一日保たないかも)

 

とてもいいインタビューだった。読売新聞のアーカイブじゃないと読めないのかな。

「ゲームの王国」面白かった。

 

「地図と拳」も面白そうだが、「君のクイズ」のほうが気になる。

読んでみた。

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地図と拳

地図と拳

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*1:明らかに自分の権利の侵害をしたり、領域内のことに干渉してきた場合は、法に訴えるなど「努力」が強固なものになるけど。

「マツコ会議」感想。大人気ホラー作家・雨穴から大ヒットの極意を学ぶ。 

 

「マツコ会議」に雨穴が出る、ということで、朝から楽しみすぎてそわそわしていた。

23時の15分前には、やること全部済ませてテレビの前で待っていた。

 

最初、マツコが雨穴にもホラーにも余り興味がなさそうなのが気になった。

これは余り深堀りされず面白くないかもしれない。

そんな不安が心をよぎった。

だが後半は、マツコが雨穴の作品というよりは、雨穴という人に興味を持った感じが伝わってきた。

 

「だんだん可愛く見えてくる」

とマツコが言ったように、雨穴のキャラはホラーの語り手によくある「怖い」「不気味」「おどろおどろしい」感じではない。「ゆるく抜けた」感じだ。

戦略的にやっているなら、「少し抜けたキャラのほうがホラーとの相性が良い」と思いついたことに脱帽する。

動画を見ていると、謎の核心に迫る場面で雨穴はちょっとズレた言動をする。雨穴の動画は物語そのものもさることながら、語り手である雨穴のキャラ(言動や視点)の面白さがある。

「ゆるキャラ」っぽく、人が気軽に愛しやすい*1

あれだけ情報を隠した得体のしれないキャラなのに可愛く見える、というのは凄いことだ。

 

番組を観て驚いたのは、動画の設定の作り込み具合だ。

「変な絵」の話のきっかけになる「七篠レン 心の日記」を実際に150日分書いてネットにアップした、という話を聞いて驚愕した。

七篠レン 心の日記

「ストーリーには直接出てこない背景の作り込み」は、読み手の内部にリアリティを生じさせるためにとても重要だと思う*2が、それでもなかなかここまでは出来ない。

実際に自分で150日分書いたほうが話を書く上でもいい、とわかっていても、ストーリーに実際に出すわけでもないものを作り込むということをやる人はほとんどいないだろう。どんな短文日記でも、150日分考えて書くのはかなりの労力だ。

 

番組を観て「ヤツヱメヂキ」も動画を見てみた。

ヤツヱメヂキ - YouTube

これも作り込みが凄い。

ヤツヱメヂキの造形も面白いし、二重底に入っていた文書の書き方など全部がストーリーの世界観を補強している。

 

番組の最後に雨穴がマツコに対して、「変化が激しい中で、いつの時代も自分というものブレずに保つのはどうしたらいいか」という質問をする。

この質問に対するマツコの回答が良かった。

「こっちのほうが得だから、こっちのほうが生きやすいからという理由で変わるのはカッコ悪い。そういう見栄だけで自分は根本は変えずにやって来た。『変わらない』のは自分のため、それだけだ。逆にブレたほうが生きやすいならブレていい」

マツコは話し始めと話し終わりの両方、「もう雨穴さんはわかっていると思うし、そういうことをやっていらっしゃる」と言っている。

雨穴について言えば、この人は「これが時代のトレンドだから」「このほうが得だから」という感覚でやっているとは思えない。

マツコが「優しい人柄に見える」と言ったように、「人を楽しませたいと思ったら、そのことに手を抜かず労力をとことん割くことに苦を覚えない人」なのだろうなと思う。

自分が今回のマツコ会議を見て思ったのは、マツコも雨穴も「自分が何が出来て何が得意で、どういう人間か」をよく分かっている。だからそういう自分でいて(いるしかなくて)周りがそれをどう評価するからは結果論だと思っているのではないか、ということだ。

 

今のように情報が溢れている時代だと「こうすれば成功できる」「こうなりたければこうしろ」というメソッドや格言は山のように溢れている。

そういう「人のやり方」を素直に受け入れられる人ほど、やってみて駄目だった、もしくは続かなかったら「自分は駄目なんだ」と思ってしまいがちではと思うが、自分は何回か書いている通りそれは違うと思っている。

その再現性を可能にする最大の条件は、そのメソッドを使う本人の傾向だからだ。

だからそのメソッドを使って駄目だった場合、フィードバックすることは「自分は駄目だ」ではなく、「なぜこの方法は自分にとっては有効ではなかったのか」ここから転じて「『(他の多くの人にとって有効だと言われる)この方法が有効ではなかった』という事実から、自分はどういう特性を持つ人間だと考えられるか」だと思う。

そういうことの積み重ねによって、「自分(の特性や傾向)を知ること」が最も大事なことだ。

「その方法が自分以外のすべての人間にとって有効」だとしても、自分にとって有効でなければ何の意味もない。

そこで「自分は駄目だ」と法則のほうに自分を合わす必要はまったくない。ちょっともったいないと思う。

「自分を知って、自分に合う(苦にならない)方法(生き方)を探す」

大事なのはそういうことだと思うのだ。

 

雨穴を見ていると「この人絶対にいつの時代も、ストーリーには出てこない150日分のブログを作り込んで、ヤツヱメヂキの精巧な模型を作るだろう」と思う。

結果的に人気作家・YouTuberになったが、ここまで人気が出なくても同じようなことをやっていたと思う。

今後も面白い作品をたくさん作って欲しい。

「ヤツヱメヂキ」に出てきた「暗村の儀式」が欲しい。出してくれないかな。

 

雨穴の動画の感想。

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「変な絵」「変な家」の感想。

www.saiusaruzzz.com

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*1:「通りすがりの人が気軽に愛せる」のはキャラにとっては強烈な武器になる

*2:個人的にはストーリーそのものよりもむしろ重要だと思っている。ストーリーはこの世界観のごく一部分なので

【小説感想】雨穴「変な絵」 謎めいたバラバラのピースが一枚絵になる爽快感がたまらない。

 

*物語の核心以外の若干のネタバレがあります。未読のかたはご注意下さい。

 

楽しみにしていた雨穴「変な絵」が発売されたので、さっそく購入した。

ほぼ一気読み。

変な絵

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前回の記事で書いた通り、雨穴の話は導入から中盤までは滅茶苦茶面白いのに、「落ちが強引すぎる」と思うことが多い。

しかし「変な絵」はそんなことはなく、オチまで大満足だった。

 

なぜ「変な絵」に限っては、「オチも大満足」だったか。

話の造りが従来のものと違うからだ。

ストーリー自体は(言っては悪いが)それほど大したものではなくありきたりなものだ。

だが「このストーリーをその角度から見せるか」「そういう構成でつなぐか」という、話の構成自体に仕掛けがある。

未解決の大量殺人の真相を、人々の色々なデマや仮説の積み重ねから作られた「猫箱」に例えるあの話などと同じジャンルだ。

 

「変な絵」は話の全体像を、核心から遠い場所のピースから見せる。

その「端」はそれ自体にも謎があり、これが全体像にとってどんな意味があるのか最初はわからない。謎を解くことで、その形が明らかになり、初めてパズルを組み立てるピースとして手に取ることが出来る。

ピースそれぞれの謎も面白いので読んでいて飽きない。「そのピースがここにハマるのか」という驚きもある。

そのピースの形の現れ方、全体像へのハマり具合は意外性がありつつも納得がいくものだ。

少しずつ全景が明らかになっていくので、何もしていないのに(推理をサボっていても)自分でパズルを解いているような爽快感を味合わえる。

 

ストーリーはある殺人鬼の話だが、情緒的な要素はほとんど深堀りされないので、動機はかなり強引に感じた。

ここは好みが分かれるかもしれない。

自分も普通の構成のストーリーであれば気になったと思う。

 

