うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

アフリカ系女性で初めてノーベル文学賞を受賞したト二・モリスンが描く、差別の構造と傷痕について「ビラヴド」

 

アフリカ系女性で初めてノーベル文学賞を受賞したト二・モリスンが、実際の事件を基に奴隷制度の傷痕について描いた話。

 

奴隷としての過去を持ち、現在は自由の身になったセサは、娘のデンヴァーと二人で暮らしている。

母娘は平穏に暮らしていたが、家で起こる怪奇現象に悩まされていた。

そこにかつて、セサが奴隷として過ごしていたスイートホームで同じ奴隷の立場だった、ポールDがやって来る。

ポールDは屋敷から幽霊を追い払い、セサと愛し合うようになったが……。

 

序盤、セサの過去やなぜ幽霊に悩まされるようになったのか、なぜ幽霊に悩まされながらもセサたちは家から離れようとしないのかはわからない。

ポールDが登場した時、ポールDとセサがいたスイートホームの主人はとても寛容であり、二人は一般的な奴隷のように虐待もされず、仕事も任されて人として尊重されていたという思い出が語られる。

ところが話が進むにつれて、セサもポールDも忘れていた過去を、不意に思い出すようになる。

 

セサやポールDは奴隷という身分から脱け出し、今は穏やかに暮らしているように見える。

だがそれは、過去の記憶を封印することによって、どうにか保たれている平穏だった。

セサやポールDたちは、スイートホームにいた当初、寛容な主人(白人)によって、人としての自我を与えられた。他人から尊重されること、信頼されることを通して、自らの内部に「人間」を形成していった。(作内では「ポールDたちは、一人前の男として扱われた」という言い方がされている)

ところが主人(白人)が変わっただけで、彼らの内部に形成された「人間」はズタズタに切り裂かれる。

 

セサの新しい主人となった「先生」は、甥たちにセサの人間的な特徴と動物的な特徴をそれぞれ分けて記入するように命ずる。

ポールDは暴れないように馬用のハミをくわえさせられ、四十数人まとめて鎖につながれて強制労働に狩りだされ、声を出すことも禁じられる。

女性はもちろん、男であっても脅され面白半分に性的な行為を強いられる。

セサやエラ、ベビー・サッグスといった女性たちは、日常的に性的虐待を受け、父親が異なる子供を次々と産む。そしてその子供たちがまた主人の資産となる。

セサたちの過去の記憶は、どれかひとつを取っても惨く、「人としての尊厳を砕かれた」と表現するしかない。

セサの義母ベビー・サッグスが言ったように、主人が寛容であるか残酷であるかは根本的には関係がない。

彼らの自我や存在は白人によって作られ、そして破壊される。

 

息子のハーレに買い取られ、自由を手に入れたベビー・サッグスはその時初めて「自分」を発見する。

ほんとうの「自分自身」になったことのない自身が見捨てられ、荒れはてた彼女の中心に居座っていたのだ。(略)

自分という人間を発見するための地図など、一度も手にしたことがなかったからだ。(略)

突然自分の両手が目に入り、目が眩み、簡単至極で同時にきらきらと輝くような「この手はわたしが持っている。この二本の手はわたしの手」という思いが生まれた。

何かがドキンドキンと音を立てているのを感じ、他にも新発見をした。

自分の心臓の鼓動だった。

いままでずっと胸の中で鳴っていたのか? このドキンドキンと打つものは?(略)

「何がおかしいんだ、ジェニー」(略)

「わたしの心臓がこどうしているんです」

その通りだった。

(引用元:「ビラヴド」トニ・モリスン/吉田廸子訳 早川書房 P287‐P290/太字は引用者)

ベビー・サッグスは、自由になることで初めて「私」という概念を知り、「自分は自分である」と実感する。

 

このシーン自体はいいシーンだが、その背後にあるものを考えると寒々とした気持ちになる。

奴隷だったベビー・サッグスは「私」を与えられず、知ることもできなかった。

「私の手」は私のものではなく、私の心臓は私のものではない。自分の体内で心臓が脈打っていることすら実感することが出来ずにいたのだ。

自分を「わたし」と結びつける自尊心を、彼女たちはひとかけらも与えられずに生きてきた。

 

セサたちは自分たちがかつて「『わたし』を持たない家畜として扱われていた→人としての尊厳を奪われていた時の恐ろしい記憶」を心の奥底に固く閉じ込めて生きている。

その記憶を思い出してしまえば、「わたし」でいることが出来ないからだ。

 

だがそれでも、かつて奴隷だった時の記憶が次々と噴出してくる。

この記憶の浮かび上がりかたは、時系列順にもなっておらず脈絡もない。

つながりがあるものを見ることで、印象的なシーンが浮かび上がってきて、そこにまつわる思い出が紐を引っ張られたかのようにスルスルと表に出てくる。

その過酷で恐ろしい記憶が断片的に現れることで、彼らの過去にどんなことがあったが、なぜそれを無理矢理にでも忘れ去らなければ人として生きていくことが出来ないのか。読み手も追体験する。

 

セサはかつて、デンヴァーの姉である自分の娘を殺している。

デンヴァーの兄である、セサの二人の息子は、母親の子殺しを知って家を出て消息を絶った。

怪奇現象は、セサが殺した娘ビラヴドが起こしていたものだった。セサとデンヴァーはそう信じている。

セサがビラヴドを殺したのは、かつての自分のような目に合わせないため、娘の人間性を白人によって破壊されないためだった。

セサは自分の下に戻ってきたビラヴドにそう説明する。だがビラヴドの怒りは収まらず、二人は共に荒廃していく。

 

なぜ制度が社会的には解消されても、人の心を捕らえたままでいるのか。

「ビラヴド」を読むと、その制度が人の心にどんなものをもたらすのか、制度自体を表面上なくしたとしても、それに関わった人たちの内部をどれほど破壊し、変質させてしまうかが伝わってくる。

白人種は、外見はどうあろうと、黒人であれば、その皮膚の下にはかならずジャングルが潜んでいると信じていた。(略)

自分たち黒人は、どんなにやさしく、どんなに賢く愛情に満ちていて、どんなに人間らしいかを、白人に納得させようと力を尽くせば尽くすほど、黒人が、黒人自身にとっては異論の余地のない事実を白人に信じさせようとして、身をすり減らせば減らすほど、黒人の心のジャングルはますます深くなり、ますますもつれてくるのだった。

だがそれは(略)白い肌をした人々が黒人の心の中に種を蒔いたジャングルだった。

そして、ジャングルは育った。広がった。(略)

ついにジャングルは、種を蒔いた白人たちの心に侵入した。

一人残らずすべての白人に感染した。彼らを変えて別人にした。

血で汚し、分別を失わせ、さすがの彼らでも望んでいなかったような非道な行為に走らせたので、自分たちが種を蒔いたジャングルに恐れおののいた。

奇声を上げる狒々は自身の白い皮膚の下に住んでいた。

(引用元:「ビラヴド」トニ・モリスン/吉田廸子訳 早川書房 P402 /太字は引用者)

ジャングルの例えは、社会と個人の関係、制度と個人の内面がどう結びついているかを的確に表している。

 

セサもポールDもベビー・サッグスも奴隷という身分から脱け出し、今は自由の身で生きている。

だがかつて経験した出来事が、せざるえなかったことが、自分を形成するものとなり自分自身を苦しめる。

自分が味わったことを味合わせたくないと思い殺した娘に呪われ、子殺しの母として糾弾され続ける。

 

構造(システム)は、個人を形成する要素であると同時に個人がその一部となって形成するものだ。

その制度がもたらすものが自身の内部に「ジャングル」として生い茂り、他の人間の内部のジャングルと組み合わさって繁茂していく。そうすることで自身の内部のジャングルはますます深く暗くなっていき、その深さ暗さによって自分自身が変質していく。

だから脱け出すことが難しい。

 

直前に読んだせいか、「ビラヴド」はフォークナーの「八月の光」の批判のように読めた。

歴史と因習、差別や偏見がうずまく南部の街から出て行く(出ていける)存在として、「八月の光」は未婚の母・リーナを設定した。

それに対して「ビラヴド」では、子殺しをした母であるセサを主人公に据えている。

セサは自分が殺した娘に復讐されながら、自分がお前を殺したのは愛情からだ、お前は「ビラヴド(愛されし者)」だった、その墓碑銘を掘るために、自分は屠殺場で身を売りさえしたのだと叫ぶ。

「ビラヴド」の中では、セサと同じようにかつて黒人奴隷だったエラも、白人に犯されて産まれた自分の子供に母乳をやる気なんて到底起きず、放置したら死んだという経験を語っている。

「母性神話」に対する反発、批判的な意識を感じる。

 

被差別者側の視点によって、差別の歴史の悲惨さ、残酷さを描く話。

女性(母親)特有の痛みと葛藤を描くフェミニズム文学。

時系列や因果によってではなく登場人物たちの意識に沿って内容が描写されるモダニズム文学。(このあたりの語りの手法が「八月の光」に似ている)

近代に発明された「自我=わたし」とは何かを追及した実存的な文学。

 

「ビラヴド」は色々な読み方ができる。

何より読み物としてもとても面白い小説だった。

 

「八月の光」も大好きだけどね。

 

続き。

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雨穴「変な家2」を謎解き推理して答え合わせしてみた&ネタバレ感想

 

