うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【漫画感想】「モンキーピーク」5卷。犯人の一味に人間も登場! その正体は?? 

 

この記事は原作志名坂高次、作画粂田晃宏「モンキーピーク」5卷のネタバレ感想です。

未読のかたはご注意ください。

 

2018年4月発売の6巻の感想はコチラ↓

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2018年7月発売の7卷の感想はコチラ↓

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2019年5月29日発売の10卷までの感想はコチラ↓

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八木VS猿 八木兄強すぎ

逃げ回ったり防御するだけでなく、猿一味に対して反撃が始まった。

八木兄は強えええ。いくら他の三人の援護があったとはいえ、完全に猿を押している。

「ただ強いだけ」ではあそこまでためらいなく戦えない。「喧嘩に強い人」と「殺人犯」と戦うのでは、別の強さが必要だ。

猿も八木も安斎も、「敵か味方か」の違いだけで、ほぼ同じくらいヤバい人たちなんだろう。まあ、知ってたけど。

今は味方とはいえ、猿を逃したときや「薫は巻き添えで死んだ」と聞いたときの反応を見ると、何するか分からない。

 

八木と猿の戦いは、カッコよかった。「猿と八木の死闘」を別ストーリーで見たくなる。

 

佐藤と遠野に同情

今巻は、佐藤が気の毒だった。

飯塚や南や氷室みたいに、根っから腐った奴はいる。こういう人間は普段の生活の中でなら、極力関わらないようにすればいい。

でもこういう極限の状況下だと一人で行動するわけにはいかない。どうしてもこういうクソみたいな奴らと一緒に行動せざるえなくなる。

こういう奴らは常に自分の踏み台にする犠牲者を探しているから、一度集団の中でその立場に陥るととことん危険にさらされる、犠牲を強いられる羽目になる。

遠野や田中や藤柴みたいに「普段はそれなりにいい人」でも、積極的か消極的かの違いはあれど、その状況を維持するために加担してしまう。

三巻までは早乙女がその立ち位置で、佐藤も加担している側だったから、自業自得といえばそれまでなんだけれど……(ただ、佐藤は早乙女に対して好意的な中立だったからなあ。)早乙女には宮田や林がいるし。

 

何回か道を踏み誤ったけれど、それなりに反省している遠野はむしろ偉いと思う。普通は藤柴みたいに「自分が生き残るためには、仕方ない」と流されてしまう。

遠野の気遣いを一ミリも信じられず、受け入れられないのも、佐藤の立場からすれば当たり前だ。

この辺りが読んでいて、両方の気持ちが分かるだけに辛い。

 

南を殺してしまい、佐藤がさらに追い詰められるなんて……。

今は「殺人犯」という立場になってしまうとどういう役目を回されるか分からないから仕方ないけれど、下山したら自首したほうがいいよ~。詳しくは分からないが、緊急避難とか過剰防衛になるんじゃないかな。

 

猿の標的は開発室Bの人間なのか?

薬害を起こした開発室Bの人間、黒木、南、岡島が標的だったのか。

4巻では、崖から落ちた岡島のことを執拗に殺そうとしていたし、この巻では「南が死んでから」襲うのをやめている。

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(引用元:「モンキーピーク」 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

薬害疑惑を起こしたのは、黒木のいたチームのようだし。

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(引用元:「モンキーピーク」 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

あれだけすさまじい勢いで殺しまくっていたのに、5巻で攻撃の手をいきなり緩めたのも「標的は全員殺し終えたから」なのか。

仮にそうだとすると「どのチームが薬を作って、チームの構成員が誰か」ということまで知っている内部の人間が犯人の一味にいる、ということになる。

 

今までの流れだったら、林と早乙女だって問答無用で殺していただろう。

あの距離でなら殺したあと、余裕で逃げられるだろうし、手紙は元々手渡しするつもりじゃなく、投げるつもりだったんだから追ってきた奴らに投げればいい。

遠野が「人の姿を現さないと猿側のメッセージと分かりづらいから」と言っていたけれど、「メッセージを伝えたい」ということは「意思疎通をしたい」ということだ。

今まで問答無用で無差別殺戮していたのに、なぜ突然「意思疎通したくなったのか」と考えると「状況が変わったから」としか考えられない。

 

どう状況が変わったか、というのは「外部にばれそうになっている」など色々と考えられるけれど、あくまで物語内の情報だけで考えるならば「目的を達成した」くらいしかない。

実際に「南が死んだあと、いきなり攻撃の手が緩まっている(=犯人の行動が変わっている)」。

 

それならばなぜ他の人間も殺す、と宣告するのか。

口封じなら全員殺せばいい……というよりは、遠野が言う通り、餓死するのを待てばいい。

「犯人は長谷川」という風に証言させるためか。

物語の中では「日本刀を持った犯人は長谷川」という流れになっている。ただ「犯人が顔を見せない」ので、どうしてもミスリードかなあという気がしてしまう。

服や靴は取り替えているのに、日本刀なんて特定されやすいアイコンを持ち出すのもよく分からない。

正体を隠したいのかばらしたいのか。

 

ただミスリードにしては、「長谷川が犯人の一味である伏線」がかなり多い。

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(引用元:「モンキーピーク」 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

例えば二日目は野営するように進言したこと。これは猿を小屋に先回りさせるためじゃないか、と思う。

他にも氷室が喋りそうになると、拷問を止めようとしている。

こういうのも長谷川のキャラや状況で不自然には見えないけれど、グレーな感じではある。

逆に二日目の稜線で「誰が最後まで残るか」という場面で、長谷川なら「自分が」って言いそうだけれど、クジ引きを提案している。ここは飯塚がひと芝居打って早乙女の身体検査になったから、結果的にクジ引き以上に時間がかかったけれど。