ただ「変な絵」の主役は人間たちではなく、彼らが書き残す絵の謎であり、その謎が解かれることによって見えてくる全体像(変な絵)だ。

このパズルの組み立てる過程こそが、この話の主人公と言える。

ピースである人間たちの心境は、さほど本筋と関係ないと割り切れる。

普段は「サイコパスは二人までにしろ」などうるさいのに、現金なものである。

 

一章 唐突に更新が止まった幸せそうな日記ブログに上げられた三枚の絵の謎。

二章 母子家庭の子供が「自分の家を塗りつぶした」理由。

三章 惨殺された男が死ぬ間際に残した、風景画の謎。

四章 母親を殺した少女が描いた絵と彼女の未来。

 

これらがぴったり合わさっていく様が読んでいて爽快だ。

謎解きモキュメンタリー大好き、という人にはぜひぜひおススメしたい。

それにしても栗原さん、スーパーマンすぎ笑

 

雨穴の動画や本の感想。

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「変な家」はオチはちょっと……と思ったが、導入は「変な絵」よりも好きだった。間取り好き。

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雨穴が出演した、2022年12月10日「マツコ会議」の感想。

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「変な家」「変な絵」で有名な雨穴のミステリー「謎解きモキュメンタリー動画」の感想まとめ。

 

変な家

変な家

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「変な家」で有名な雨穴のYouTube動画を何本か見たので、感想のまとめ。

 

★【奇妙なブログ】消えていくカナの日記(17:54)

見た中では一番面白かった。

内容はシンプルで雨穴の話にしてはオチに捻りないが、むしろそこが良かった。

他の話は自分の好みからすると趣向を凝らしすぎなのかなあと感じた。

 

とある一軒家で見つかった、不気味なビデオテープの真相 (49:00)

動画ではなくオモコロの記事で読んだ。

オチはツッコミどころが多いが、中盤までは安定の面白さだった。

 

【ミステリー】人形に録音された、子供の声の謎(49:58)

これも面白かった。

オチが若干リアリティがないかなと思うが、全体的に見ると全然許容範囲。

子供の絵が小道具に使われているが、見ようによっては怖いということに気付いたところが凄い。

 

異形の牢獄 (10:32)

だいたい想像通りの話。文章で読んだらそれほど面白くなかったと思うが、怪物のビジュアルが見ていて楽しかった。

 

幻肢痛~十畳間の霊~ (11:30)

一番好きな話。

導入から謎の提示のしかた、オチまで含めて全て好み。

十分強のこういう小話がさっと思いついて作れるのが凄い。

 

【最後の5分ですべてがひっくり返る】差出人不明の仕送り (58:48)

最新の話。

印象としては「不気味なビデオテープの真相」と同じで、発端から推測の過程、中盤の展開までは息をつかせぬほど面白いが、オチをそこまで捻らなくてもいいのではと思ってしまう。

「オチのためのオチ」に見えてしまうのだ。

ただそれも含めて十分面白かったので、謎解きモキュメンタリー好きの人にはおススメ。

 

雨穴の動画は、オチは若干自分の好みではなく腑に落ちないことも多い。

ただそれを差し引いても、導入部分の不思議さ、中盤の展開の面白さ、演出による吸引力が群を抜いている。

「謎系の話」は、オチ(謎解き)が合わなければ全てが合わなくなりそうだが、雨穴の話は「謎の提示」「謎解きの過程」の面白さだけで十分にお釣りがくる。

 

「差出人不明の仕送り」で栗原さんが、「犯人はストーカーではないか」という雨穴の推測を否定する場面がある。

その時に

「(犯人の動機がストーカーではないことは推測できるが、それ以上のことは何もわからない)ですので今の段階では犯人の動機は不明。わからないものはいくら考えても仕方ない。外堀から埋めていきましょう」(12:25付近)

と言う。

自分が雨穴の動画が、オチが合わないと思いながらも「面白い」と思うのは、この謎解きの過程が自分の感覚にピッタリ合うからではないかと思う。

 

以前、「事実の検証」とは、

事実のみの羅列→事実であるか否かの検証→全体像を組み立て→第三者が検証可能かどうか俯瞰→考察

この順番が、「事実に迫る」ことだ。

こういうものだが、順番が逆になっているもの、「先に自分の推測(結論)があって、それに合わせた事実のみを拾ってストーリーを作ってしまう。それが『謎解き』『考察』として流布していることが往々にしてある」と書いたことがある。

「創作」ならもちろんこれでもいい。

だがそれはあくまで創作(妄想)であって、事実の検証ではない。

雨穴の作る話は「お話」だが「お話の造り」はしておらず、「事実の検証風」になっているところが、モキュメンタリーとしての抜群の面白さにつながっている。

 

「謎解きモキュメンタリー」が好きな人にもしかしたら多いかもしれないが、自分も「未解決事件」が大好きで、一時期は色々なものを読み漁っていた時期がある。

だが判明している事実の検証が公的に進んでいたり、もう関係者がいなくなっている事件ならばともかく、まだ起こって日が十年単位でしか過ぎていない未解決事件だと、中傷めいた憶測も多い。

それこそ「面白い推測に合わせたストーリー」が、数多く流布されている。*1

自分も(当たり前だが)発言はしないけれど、そういうことを考えてしまうこと自体が嫌で見るのを止めた。

 

そういう自分からすると「事実の検証風・謎解きモキュメンタリー」を作ってくれる人、しかもそれが滅茶苦茶面白い人は、とてつもなくありがたい存在だ。

10月20日に出版予定の「変な絵」も凄く楽しみにしている。

 

1992年、山奥で一人の男性が遺体となって発見されました。

身体中には激しい暴行の跡があり、そして彼のポケットの中には一枚の絵が入っていました。ボールペンで描かれた山並みの絵。細かく折りたたまれた跡。そして、土の汚れ。

彼は犯人に関するある情報を伝えるために、この絵を描いたのです。

彼は一体、何を伝えたかったのでしょうか。

毎度のことながら、導入部分で気持ちが盛り上がる。 

 

読んだ感想。

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*1:これは本当に問題だと思う。

映画「容疑者Xの献身」を通算五回は観ている人間の、超個人的物語解釈&泣きポイント。

 

※本記事には映画「容疑者Xの献身」のネタバレがあります。ご注意下さい。

 

 

映画「容疑者Xの献身」*1を見るのは、通算五回目くらいだ。

この話の個人的な解釈を以前noteに書いたが、今回観て少し考えが変わった部分もあるのでもう一度考えを整理して書きたい。

 

映画「容疑者Xの献身」は、石神の信仰と殉教の物語。

原作「容疑者Xの献身」は、湯川と石神という二人の天才の才能がぶつかり合う、湯川が主人公のミステリーである。

映画「容疑者Xの献身」は、同じ筋だが描いていることはまったく違う。映画は石神を主人公とした信仰と殉教の物語である。

石神がルサンチマンに陥らなかったのは、元々の性格もあるだろうが、靖子という神に出会い信仰に目覚め救われたからだ。

石神が靖子に抱いた、自分も他人も犠牲にしその犠牲を全て自分が被るような献身的な恋(信仰)は、深い絶望からしか生まれない。

「容疑者Xの献身」がストーリーとして何の救いもなく(そして石神が無実の人間を殺した、という非があるにも関わらず)どうしようもなく美しいのは、石神の信仰のすさまじさによって彼がどれほど孤独だったかがわかるからだ。

 

「容疑者Xの献身」は、石神という巨大な才能を持ちながら誰にも理解されずに死んでいく、一人の人間の祈りの物語なのだ。

 

この話の中で、唯一引っかかるのは、石神が何の罪もないホームレスを殺害したところだ。

物語内でも湯川がこのことを厳しく非難するが、湯川の言葉は石神に響いている様子がない。湯川の石神に対する糾弾は、物語上まったく力を持っておらず機能していない。

今までは「この部分の非を指摘しておかないと主人公としての湯川のキャラが立たないし、視聴者から突っ込みが入ると思ったのだろう」と思っていた。

だが、今回見直して考えが変わった。

 