一見無関係に見える11の間取り図とそこにまつわる謎から、背後に隠れている不気味なストーリーが浮かび上がる「変な家2」を読み終わった。

ひとつひとつの間取りにまつわる話は、単体だけでも面白い。

特に序盤の「①行先のない廊下」「②闇をはぐくむ家」「③林の中の水車小屋」「④ネズミ捕りの家」「⑤そこにあった事故物件」は、それぞれまったくの別の不気味さ、怖さ、謎があるため、読み進むごとに怖さが増幅していく。

「②闇をはぐくむ家」に出てきた、「どの家に住むかでどういう生活をするかが定まり、そのことによってある程度人格が形成されていく」「家の穢れを取るなんて、まるで人よりも家が偉いみたいじゃないか。そうではなく、亡くなった人を家から解放する仕事なのだ」という特殊清掃員の飯村さんの話は全体のストーリーに関わると同時に、「変な家」シリーズに通底する価値観に感じられた。

「家を清めるのではなく、亡くなった人から家の呪縛を断ち切る仕事なのだ」という考え方はなるほどと思う。

 

「変な家2」は冒頭に

 さて、この本には、それら数ある「変な家」の中から、11軒に関する調査資料を収録した。

 一見、それぞれの資料は無関係に見えるかもしれない。しかし、注意深く読むと、一つのつながりが浮かび上がってくる。

 ぜひ、推理しながら読んでいただきたい。

(引用元:「変な家2~11の間取り図~」雨穴 飛鳥新社/太字は引用者) 

と書かれているので、最後の「栗原の推理」を読む前に自分でも推理してみた。

栗原さんも指摘している通り、「⑥再生の館」まで読むとストーリーの大筋は見えてくる。

比較的わかりやすくヒントも散りばめてくれているので、「わかった」という爽快感も味わえた。

「間取り」「謎解き」「背筋が寒くなる不気味な話」このうちのどれかひとつでも好きな人にはおススメだ。

 

*以下、自分がした推理と全編読み終わった後の感想

(ネタバレ注意・未読の人は先に本編を読んでから読むことを強くおススメします)

 

資料⑪まで読み終わった後の推理

御堂陽華璃=ヤエコは、清親と絹の不倫によって生まれた不義の子だった。

清親妻が絹を殺害した時に、左腕を傷つけられた。

清親妻は赤子は殺せず、水無宇希の叔父夫婦にヤエコを預ける。叔父夫婦は清親妻が絹を殺したことを黙認したため、ヤエコは叔父夫婦を恨むようになる。

ヤエコは置棟に入るが、ここではヤエコと共に娘も売春をさせられる。(親子ともども売春をさせられているから、実際は四人に見えて八人からの実入りがある)

ここで幼女趣味がある緋倉正彦がヤエコの娘の常連になり、母娘ともども引き取る。

緋倉はヤエコと結婚しながら娘とも関係を持ち続ける。(ヤエコ娘の娘が、「④鼠捕りの家」に出てきたミツコ)

ヤエコは自分(と娘)がこのような境遇に陥ったのは、不義の子として生まれたためだ、と考えた。

親の不義が、その間に生まれた「不義の子」である子供に不幸をもたらす。

その考えのもとに、不義を働き子供を作った人間に贖罪させる宗教を作る。

緋倉をゆすって、ヒクラメーカーに贖罪のための家を作らせ、それを信徒に買わせる。信徒になった人間は押し入れなど狭い空間に閉じこもって、家の心臓の部分においた人形に謝罪する。そうすることで罪が清められ、不義によって生まれた子には罪が及ばなくなるという信仰を広めている。

ミツコは、母親から自分が生まれるまでの状況を聞き、祖母ヤエコを恨み嫌悪するようになる。

母親の復讐のため、ヤエコの杖を隠し殺害する。

 

最後まで読んだ感想

大まかな筋は合っていた。

大きく違う点は、ヤエコではなくその娘(ミツコの母親)が首謀者だったところだ。

ヤエコの娘は「置棟」の資料で存在を示唆されているだけで、名前すら出てこない。

推理として見ると、さすがにそれを組み込むのは無理だろうと思う。

ただホラーとして見た時、「最後のミツコの真相告白」にしかヤエコ娘(ミツコ母)の存在が出てこないことが後味の悪さとして作用している。

「ヤエコの娘」という存在は本当にいるのだろうか。

作内では、ミツコだけではなく西春明美も満も目撃しているのだから存在しているのは間違いない。

だが作外視点で見ると、娘にすら容赦なく害意を向けることも相まって、人ではない悪意の暗喩のように思える。再生の館やヒクラハウスがヤエコの身体のメタファーだったように。

百年の昔の密通から連鎖のようにストーリーが生成されて、そのストーリーが進むごとに悪意が増幅していき、最後には人の手ではどうすることもできない怪物を生み出してしまう。

「変な家2」で一番好きなところは、辻褄が合うストーリーの底に理屈では説明がつかず、理解することもできない因果の恐ろしさを感じられたところだ。

 

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急にマッピングがしたくなって、ゲームブック「パンタクル2」をやり始めた。

 

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相変わらずゲームブック「ドルアーガの塔三部作」実況を見ている。

見ているうちに久しぶりに手書きマッピングをしたくなった。

©しのゲーム

見るだけでときめく。

 

自分が知っている限りだと、ブロック(スクエア)数が表記されていて正確にマッピングできるゲームブックは「ドルアーガ三部作」と「ブラックオニキス」くらいだ。

……と思っていたけれど「パンタクル2」もマッピングできると説明文に書いてある。

おなじみとなった、正確にマッピングできる地下迷宮に個性あふれる登場キャラクターたち。

そういえばプレイしたことなかったな、と思い、kindle版を購入。

本当は紙の本で欲しかったが、最安値で4500円まで高騰しているのでさすがに手が出ない。

kindle版でも支障がなさそうだし、何より500円で購入できるのはお得感がある。

 

久し振りにゲームブックをやるけれど、やっぱり楽しい。

自分は情報量は多ければ多いほどいい、というタイプではなく、特に視覚から入る情報は余り多いと処理しきれないし、すぐに疲れてしまう。(基本映像よりも文章、電子よりも紙媒体派)

ゲームは脳内妄想によって世界観やストーリーを補完してプレイすることが多く、自分の妄想の方向性にフィットしたゲームなら、ストーリーがほとんどなかったりドット画や線画でも妄想でカバーできる。

自分の脳内妄想の土台となるくらい情報量が足りていれば、むしろ文章から出来ているゲームのほうがプレイしやすし、十分楽しい。

逆にストーリーやキャラがガチガチに固まっている(脳内妄想する余地が少ない)ゲームは、(まったくではないけれど)そこまで興味が持てない。

 

さっそくプレイを始めたが、文章が主人公のメスロンの一人称であることに驚いた。

ゲームブックは圧倒的に二人称が多い。「パンタクル」も「あなた」が主人公だった気がする。

一人称だとメスロンの人柄がよりわかる。

そうそう、柔和に見えて意外と自信家なんだよな。天才魔導士だから仕方がない。

三二

北と東に黒曜石の壁があり、それが通路に沿って長く続いている。(略)

西と南には一ブロック巾の通路が延びており、西は四ブロック先で南へ折れている。

南は長い通路で、先はよく見えない。

南へ歩くなら一〇八へ進む。西へ歩くなら一八一へ進む。

(引用元:「パンタクル2」鈴木直人 幻想迷宮書店)

この文章を読んだだけで気持ちが上がる。

 

入口の位置がズレていたらしく、一階からいきなり辻褄が合わなくなった。

どこがおかしいのか考えて、修正するのも楽しい。

無事にクリアしたら、自分も「ドラゴンクエストビルダーズ2」で迷宮を実際に作って歩いてみようと思う。楽しみだ。

 

面白いんだけれど意外とストーリーモードが長い。

早く自由に建造物が作りたい。

ある作品を読むことで他の作品の理解が深まると、テンションが上がる。その2(「火山島」×「カラマーゾフの兄弟」)

 

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↑の話の続き&補足。

 

いま読んでいる「火山島」の7巻に、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のオマージュシーンが出てきた。

反政府組織の裏切者である柳達鉱(ユ・タルヒョン)を、主人公の李芳根(イ・バングン)が糾弾する。

このシーンは読んでいて疑問が多い。副読本でもインタビュアーと作者のあいだで議論になっている。

でもほんとうにゲリラの人たちの名簿を警察に渡したかどうがというのは、李芳根もわからないわけじゃないですか。(略)実際に渡した場面は描かれていないわけですし。柳達鉱は尋問に対してゲロするわけでもないですし。そういったなかで殺されてしまうというのは、何か濡れ衣を着せられているようにも読めるわけです。

(「金石範『火山島』小説世界を語る!」右文書院 P167-169/太字は引用者)

インタビュアーがこう突っ込んでいるように、このシーンで主人公の芳根は、状況証拠のみで柳達鉱を裏切り者と決めつけている。

しかし芳根が反政府組織と行動を共にしなかったのは、↑のような考え方を「軽蔑している」からだ。

李兄は、解放後のこの方、とくに解放直後の左翼万能主義の状況のなかで、『革命』を口にするだけで、何も考えなくてすむようなアタマ、意識構造のことをよくいっていたでしょう。
『革命』の上に、『反』をつけるだけで相手を断罪し、自己の立場を絶対化し得るような意識を軽蔑をこめて批判していた。

(引用元:「火山島」6巻P110 金石範 文藝春秋/太字は引用者)

自分が「軽蔑をこめて批判していたこと」をやっており矛盾している。

 