 

できれば逃げ切りたいけれど、最悪バレたときは「長谷川が主犯」ということで事を丸く収めるために姿を現したんじゃないか、という線が妥当な気がする。

 

この犯人側の手紙はどうも妙な感じがするので色々考えているけれど、思いつかない。

思いついたら追記します。

 

寺内の靴はどこへ? 靴を探して三千里。

寺内の靴の行方が未だにわからない。どこにいったのだろう。

八木が早乙女にあげた靴かな、と思ったけれど、確認した限りでは別の靴だ。

それに寺内の靴がなくなったのが一番最初にわかるのは、早乙女が縛られた直後だ。この時、八木兄妹はまだ到着していない。

 

日本刀が履いていたのも別の靴だ。

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(引用元:「モンキーピーク」 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

確認した限りでは長谷川を含め、日本刀と同じ靴を履いている人はいなかった。あらかじめ替えを用意したか、日本刀は内部の人間ではないのか。

 

八木は、誰の靴を持ってきたんだろう?

最初は黒木の靴かな、と思ったけれど、デザインが違う。

あと黒木は刺されたときは裸足だったけれど、死体は靴を履いている。ついでに右足の包帯もとれている。これは伏線じゃなくて作画ミスかな??

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(引用元:「モンキーピーク」 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

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(引用元:「モンキーピーク」 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

靴は別に深い意味はないのか。

だとしたら、猿がシートをめくったのは、誰が死んだか確認するためだったのかな。

標的が誰かは写真などであらかじめ確認していたとしても、暗い中で死体を確認しただけでは、誰が生きていて誰が死んだか確信は持てないだろう。それを長谷川に確認しようとしたのか?

 

もうひとつ気になったのは、八木が話した「六ツ倉猿神奇聞」で「猿が一匹だけ生き残った」という話。この情報は、本編にからむんだろうか。

 

次巻は日本刀の正体がわかるかな?

八木のバトルシーンにも期待!

 

4卷の感想はこちら↓

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1卷~3卷までの感想はコチラ↓

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【最終的な考察】もう一度「少女革命ウテナ」を全力で謎解きする。

 

前回の考察をした後、もう一度一話から見直した。

色々と考えて、最終的に自分の中でしっくりと落ち着く考察にたどりついたので、整理して書いていきたい。

 

 「物語外の人間」である自分の視点は捨てる。

まず前回の考察について。

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二周目を見終わって「自分はこの物語を間違った角度から見ていたのではないか」と考えた。

 

前回の考察の中心は「ウテナとアンシーは同一人物である」という発想だ。

これはたぶん間違っていない。柩に中にいた少女はウテナであり、アンシーだ。

だが同時にウテナとアンシーは別人物でもある。

「そんなことはありえない」

普通に考えればそう思う。

 

「少女革命ウテナ」は、「物語外の世界」の視点で見ればあり得ないことが数多く起こる。

「何で、人の身体から剣が出てくるのか」

「建物の構造で、あんな螺旋階段はありえない」

「決闘場に、いきなり色々なものが現れるのは何故なのか」

「なぜ車が噴水を割って現れたり、道場の中にいきなり現れるのか」

「暁生と冬芽は、なぜいきなり服を脱ぐのか」

「そもそも決闘って何だ、薔薇の花嫁って何だ。そんなことをしていて、何で一般の生徒や先生や親にばれないんだ」

 

見ているときは、それは「物語上の約束事」として受け入れている。

しかしいざ「物語の意味」を考えようとすると、どうしても「自分という人間の認識にあてはめて」考えようとする。「現実ではありえない描写」は暗喩や幻覚、登場人物の心象を表したものと解釈するしかなくなる。

そうすると、「なぜ、御影と暁生は年をとらないのに時子は年をとるのか」などの事象を説明することができなくなる。暁生の「この学園にいる限り、年はとらない」とはどういう意味だろう? と考えてしまう。

 

しかし物語内の描写は、すべてそのまま意味なのだ。

暁生は「彼の現実」をそのまま言っている。「鳳学園にいる限り、人は年をとらない」のだ。

「視聴者の現実」と「この物語の世界の現実」は違う。

だから時子も暁生の説明を驚かず受け入れる。同じように年をとらない根室(=御影)を見ても「あなたを見ている人は悲しい」と言うだけなのだ。

 

「少女革命ウテナ」の世界で、彼らは「物語内の現実」をそのまま生きている。

だから見ているほうもこの物語の意味を知りたければ、「自分の現実」はとりあえず捨てて、彼らと同じように「物語の現実」の中で物語を見なければいけない。

このことは32話で、暁生が七実に対して言っている。

「君がその目で何を見ようと、それは君の世界のことでしかない」

「君が見ている世界、君が存在している世界、わずかな視界の中で、同じ道を彷徨い続けているだけの出口のない迷宮の世界。本当に君が見るべきものはそこにはない

「物語外の現実に生きている『自分』」という存在の視界で物語を見ようとすると、その姿は見えない。

 

この発想で「ウテナとアンシーは同一人物なのか?」ということをまず考える。

 

「少女革命ウテナ」という物語の法則

ウテナとアンシーは、同一人物であると同時に別人物である。

結論は、ウテナとアンシーは、両方とも「柩の中の少女」である。だから同一人物である。なぜそう思ったのかという根拠は、前回の考察に書いた通りだ。

しかし、もうひとつ大切なことがある。

「ウテナとアンシーは同一人物である」「しかし、別人物である」

「少女革命ウテナ」の世界では、この二つの事実が同時に成り立つ。

どういうことか?