湯川は石神がホームレスを殺害した理由は、(トリックのため以外に)「本当の殺人者になることで、心が折れて真実を話してしまう危険を防ぐためだ」と指摘する。

重要なのは「なぜ、ホームレスを殺すと石神は『富樫を殺したのは自分ではない』という真実を話せなくなるか」だ。

現実的な文脈だけで見ると、湯川が指摘した通り「自分が殺人者になれば、殺人者ではないのに『殺人を犯した』という嘘をつく負担がなくなるから」という理由しか思いつかない。

しかし石神の人物像を見ると、この理由は納得しづらい。

湯川が持ってきた問題を六時間で解いたように、石神は「殺人者の汚名を被る」ということであっても、自分が決意したことに対しては心が挫ける人間ではないからだ。

ではなぜ、ホームレスを殺すと石神が真実を話す可能性がゼロになるのか。

 

石神が殺したホームレスは、石神自身である。

ホームレスは石神と同じ、社会から忘れられ見捨てられた存在だ。ある日、殺されいなくなっても誰も気づかない。

石神はホームレスを「彼らは時計の歯車のように正確だ」と言う。

ホームレスが「時計の歯車のように決まりきった動きをしている」と分かるのは、石神も「彼らと同じような時間に正確な(変わりばえのしない)生活を送っている」からだ。

 

この物語独自の文脈*2で見た時、

①社会から見捨てられ、ある日いなくなっても誰にも気づかれない存在

②時計の歯車のような生活をしている

この二つの要素によって、ホームレスと石神の存在は重なる。

石神は靖子と美里を救うために、自分自身を殺したのだ。

 

物語の最後で内海が「石神は花岡靖子によって生かされていた」と指摘した通り、石神は自ら命を断とうとしている時に、靖子(と美里)という神に出会い救われた。

そして自らが信じる神を救うために、自分自身を犠牲として殺したのだ。

「ホームレスという自分自身」を殺したことによって、石神は死んだ。だからどれほど追い詰められても真実を話すことはない。

 

この物語が成り立つのは、花岡靖子が「普通の女性」だから。

映画「容疑者Xの献身」が「殉教の物語」として成立するためには、以下の二つの要素が必要だと思う。

①石神は普通にしていても、不審な人物とみられやすい。(人から忌避されやすい)

②靖子は「聖なる被害者」*3ではなく、普通の女性である。

 

靖子は殺害の隠蔽を、顔馴染の隣り近所であるというだけの石神に何もかも任せる。いくら追い詰められた状況とはいえ、他人に殺人の後始末を任せる、しかも嘘をつき通すために、何も知らされないままでいる。

石神本人が言い出したことではあるものの、余りに他人を都合よく扱いすぎだ。

また仮に靖子が後に疑った通り、「石神が富樫に代わるだけ」の存在だった場合(普通に考えれば、この可能性が圧倒的に高い)どうするつもりだったのか。

富樫のことでさんざん苦労したにも関わらず、その富樫を殺してしまっていくらも経たないうちに風間のアプローチを受け入れている。親子仲がいい美里ですら、冷たい視線を向けている。

石神の真意にはまったく気づかず、ストーカーだと本気で信じて「石神が富樫に代わるだけ」と二人を同列に並べる。

石神が靖子に尽くしているにも関わらず、靖子がまったくなびかず、むしろ気持ち悪いとすら思っているところを見ても、石神は女性にとってとことん魅力がない男だと分かる。

 

もし靖子が石神の本質や才能を見抜き、その献身に報いるような女性だったら、「容疑者Xの献身」は自分にとって興味がわかない話だったろう。

何故なら、靖子が石神のことを理解できる女性だったら、この話はただの恋愛話だからだ。

靖子は石神のことがまったく理解できない。その本質も、真意も、本当の考えも、自分に向けられた気持ちも。

理解出来ないから、靖子は石神にとって神なのだ。

「罪悪感など抱かなくていい。何故なら、自分は自分の信仰のためにすべてを犠牲にして、既に死んでいるのだから」

靖子はこんなクッソ重い感情を受け取ることも出来ない。狡いところも弱いところもある、心優しい普通の女性だからだ。

ちょっと弱くてちょっと打算的。そんな普通の人間が普通に生きているだけで、人を救うことがある。そういう話なのだ。

 

泣きポイント

上記のように、この話を解釈している自分のこの話の泣きポイント。

だいたい後半はずっと泣いている。

五段階評価。★が一点で☆は0.5点。

 

「山小屋」のシーン。泣き度:☆

湯川「君が友達だからだ」

石神「僕に友達はいない」

初見では石神の決意と今後の二人の対峙を表すように見えた。

二度目の視聴以降は、後の二人の出会いのシーンにつながっていることがわかる。

石神がどういう気持ちでこう言ったかがわかるので、涙腺が緩む。

 

石神と靖子の電話での最後の会話。泣き度:★

「最後の通話になります」→「いしが……」→電話切れる。

石神の思いの強さ、それが靖子にまったく伝わらないことでの二人の温度差、そしてその温度差を望んでいる石神の気持ちを思ってもらい泣き。

電話を切ったあとの石神の表情がまた……。

 

研究室での湯川と内海の会話。泣き度:★★★

「驚いたよ。石神は外見を気にするような人間じゃなかった。それで僕は気づいた。彼は恋をしているのだと」

本作で一番好きなシーン。

石神に「君はいつも若々しくて羨ましい」と言われたことにあの湯川が驚き、驚いた瞬間に「石神は恋をしている」とわかる。

湯川は本当に石神のことを理解している。

 

石神の取り調べのシーン。泣き度:★☆

一から十まで嘘をついているのに、「いかにもそれらしい」不審者に見えてしまう。

「石神は普通にしていると、どこか不審な、薄気味悪い(キモイ)人間に見えてしまう」

このことは、ストーリーの中で繰り返し明示される。

堤慎一は演技でこれを見せているところが凄いが、やはりちょっと格好良すぎるというのが個人的な意見だ。

何はともあれ、石神のこれまでの人生の苦難と諦念を感じる。

 

拘置所の中で四色問題の解答を見る→湯川と石神による過去のシーン。泣き度:計測不能。

何度みても必ず泣く。色が天井に広がり始めた瞬間に既に泣いている。今も思い出し泣きしそうになっている。

石神は湯川とだけは、「四色問題の美しい解答」がどれほど尊いか、という感覚を共有出来た。このシーンで二人が交互に回想するのはそのためだ。「四色問題の美しい解答」が、石神と湯川の関係性では友情の暗喩になっている。

ではなぜ、石神は山小屋のシーンで「僕には友達はいない」と言ったのか。

石神の中で「四色問題の美しい解答」は、湯川との友情ではなく靖子と美里の幸福に切り替わったためだ。

「石神は友情よりも恋心を取った」のではない。

石神が捨てたのは全てだ。

石神は自分がこれまでの人生で最も美しいと思い、追い求めてきた「四色問題の美しい解答」を捨てたのだ。

そして捨てた瞬間に、「靖子と美里の未来と幸福」という「四色問題の美しい解答」が見えた。

自分がこれまでの人生で素晴らしい美しいと思うものを全て捨てた瞬間に、この世で最も美しく尊いと思ったものを可視化するという奇跡が石神に与えられた。

人生で石神にとっての「四色問題の美しい解答」が見られる人間が、どれほどいるだろう。

天井に広がった四色を見ている石神の恍惚とした表情もさもありなんである。

 

石神と湯川の最後の対峙のシーン。泣き度:☆

湯川「何故その才能をこんなことにしか使えなかったのか」

石神「そんなことを言ってくれるのは君だけだよ」

ここの石神の答えは余り好みではないが、前後が泣きシーンしかないので引き続き泣いている。

 

石神の靖子への手紙→靖子と美里との交流を回想。泣き度:個別表示

石神が自殺を決意したタイミングで、靖子と美里が訪ねてくるところ。(★)

石神がチラシを片手に弁当屋に入るかどうか悩むところ。石神を見つけて嬉しそうな靖子を見て、石神が照れるところ。(★★)

美里が石神を見つけて手を振るところ。(★★★★)

部屋で楽しそうにゲームをする靖子と美里の様子に石神が耳を澄ますところ。(★★★★★)