「柳達鉱が裏切り者であること」は、副読本の作者の言葉で確定している。

問題は「なぜ作内で『裏切り者であること』が確定する描写をしなかったか」だ。

その描写がないためにインタビュアーが言及しているように「濡れ衣を着せられているようにも読めて」、主人公の芳根が、軽蔑していたことを自分が行うという矛盾が生じている。

「作外設定では柳達鉱(ユ・タルヒョン)が裏切り者であることは確定している。だが作者は、それを作内で書きたくなかった。(書くことができなかった)それは何故か?」

これが読んでいて不思議だった。

自分もインタビュアーが言うように、「作者のヤーヌス的な両面がこのふたりの人物にたいして無意識に出ているから」だろうと思う。

柳達鉱を裏切り者として作内で断言してしまうと、作者の分身である芳根とリンクさせることが出来なくなってしまう(完全な他者になってしまう)からだ。

 

ただ「芳根との同一性を保ちたい」のだとしたら、柳達鉱を一部免罪するような描写をする(何か事情があった、最後に改心するなど)方法を取ることもできる。

これをせずに(できずに)、逃亡した日本でも革命家面してふるまう」ような人物だからという理由で死に至らしめたのは何故か。

「火山島」の世界には、「カラマーゾフの兄弟」の世界とは違い神がいないからだ。

『もし神が存在しないならすべてのことが人間に許される』

これはもともと神が存在しないわれわれには無いテーマだが、このロシアの小説の主人公のセリフをもじったような言い方だ。(略)

済州全島民が虐殺されたら、全島民が永遠の生命に甦るのか(略)

おれは永遠を信じない人間だ。

生命の永遠もない。きみの生命も、おれの生命も永遠ではない。

なぜ、済州島の人間は殺されても、暴虐、飢えに晒されても、ただじっとしていなければならないのか。

(「火山島」7巻 金石範 文藝春秋 P224/太字は引用者)

「カラマーゾフの兄弟」の大審問官の話で、イワンは親から虐待されて死に至らしめられた子供の命を償うほどの調和(永遠)などありえない、そんなものがあるとしても自分は認めないという話をする。

対してアリョーシャは、罪なき身で全人類の罪を背負ったキリストであれば、すべての苦しみを調和させることができると答える。

イワンはアリョーシャの答えに対してさらに、できるとしても人は「永遠や自由、調和」には耐えられない。だからキリスト(神)の存在を知りながら、それを殺す罪に耐える人間が必要なのだと答える。

「カラマーゾフの兄弟」のドミートリィとイワンの関係は、キリストと大審問官の戯画である。

ドミートリィは無実の身で「父殺し」の罪を背負うことで、世界を調和させようとした。

イワンは神を否定するためにスメルジャコフに「神が存在しないならすべてのことが人間に許される」と吹き込み、父親を殺害させた。

だからドミートリィが「永遠の調和をもたらすキリスト」になるのを、「ドミートリィは無実である」という真実を告白することで阻止しようとする。

 

「火山島」の世界では、主人公・李芳根(イ・バングン)の上記のセリフの通り、「神は存在しない」

ドミートリィやアリョーシャのように神(キリスト)を信じるのであれば、どんな悲惨も永遠の命、調和のため、「済州全島民が虐殺されたら、全島民が永遠の生命に甦る」と信じることが出来る。

だが神(世界が最終的に調和する可能性)も永遠も信じていないのだから、これほどの暴虐、悲惨な状況が一体何のために起きているかがわからない。

 

「カラマーゾフの兄弟」→神がいる世界だから、無実のドミートリィがすべての罪を背負うことで世界は調和する。

「火山島」→神は存在しない世界。島民たちの苦しみを償うには、「実際に罪を犯した裏切り者」を殺すしかない。

 

「火山島」では(調和する可能性はないので)裏切りという罪を犯している柳達鉱を殺すことでしか、島民たちの無念や流血は償えない。

柳達鉱が「どこにいても必ず周りを裏切る人間(未来永劫罪のある人間)」でないと辻褄が合わなくなってしまう。

柳達鉱は「作内設定(神のいない世界)では卑劣な裏切り者」だが、「作外という概念を含めて見ると、無実の罪を背負って(作内)世界を調和させた人物」なのだ。

自分が柳達鉱という人物を面白く感じるのはここだ。

作者が「柳達鉱は嫌い」「ああいう人間を生かしておいてはいけない」と言っているところがまた面白く、言い方を選ばずに言えば「(芳根の内的世界も含めた)作内世界の調和のために、作者に殺された」*1

 

「裏切り者の悪党」だから吊るのではない。

「神がいない世界」では罪なき血が調和される可能性がないから、人が間違うことは許されない。吊る(犠牲になる)人間は、必ずそれにふさわしいド畜生でいなければいけない。

それは証明の必要もない、「神のいない世界」では論理によって確定していることなのだ。

「柳達鉱の粛清シーン」があれほど暗い異様な迫力に満ちているのは、「カラマーゾフの兄弟」との比較によって「神のいない世界」の構築のされ方*2が暗い影絵のように浮かび上がるからではないかと思う。

 

*その1。「葬送のフリーレン」×「ノルウェイの森」

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火山島〈7〉

火山島〈7〉

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*1:柳達鉱が「裏切り者である」ことを保証しているものが作外の作者の言葉しかないため、他の物語とは違い『作者』という概念を出さず作内描写のみで解釈すると「主人公の李芳根は証拠もないのに、自分の確信のみで人を裁くという、自分が軽蔑している反政府組織と同じことをする人間」と考えるしかない。←こういう現象が何故起こったのか、というところにこのシーンの面白さを感じる。

*2:「党は間違えない」に通ずるやつ。

「ゲームブック・ドルアーガの塔1巻『悪魔に魅せられし者』」の実況が面白い&ゲームブックの思い出話をしたい。

 

ゲームブック「ドルアーガの塔一巻『悪魔に魅せられし者』」の実況動画を見ている。

#1 ドルアーガの塔で遊びます!【ゲームブック実況】 - YouTube

ただ文章を読み上げるだけだったらどうなのか? と疑心暗鬼で見てみたが、

「ドラゴンクエストビルダーズ2」を使ってマップを立体迷路で再現して、横には平面図とステータスを出している。

普通に3Dダンジョンのゲームになっている。

*体長2メートルあるダブルヘッドのイラストが個人的にツボだった。

実況主のしのさんが、真剣に楽しんでプレイしているので(戦闘もちゃんとサイコロを振ってやっている)展開を知っていても見ていて楽しい。

「嘘をついている人間がいる」と言われる五階の囚人部屋の展開も誰が嘘をついているか知っているのでニヤニヤして見ていたら*1「全員、嘘をついている可能性があるよね」と言っていてビビった。

その発想はなかった……orz

 

動画を見て改めて「ゲームブック・ドルアーガの塔」は名作だとしみじみ思った。

マッピングする楽しさや、何が起こるかわからない面白さ、ダンジョン探索に慣れてきたと思ったら今までとは異なった展開に遭遇する意外性。

文章を読んでサイコロを振るという、今の時代から見れば「なぜわざわざそんなことを」と思うようなジャンルだが、不自由で限られた情報だからこその面白さが凝縮されている。

 

子供のころ、ゲームブックが大好きだった。

その中でも鈴木直人は自分にとって「ゲームブックの神」のような存在だった。

どの作品もその作品ならではアイディアやシステムが詰め込まれていて、何度やっても飽きなかった。

何度か書いているが、一番好きなのは「ティーンズ・パンタクル」だ。

昼間、街を探索して危険な夜に備える「昼と夜で世界が変わる」という作りが良かったし、周りの人間が少しずつレプリカンと入れ替わっていく、だが誰が入れ替わっているかわからない。日が経つにつれて状況が悪化していく、時限式のストーリーが良かった。

 

コメント欄に「スーパーブラックオニキス」を上げていた人がいた。

「スーパーブラックオニキス」はシステムが複雑で、子供のころ理解するまで時間がかかった。

レベル3(だったっけな)の回転扉の迷宮を一生懸命マッピングした記憶がある。懐かしい…。

*タイトルとイラストが変わっていた。

試し読みしたら普通に面白そうなので買った。500円だし。

 

ゲームブックはほとんど絶版になり、幻想迷宮書店が復刻して広めている状態だ。

www.inside-games.jp

──スタートダッシュを切った「ドルアーガの塔」三部作のインパクトは大きかったですよ。

酒井氏:Amazonのレビューでは、「おっさんホイホイ」とか言われてましたね。(笑)

上記の記事でこう書かれているが、しのさんは「ゲームブック」そのものを知らなかったが、凄く楽しんでいる。「ゲームブックを知らない世代」の中にも「文章だけのゲーム」を好む人がいるんじゃないかな。

そういう人が「ゲームブックという存在」を知って広めてくれるのは、媒体にとって意義が凄く大きいと思うので紹介したかった。

動画を見て思い出し懐かしくなったので、とりあえず「少しでもゲームブックが広まって欲しい」という祈願をこめてkindle版を購入した。400円だった。

*1:すみません。

三輪山、橿原神宮に行ってきた&「近畿地方のある場所について」が届くのが待ち遠しい。

 

先日、仕事の関係で大阪に行くことになった。

その帰りに大神神社と橿原神宮に立ち寄った。

oomiwa.or.jp

大神神社の御神体である三輪山も登ってきた。上り下りで二時間半くらい。

木陰が多くて余り陽射しが入ってこないせいか、他の山にはない良く言えば神秘的悪く言えば不気味な雰囲気を感じた。

登る前は暑さで「大丈夫か?」と思うくらいへばっていたのに、登ったあと、凄く体がすっきりした感覚があった。

それが凄く良かったので、また近いうちに行きたい。

 