 

「認知された概念は現実化する」というルール

例えば9話では、冬芽にとって「柩の中の少女」はウテナだが、西園寺にとってはアンシーだ。

大切なのは、この時の西園寺にとっては「『永遠が欲しい』と言った柩の中の少女に、自分が永遠のものを見せたい」という思いが最も大切なのであって、そこに今のアンシーを当てはめているだけだ、ということだ。

だが、「西園寺が『柩の中の少女』という概念にアンシーを当てはめている」という事実があるときは、物語内ではアンシーは「柩の中の少女」になる。

「柩の中の少女は誰か」と考えるのではなく(これが「物語外の現実」で、物語を解釈するときの物の見方)「物語内のその時々の登場人物の認知」によって「『柩の中の少女』(という概念)はウテナになることもあるし、アンシーになることもある」と考える。

 

この物語では、「誰かがその概念を認知しているときに、その概念が可視化される」

本来、概念でしかないことが可視化されることによって、「物語内の現実」として他の登場人物にも認知される。

これが「少女革命ウテナ」という物語の中で、最も大切なルールだ。

 

言葉にすると何だかややこしく聞こえるが、見ている多くの人はこのルールを受け入れている。

具体例を上げて説明する。

 

登場人物は、みんな「柩の中にいる」のか?

「ウテナ」を見ていると、「はっきりとおかしいというわけではないけれど、どことなく違和感を感じる描写」というのが数多く出てくる。他にもっと「現実的に考えておかしい」描写が出てくるため、「小さな違和感」程度のものは見過ごしてしまう。

「柩」については、この「小さな違和感」を感じる描写が数多くある。

前回の考察でも上げた「『柩の中の少女』はウテナのはずなのに、何故、9話の決闘場や最終話で柩に入っているのがアンシーなのか」という点もそうである。

 

西園寺は「冬芽が『柩の中の少女』に永遠のものを見せた」という事実に、強い対抗心を燃やしている。冬芽も「だったらお前が永遠のものを見せてやれよ」と、西園寺を煽るようなことを言っている。

「(冬芽と同じように)『柩の中の少女』に永遠のものを見せたい」という思いが、なぜ「アンシーと共に永遠のものを手に入れる」ことにすり替わってしまうのか。

これは西園寺の中の「柩の中の少女」という概念にアンシーが当てはまり、当てはまるという事実を持ってアンシーは「柩の中の少女」になる、ということがこの物語の世界のルールだからだ、というのは上記で説明した通りだ。

 

他にも西園寺は、「柩」に対して引っかかる反応を示している。

9話で冬芽が柩を開けようとしたときの描写だ。

「やめた方がいいんじゃないのか?」という反応ではない。

明らかに「柩の中に何が入っているのか」を知っていて、「やめろ」と懇願している。

というよりは、事実関係を無視してこのときの西園寺の反応だけで印象を述べるならば、「彼自身が柩の中に入っていて、開けないでくれ」と言っているかのようだ。

そして、それはたぶん正しい。

柩の中に入っているのは西園寺なのだ。あの瞬間の西園寺にとっては。

しかし「物語内の現実」では、柩の中に入っていたのはウテナだった。それは冬芽が「柩の中身」という概念に、西園寺を結んでいないからだ。

仮にあの瞬間に、冬芽が「柩の中身」という概念に西園寺を結べば、開けた瞬間に西園寺が柩の中に入っている。「少女革命ウテナ」では、そういうことが成り立つ。

柩の中に入っているウテナを見た瞬間に、西園寺は「柩の中にいる自分」という認知を捨てた。

その瞬間に物語内で「柩の中にいたのはウテナ」という事象が具現化する。

 

最終話で柩を開けようとしたウテナに対して、暁生はこの時の西園寺と同じ反応をしている。

「いやいや、さっきまで暁生も薔薇の門を開けようとしていたじゃないか。ウテナが開けちゃダメなのか?」

もちろん、「開けたものが、世界を革命する力を手に入れるから」「開けたもののみが新しい世界に行けるから」という解釈も成り立つ。

ただこのときの暁生の「やめろ」という叫びは、9話の西園寺と同じで「(中に何が入っているのか知っていて)開けないでくれ」という反応に感じられる。

という以前に、前のシーンでは、薔薇の『門』だったものがなぜ次の瞬間に『柩』になっているのか。

頭で考えればいくらでも疑問は沸く。

 

しかしここまで見た人の多くは、恐らくこのシーンに何の疑問も持たないはずだ。むしろ「ここでウテナが開けるのは『門』ではなく、絶対に『柩』でなくてはならない」とすら感じるはずだ。

そして「さきほどまでは自分も『門』を開けようと試み、ウテナが『門』を開けようとしているときは平然と見物していた暁生が、開けようとするのが『柩』に変わった瞬間に顔色を変えて『やめろ』と絶叫する」

これも「当然だ」と受け入れると思う。

暁生は「門」は開けたいが、「柩」は開けられては困るのだ。

ウテナが最終的にたどり着くのは、開けたいと願ったのは、「その奥にアンシーが眠っている」と確信しているのは、「門」ではなく「柩」なのだ。

「ウテナが『柩』を開けようとしたから」門が柩になったのだ。

 

これが「誰かがその概念を認知しているときに、その概念が可視化される」というこの物語のルールである。そして可視化された概念は、現実化するだから「柩」が可視化された瞬間、先ほどまで「門」だったものが、暁生にとっても「柩」になるのだ。

 

なぜ西園寺も暁生も、「柩」を開けられることをこれほど恐れるのか。

それは彼らも「柩」の中に隠れているからだ。

35話で西園寺が「あの子はまだ柩の中にいる。彼女だけではない。俺たちも柩の中にいる」と言っている。

最終話では、アンシーが暁生に向かって「あなたはいつまでもこの居心地のいい柩の中で、王子様ごっこをしていてください」と言って決別する。

では「鳳学園=柩」ということだろうか?