特に美里が石神に手を振るシーンは、心にくる。

このシーンで、石神は美里にほとんど反応していない。一般的な大人であれば、「お帰り、気を付けて」と言い笑顔で手を振るなどしそうだが、石神はひと言も喋らず、逃げるように背中を向ける。

そのため美里の友達は、石神のことを若干不審がっている。

石神は外見、言動から、ごく一部の人間を除いて非常に胡散臭く見える人物だということがここでも描かれている。

 

ラスト「靖子が石神に会いに来て、石神が支離滅裂になって号泣するところ」泣き度:(★★★☆)

湯川が認めるほどの才能を持ち、無表情で「論理的思考が」と言っていた石神が、ストーカーしていた設定の靖子に、「何の話だ」というほど混乱してしまうところに感動。

これは石神にとって絶望であると同時に、信じられない奇跡なのだ。

感動のもらい泣きが止まらない。

 

エンディング 美里が富樫を殴った壊れた置物が発見される。泣き度:★★☆

石神の献身と信仰の象徴。壊れて泥だらけになったが美しい。

 

毎度毎度こんな感じで、特に石神が自首する辺りからはずっと泣いている。

石神の献身(祈り)は、まったく実らなかったことを以て報われたのだ。

 

 

自分から見ると、おばみつは「容疑者Xの献身」とまったく同じ話だ。そう言えば甘露寺さんも「普通の女の子」*4だ。

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*1:原作既読。映画は原作の筋を借りて別のテーマを扱っていると思っている。後述

*2:物語内の現実の文脈とは別物

*3:造語。視聴者から見て無謬の存在であり、なおかつ加害者に抵抗できない無力な被害者のこと。女性を「聖なる被害者」にする物語は、それだけで自分の中で評価が下がる。理由はnoteに載せた「禁断の魔術」の感想に書いたので、良かったら読んでもらえると嬉しい。

*4:靖子とはまったく別の意味で、甘露寺さんは伊黒のことを理解できないと思う。そこがいい。

学生運動の背景を知ることが出来る本の紹介をしながら、適当に雑談をしたい。

 

少し前にネットで学生運動の話をよく見かけたので、自分が今まで読んだり聞いたりした話と合わせて雑談したい。

 

この時代の学生運動周囲の話を見ていくと、そのセクトや大学によってだいぶ雰囲気が違う。(考え方が違うので当たり前だが)

例えば立花隆の「革マル対中核」を読むと、革共同から分裂したこの二党派の大きな違いは、労働運動へのスタンス、どれくらい力を入れていたかのようだ。

革マル派の主目標は、なによりも革命をになうことができるプロレタリアートの前衛党の組織作りにある。学生運動については、それ独自の革命的の機能は認めず、『プロレタリアートによる学生の獲得』がスローガンである。(略)

いってみれば、革マル派の組織の本隊は、あくまで労働者の組織であって、学生組織はそれに従属するものでしかない。(略)

すでに有名な勤労、国労に始まって、全連、自治労、教労といったところで、革マル派の組織は大きな根を張っていた。

(引用元:「中核VS革マル」下巻 立花隆 講談社 P166ーP168/太字は引用者)

 

「彼は早稲田で死んだ」で問題になっていた革マル派は、労働者の組織が本体で、学生組織が従属する考え方を持っていた。

革マル派の最高指導者だった黒田寛一は、最終学歴が高校中退で大学に行っていない。

黒田寛一 - Wikipedia

自前で出版社が作れるくらい、実家は裕福だったようだが。

 

この時代の反体制、反権力の思想は、労働者など一般の働く人の間にも波及していた。

あさま山荘の包囲の指揮を取った佐々淳行の「連合赤軍「あさま山荘」事件」 の中に、学校で警察官や自衛隊の親を持つ子が立たされて「この子たちの親は悪い人だ」と言われた、という描写*1があった。

いま聞くと信じられないが、そういう時代だったのだ。

 

地域住民と学生が結託して行った闘争もたくさんある。

三里塚闘争などは、「中核VS革マル」を読むと、中心は地元の住民運動だ。

三里塚闘争 - Wikipedia

 

三里塚闘争の戦略・戦術を決定し、それを自ら実践していったのは農民たち自身だった。コザ市の暴動にしても、いずれかの党派の指導によるものではなく、自然発生的なものだった。

この二つの事件で、過激派を自任していた中核派は、むしろ過激さにおいて大衆に乗り越えられているという意識を持ったのではないだろうか。

(引用元:「中核VS革マル」下巻 立花隆 講談社 P166ーP168/太字は引用者)

 

「過激派」と自他共に認められていた中核派が、「自分たちは過激さで大衆に負けている。まだまだだ」と思った*2のだ。

「三里塚闘争」と「沖縄返還調印阻止運動」の描写を最初に読んだ時は、「文化大革命」のリンチ描写を読んだ時と同じくらいドン引きした。

暴動やその鎮圧と言う次元を超えて、「殺し合い」の様相を呈している。

色々な本の描写から見ると、学生にも労働者にも「権力」というものに対して憎しみに近い不信感があって、それをむき出しにすることに躊躇いがない。

むしろ率先してそうすることで自分たちの存在を訴えている印象がある。

今の時代もさほど信頼感はないかもしれないが、「権力=(殴り殺していい)敵」という空気はさすがに感じない。

 

つかこうへいの「飛龍伝」でも描かれていたが、この時代の警察や機動隊の実戦部隊に配備されていた人は貧しい家庭の中高卒の人が多かった。

そういう人たちに対して、比較的経済に余裕がある学生たちが社会の矛盾を訴えて暴力を振るう、というのは自分も疑問を感じる。

「権力に与している」からプロレタリアートには入らないのだろうか。このへんはよくわからない。

 

東大安田講堂にフィルムや書籍があって、それが放水などでダメになったかどうかという話も見た。

真偽は不明だが、仮にそういうことがあったとしても、この時代の学生たちの物の見方だと「フィルムや資料を『それ自体』として見る」という発想を取らなかったのではないか。

「文化大革命」のように「過去の権威」に価値を見出さないこともあっただろうし、当時はやっていた「実存的な物の見方」の影響も大きかったと思う。

「お前はどこにいる? と言われて、事物について行われる関係づけが使えない場合、答えようがないんじゃないか、っていうことね。もう、これ(講堂の机)を机と言うことすら言えない状態で問われるわけだから、ここが900番教室ということ自体がなくなってしまう。

そうすると結局、一方的に関係づけられてしまう我々(略)その関係を逆転するっていうことだけは分かっているわけですよ。だからバリケードを作る、あらゆる関係づけを排除した空間を作る。それに対して、我々の側がバリケードよりも高みに立って、関係づけを行わなければならないわけでしょう」

「イメージを事物で乗り越えるとき、そこに空間が生まれるわけです」

「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」メモと感想。三島由紀夫というスターと尖がっている学生たちの舌戦が理屈抜きで面白かった。 - うさるの厨二病な読書日記

 

三島由紀夫が学生の一人に「自然と人間の関係」を聞かれたときに、問答の中で出てきた学生*3の主張だ

 

「その物を、(資本主義社会の?)生産者の意図として使う」こと自体が忌避されることであり、自分たちの意図によって、その物に主体的に関与しなければならない。

革命(プロレタリアート)的視点に立てば、机は机ではなく権力を防ぐバリケードになる。

そうやって「自分たちに植え付けられた既存社会のイメージ」を実際の行動で打破しない限りは、自分たちの主張を打ち立てる場は生まれない。

 

この時代の学生運動の話を読むと、こういう考え方が頻繁に出てくる。*4

連合赤軍事件の総括でも、「銃はそれだけではただの銃だが、革命戦士になったお前が持つことで『革命的な銃』になる」という謎の理論*5が出てきた。

それこそ「太い実家を持つことで作られたキャラ(自己)」を、意識的に壊さなければ、*6資本主義社会によって構築された自己を止揚*7できない。そういう発想なのだと思う。たぶん。