三輪駅周辺の電車に乗って、窓の外の風景を眺めたり街中を見たりしていると、「近畿地方のある場所について」の怖さや不可思議さの背景にあるものがわかるような気がした。

近畿以外でも街から山が見えたり、山に街が囲まれていたり、山が日常の風景の一部になっている地域はいくらでもある。

ただ多くの場合、街のシンボルになる山は高い山が多く、人(の営み・街)と山(自然・神)は分離している。

北海道の大雪山渓や利尻富士、東北の岩木山、磐梯山、関東だと赤城山や那須岳、奥鬼怒の山々、丹沢や富士山、長野の浅間山や穂高、南アルプス、九州の桜島など大抵の場合標高千メートルを超える人が仰ぎ見る存在だ。

 

近畿地方は低山の連なりが延々と続く。

大和三山は全て標高200メートルにも満たない小さな山だ。

今回泊った橿原神宮のすぐそばのホテルの窓からは、大鳥居と畝傍山が見えた。

街が寝静まって人も車もほとんど通らない午前1時頃に、真っ暗になった畝傍山を見ていると、「見られている」という感覚がどこからかわいてきて、それが凄く怖かった。

山が街と一体化していて、すぐ目の前に神さまがいるような感覚になるのだ。

「神である山と街(人)は、ごく自然に一体化している。それは元々ひとつのものであり、本来は分離できないものだ」

「山は高く仰ぐもの。人を見守っているもの」という感覚で生きてきた自分からすると、「人にとって山とは何なのか」という感覚がまるで違う。

 

電車に乗って低山がずっと続く風景を見ると、山が自分にずっとついて来るような錯覚に陥る。

「山に行く」のではなく、「自分は初めから山の中にいたし今もいる」。その事実に今まで気付いていなかったことにいま初めて気付いた。

自分は元々山におり、山はずっと自分のそばにいてどこに行くにもついてきて見られていたのに、そのことに気付いていなかった。

この感覚は自分とってゾクゾクするような恐ろしいものだ。

その時に、そうかこれが「近畿地方のある場所について」のリアリティを支えている感覚なんだと思った。

 

自分が「近畿地方のある場所について」に感じる怖さは「『山』は常に自分の近くにいて自分のことを見ている」、そういう畏怖の念から生まれるものだ。*1

大げさに言えば「近畿地方のある場所について」の背景となる場所は、自分が生きる生活圏とは違う「神さまが闊歩する異世界」だ。

*久延彦神社からの風景。鳥居、森、山の組み合わせがいい。

 

「近畿地方のある場所について」は、いよいよ明日発売だ。

持っていって近畿地方で読みたかったが、日程が合わなかった。残念。

予約はばっちりしてあるので、届くのを楽しみにしている。

 

Web版を読んだ感想。

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*1:よく晴れた日に遠くに高い山が見えるくらいの山との距離感で生きてきた自分だから生じる感覚で、そこで生まれ育った人にとっては当たり前の、何ということのない感覚だと思う。

「火山島」1巻の感想。兄妹のイチャイチャが長い、男尊女卑思想がエグい、確かにドストエフスキーに似ている、など。

 

火山島 1

火山島 1

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二段組のページ構成で390ページなので、読むのが大変そうだなと思っていたが、意外や意外。長いとも思わずスルスル読めてしまった。

以下読んでいて面白いと思ったポイントと気になったポイント。

 

1巻の後半は主人公・芳根(バングン)と妹・有媛(ユウオン)のイチャラブがメイン

一番驚いたのはこれ。

一巻は前半は南承之(ナム・スンジ)という若者が主人公で、後半からもう一人の主人公・李芳根(イ・バングン)にスポットが当たる。

後半は、ほぼ芳根が妹の有媛とイチャついているだけだ。*1

読んでいると芳根は妹が好きなようにしか読めないが、あくまで「済州島四・三事件」という歴史がテーマだから近親相〇というセンシティブな要素は入れないだろう、恋愛に近いほど仲が良いという描写かなと思っていた。

「済州島四・三事件」が知りたくて読んでいるのに、兄妹の疑似恋愛で話が進まないのもな。

そう思い、武装蜂起が本格的に始まる6巻と7巻を先に読み出して驚いた。

まだイチャイチャしている。

一巻の続きと言われても違和感がないくらい、シームレスに二人のイチャイチャが続いている。

まだ「妹が俺の気に食わない男の嫁にされそうだ問題」をやっているのか?

まさか、二巻から五巻はずっとこの調子だったのか? ということはさすがにないだろうが。

さらに驚いたことに、芳根が妹に恋愛感情を持っていることを自覚し出した。

余りに武装蜂起が起こる気配がないので、読んでいると逆の意味で不安になってくる。

 

当時の済州島の男尊女卑思想がエグい

有媛の結婚話について芳根が、

この男と結婚をすれば(この男だけに限らぬが)、たちまち男に限りなく都合のいい儒教的原理で妻たる女に臨むことになるだろう。

バカでも何でも、股間にただ一物をぶら下げているというだけで、至上の存在として女の頭上に聳え得る朝鮮の男ども……。

(引用元:「火山島」6巻P48 金石範 文藝春秋/太字は引用者)

と考えるように、この当時の朝鮮半島の男尊女卑思想はかなり徹底している。

「年配者はそれだけで敬うべき存在」などの長幼の枠組みと共に、同時代の日本よりも厳格に制度に組み入れられている。

勝気で意思がはっきりしている有媛でさえ、結婚しろという父親の命令に面と向かって逆らえない。

また兄である芳根を「専制君主のように慕って」おり、芳根も父親と妹を争っていることに自覚している。

現代の韓国ではフェミニズム思想が日本よりも尖鋭化しているらしいが、それはこういう土台があるからかと思った。

 

上記のように考える芳根でさえ、龍鶴(ヨンハク)が薔薇の花束を持って自分の下へ来てくれたことを有媛が「その行動自体は好ましい」と評価すると、「こいつは男を支配しようとしている」と考え出す。*2

また「四・三事件」の中心的存在となり、それ以前から島の人たちを暴力的に支配していた「西北」という集団の一人と、自分や家族が標的にならないために結婚する女性が出てくる。

その女性の兄である呉南柱が妹に対して「西北の子供を妊娠したら、殺さないと許さない」と言う。

男の登場人物は自分たちが反共集団に支配され抑圧されていることには敏感なのに、自分たちが女性たちに対して家内で支配的であることには鈍感だ。

「女性はこのように家の外と内で二重に支配され、抑圧に苦しんでいた」と言いたいと思いたいが、芳根の有媛に対する考えを見てもどうもそうは読めない。

「そう妹に言ってしまうくらい、当時の済州島の青年は支配される屈辱に苦しんでいた」と言いたいようには見えるが、その屈辱によって男に当たり散らされる女性たちの屈辱についても少しは考えて欲しいと思ってしまう。

読むのを止めようかと思うくらい、この辺りの描写にはうんざりした。

 

ドストエフスキーが好きな人は楽しく読めそう。

副読本で筆者が「ドストエフスキーの小説に影響を受けた」と語っているが、確かに登場人物のリアルタイムの思考の広がりと行動がシームレスでつながっているところが似ている。

一瞬にして妹から他人へと、そのような激しい感情の変化があり得るものなのか。たとえ結婚していも、妹は妹であるはずだ。

それが結婚を想像するだけで妹を奪われる思いがする、いや妹への気持さえ氷のように凝固する冷たい心の動きを抱いたまま、妹がいる部屋へ戻ることはできなかった。

うむ……。彼は闇の色が溜まりはじめた中庭の地面をしばらく見下ろしていた視線を上げて、縁側をゆっくり歩いた。

父は息子に娘を奪われていたという思いに目覚めたのではないか。(略)

彼は自分のいやな臭いのする心の動きを内に押し包んで、部屋に戻った。

(引用元:「火山島」6巻P26-27 金石範 文藝春秋/着色は引用者)

青い箇所の思考と赤い箇所の行動を分離しないで時系列通りに書いている。

ドストエフスキーもこういう内省と行動、さらに登場人物の内省において主観視点と第三者視点を分けない文章が多い。

強いて名前を付けるなら「実存的な文章」となるのか。

一人の人間の中の思考と行動、俯瞰と主観を分ける必要性がないと考えている。というより、わけないことでその人物の輪郭(実存)をよりクリアにする効果があるのだと思う。*3

考えていることを逐一書いているため、話の進みは滅茶苦茶遅い。

マッカーシーが「火山島」を書いたら、第一章で事件が始まって一冊で終わりそうな気がする。

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四百万文字書いた小説についてさらに副読本まで出す人と、インタビューにすら満足に答えない人の違いが小説の書き方にも表れていて面白い。

 

また「火山島」は、「罪と罰」と組み込まれている要素が似ている。

兄を尊敬する妹、その妹が家族のために気に入らない相手に身売りのような結婚をする。兄がその立場を屈辱に感じて内省をするなど。

「ドストエフスキーは、あの亀が這うようなねちねちとした思考と内省のしつこさがたまらない」*4という人には「火山島」もおススメだ。

 

埴谷雄高といい、ドストエフスキーに影響を受けている人多いな。

 

 