「鳳学園にいる人は、全員『柩』の中にいる」この解釈でいいのだろうか?

実はこれはそうではない。

「暁生にとっての『柩』が鳳学園である」ということに過ぎない。

「鳳学園=柩」としてしまうと、幼いころウテナが隠れた「柩」は鳳学園だ、ということになってしまう。

 

物事をイコールで結んではならない。

この物語では「概念」によって、色々なものが結ばれている。

ウテナは昔、何かに傷つき「柩」の中に隠れた。彼女は柩の中から出て、「薔薇の花嫁」として苦しむアンシーを見て彼女を助けたいと願う。アンシーの本質は、傷つかないために「柩」の中に隠れている。

この「柩の中に隠れている」という概念でもって、ウテナとアンシーは同一人物として結ばれている。

そして「アンシーが柩の中に隠れている」という事実をもって、ウテナにとってアンシーは「ウテナ自身の『柩の中に隠れている部分』」という機能を持ち、しかも物語内で可視化される。

ウテナは既に柩の中から出たにも関わらず、西園寺が「あの子はまだ柩の中にいる」というのは「アンシーというウテナの一部分が、柩の中にいる」ためだ。

 

余談だが、「鳳学園=柩」だからでは?という解釈がこの場合、一見尤もらしい。

しかしこういう「ひとつの事物をひとつの事物で定義する、私たちの世界の法則」でこの物語を解釈しようとすると、どこかで行き詰るはずだ。(前回の自分の考察のように、「ウテナとアンシーは同一人物である」とイコールで結んでしまうと、38話の屋上の二人の会話におけるアンシーのウテナに対する「あなたには何の関係もないのに」という言葉と矛盾が生じる。「鳳学園=柩」にしてしまっても、ここで矛盾が生じる。ウテナは自ら望んで、柩の中に隠れたからだ。イコールで結ばれていなければ、二人が何かの概念でつながっていないときは別人物だし、「鳳学園」はウテナにとっては「柩」ではない。)

 

関係ない二つの事象のあいだに意味を見出すのが「物語を読む」ということ

では「柩の中にいる」という概念でもって、物語の登場人物は全員結ばれるのではないか、という意見も出てくると思う。

しかし、例えば暁生とウテナは「柩の中の少女」という概念では結ばれない。

それは暁生が男だからではない。この物語では、概念を結ぶのに外見は関係がない。

実際、23話の最後で暁生が馬宮の肩に手をおいた瞬間、馬宮はアンシーになっている。

 

「その概念を認知する人がいない」からだ。

言い換えると「暁生を『柩の中の少女』という概念に当てはめる人がいない。ゆえに『柩の中の少女』=暁生という現象は、物語内で可視化されない」という法則が成り立つ。

 

 ここまで読んで「何だそれは。めちゃくちゃややこしいな」と思われるかもしれない。

しかし、実はこれこそが自分たち「物語外の人間」が「物語を読むときに行っていること」なのだ。

 

例えば「かしらかしら」の影絵は、「ウテナ」という物語にはまったく関係がない内容だ。だが「この影絵が『ウテナ』という物語の中で行われている」という情報から、見ている人間は「これは今回の話の暗喩だったり、何かを示唆する内容である」と「勝手に意味を見出す」

七話の「遠足なんて行きたくなかったから、風邪をひいて丁度良かった」という影絵を見て「樹璃は強がっているだけで、本当は奇跡の力を欲しがっているのだな、これはそういうことを表す影絵なんだな」と解釈する。

 

まったく関係のない事象同士を結び付けて考え、自分の内部にある概念を当てはめてそこに意味を見出している。

しかしこの影絵と物語内の樹璃の心を結びつけるのは、「見た人間の解釈」のみだ。逆に言えば見た人間が影絵は影絵、樹璃の心とは何の関係もないと思えば、その影絵は『ウテナ本編』には何の関係もないもの、ということになる。

この影絵と樹璃の関係のように、暁生もウテナもアンシーも「柩の中に閉じ込もっている」のに、なぜ暁生は「柩の中の少女」という概念を共有しないのか、というのは「そういう解釈(認知)をする人間が物語の中にいない」ということだ。

 

これは構造主義の哲学者、バルトの「作者の死」の考えに似ている。

テクストはさまざまな文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣し合い、いがみ合う。しかし、この多様性には収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたような作者ではない。読者である(略)テクストの統一性はその起源ではなく、その宛先のうちにある。(略)読者の誕生は作者の死によって贖わなければならない。

(ロラン・バルト「作者の死」より/太字引用者)

あくまで自分の解釈だが、「物語(引用文ではテクスト)」というのは「それ自体に意味性はない」 「読み手の認識」と相互作用し合って、初めて意味を持つ。

だから「作者がこのテキストを通して何を言いたいのか。作者の何を表しているのか」という目線で物語を解釈しようとするのは無意味だ。これがバルトが主張する「作者の死」だ。