当時流行っていた?「ハイデガー→サルトル+マルクス」の考えからきているのでは、と推測しているが、この辺りは自分もよく知らないので詳しい人に聞いてもらったほうがいいと思う。*8

 

この時代の人は、世界を変えるために自己や他人の内面を精査して問題を見出して変える、そうすることによって世界は変わるという考えに夢中になった。

主体の変革が世界を変革する、という考え自体は面白いなと思う。「ウテナ」を思い出す。

ただそれを他人にも適用したことが誤りだったと思っている。

 

この辺りの当事者の振り返りを描いた創作として、奥泉光の「ノヴァーリスの引用」が好きだ。 

(略)近世オランダ経済史を扱った修士論文の扉に、「哲学者の使命は世界を解釈するこではなく、世界を変革することである」とのエピグラムをモンブランの太字の万年筆で記した。(略)

マルクスの言葉自体はいまなお新しさを失っていないにせよ、ひどく手垢にまみれてしまっている。

(引用元:「ノヴァーリスの引用」奥泉光 創元社 P13)

(略)私は、「主体性」の言葉に以前と変わらぬ価値を与える旧友の思考スタイルに、微かな気恥ずかしさを覚えながら発言した。

(引用元:「ノヴァーリスの引用」奥泉光 創元社 P16)

研究会がなくなってからも、私たち毎日のように顔をあわせてはいたけれど、気密室にいるような濃密な関係の気分は急速に衰え、議論が交わされる場合でも、過剰に攻撃的な調子は陰を潜め、裸の自我をかすめて言葉がやりとりされることはもはやなかった。(略)

読み進みつつあるテキスト自体は問題の本質ではなかった。テキストを即して語りながら、私たちは多くの時間を己自身を語るのに費やしたのであり、むしろテキストはそうした性急さに対する緩衝材の役割を果たしていたというべきであろう。

(引用元:「ノヴァーリスの引用」奥泉光 創元社 P23-P24/太字は引用者)

 

「何かに即して隙あらば自分語り」は、今の時代もそこかしこでも見る。

特異で理解しがたい時代のように見えて、対象や道具や語り方が違うだけで、今の時代と内実はそれほど変わらないのだ。

当事者たちのこういう振り返りを聞きながら、今の時代の自分たちはどうかなと思うことが大切ではと思うのだ。

 

 

 

そう言えば内田樹も出ていた。

 

 

これも以前読んだ記憶があるけどうろ覚え。

 

*1:若干うろ覚え

*2:これはこれで「え…?」と思うが

*3:劇作家の芥正彦

*4:正直、自分も言っていること自体はよくわからない。

*5:総括の理論はこの辺りのことを踏まえないとよくわからない……と言いたいところだが、このあたりを踏まえてもよくわからない。

*6:自分が「太実家まとめ」を何だかなと感じるのは、批判しているようでこの論理にそっくり内包されてしまっているからだ。

*7:アウフハーベン

*8:誰かどこかで話していそう

【小説感想】「硝子の塔の殺人」が自分に合わなかった理由を細かく考えてみた。

 

*記事の性質上、内容の核心的なネタバレが含まれます。本編未読の人は、まず本編を読まれることを強くおすすめします。

硝子の塔の殺人

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公平に考えて、面白いと思う人もそうとういると思う。

出来不出来、是非の話ではなく、完全に個人的な趣味嗜好の問題だ。

 

自分がこの話に引っかかる理由は、自分の中の「そういうもんだライン」を超えているからだ。

「そういうもんだライン」とは

「自分の感覚では現実的ではない、そんなことはまずないだろうと思うこと」を、無意識のうちに「そういうもんだ、創作なんだから」で処理できる基準のことだ。

「無意識のうちに」がポイントだ。

 

「無意識に処理」出来なくなると、「外枠」が出てくる。

物語の外枠で見たときに、霧子を「ゴミみてえに捨てた」のは、(原文は犯人名)も金田一も同じだ、と思ってしまうところがすごく引っかかるのだ。

「そういうもんだライン」に収まりきらなくなると、この「外枠」が唐突に出てくる。

「リアルライン」や「エクスキューズ」や「そういうもんだライン」は、この「外枠」を意識させないために存在する。

「外枠」は物語と現実を分けるラインで、「読み手としての現実の自分」と「物語という回路を通っている自分」を分けるものだ。

「外枠」を認識した時点で、物語回路に読み手はすでに存在しない。その読み手に対して、その物語は機能していない。

「外枠」を意識したいと思っていないのに意識してしまった場合、物語世界に戻るのは難しい、というより自分個人の考えでは不可能に近い。

「金田一少年の事件簿File2 異人館村殺人事件」を読んで、自分の「そういうもんだライン」について考える。 - うさるの厨二病な読書日記

 

「硝子の塔の殺人」は途中まで読んだ時点で、綾辻行人の「館シリーズ」のファンであれば「『〇〇館』のオマージュ」と気付くと思う。

何度も何度もさしこまれる「自分たちは物語内の登場人物かもしれない」「人から見られている、誰かいる」「作家(になりたかった人間)が最後に残す遺作」という説明、そして作家になりたかった人物が残す「綾辻行人になりたかった」という言葉。

オマージュ元にも、登場人物の一人が鏡を見て「ひどい顔をしている」と考える場面があった(と思う)。

とするとオチはメタ(もしくはメタのような二重構造)だろうと想像がつく。

二重構造の一重が作家(になりたかった人間)が現実の(を模した)犯行を行う、だとすると、その裏はなんだろう。

両親が死んだ事件が未解決なのにその解決に取り組まないのはおかしいな。→ということは。

ああ、なるほど、作者はこれがやりたかったのか。

 

そこで気付いたのだ。

自分にとってこの話の何が駄目かというと、読んでいる最中に常に「作者」を意識させられるところだ。

だから読み進めることが億劫に感じられたのだ。

 

自分が創作に求める最も重要なことは、「現実のことを忘れるほど、その世界を生々しく体感させて欲しい」

情緒的な言い方をするなら、「物語の世界に連れて行って欲しい」のだ。

こういう話が本当にあるのだ、と読んでいるあいだはうまく騙して欲しい。

 

この話は自分の中にある「騙されポイント」とことごとく相性が悪かった。

例えば、「一般的な感覚」から逸脱しているキャラが複数いる上に、その逸脱の仕方が「不道徳なことを含めて何でもアリ」になっている。

物語世界は現実とは違うので、「現実において一般的な感覚」から逸脱したキャラ(読み手がまったく共感できないほど倫理感や道徳観がないキャラ)が出てきてももちろんいい。

だがそういうキャラが多いと、現実で日常を生きている読み手の感覚とはかけ離れた、「逸脱した感覚のほうが普通(多数派)」になる。

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サイコパスが余りに多いと、「物語世界ではサイコパスのほうが普通で、読み手の感覚のほうが特殊になる」。

「自分(読み手)には異常に見えるが、この世界ではこれが普通なのだ」と思い、物語世界で起こる事象の意味を読み手が判断(解釈)出来なくなる。

そうすると「一般的な感覚で言えば」意味のあるインパクトのある出来事をスルーしてしまったり、現実世界では一般的な認識に基づく判断を、突然求められて困惑するという事態が起こる。

「一般的な感覚や認識が普通である、という保証が存在しない世界観」では、例えば「身内を殺されたから、復讐を考えて当たり前だ」と言われても、そのコンセンサスが取れなくなる。

この物語世界では「一般的な感覚」は当たり前ではないので「その気持ちを留保なく、動機として十分だということを納得しろ」と言われてもな、という感じだ。

 

「サイコパスは二人までというルールが欲しい」というのは、「一般的な感覚や認識は、土台として担保しておいたほうがいい。そうでないと一般的な反応でさえ、そのキャラのキャラクター性に依存しなければ説明がつかなくなる」からだ。

 

自分は真犯人が犯行を犯した動機には共感したが、共感しているのは「現実世界の自分」ではなく「物語世界の自分」*1だ。

普段であれば、「いくら極端なことを考えようが、それは『物語を読んでいる(物語世界にいる)自分』なのだから、読み終わったあとの現実ではもちろんそんなことは思わない」