*1:武装蜂起に向けての不穏な空気感もあるが、文字通り空気だけである。

*2:何で女性が男の行動を評価すると「男を支配しようとしている」ことになるのかはわからない。

*3:その効果を狙っているのか、単に書きやすいから用いているのかはわからないが。

*4:いいよね。

【映画感想】「リボルバー・リリー」の良かった点と不満だった点

 

*ネタバレ注意。

 

綾瀬はるか主演、行定勲監督の「リボルバー・リリー」を観てきた。

 映画『リボルバーリリー』公式サイト

 

良かった点

①とにかく強くカッコよく美しい綾瀬はるかを撮りたいという目的が首尾一貫していた。

②格闘シーンは見ごたえがあった。

③出演者が豪華。

④ストーリーがスピーディで退屈せずに見られた。

この映画の一番良かったところは、「戦う綾瀬はるかをいかに美しく撮るか」のためだけにすべてが存在しているところだ。

俳優陣もスタッフもその目的のためだけに一致団結している。

綾瀬はるかが演じる百合はそのことに十分納得できるくらい強く美しかった。

泥まみれになっても血まみれになっても、転げ回っている姿さえ美しい。

これだけ豪華で芸達者な人をそろえたにも関わらず、綾瀬はるかにしか目がいかない。(細見が豊川悦司だとエンディングロールを見て気づいた)

一対一の格闘シーンは、どれも見ごたえがあった。特に最初の列車内での格闘シーンは見ていて楽しかった。

ストーリーは起承転結もしっかりしていて見せ場も驚きもあり、アクションシーンの連続なので退屈せずに見られた。

「四の五言わず、強く美しい女性が戦ってスカッとする映画が観たい」ならおススメだ。

 

気になった点

一対一の格闘戦はいいのだが、銃撃戦はリアリティがなく見ているのがキツかった。

建物に立てこもっての銃撃戦はまだしもと思うが(それでもあの状況で突撃しない……想定しないとは考えられないが)視界が開けた平地の銃撃戦で、子供を連れて一人であれだけの相手を殲滅するというのは荒唐無稽すぎる。

陸軍は無能を通りすぎてただの的だ。

津山は「シベリアでパルチザンと戦っていた」と言っていたので、現場指揮官として実績があり優秀という設定なのだろうが、とてもそうは見えない。

タイトル通りガンアクションがこの話の肝だと思うので、銃撃戦はもう少しリアリティと緊迫感が欲しかった。的に当てているだけでは、百合の凄さが伝わってこない。

海軍省庁の真ん前に陸軍が防衛線を敷くのも劇画的な見せ方だというのはわかるけれど、なまじストーリーは現実的でそれなりに説得力があるだけに、クライマックスシーンと全体のストーリーのリアルさがアンバランスだった。

百合と一緒に戦っていた那珂と琴子、岩見がまったく怪我をしていないのも気になった。特に那珂と琴子は百合の代わりに敵を引きつけていたのに、超人か?と思ってしまう。

琴子はあんなに強いなら、慎太がさらわれた時に一人でも取り返せたんじゃないか?

 

もうひとつ気になったのは、百合の戦うモチベーションが男(水野)にすべて依存しているところだ。

水野に「戦う時は身だしなみも大事」と言われたからドレス姿で戦い、妻?である自分に生きていたことを隠し、ずっと連絡もせず別の女性とのあいだにできた子供を託されても「ほんと勝手な人」で許し、最後は水野の子供と水野が好きだった菓子を食って終わる。

岩見は「水野は百合を戦いに巻き込みたくなかったからでは」と言っていたが、慎太(とその母親)は巻き込んでも良かったのか。

百合をこれ以上戦わせたくない……自分のやっていることに愛する人を巻き込みたくないから消息を絶ったなら、別の女性と結婚して子供は作らない。

百合もそれはわかっていて「ほんと勝手な人」のひと言ですべてを呑み込み、あまつさえその人の思い出の菓子を食って終わりということか。

 

百合は山本に、水野は津山に「何のために金が必要なのか」「どんな夢を見ているのか」と聞いている。

「どんなモチベーションで戦うのか」という意味だと思うが、百合こそどんなモチベーションで戦っているのか、と疑問だった。

水野が信じた夢を自分自身も信じている、というよりは、「水野が信じた夢だから」信じているという風にしか見えなかった。

自分とのあいだの子供を失った女性を見捨てて、他の女性とのあいだで家庭を築いてた男の夢のために恨み言ひとつ言わずに戦う。

随分従順で物分かりのいい女性だなと思ってしまう。

百合は、内実は水野という一人の男への愛情に存在意義を託しているため、どんなに理不尽なことをやられても「勝手な人」で許してしまう。

かなり旧弊な価値観の女性でこれに凄くガックリきた。

旧弊も何も大正時代の話だから、とそこを夢も希望もない現実でガチガチに固めなくてよくないか。「映画史上最強のダークヒロイン」という謡い文句が空しい。

水野に言われたから戦いの時も身だしなみを大事にしている、という時点で嫌な予感がしたのだが。

 

ストーリーが慎太との疑似母子関係に収斂されるのも残念だった。

存在意義や行動のモチベーションがすべて対男性への性愛や母性に回収されてしまう女性キャラは苦手だ。*1

 

ただ余り深く考えなければ、スピーディで楽しめる映画であることは間違いない。

何より綾瀬はるかが理屈抜きでカッコよく美しかったので、観に行って良かった。

 

原作も買った。

 

*1:この映画はアクション映画で、ダークヒロインと謡われている主人公の戦う理由が性愛や母性に回収されてしまうのは残念という意味。テーマ自体が恋愛や母性ならそれは別にいいのだけれど。

「火山島」の第一章を読んで、歴史と創作の関係について思ったこと。

 

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「火山島」の第一章を読み終わった。

第一章を読み終わった時点でも「知識としてはうっすら知っているけれど、詳しくは知らなかった」と思うことが多い。

創作は歴史そのものではなくあくまで創作として読まないと危ういけれど、その反面「その事実の中で実際、社会がどんな感じで、一人一人の人がどう生きていたか」という実感は得られやすい。

第一章は、日本に母親と妹を残して故郷の済州島に戻って来た南承之(ナム・スンジ)の視点で話が進む。

南承之は比較的貧しい境遇の出で、当時の一般的な韓国の人(特に若い人)の物の見方を踏まえているのだと思う。

「日本の支配が終わったら自由になると思っていたのに、これでは日本がアメリカに変わっただけだ」という失望が凄い。

 

しかし祖国に訪れた「解放」が、じつは幻影だと人々がさとるのに時間はかからなかった。(略)

一夜明けて眼が醒めてみれば(略)「解放者」であるはずのアメリカが、旧日本帝国の強力な後釜だったということだ。(略)

それどころか、旧朝鮮総督阿部信行や、朝鮮総督府政務総監遠藤柳作に対して、アメリカ軍政庁が顧問就任を要請したというのだ。

それは実現しなかったが、南朝鮮占領軍司令官ホッジ中将の「私が日本人の統治機構を利用しているのは、それが現在もっとも効果的な運営方法だからである」という言明どおり、こうして朝鮮総督府の機構をそのまま受け継ぐ形で行われ、「民族反逆者」の復権の舞台がひとまず提供されたのだった。

(引用元:「火山島」第1巻 金石範 文藝春秋社 P45-P46/太字は引用者)

当時はアメリカの意識は対ソ連・共産主義の拡大をいかに食い止めるかにあったから、日本と同じように統治体制をそのまま使ったのだろうけれど、祖国解放を夢見た朝鮮半島の人にしてみれば愕然としただろうなと思う。

 

朝鮮史が朝鮮人にとっての国史にならず、朝鮮文学が朝鮮人にとっての国文学にならなかった。

日帝末期には朝鮮語そのものが抹殺されたのだから、朝鮮文学がありうるはずもなかった。(略)

それがいまや堂々と国文とか国文学とかを口にしうるようになったのだ。

どれだけ民族的な、人間的な感情を解放し誇りを感じさせたことだろう。

(引用元:「火山島」第1巻 金石範 文藝春秋社 P44-P45/太字は引用者)

民族の言語や文化を奪って、その民族そのものの概念を消すことは民族浄化の手法としてよくとられる。

プーチンも「そもそもウクライナ民族というものは存在しない」という主張を、侵攻を正当化する材料のひとつにしている。

日本に生まれて生きているとつい忘れがちだが、アイデンティティは本来は自分の手で守らなければ簡単に消されてしまったり、消えてしまうものだ。*1

日本が他国にこういうことを強いたことがあるということは、日本で生まれ育った人間として覚えておかなくはいけないなと思った。

 

題材でつい四角四面な思想小説では、と思い込んでしまったけれど、「火山島」はエンタメ小説として面白い。

第一章に出てくる主人公・南承之はそこまで極端な思想も深い知識も持っておらず、「祖国解放の現実」に失望して反政府組織に身を投じた。

正義感は強いもののごく普通の青年で、気になった女性について妄想して「こんなこと考えちゃいかん」とセルフ突っ込みをしたり、インテリ気取りの同志にムカついたりする。

先日「創作として抜群に面白い。今まで説教臭い話と思って読まないで損した」という「はだしのゲン」の感想を読んだ。

重い歴史的背景を持つ創作は、つい背景の重さにのみ目が行きがちだが、その中で生きた人が生き生きと描かれているから読み継がれるのだと思う。

多くの人は正しいからではなく面白いから創作を読むし、読まれるものが次の時代に残り続ける。

少なくとも自分にとって創作はそういうものだ。

 