 

「少女革命ウテナ」では、この物語の読み方を登場人物たちが「物語内の現実」でしているのではないか。

「物語内の現実が何であるか、という発想で物語を考えるのは無意味だ。大事なのはそれぞれの登場人物が、その事象にどんな意味を見出したかで、『ウテナ』はその意味を可視化した物語」なのではないか、と思った。

この考え自体が「作者の意図を探る」ことになってしまうのだが、とりあえずそう考えると自分の中では物語の辻褄が合う。

この考えを基にして物語の分からなかった部分を見ていきたい。

 

物語内の事象の意味

根室記念館

根室記念館が何であるかは、23話で御影がほぼ話している。

「大切な人によって人生を変えられた」

「その美しい思い出を永遠のものにしたいと願ってやまない」

「そういうイリュージョンを持っているものではないと、決闘場には立てないし、ディオスの力には近づけない」

 

根室の望みは「時子」という「美しい思い出」を「永遠のもの」にすることだった。

そのために根室は、暁生と契約する。彼はその「美しい思い出」というイリュージョンを守るために、時を止めた。「永遠のもの」にするために、馬宮を「薔薇の花嫁」にしようとする。

しかしウテナに敗れたために、イリュージョンが破れてしまう。イリュージョンは、御影一人がそれを信じていたものだ。だからその「御影の認知」が破れれば、「他の人の認知」が表面に表れる。

「根室記念館はずっと昔に焼け落ちており、火をつけたのは根室だった。そして誰も死んでいない」

「彼(御影)はこの学園に最初からいなかった」

これが「御影以外の人間の認知」だ。だから御影が敗れた後は、ウテナや幹の「物語内の現実」はこの認知になる。

 

馬宮とアンシーは「薔薇の花嫁」という概念で結ばれており、馬宮と「ディオス=暁生」は、「永遠のもの」という概念で結ばれている。

だから御影の認知では、馬宮はディオスの姿をしている。

そして御影という存在が消えたあと、「馬宮=ディオス」という御影の認知がなくなったために、「薔薇の花嫁」という概念で結ばれたアンシーの姿になるのだ。

 

最終話の意味

柩を開けた瞬間、なぜウテナはアンシーに「やっと会えた」というのか。

まったく辻褄が合わないわけではないから見過ごしてしまいがちだが、これも小さな違和感だ。

ほんの少し前に剣で刺されたばかりなのに。

 

ウテナとアンシーは「柩の中の少女」という概念で結ばれている。

西園寺が「あの子はまだ柩の中にいる」と言った通り、「柩の中の少女」は柩の中にずっと隠れていたのだ。「ずっと柩の中に隠れていた少女」という概念が、最終話で「アンシー」という姿で現れる。そしてアンシーは「柩の中で眠っている」という事実をもって、「ウテナの一部」という概念を含むことになる。

ここでも大事なのは、「アンシー=ウテナの一部」とイコールで結ばないことだ。

あくまで「アンシーという存在が、『柩に閉じこもったウテナ』という概念を表すこともある」ということだ。

イコールで考えてしまうと「トラウマを克服し、自分で自分を救う物語」という文脈になってしまう。そうするとウテナがアンシーを救えなかった最終話は、アンハッピーエンドと解釈するしかなくなるからだ。

 

「ウテナとアンシーは、『柩の中の少女』という概念で結ばれた同一人物である。しかし、別人物である」

だからこの場面は、「私(ウテナもしくはアンシー)が私(ウテナもしくはアンシー)に会った」のではない。

「誰かを救うために、女の子の身で王子になるという不可能なことを必死でやろうとした自分」と「柩に隠れたいと願うほど世界に絶望しているところを、誰かに助けられた自分」が出会う物語なのだ。

この「助けた自分」と「助けられた自分」は、同一人物であり別人である。その「助けようとしたとき」と「助けられたとき」は違う状況で、「自分で自分を助けたわけではない」からだ。

助けようとしたときに助けられず「結局、王子さまごっこだった」と思った。しかし「助けられたとき」は新しい世界の扉が開かれ、自分の足で柩=鳳学園を出ていった。

 

あの時、自分は何もできなかった、と思ったけれど、もしかしたらアンシーのようにどこかで「今度は私から会いに行くから」と思ってくれているのかもしれない。

あの時自分を助けてくれた誰かを、助けてくれた本人さえ忘れているかもしれないけれど、自分はずっと忘れない。

その両方の感覚を同時に想起させるから、「ウテナ」の最終話はこんなにも美しく感動的なのだ。

 

まとめ

ここまで考えて、自分の中では物語の内容についてはだいぶ腑に落ちた。

 

この物語は、本来は感覚だけで味わう物語だと思う。

例えば「アンシーはなぜ、ウテナを刺したのか」など、言葉にはできなくても感覚で、「そうだよな、当然刺すよな」と思う。樹璃がペンダントを失ったあと、なぜ自ら胸の薔薇を捨てたのか、なぜあの場面で突然雨が降り出すのか。言葉にする前に「そうだ、こうなるはずだ」という感覚が生まれる。

その因果自体は言葉でも説明できるが、この場面を見たときに想起させられる感覚はとても言葉では説明できない。そういうものを描いているから、この物語はこんなにも美しいのだろう。

38話のウテナとアンシーの屋上の会話や、最終話でウテナが柩を開けたあとの流れは何度見ても泣く。

 