これで終わりである。

ところがこの本は、作者の影が見えているので、読んでいる最中なのに「現実の自分」も存在している。

「人間は最も大事にしているものを踏みにじられたとき、他人を殺すんだ」(P472)という言葉に、「自分も創作の世界に連れて行ってくれると思って、常に現実の影をちらつかせられたら、この犯人みたいに思うかもしれない」という「物語世界にいる自分」と、「いやいや、たかが創作の問題でそんなことを思うなよ」と思う「現実の自分」が頭の中に同時に出てきて参った。

 

何で創作を読んでいる最中に(読み終わったらあとの現実でならともかく)「たかが創作」と思わなきゃならないんだ……。

真犯人と同じくらい筋違いなことを言っていると分かっていても(というより分かっているからこそ)苛立ちがわいてくる。

 

自分は創作に対して面倒臭いほどこだわる人が好きだ。

そういう人はその創作を例え自分が知らなくても、趣味が合わなくても、会うことも話すこともなくとも(勝手に)同志だと思っている。

ネットに求めているのは、そういう面倒くさい人の「私だけの感想」だ。

「たかが創作」に苦痛を感じるほどのめり込んだ人が「たった一人の自分」として語る、その作品への重い思いを聞きたいのだ。

(創作の感想は「私」が語れ。|うさる|note)

メタ視点や二重構造、連環構造はむしろ好きだ。

創作なんだから、倫理や道徳を望んでいるわけではない。

手法や語られている内容を云々しているのではない。

自分が創作に望んでいるのは、「読んでいる最中は、現実とは関係ない『物語』の回路を通らせて欲しい」

ただこの一点だ。

現実とは関係がない創作の世界に連れて行ってくれれば、何でもいいのだ。*2

 

それが、読者が思うほど簡単ではないことはわかる。

だから「今回は入りこめなかったな」と思ったこと自体は仕方がないと思う。好みの問題もあるし。

自分がこの作品に引っかかるのは、かなり確信犯的にこの構図を作っているのではと思ってしまうところだ。

自分個人の感覚で言えば、それは創作とは何なのかという根底に関わる問題だ。

強いわだかまりを感じたが、それは自分の勝手な推測であり「not for me」に過ぎない、ということは十分わかった上での個人的な感想である。

 

自分が考える優れた創作(ミステリー)は、読みおわったあと、なおもその悪夢のような世界が続いていると思わせてくれるものだ。

そういう作品は、結末もトリックもすべて知っていてるのに、何度読んでもその悪夢を体感することが出来る。

「うみねこのなく頃に」に「『そして誰もいなくなった』は、最後の告白書の部分を破いてしまえば、魔法による殺人そのものではないか」という言葉が出てくる。

まさに言いえて妙で、わずか四日のあいだに起こった人の仕業とは思えない不可思議な大量殺人、とってつけたような告白書による唐突な幕の閉じ方、そういったものが読み手の恐怖や謎に対する想像力を掻き立てる作りになっている。

この解釈の余地を残したところ、物語が終わったあとも終わっていないように感じられるところ、もっと他の真相があるのではないかと思えてしまうところこそ、この話の最も優れた点だと思う。

だからこの話の題名は、いつまでも形を変えながら繰り返し用いられ、いつまでも傑作として語り継がれているのだと思っている。

【小説考察】アガサ・クリスティ「そして誰もいなくなった」の事件と犯人を細かく検証してみた。 - うさるの厨二病な読書日記

 

「そして誰もいなくなった」は、クリスティはたまたま垣間見てしまった事件をそのまま書いただけなのではないか。

あの世界は作者の手から離れて自律的に動きつづけているのではないか。

そして今でも永遠に回る輪のように、自分が本を開くたびにあの事件は一から起こっているのではないか。

 

物語が終わってなお、「物語世界」を体感させてくれる創作が大好きな自分から見ると、「硝子の塔の殺人」はその真逆に位置する作品であり、その点が駄目だったのだなという結論に落ち着いた。

 

 

*余談。「後期クイーン的問題」とは銘を打っていないけれど、似た問題が含まれている話ではこれが面白かった。

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*1:物語世界の自分は、「悪霊」のキリーロフに共感し、補陀落渡海にロマンを感じるがもちろん現実とはまったく別である。

*2:要は自分にとって面白ければ何でもいい。

【漫画感想】「十角館の殺人」全5巻 原作ファンも驚く衝撃の展開と感動の結末に大満足した。

 

*本記事には原作及び漫画版「十角館の殺人」の重大なネタバレが含まれます。未読のかたはご注意下さい。

 

*原作未読の人はもちろん、原作ファンにもぜひ読んで欲しい。全五巻。

 

漫画版「十角館の殺人」が完結していたので、未読だった四巻と五巻を購入して読んだ。

 

エラリイの恰好良さが異常。

松浦さんのまさかの名探偵ぶりに驚いた。

原作の咬ませ犬ぶりが嘘のようだ。

 

「犯人は君だね」

(引用元:「十角館の殺人」5巻 清原紘/綾辻行人 講談社)

 

殺されたルルウの眼鏡をかけるエラリイ。

「……張り切っていたのにな、編集長」というセリフと相まって、二人の仲の良さが想像できる。

(引用元:「十角館の殺人」4巻 清原紘/綾辻行人 講談社)

 

何人仲間が殺されようが推理ゲームを楽しんでいるようにしか見えない原作のエラリイの迷探偵ぶりには失笑しか浮かばなかった自分も、漫画のエラリイの恰好良さには惚れ惚れした。

ヴァンに千織を殺したと指摘された時も、「だから、他の奴らは関係ない。僕一人だけを殺せば……それで済んだんだ」という自虐的なほどの責任感の強さも、「え……? 誰?」と思うくらい別人だ。

 

ヴァンのキャラ造形も良かった。

原作のほうはヴァンのキャラクターがそこまで深堀りされていない。

そのため、いくら恋人が殺されたとはいえ、これまで友人だった人たちを殺人を計画して皆殺しにするという心境はいまいち納得しづらかった。原作はそこが要点ではないので別に欠点ではないのだが。

 

だが漫画版は、ヴァンが計画の途中で悩んだり、精神的に追い詰められておかしくなっている様子が見てとれる。

犯人であるヴァンは、被害者たちを閉じ込めるためのクローズドサークルを作った張本人なのに、誰よりもその輪に囚われ、逃れられなくなってしまっている。

(引用元:「十角館の殺人」5巻 清原紘/綾辻行人 講談社)

 

「殺人は、それを犯した人間を永遠に変えてしまう」(©「幽麗塔」)呪いのようなものなのだ。

 

漫画は原作とは違い、千織はエラリイたちが死に追いやったわけではない。海に落ちたことによるショック死だった。

「勘違いで大量に人を殺してしまった」

エラリイは、そういう業をヴァンに背負わせないために千織の死の真相を最期まで言わなかった。

非人間的なほどクールに見えて、仲間思いで情に熱くて責任感が強い。

そうしてそういうエラリイが中心にいたグループ、ということは、多少軋轢やすれ違いはあっても、なんだかんだ気が合い、仲が良いから一緒にいたのではと思うと、余計に真相の残酷さが際立つ。

 

主要な部分は変えていないのに、まったく別の話にみえる。

漫画版「十角館の殺人」は、原作のミステリーとしての面白さ、背景の不気味さを残しつつ、メインはミステリー研究会の面々の人間模様と誤解からくるすれ違いの残酷さを描いている。

自殺を図ったヴァンを江南が助け、「ここで死ぬなんて許さないから」と言う原作とは違う結末も、「青春と友情の物語」の側面があった漫画版にふさわしいものだった。

 

もっと言うと話自体がまったく同じことを描いていても、ミステリーではなく、「仲間たちの微妙なすれ違いや罪悪感の掛け違えが悲劇を生んだ青春群像劇」になる可能性すらある。(略)

同じことを描いていても、描く角度によってジャンルさえ変わってしまう、というのは面白い。

(漫画版「十角館の殺人」2巻感想。コミカライズの面白さは、作画者の解釈が楽しめるところ。 - うさるの厨二病な読書日記)