エロティックな表現のある小説は闇市で最高値がつき、取り締まりの危険度が高ければ高いほど高値で売れた。(略)

官能小説は、手書きで書き写されるほか、簡単なステンシルや手回し装置を用いて、粗雑ながら謄写版印刷されることもあった。(略)

そうした印刷機の一部が、毛沢東思想宣伝隊の管理をすり抜けて大いに活用されるようになった結果、官能小説や春歌が印刷されて、工場や学校そして役所にも広まっていった。

絶大な人気を誇ったのは、ある女子大生が、従兄をはじめとする若い男性たちと性体験を重ねていく「乙女の心」という小説だった。(略)

おそらく「毛主席語録」に次いで熟読された本の一冊だったに違いない。

(引用元:「文化大革命 人民の歴史 1962‐1976」P172 フランク・ディケーター/谷川真一監役/今西康子訳 人文書院 P140)

「文化大革命」の「乙女の心」のエピソードは、そういうことを端的に表していてめっちゃ好きだ。*2 

最後の一文がいい味を出している。

結局、どんなに力で抑えつけようとしても、面白ければ人はその手をかいくぐって読むし、勝手に広まっていく。

 

「火山島」の副読本を読むと、「済州島四.三事件」は余りに暗く残酷なので、当事者は今でも語らず、国家的にも極力触れないようにしている「封印された歴史」らしい。

ある程度検証されたものがある歴史について、その検証を無視して自説を事実として語るのはどうかと思うが、権力者が風化させようとしている歴史をお話の形で残しておくのは大事なことだと思う。

 

創作(フィクション)と歴史(現実)の関係については、副読本で著者が語っているようなのでじっくり読みたい。

 

中国ではBLが禁止されているため、表現に工夫がされていると聞いたことがある。

凄い人気だよね。

 

*1:日本でもアイヌの人などはアイデンティティを自分の手で守らなければならないという実感があると思う。ただ日本は、人種や宗教、民族などの同程度の規模のアイデンティティの集団が自分の存在を形成するために対立する、という環境とは無縁だ。この点、かなり特異な国だと思う。

*2:アッテンボローの有害図書委員会を思い出す。

朝鮮戦争の経緯を読んで、何かに似ていると思う&休戦七十年なので、積読していた「火山島」を読み始めた。

 

読売新聞の「朝鮮戦争休戦七十年の特集」の番外編として、四人の識者が今後の朝鮮半島について見解を寄せている。

「現在の北朝鮮の体制は、そろそろ崩壊するのではないか」

「韓国の尹政権は北朝鮮との対話の窓口を閉ざしている。それは危うい」

など色々な意見が載っている。

その中で、北朝鮮の元外交官で現在は脱北して韓国の国会議員になっている太永浩氏が語る、「朝鮮戦争の経緯」が目を引いた。

韓国では、開戦当初は北朝鮮が優勢で、韓国はなすすべもなく釜山近くまで退却したと捉えられているが、金日成にしてみれば誤算続きだった。

金日成と後ろ盾だったソ連のスターリンは一週間以内に戦争を終わらせる予定だった。

奇襲攻撃でソウルを包囲して陥落させれば、朝鮮半島の支配者になると考えていた。(略)

戦争になれば各地に潜んだ共産ゲリラが蜂起するとの主張があったが、実際にはなかった。指揮系統が徹底されず、韓国内部の情報も不正確だった。

(引用元:「朝鮮戦争休戦70年」読売新聞2023年8月2日(水)朝刊8面・太永浩/太字は引用者)

「ウクライナ侵攻」とほぼ同じ状況では、と思ったのだ。

強い権力を握った人間は、自分の願望が事実だと思い込んで行動してしまうようになるんだな、とこれを読んで思った。

プーチンの場合は成功体験もあったからなのだろうが、それにしても現在の戦況の泥沼化を見ると、うまくいかなかったときの次善の策を何も考えていなかったとしか思えない。

 

これらを教訓として、金日成は最高指導者に権限を集中させる「唯一思想体系」を構築した。

逆らう人間はすべて粛清され、金日成に連なる白頭山の血統を絶対視する世襲の王統になった。

(引用元:「朝鮮戦争休戦70年」読売新聞2023年8月2日(水)朝刊8面・太永浩/太字は引用者)

読んでいてよくわからなかったが、「これらを教訓とし」たら、むしろ「自分を唯一無二の存在にしてしまったから自分の見解に沿うような情報しか集まらなくなり、状況を多角的に検討できなくなっていた。正確な情報を集めそれがすばやく上がって来るように自分の下の指揮系統を整えよう」と思うのではないか。

それを実行するかどうかは、政治的判断も入るだろうから別にしても、少なくとも「自分にさらに権力を集中させて、絶対性を強固にしよう」という方向にはいかないのではと思ってしまうが……いってしまうんだな。

 

文化大革命の本だったと思うが、

「絶対的な権力者は、敵よりも、自分と同じ考えをより強く極端に主張する味方を恐れる。何故なら、より極端な主張のほうが支持されることがわかっているからだ。だから、権力の座にいるために常に最も強硬に主張をし続けなければならない」

という話を読んだことがある。

「極端でわかりやすい主張を強く繰り返す主張者に人は惹きつけられる。そのため権力者はその思想を信じているからではなく、『権力闘争のための方法論』として主張をどんどん尖鋭化させていく」

主張している人間は無法や矛盾や暴論であることがわかっていないわけではない。

それは百も承知していて「その主張をすること」自体を目的としている。

対立者にとっては筋が通っていない、信じられないほどの暴論であっても、同じ主張の人間の間ではそれが尖鋭化された暴論であるほど支持されるのだ。

この現象については、ネットでもよく指摘される。

こういう人が支持される構図を見かけると、絶対的な権力者を生み出した国や組織のことを笑えないなと思う。

 

「朝鮮戦争休戦70年」ということで、積読していた「火山島」を読もうと思い立った。

ハードカバーの分厚い本で全7巻、400字詰め原稿用紙一万枚を超える大作である。

買ったはいいが複雑すぎて訳がわからなかったからどうしようと思っていたけれど、読み始めたら意外にも面白くスルスル読める。

歴史の資料と紙一重の堅苦しい話かと思いきや、いい意味でちゃんと「お話」になっている。

朝鮮半島の戦後の歴史については詳しいことはほとんど知らないので、とりあえず物語である「火山島」を読んでみようと思う。

火山島1

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【「藪の中」愛好会】芥川龍之介「藪の中」のような話を集めてみた。

 

「藪の中」は慣用句として用いられるくらい有名だが、「関係者の話が食い違っていて、真相がよくわからない話」のことだ。

芥川龍之介 藪の中

 

こういう話をもっと読みたいが、調べかたが難しい。(「藪の中みたいな話」「藪の中に似た話」で調べても余り出てこない)

自分以外にも「藪の中愛好家」がいると思うので、自分が「これは良い『藪の中』」と思うものを載せておきたい。

 

「月明かりの道」ビアス

芥川龍之介は、この話に触発されて「藪の中」を書いたと聞いたので読んでみた。

雰囲気はおどろおどろしさ満載の古き良きゴシックホラー調でいいのだが、真相がひとつしか解釈しようがないので若干期待外れだった。

「藪の中」のオマージュ元だが、「藪の中」ではない気がする。(ややこしい)

 

「滝」奥泉光

自分の中では今のところイチオシ「藪の中」。

とある宗教団体の通過儀礼として山岳修行をする少年たちが、次第に狂気に飲み込まれていく話。

「藪の中視点」と「藪の外視点」で成り立っている。

ミステリー、サイコホラー、少年同士のブロマンス、どの角度から見ても完成度が高く、話が終わったあとのそこはかとない怖さとモニョリ感が凄い。

「藪の中」好きなら絶対に満足してもらえると自信をもって勧められる一作。

セットになっている「ノヴァーリスの引用」もやや「藪の中」風味な話なので、二作合わせておススメ。

久し振りに読んだらやっぱり面白かった。

 

「柔らかな頬」桐野夏生

自分が不倫しているあいだに、行方不明になった五歳の娘を探す女性の話。

一体、娘はなぜいなくなったのか。

誰かにさらわれたのか。生きているのか、死んでいるのか。

一番最初に読んだ時は意味がわからなかった*1が、少し前に再読して余りの面白さに驚いた。

「藪の中」は人の心の暗喩だ、ということがよくわかる話。

芥川賞ではなく、直木賞を受賞している。

 

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」村上春樹

仲のいい四人の友達から、突然縁を切られた主人公がその理由を探る話。

「藪の中」とは気づかせない「藪の中」。

余りにうまく「藪の中」が機能しすぎてしまったせいで評価されているところを見かけることが少ない不遇の書。(自分も最初読んだ時は曖昧な訳がわからない話だと思った……反省)

仲のいい友達からいきなり理由も告げずにいっせいに疎遠にされたことを十何年もほったらかしにしていたところを見ても、多崎つくるは心の一番奥では「藪の中」に眠るものの恐ろしさに気付いていて逃げようとしていたのでは。

そう考えるとよりいっそう怖さが増す。

それを暴いてしまうととても人の手に負えないから「藪の中」にしてしまうことがある、と気付かせてくれる。

 

「五匹の子豚」アガサ・クリスティー

ミステリーなので厳密には「藪の中」ではないが、関係者の手記で成り立っているという作りが「藪の中」に近い。

ポアロが認めている通り、証拠が一切ないので「藪の中」(ポアロの妄想)と言えば「藪の中」とも言える。

解決編はなかったことにして、手記から自分で色々な解釈(妄想)を組み立てても面白い。

クリスティーの著作で一貫している「人は見たいものしか見ないが、一方で自分でも思いもよらないことを覚えている」という考えは、「藪の中」を生み出すのに最適の考え方だと思う。