「少女革命ウテナ」は本当に気高く美しい物語だ。

その美しさ、気高さを感覚で堪能するのが、この物語を一番味わえる見方なのかもしれない、と思った。

 

関連書籍 

 

*1:文春新書

「乙女戦争 -ディーヴチー・ヴァールカ-」をもっと楽しむ。5分で分かる「フス戦争と中世プラハの歴史」

 

 

「乙女戦争」を読んだら、「フス戦争」について詳しく知りたくなった。

 

 

「乙女戦争」の背景である「フス戦争」の状況は、かなり複雑で理解しにくい。

この時代のキリスト教がどういうものだったのか、ということから現代の感覚だと理解しにくいし、そのうえ単純に宗教的な対立のみ、というわけでもない。

一人の人間が色々な国の王を兼ねていたり、貴族と市民、聖職者、王との力関係や利害関係や諸外国の関係が複雑に絡み合っている。

 

「乙女戦争」はこういった時代背景をうまく整理して、エンターテイメントに落とし込んで物語を展開しつつ説明してくれているが、「後世からみたフス戦争の意義」や「こういったことが起こった時代背景、影響」などをもう少し知りたいな、という思いが湧いてきた。

 

「乙女戦争」の参考文献でも挙がっている、薩摩秀登「プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革-」を読んでみた。

プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)

プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)

 

 

プラハに視点を固定しているので、状況が分かりやすい。

当時のボヘミア周辺の状況は、諸外国の利害関係、ヨーロッパの外の敵であるオスマン帝国の動きなども絡んだり、フス派の中でも身分や考え方の違いで分裂が起こったり、読めば読むほどひと口では説明できない複雑さだ。

この本はプラハという町に視点を固定して語られているため非常に読みやすいし、分かりやすい。

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(引用元:「プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革-」/薩摩秀登/現代書館)

 

現代の日本で生きる人間の価値観だと理解しにくい「二種聖餐を認めるか認めないかが、なぜそんなに問題なのか」などの概念的な問題もすんなりと理解できる。また後世からみたフス戦争の意義や、その後に起こったルターやカルヴァンの宗教改革との関係も分かりやすく語られている。

その時代の諸身分の立場や街の状態、歴代の王がどんな人物だったかなども書かれており、少しでもこの時代の歴史に興味がある人ならばとても楽しい本だと思う。

 

この記事では、時系列や背景が理解しやすいように年表や出来事をまとめてみた。

名前や地名の表記は「プラハの異端者」の表記に準じている。「メモ」は読んだときの自分の感想や疑問、考えなどを書いている。

 

ボヘミアの歴史まとめ

「ボヘミア王冠諸邦」誕生まで

6~8世紀 遊牧民族アヴァール人がスラヴ人を支配

8世紀   カール大帝がアヴァール人国家を滅ぼす

830年   モラヴィア王国が成立

9世紀末  モラヴィア王国がマジャール人に滅ぼされる

10世紀半ば オットーⅠ世がマジャール人を撃退。マジャール人はアールパート王家の下でハンガリー王国を築く。

 

962年 オットーⅠ世がローマ皇帝に即位。神聖ローマ帝国の誕生。

10世紀 プラハを本拠地とするプシュミスル朝ボヘミア、クラクフを本拠地とするピラスト朝ポーランドが成立し、中欧に国が出現。

プシュミスル朝ボヘミアで確認できる最古の人物は豪族ボジヴォイ(在位850頃~894)。プシュミスル家で最初にキリスト教徒になった。ボジヴォイの孫、ヴァーツラフ(在位921~929(935))の頃には、プシュミスル家の権威はボヘミア全土に及ぶ。

 

929年(935年) ヴァーツラフの弟・ボレスラフが兄を暗殺し、ボレスラフⅠ世となる。ボレスラフ二世の時代、プラハに司教区が創設される。

1212年  皇帝フリードリヒ二世がボヘミア君主プシュミスル・オタカル一世に、シチリアの金印勅書を与える。

「ボヘミア王国を、その王とその後継者たちに永遠に付与する」

ボヘミアが一つの王国であることが、正式に承認される。

 

13世紀~14世紀 プラハにおいて、参審人から行政機関である参事会が分離、発達していく。

参事会=12名で構成される。一年ごとに改選され、なれるのは都市貴族だけ。国王の意向に沿って選任されるため、完全に国王に従属している。

1310年代 参事会員のうち一名が、一か月ごとの交代で市の代表を務めるようになる。(市長職の起源)

1306年8月4日 ヴァーツラフ三世が暗殺され、プシュミスル家が断絶する。

ヴァーツラフ三世の姉婿ハインリヒが跡を継ぐが、国内は混乱。ドイツ国王アルブレヒトがボヘミア貴族に国王選出権を認め、息子のルドルフを選出させる。

しかしルドルフが急死し、再びハインリヒが国王になる。

 

メモ=中世の国王はこの後の近世の国王と違う、ということが分かる。血筋よりも実際の統治能力や、権力のバランスや後ろ盾が選ばれる基準になることが多い。

権力自体も絶対的なものではなく、どちらかというと「貴族の中の代表」という意味合いが強い。政党政治において、その代表が元首になるようなイメージ。都合が悪くなると、すぐに反乱を起こされたり、立場を追われたりする。この辺り、絶対王政のようなイメージでとらえていると分かりにくい。

「乙女戦争」でも、ジクムントが貴族の統制に苦労している描写がある。

 