二巻を読んだ時点でこう書いた自分を、自分で褒めたい(鼻高)

 

ほとんど筋は変えていないのに、演出や見せ方の違い、ちょっとしたキャラや台詞の変化で、まったく別の話のようにみえる。

原作を読んでいるからこそ驚く展開の違い、別の楽しみかたが用意してあるのが嬉しかった。

「十角館の殺人」のコミカライズとしても、オマージュとしても大満足の面白さだった。

 

原作は、当時流行だった「人間の背景や内面を重視する社会派ミステリー」に対置される、謎やトリック重視の「新本格」というジャンルを打ち立てた。

そういう歴史と背景があるからこそ、漫画版が描いたキャラの人間性や関係性を深く掘り下げた人間劇が、より印象的に感じられた。

 

 

「綾辻行人になりたかった」という言葉は、わからないからこそ心に残った。

 

実家の兄ちゃんが貸してくれた知念実希人の「硝子の塔の殺人」を読んでいる。

硝子の塔の殺人

硝子の塔の殺人

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物語が始まってすぐに、投薬方法の特許を持ち、莫大な資産を築いた登場人物が「私は綾辻行人になりたかったんだ」(P38)というセリフを言う。

 

自分は「他の誰かになりたい」と思ったことがないので、この言葉に微妙な引っかかりを覚えた。

「(誰かになりたいと思う)私」が絶対的に存在するものではなく仮説的なものでは、というしち面倒臭い話はおいておいて、その人になってしまったら、作品を読者として読めなくなる。

綾辻行人になったら「館シリーズ」を読み手として読む楽しさを味わえないし、我孫子武丸になったら「かまいたちの夜」の恐ろしさは何かを考える楽しさがない。クリスティーになったら「そして誰もいなくなった」の事件と犯人を細かく検証する楽しさがなくなってしまう。

 

自分が本当に面白いと思う作品を読む、読み手としての楽しさを手放したくない。その作品の読者であることが楽しく幸せなのだ。

 

ミステリーの中で自分に最も面白さを与えてくれる作品は、「解決したように見えて、読み終わった後も悪夢から脱出できていないような違和感」があるものだ。その違和感があると、「こう見えているが実はこうなのでは」とずっと考えていられる。

「時計館」や「かまいたち」や「そして誰もいなくなった」を読み終わったあとも、「解決したように見えて、もっと恐ろしいことが隠されているのではないか」と妄想し続ける「読者の自分」でいたい。

 

上記のセリフは「綾辻行人のような作品が書きたい」よりは、「新本格というジャンルの先駆者になりたかった」という意味かなとも思った。

ただ、もしそうであれば「綾辻行人の立場になりたかった」や「綾辻行人のようになりたかった」というセリフになりそうだ。

 

ゲームの「SIREN」で、登場人物の一人である宮田が双子の兄の牧野に、「それでも俺はあなたになりたかった」というシーンがある。

この時の宮田のセリフは「村の暗部を担わされているから、求道師として崇められる牧野が羨ましかった」という自分との比較から出てきたようには思えない。

これまでの人生でずっと見続けている夢に手を伸ばすような、憧れよりもっと強い思いを感じる。

 

「あの人になりたかった」という言葉は、「なれないこと」を前提としながら、なれた可能性を夢見ている。

「自分のあり得た可能性を、他人の中に見る」という感覚は、自分にはよくわからない。

よくわからないからこそ心に残ったのだと思う。

 

(余談)

カーの代表作は自分は「三つの棺」ではと思うけれど、「火刑法廷」人気あるな。

 

古本の人の書き込みを見た妄想。「興味を惹かれて手に取ったけれど、難しくて挫折しそうな本」も、人と一緒なら読めるかもしれない。

 

読売新聞の書評欄に金石範の「火山島」が紹介されていて、面白そうだなと興味を持った。

韓国では今も余り語られない、「済州島四・三事件」を題材にした小説だ。

早速Amazonで調べてみたが、電書も文庫も出ていない。出ているのは中古の単行本とペーパーバック版のみだ。

全7巻だが、古本すら出品されていない巻もある。

 

「どうしよう」と思いながら、うろうろと紹介や感想、済州島四・三事件の記事を読んでいたが、やっぱり読みたいと思い、とりあえず一巻を購入してみた。

 

すんごくいかつい本が来た。

ハードケース付きの蔵書版は好きだけど……置く場所に困る。

 

新品と言われてもすんなり信じてしまうくらい綺麗だが、中に書き込みがあった。(『書き込みがあるかもしれない』ということは承知の上で買った)

ただその書き込みの箇所が思想などの印象深い言葉ではなく、状況の説明のような箇所なので不思議に感じた。

「南承之は金明宇という名を使っていた」(P33)

「モスクワ三国外相会談(一九四五年十二月末、米ソ英がモスクワで協議して臨時朝鮮政府樹立のための四項目を決定する)」(P46)

 

登場人物を整理したり、歴史の事実を調べたりしながら読んでいたのかな?と想像すると親近感がわく。

 

最近は古本でも書き込みがある本は見かけないので、「これはこれで他の人と一緒に読んでいるみたいで楽しいかもしれない」と思ってパラパラめくっていたら、栞紐が挟んである場所に「むずかしい」と書かれていた。

その後の部分には何も書かれていないので、挫折してしまったのかもしれない。

その栞が挟まれている箇所が、モスクワ三相会議協定で決まった三十八度線の設定や「信託統治」という概念の説明など、ストーリー部分からちょっと離れた朝鮮半島の南北分裂の過程の説明(っぽい)ので、確かに目が滑りそうな箇所だ。

 

モスクワ三国外相会議 - Wikipedia(ウィキでも書きかけ項目になっている。)

 

自分も途中で挫折した本はたくさんあるし、漫画もゲームも合わないと思って止めることも多い。(最近は特に)

「難しい」「つまらない」「合わない」と思ったら、サッと止めるのもいいと思う。時間は限られているし、コンテンツは山のようにいくらでもある。

 

ただ勝手に想像すると、この本の前の持ち主の人(書き込み主)は、テーマである「済州島四・三事件」とその周辺の歴史事情には凄く興味があって、知りたいと思う気持ちが強かったのではと思う。

そうでなくては、本にわざわざ「むずかしい」と書き込まない。

 

自分はコンテンツはとりあえず一人で接するのが好きだ。ゲームもオンラインはまったくしない。

でも「これは自分一人の手では余りそう」と思ったものは(すぐに見切りをつけてしまうけど)もしかしたら、一緒に読む人がいたら読み続けられるかもしれないなと思うことはある。

 

学生運動時代の「マルクス研究会」とかは、恐らくそういう目的で作られていたんだろうな。

大抵、その内部で滅茶苦茶揉めるけど。

*大揉めする「ノヴァーリスの引用」。

 

熱量が多すぎると揉める。

少なすぎると自然消滅してしまう。

仕事上の企画とはいえ、「ハードボイルド読書合戦」のように、お互いの好きな本を同じ熱量で読み合えるのは本当に幸せなことだと思う。

www.saiusaruzzz.com

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↑「哲学平らげ研究会」のように、平和に続いたケースももちろんあるけれど。

 

仕事のように「義務」と「利益」がなく、人の率先した意思にだけ頼って「何かを続ける」のはなかなか難しい。(主催者の力量によるところが大きいと思う)

「人の意思に拠るだけ」なのはブログもそうだけれど、ブログは自分が書くか書かないかだけだから話がシンプルだ。

 

途中までは「書き込み主」と一緒に読んでその先は一人旅をしようと思う。人の足跡を追いながら読むと思うと、いつもと違う、読む前のワクワク感がある。

 

火山島1

火山島1

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積読が余りに多いので(←全然読めてない……)読むのは先になりそうだけど。

 

「労働組合運動」というと、「沈まぬ太陽」を思い出す。

 

労働者版のフェミニズムみたいなのってないかな?