 

「一方通行の家」屋嘉壱

ジャンプ+に掲載された読み切り漫画。

すごく面白かった。

「多崎つくる」と同じように、主人公が自分の手には負えないと本能的に気付いていて逃れようとしていることから、よりいっそう「藪の中」の恐ろしさが際立つ話*2

表層的な部分だけを読むと、曖昧で訳が分からない話なところも似ている。

今後もこういう話をたくさん書いて欲しい。

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好きすぎて自分でも書いてみた。

行方不明事件の関係者の証言を一人ずつ聞いていく話。

15000文字、全5話の短編。

タイトルは「藪の中」リスペクトで「洞窟の中」。

https://ncode.syosetu.com/n6654ii/(なろう)
https://kakuyomu.jp/works/16817330661054818558(カクヨム)

「藪の中」好きの人、良かったら読んで下さい。

 

まとめ:ジャンルとして確立して欲しい。

「藪の中」は今のところ、読んでみないと「藪の中」かどうかがわからない。

そのため見つけるのが凄く難しい。

見つけやすいように、できればジャンルとして確立して欲しい。

 

*1:「藪の中」あるある。

*2:個人的な感想です。

【小説感想】「ノーカントリー・フォー・オールド・メン」はどんな話なのか。殺し屋シガーが何者なのかを考えながら語りたい。

 

*ネタバレ感想です。未読のかたはご注意ください。

「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」(以下「ノーカントリー」)は映画化もされてマッカーシーの作品の中でも特に有名だ。

「ブラッド・メリディアン」とも「国境三部作」とも「チャイルド・オブ・ゴッド」とも「ザ・ロード」とも違う、(基本的には)犯罪エンタメ小説である。

物語の外枠である、麻薬カルテルの金を横取りした男が、その金を取り返そうとする殺し屋に追われるというストーリー部分が滅茶苦茶面白い。

展開がスピーディで容赦がないので、ページをめくったらどうなるかが予想がつかない。

「ノーカントリー」を読んで気付いたが、余分な描写を極限まで削っているマッカーシーの文体はエンタメ小説と相性がいい。

コーマック・マッカーシーの文章を読むと、「物語において必要な情報への感覚」が変わる。|うさる

退屈する暇もなく、話がすいすい進んでいく。

 

「血塗られた歴史の部品にならないためにはどうすればいいか」を描いた物語

「ノーカントリー」の凄いところはエンタメとして極上の面白さを持つのに、語っていることはエンタメではないところだ。

自分が考えるところ、この話は「ブラッド・メリディアン」で語られた

「人間は最終的には『個』という枠組みを失い、連綿と続く血塗られた歴史の部品となる。この国はそういう成り立ちをしており、人の運命はその成り立ちの中に吞まれてしまう」

この事象にどう対抗するかが語られた話だ。

「個人を呑み込み、それを部品として生成されていく血塗られた歴史」に対抗する方法の解答が、呼吸するように人を殺す「殺し屋シガー」だ。

 

「血塗られた歴史の部品」にされてしまい、人生を失ったモスとベル

シガーという人物は、物語によく出てくる「殺人狂」「サイコパス*1」に一見見えるが、自分はまったく違うと思う。

ベルが「やつは頭がおかしいわけじゃないと思う」(P245)と言っているように、シガーは狂っていない。

「人を殺すことが狂っている」なら、戦争で人を数えきれないほど殺した、ベルもモスも狂っている。(モスに至っては、「ベトナムで赤ん坊を殺したこと」を示唆する描写もある)

「戦争だったから仕方がない。平時とは別」ということ自体が、「自分という個」を捨て「血塗られた歴史の一部になること」なのだ。モスとベルは「この国の血塗られた歴史の一部」として人を殺し、その事実に基づいた道(人生)を歩いてきた。

人が自分の人生を盗んでしまうことがあるものだとは知りませんでしたよ。盗んだ人生なんて要するに泥棒が盗んだ品物と同じだけの値打ちしかないってことを知らなかった。

おれは出来る限りよく生きてきたつもりですがそれでもそれは自分の人生じゃなかった。

自分の人生だったことは一度もなかったんです。

(引用元:「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P357/太字は引用者)

ベルが自分の人生についてこう語るのはそのためだ。

 

モスもベルも自分自身が人を殺したかったわけではない。それなのに国の命令によって戦場に行き、仲間を見捨てて人を殺すような人間になってしまった。

その傷を背負ったまま、平和な社会に戻り、今度はその論理に従って善良な一般市民となる。

だがどれほど時間を経ても、人生につけられてしまった重い傷痕から回復することが出来ない。この国を構成する「血塗られた歴史」の一部分に否応なしにされてしまったため、その「部品としての生」しか歩むことが出来なくなってしまっている。

一度「血塗られた歴史の一部」になってしまった彼らは、状況が変われば自分ではどうすることもできず、またその一部になる。

そのことを彼ら自身が誰よりも感じている。

人間は自分にはコントロール出来ないものに従い、その一部として生きるしかない。

だからシガーは自分と対峙した人間にコインの裏表を当てるように迫る時に「いや、賭けたんだ。お前は生まれたときから賭け続けてきたんだ。自分で知らなかっただけだ」(P71)と言うのだ。

 

シガーは「血塗られた歴史」を作る世界の一部にならないために、自分独自の世界を構築している。

どうすれば「血塗られた歴史の一部」にならずに「個人」として生き抜くことが出来るのか。

その解答がシガーの存在なのだ。

シガーはウェルズが「原理原則を持っているとすら言える。その原理原則は金や麻薬といったものを超越しているんだ」(P195)と言った通り、自己の外部の法則をすべて無視して生きている。

 

ただ「社会に反抗的」というのであれば、それは逆の意味で社会に縛られている。

「個」という概念を部品にして作られる歴史に対抗するには、それとはまったく異なる原理原則から編まれた世界観で対抗するしかない。

原理原則に従った生き方をすることで独自の世界を構築し、その世界を生きることで原理原則をさらに強固にしていく。

ベルやモスのように「人生を血塗られた歴史に盗まれないために」、シガーはそのような生き方をしている。

シガーがカーラ・ジーンに言う「おまえはおれに世界に対して口答えしてくれと頼んでいるんだ」(P332)の中に出てくる「世界」は、一般的な意味での「世界」ではない。

(流血の)歴史を生成し続ける世界に対抗するために、シガーがこれまでの人生をかけて原理原則を元に築きあげてきた「世界」のことだ。

シガーがモスとの約束を反故にして、カーラ・ジーンを助けることができないと言ったのは、原理原則を破れば「血塗られた歴史の一部」になってしまうからだ。

 

シガーはカーラ・ジーンを殺したくなかった。

シガーは殺し屋であり、やっていることは犯罪だ。

ただこの話は、ベルやモスのように平時は法を守る善良な人間も「(例えば戦争という)状況の支配」によっては暴力を振るい、人を殺すという前提がある。

その前提に立てば、シガーは他の人々と従う対象が異なるだけで感性のまともな人間だと思う。(ベルやモスがまともな人間であるのと同じ程度には)

 

シガーはカーラ・ジーンを殺しに行ったときに、10ページ程度にわたって「なせ自分がカーラ・ジーンを殺さなくてはいけないか」を説明している。

この会話のあいだに「気の毒に」と三回言い、カーラ・ジーンが悪いわけではない、運が悪かった、少しでも気を楽にしてやりたいという話を何度もしている。

何気なく読むと、犯罪小説やホラーでよく見られる「殺人狂の人間が狂った論理で犠牲者をからかったりいたぶったりしている描写」に見える。

だがこのシーンはそうではない。

シガーは心の底からカーラ・ジーンを労わり気の毒に思っている。

シガーという人物の面白さはここにある。

「歴史の部品にされないための自分の世界を保つために」カーラ・ジーンを殺さなくてはいけない。それはわかっている。

だが出来れば殺したくない。だからグズグズと話を引き延ばしている。

この時のシガーは、どうにかカーラ・ジーンを殺さずに済む方法はないか、喋りながら自分の世界の中を探し回っていたのだと思う。

「世界に口答え」をすれば、シガーはモスやベルと同じように自分の人生を盗まれ、自分でないもの=コイントスの結果だけに従い、生きるしかなくなる。

それはやがて彼の生き方を遥かに超え、この国の歴史となり、根本から世界全体を血塗られたものに変えてしまう。

だから自分はカーラ・ジーンを殺さなくてはいけない。

シガーは死を前にしたカーラ・ジーンをもてあそんでいるわけではなく、出来うる限り真摯に自分の状況を説明している。

 

「モスがカーラ・ジーンを殺したがった」とはどういう意味か。

「うちの人があたしを殺したがって言うの?」(P327)というカーラ・ジーンの問いに、シガーが「そうだ」と答えたように、カーラ・ジーンを死に至らしめたのはモスである。

俺がお前の人生に登場したときお前の人生は終わったんだ。それには始まりがあり中間があり終わりがある。今がその終わりだ。

もっと違ったふうになりえたということはできる。ほかの道筋をたどることもありえたと。

だがそんなことを言ってなんになる? 
これはほかの道じゃない。これはこの道だ。

(引用元:「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P332/太字は引用者)