1310年 ドイツ国王ハインリヒ七世の息子ヨハンがヴァーツラフ三世の妹エリュシカと結婚し、ボヘミア国王となる。

ヨハンは貴族たちと対立し外交活動が多くなる→ボヘミアは貴族たちの寡頭政治状態になる。

 

メモ=外部からきたボヘミア国王は「馴染めなくてほとんど国外で過ごす」パターンが多い。ボヘミアの標準語であるチェコ語も話せない王もでてくる。マクロで考えると「国にほとんどいない王」ってなんだかなと思うけれど、個人レベルで考えると「それは馴染めないだろうな」と納得してしまう。

 

1334年 ヨハンの息子カールがモラヴィア辺境伯になり、プラハで代理統治を始める。

1338年 ボヘミアで最初の市庁舎がプラハに登場(市の行政や裁判が行われる)

1346年 カールがカール四世としてドイツ国王に即位。

百年戦争のクレシーの戦いでヨハンが死亡。カールはボヘミア国王にもなる。

 

メモ=この後の時代もボヘミア国王はハンガリーとドイツの国王も兼ねることが多い。「王」という語のイメージで考えると納得しづらいけれど、力の強い首長の傘下に色々な部族が集まる、みたいなイメージだと納得できる。

「王」の概念が近世とは違うのがややこしい。

 

1348年 プラハで帝国議会が招集される。

ボヘミア国王と、モラヴィア、シレジア、ラウジッツの君主の間に封建的主従関係が成立。

「ボヘミア王冠」という王の上位の概念が成立。従属関係や忠誠を誓うのは「王冠に対してである」という考えで、モラヴィア、シレジア、ラウジッツの君主の心理的抵抗を和らげる。

「ボヘミア王冠諸邦」の誕生。20世紀まで制度として続く。

 

メモ=「ボヘミア王冠」は「乙女戦争」でも出てきた。「王冠」にこだわっていたのは、忠誠の対象として王よりも王冠が上位だからか、と納得。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

カール大帝の時代~フス戦争直前まで

国内の貴族は、国王と権勢を分け合う存在。プラハは国王の強い支配下にあり、都市貴族は郊外に所領を設け、そちらへいることが多かった。国王の行政スタッフは、聖職者が多かった。

メモ=ここで、聖職者が世俗権力と結びつく道筋が見えてくる。

 

1355年 カール四世(ボヘミア国王カレル一世)がローマで皇帝として戴冠。

1356年 金印勅書を発行

金印勅書=皇帝選出の慣習を整理、成文化したもの。神聖ローマ帝国解体まで効力を持った。

1376年 カール四世の息子ヴァーツラフ四世が、ドイツ国王に即位。

1378年 カール四世死去。

 

14世紀末 ヴァーツラフ四世の時代

①国王と教会上層部の対立

②国王一族の権力闘争

③貴族中心の政治を確立しようとする、貴族たちの思惑

 

1393年 大貴族たちが同盟を結んで反乱を起こす。約10年内戦が続き、国内が無政府状態になる。

ヴァーツラフ四世の異母弟ハンガリー王ジクムントや従兄弟のモラヴィア辺境伯ヨシュトも介入、国王と対立する。

1400年8月 ヴァーツラフ四世が、ドイツ国王の廃位を宣告される。

 

メモ=「乙女戦争」で敵方のボス?であるジクムントが登場。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

異母兄と血で血を洗う闘争を経ていた模様。

ヴァーツラフ四世は四面楚歌で気の毒だ。大変な状況を乗り切る政治的手腕に欠けていた人だったのだろうか。

 

ウィクリフの宗教改革論~コンスタンツ公会議(フス処刑)

1390年代 イングランドのウィクリフの情報が、プラハに伝わってくる。

プラハ大学のマギステルは、ウィクリフ支持と不支持で割れる。

 

メモ=他の国ではこういうことが起こらず、なぜボヘミアでウィクリフの説によって分裂が起こったのかは、ドイツ人とチェコ人の潜在的な対立があったからのようだ。ドイツ人とチェコ人という分類も今日でいう「民族」とは違う概念だし、はっきり割れたわけでもないところがややこしい。

 

ウィクリフ=イングランドの聖職者。聖書を信仰の基本とし、教皇の権威と聖職者階層制、全質変化説を否定する。

全質変化説:聖体(パンとぶどう)がミサで授与された際、その外観は変わらなくても、質的にはキリストの血と肉に変化するというカトリックの教義。

 

メモ=聖餐は宗教的な儀式というだけではなく、教会の権威を市民に知らしめるために非常に重要なものだった。フス派の二種聖餐とウィクリフの全質変化説の否定は説としては少し違うのだろうけれども、どちらも教会の現実的な権威を揺らがせる主張だった。

 

1402年 フスがベトレーム礼拝堂の説教師になり、教会批判を始める。

1408年 反ウィクリフ派の訴えにより、ローマ教皇がウィクリフの説を唱えることを禁じる。プラハ大司教は、司教区には一切の異端や誤謬はないと宣言。

1409年 クトナー・ホラの勅令(ボヘミア人が大学の事実上の支配権を得る。)

 

メモ=プラハ大学は開設当時とは違い、ドイツ人よりもボヘミア人のほうが多くなっている。それなのに一民族一票だったため、その割合を正した勅令。単なる思想上、宗教上の対立ではなく、民族問題も絡んでいる。

 

1410年 プラハ大司教が、フス及びその仲間に破門を宣告。

    ハンガリー国王ジクムントがドイツ国王に選出される。

1412年 ローマ教皇による贖宥状の販売をフスが批判。このことにより、フスは国王からの保護を失う。

 