 

完全にマジカルバナナ*1だが、「労働者の組合運動」を描いた「沈まぬ太陽」一巻二巻のことを思い出したので、話したい。

読んだのが大昔なので、かなりうろ覚えな記憶の感想だ。

 

「沈まぬ太陽」の第一巻第二巻は、日本航……じゃなくて国民航空の労働組合運動の話だ。

主人公の恩地は、人望がある、他になり手がいないという理由で、労働組合の委員長を引き受ける。

委員長になった後、会社側の懐柔策を拒否したために、誰も行きたがらないナイロビやテヘランなどの地に赴任させられるなど直球をパワハラを受ける。

確かナイロビだったと思うが、誰も他にスタッフがいない場所で一からオフィスを作るなど読んでいるほうは面白いのだが、外地をたらい回しにされ恩地はどんどん疲弊していく。

露骨な嫌がらせだが、その上さらにわざわざ「嫌がらせだよ」ということを言いに、本社から上司がやって来たりする。

「労組と手を切るなら、日本に戻してやる」と言われるが、恩地はそんな言葉には屈しない。ために冷や飯を食わされ続ける。

 

恩地が「飛ばされた」後の本社では、恩地が委員長を務めた旧組合とは別に、会社側の息がかかった第二組合(御用組合)が作られる。

御用組合員は一人一人勧誘したり、好条件で懐柔しようとしたりして、徐々に旧組合を切り崩していく。この辺りの展開は、政治劇か陰謀劇を見ているようだ。

旧組合を強引に潰すのではなく、「こちらも労働者のための組合ですよ」という顔をして新しい組合を作り、運動を実質乗っ取るという手法だ。

この話では御用組合は敵方なので汚いやり口とい言われるが、やり方としては効果的だと思う。

 

どちらに大義名分があるか、「正しさ」の旗印を奪い合うのはいつの時代も変わらないが、多数派になって「労働組合(正しさ)の概念」を塗り替え、実質を乗っ取ればいい、というところが面白かった。

思想などの主観的な物事は、その世界観(認識)を共有する人が増えれば増えれるほど広まる。「こちらが正しいですよ」と言って、人を呼び込めば呼び込むほど「正しさ」を認識する人が増え、その集まった多数の認識を以て「正しくなる」のだ。

敵も味方も、運動のやり方も対抗の仕方も手馴れている感が凄い。

 

当然、会社は御用組合を「本当の」組合と認め、交渉相手にする。旧組合からは次々と組合員が去っていくが、そういう逆風の中でも信念を持って残った人たちは嫌がらせを受ける。

本社の受付の横に椅子と机を置き、そこで何の仕事も与えずさらし者にしたりする。

某会社のパソナルームを始め似たような件を見た時に、自主退職に追い込むためではなく(『追い出し』部屋ではなく)組合を止めさせるために人件費を払っている人に嫌がらせをする、ある意味余裕がある時代だったんだな、と思った。

尊厳を傷つけて人を動かそうとするのだから、ひどいやり口であることは変わりないけれど。

 

閑話休題。

旧組合に残った人たちは、そういう差別や嫌がらせを受けながらも、「恩地さんのように何年も外地勤務に行かされる人もいるのだから」と頑張り続ける。

恩地の盟友で、「俺も一緒に頑張るから、組合の委員長を引き受けてくれ」と恩地に言った行天は、会社に懐柔されてニューヨーク支店に行き、出世街道を歩んでいる。

この辺りは余りに善悪の描きかたがはっきりしすぎていて、個人的には好みではない。

 

この後の三巻で御巣鷹山墜落事故が起き、恩地は日本に呼び戻される。

一番印象深かったのは、やはり墜落事故を描いた三巻だ。事故の原因は何なのかを、残された機体や事故当時の機内の様子から解明していく過程や、事故直後の様子や遺族の様子など、描写が生々しい。

一巻二巻は面白かったけれど、三巻で描かれていることが圧倒的すぎて、どうしても印象が薄かった。

 

「労働組合運動」をメインで扱っている創作は、自分が読んだものでは「沈まぬ太陽」くらいだ。

その内実がとても興味深くて面白かったな、と思い出した。

 

映画も見たはずだが、何故かほとんど内容を覚えていない。

 

*1:人の話に乗っかって、全然主旨の違う話をすること。

「『自分を受け入れ愛してくれるが、他人に対しては受け入れがたい振る舞いをする相手』をどう考えるか。という恋愛モノの鬼門のテーマばかりを描いていた作家が確かいたような」→あの作家でした。

 

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「私だけに優しい、私だけを愛してくれる人」という、恋愛モノの相手役の究極の形である「自分を受け入れ愛してくれるが、他人に対しては受け入れがたい振る舞いをする相手」をどう考えるか。

恋愛モノにおいて、これは鬼門のテーマだ。

有名なところでは「花より男子」がこの点でつまづいており、批判をよく見かける。

 

「大蛇に嫁いだ娘」の感想記事で、「『自分を受け入れ愛してくれるが、他人に対しては受け入れがたい振る舞いをする相手』をどう考えるか」は、恋愛モノで鬼門のテーマだと書いた。

 

探せば、納得のいく結論を出しているパターンもあると思う」と書いた直後、すぐに思いついた。(恋愛モノではないけど)

 

 

 

三作とも「罪を犯した男を女性がどう愛するか」というパターンで、結論も「女性が男の罪(贖罪・逃亡)に付き合う」で同じだ。

「男に罪を告白して償うことを求めて、その男の流刑地について行く(罪に付き合う)」ソーニャのパターンが、個人的には一番納得が出来る。

 

「男の罪悪感を、女性が受け入れることで払しょくされる」は、(属性としての)男にとって定型なのかなと思う。

少年漫画でもダイ大の「ヒュンケルーマァム」、鬼滅の「猗窩座ー恋雪」のようによく見かけるパターンだ。

 

恋愛の相手役が罪を犯している場合、罪悪(社会)と恋愛(個人)が対立している構図なので、「罪を犯した相手役」は社会では受け入れられない、もしくは受け入れられるために償い(改悛)をしなければならない。

この構図が変化する要因が何も描かれていないのに、恋愛も成就し社会からも受け入れられる(祝福される)と、第三者からは不自然に見える。

吉田修一の別作品「怒り」は、「愛する人が罪人だったらどうするか」をテーマとして扱っている。

テーマになるくらい「恋愛と社会が対立した時に人は葛藤する」からこそ、「私を愛してくれれば相手の罪は気にしないヒロイン」は、読み手の心に引っかかりを生みやすい。

 

そこまで考えて、「『自分を受け入れ愛してくれるが、他人に対しては受け入れがたい振る舞いをする相手』をどう考えるか」を、よく描いていた作家がいたような? とふと思った。

なぜ忘れていたのか。

 

初期のCLAMP作品は、このテーマが多かった。

「聖伝」の夜叉×阿修羅、乾闥婆×蘇摩、帝釈天×阿修羅王、「東京バビロン」の星史郎×昴流、「レイアース」のザガート×エメロード。「X」は途中までになってしまったが、草彅×譲刃がこのパターンになったのではと思う。

 

「好きな相手のために罪を犯す。そんな相手を許してはいけないと思いつつも好きという葛藤」がメインだった。そのため、結末は「心中メリバパターン」が多かった。

ザガート×エメロードに顕著だったが、「罪を許す側」も個人の範囲内でしか物事を考えていない、その割に「相手の罪悪も受け入れる」ところまでいかない、中途半端なところが個人的に余り好きではなかった。

「容疑者Xの献身」の靖子や「罪と罰」のソーニャのように好きだからこそ(靖子は好意ではなく、石神に罪を犯させてしまった罪悪感がモチベだが)一緒に贖罪する、もしくは「悪人」のように罪と向き合わずどこまでも社会から逃げる(完全に個人優先)、どちらかを選んで、結末もその決断を受けたものになっているほうもののほうがいい。

「罪悪を受け入れるのか、受け入れないのか、はっきり決断できないところが人間らしい」と言われればそうかなとも思うので、好みの問題だけど。

 

星史郎が苦手だった。懐かしい。