シガーはカーラ・ジーンに、カーラ・ジーンが彼に殺される結果を招いた道は、ずっと前から始まっていたと言う。

「これはこの道」の「この道」とは何なのか。

カーラ・ジーンがモスの求愛を受け入れて結婚したことだ。

 

モスが麻薬カルテルの金を持ち逃げしようとしたのは、「血塗られた歴史の部品であること」から脱け出し、盗まれた自分の人生を取り戻すためだ。

だが戦場に行き、一度その部品となってしまったモスは、どう頑張ってもそこから脱け出せない。

モスは、シガーのように「血塗られた歴史」に対抗するための原理原則を培ってこなかった。ベルのように諦めて頭を垂れることもしなかった。

そういう中途半端な状態でいながら、自分の戦い(人生)に年若いカーラ・ジーンを巻き込んだためにカーラ・ジーンまで死ぬ羽目になってしまった。

 

モスはカーラ・ジーン(=ヒッチハイクをする少女)を、「自分に関わらせない道」に送り出すことで守ろうとした。

モスが最後に行動を共にするヒッチハイクで拾った赤毛の少女は、物語の深層ではモスと結婚する前のカーラ・ジーンである。

モスは、自分がカーラ・ジーンを「この道」に引き込んでしまったために、彼女が死ななければならなくなったことに気付いた。

モスが、少女に誘われても関係を持つのを断ったのはカーラ・ジーンを守るためだ。

「もう一度出会った」カーラ・ジーンを守るために、今度は求愛せず(誘いも受け入れずに)カーラ・ジーンを「別の道」に送り出そうとした。

原理としてはループものと同じである。

 

しかし結局は、モスとの関わり自体がカーラ・ジーンにとっては死への「この道」だったために、ヒッチハイクをした少女はモスと共に殺されてしまう。

モスが少女を守るために銃を捨てたところを見ても、モスはカーラ・ジーンを愛していたし守ろうとしていた。しかしこの話において、個の人格や行動は何の力もないので二人とも殺されてしまう。血塗られた歴史は、一度部品にした人間は巻き込んだまま動き続けるのだ。

カーラ・ジーンが「モスは少女と関係を持たなかったと思う」というベルの言葉を信じないのは、「モスと結婚し、シガーと出会い死ぬ『この道』」をモスが覆すことが出来ないことがわかっているからだ。(カーラ・ジーンの「ママ」が、モスを嫌い、実家に避難してきたときに「こうなることはわかっていた」というのはこのためだ)

 

「既に死んでいる」カーラ・ジーンのためにコイントスをしたのは、最大級の同情と好意。

モスと一緒に殺されたヒッチハイクの少女がカーラ・ジーンなので、シガーが殺しに行ったときは、厳密にはカーラ・ジーンは既に死んでいる。

だからこの時点では死の運命は避けられない。既に起こってしまったことだからだ。

既に死んでいるカーラ・ジーンのためにシガーがコイントスを行ったのは(カーラ・ジーンには何の意味もないが)彼にとって最大級の好意であり同情である。

コイントスの結果は、シガーが強固な意思で守り、人生をかけて築いてきた世界の基盤となる原理原則を曲げうる唯一の例外だ。

シガーはシガーなりに、よく世の中のことがわからない十六歳の時に、他人の論理に巻き込まれて死んでしまったカーラ・ジーンに(というよりも、後にベルが言及しているように年若い身で否応なく、血塗られた歴史に巻き込まれる子供たちに)同情している。

カーラ・ジーンも最後にはそれがわかったので、「わかる、本当にわかるわ」とシガーの言葉に答えるのだ。

 

物語の構成が完璧で、工芸品のように美しい。

「ノーカントリー」は、「血塗られた歴史」によって生成されていく国(世界)というものの成り立ちの恐ろしさ、何もわからないままその歯車にされてしまい、そこから死ぬまでどころか死んでも逃れることが出来ない人間の無力さと絶望を描いた話だ。

しかし、最後にその残酷な歴史の成り立ちの一部にならないための希望を、ベルが父親の導きの中に見る。ベルを待つ父親が闇夜の中に灯す牛の角の月明かりが、どれほど温かいものかが読んでいるだけで伝わってくる。

この光景は流血と暴力しかない本編の対比のように、信じられないほど幻想的で美しい。

 

完璧に整えられた美しく閉じた輪のような話は、個人的には好みではない*2んだけど、そんな自分でもここまで全てが完璧に整えられたものを見ると感嘆しか出てこない。

工芸品のような美しさだ。

この一作だけでも十分傑作だが、「ブラッド・メリディアン」と二作続けて読むと、グルグル踊り続ける判事に対抗するものとして、最後のシーンがより際立つように感じた。

 

*1:この語は余り好きではない。

*2:瑕疵やアンバランスさや説明が足りないと感じる部分があるほうが好き。

三人称一元視点において「視点が回ってこないキャラ」との恋愛展開は、叙述トリックのミステリーを読んでいるような面白さがある。

 

子供のころ読んだ時はそこまで面白いと思わなかったが(なのでかなりうろ覚えだった。noteでタイトルを教えてもらった)大人になったいま久し振りに読んだら、滅茶苦茶面白かった。

 

時は清和天皇の時代。京の都では藤原良房が藤原家で初めて摂政の地位につき、これから藤原の世が始まろうとしていた。

仙術を操る偉大な妖狐・金剛と人間のあいだに生まれた半人半狐の少女くぬぎは、人間の母親を探すために山を下りて京にやってくる。

天皇の教育係を務める菅原道真と知り合い、追いかけてきた弟のちくまと共に居候になる。

そうして母親を探すうちに、天皇暗殺を巡る陰謀に巻き込まれる。

 

歴史や妖術、魑魅魍魎の設定がしっかりしていて陰謀やバトル要素が満載で読んでいて楽しい、明るく元気で狐の尻尾を持つという可愛い系キャラでいながら、自分の女性としての魅力もそこはかとなく理解している*1主人公のくぬぎ、三歳のケモミミ少年として登場し、十歳、ついには二十歳のケモミミ青年にまで成長する姉に求婚し続けるちくま*2など魅力的なキャラが満載、全3巻に魅力がぎっしり詰まっている。

出版元は、今はなき大陸書房だ。どこか復刊してくれないだろうか。

 

この話を覚えていたのは、くぬぎが弟*3のちくまではなく最後まで敵対していた金目というドン暗設定*4の男とくっついたからだ。

(引用元:「変化草子1 くぬぎの章」伊吹巡/篠原正美(画) 大陸書房)

「そんなフラグ*5あったか?」と子供心ながらに驚き、それで覚えていた。

 

金目は強力な妖術使いながら、暗い生い立ちのせいで無口で無表情、魄を囚われているために主人である藤原基経に絶対服従を強いられている。

基経に清和天皇の呪殺を命じられており、道真に頼まれて陰謀を阻止しようとするくぬぎとちくまの前に何度も立ちふさがる。

基経の妻になっているくぬぎの母・暁をそこはかとなく思慕しているような描写がある。くぬぎに対しては「暁の娘かもしれない」以上のことを思っているようには見えず、戦いでは(何しろくぬぎの視点しかわからないので)本気で殺しにかかっている。

ところがラストを読むと、金目は「くぬぎが成長し*6、恋愛感情を自覚するのを見守っている」ように読めるのだ。

いつの間にそんなことになったんだ。

 

「変化草子」は三人称一元視点で書かれているが、金目の視点はほとんど出てこない。

特に「くぬぎをどう思っているか」はすべて省かれているので、くぬぎの視点で見た金目の言動から「何を考えているか」を推測するしかない。

大人になったいま読んでも「金目がいつくぬぎを好きになったのか」「なぜ好きになったのか」「暁の娘だからくぬぎを好きになったのか」「そもそも恋愛感情として好きなのか」などが一切わからない。

だがよくよく読むと金目はくぬぎに「言わなくてもいいこと」をよく言っている。(くぬぎもそのことに疑問を持っている)

自分の持論の中に「無口で無表情、人と余り関わらない省エネのキャラが言わなくてもいいことを言う時、内容は関係なくその行為自体が好意の表れである」というものがある。

この持論に則ると、金目は出会った時からくぬぎのことが気になっていたのではと思う。

 

ただ作内描写だけではよくわからず、この「よくわからなさ」が結末を知った後に読み返すと面白い。

例えば宮廷に潜入するために着飾ったくぬぎが、高級菓子であるあられを見つけてバリバリ食べるシーンがある。その時、ふと視線を感じて振り向くと金目がいる。

くぬぎ視点だと「いつの間にか見られていた」「まったく気づかずひやりとする→恐ろしい男だ」という描写だが、「くぬぎの視点」を外してフラットに読むと「くぬぎがあられを食べている姿を影からずっと見ていた」という恋愛描写になる。

 

「恋愛描写」は「恋をしているキャラの心情に感情移入させること」が多いが、「恋愛など想定外」という先入観を外すと「実は恋愛要素があった」という逆転の描写になっているところが面白い。

「相手の視点や心情が一切わからないため、叙述トリックのような恋愛描写」になっている。

こういうよく出来た推理小説のような恋愛描写があるものが、もっと増えるといいな。

 

note.com

*ン十年ぶりに読んだらほんと面白かった。

 

 

*1:ここが凄く良かった。

*2:細田守に教えたい。

*3:狐の一族ではOKな模様。

*4:面白い設定が多すぎキャラ。

*5:という言葉は当時は知らなかったが。

*6:たぶん十歳くらい歳の差がある。