メモ=この贖宥状の販売費は、ナポリ王との戦争の資金のために必要だった。単純に金が欲しいというわけではない。教会大分裂が根底にある。国王がここで教皇を支持したために、フスは保護を失う。

フスが反対した理由が「キリスト教徒同士の戦いのためなのは」というのも面白い。「キリスト教徒以外の敵」だったら、反対しなかったのか?など色々思う。

 

1415年 コンスタンツ公会議

内容:①教会の統一(教会大分裂の収束) ②教会の改革 ③ボヘミアの異端問題 ④フスの処刑

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

プラハで二種聖餐派=聖杯派が登場。プラハはカトリックと聖杯派に分裂する。

 

☆フス戦争・「乙女戦争」の時代

1417年6月 ヴァルテンベルクのチェニェクが聖職者に、二種聖餐の実施を命令するなど、貴族が聖杯派を保護。

1419年 聖杯派は穏健派と急進派に分裂する。

7月 プラハの急進派ヤン・ジェリフスキーが市長を殺害。(フス派革命の始まり)

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

8月 ヴァーツラフ四世が死去。王国の権力は、王妃ジョフィエとヴァルテンベルクのチェニェクが引き継ぐ。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

急進派はプラハの南に拠点を作り、ターボルと名付ける。ヤン・ジシュカやアンブロシュなどが頭角を表す。

メモいよいよフス戦争が始まる。ジェリフスキーが市長を窓から投げ落として始まったらしい。すごい。やばい。

 

1419年 ペトル・ヘルチツキーがフス派の運動から離れる。

1420年 教皇マルティヌス五世がボヘミアの異端討伐のため、十字軍を起こす。ジクムントとプラハは、戦争状態になる。

1421年 プラハ同盟が成立。

 

様々なフス派

穏健派(聖杯派)=プラハ市街を中心とする都市上層部、大学のマギステル、貴族たち

急進派(ターボル派)=下層民、農民、一部貴族。初期の指導者はミクラーシュ。

ピカール派・アダム派=終末論にこだわった極端な急進派。

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 (引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

1421年 ターボル派がピカール派(アダム派)を滅ぼす。

6月 急進派ジェフリスキーがプラハでクーデターを起こす。二つの市街が統一される。

8月 第二回十字軍→10月に撤退

1422年3月 ジェフリスキーが斬首され、プラハは穏健派の拠点になる。

5月半ば リトアニア大公ヴィタウタスの甥・コリブートがプラハに到着

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

10月 ブランデンブルグ伯フリードリヒ率いる、第三回十字軍が結成

1423年春 ジシュカ、ターボルから急進派オレープ派がいるフラデツに移る。

1424年10月 ジシュカ死亡

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

1428年 第四回十字軍が結成されるも惨敗する。

1431年 ブランデンブルグ伯フリードリヒ、第五回十字軍を結成。

「ドマジュリツエの勝利」=十字軍を、プロコフ・ホーリーが率いるターボル派が破った歴史的勝利。これを機に、カトリック陣営はフス派との和解を考えるようになる。

 

メモ=「乙女戦争」を読んでいると、ジシュカが死んだ後ターボル派や孤児はどうなるのだろう、と心配になる。

なんとプロコフ先生が首領となり戦っていく。「乙女戦争」では軍事的指導者はサーラになるかもしれない。期待が高まる。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

1433年 国外遠征「偉大なる行軍」が続く。

メモ=ボヘミア全体が経済封鎖を受けているため、他国に侵略せざるえなくなる。

 

1433年 バーゼル会議 「形だけの二種聖餐」をターボル派と「孤児」以外は、認めるようになる。→急進派が孤立する。

メモ:急進派と穏健派が袂を分かつ。穏健派は、現実的なカトリックとの協調の道を探るようになる。

 

1434年 リパニの丘の戦い 

穏健派・カトリックVS急進派。プロコフが死亡。急進派はほぼ消滅。穏健派(聖杯派)のみが残る。

フス戦争はカトリックに妥協した穏健派が勝利し、1436年に和平が結ばれ終結する。

1436年 バーゼル協約が成立 ボヘミアの宗教制度の基本となる。

フス戦争の結果:勢力が増大した貴族階層こそが、フス戦争の勝利者と言える。

 

メモ「乙女戦争」はこの辺りくらいまでやるのかな。

歴史だから仕方がないとはいえ、この結末は辛い。貴族は個人としてはいい人が多く、カトリックの聖職者側にあくどい人間が多い描写なので、意外と後味のいい終わり方かもしれない。(と思いたい。)

 

フス戦争以後イジーの時代~ルターの宗教改革まで

1436年12月 ジクムント死亡。娘婿のアルブレヒトが跡を継ぎ、ドイツ、ハンガリー、ボヘミアの国王になる。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

「乙女戦争」のアルブレヒトはほんとムカつく。エリーザベトはいい子なのに、こんな奴と結婚させられて…。早く〇ねと思うけれど、最後まで生き残るのか~。

 

1439年10月 アルブレヒト死亡→ボヘミア、ハンガリーは王が不在となる。

聖杯派イジーが、アルブレヒトの生まれたばかりの息子ラディスラフを王とし、摂政をおく案を提案。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

1448年9月 イジーがプラハに乗り込み、カトリック派を排除。実権を握る。

1453年10月 ラディスラフがボヘミア国王として戴冠

 

メモ「乙女戦争」で出てきたイジーが、フス戦争後はボヘミア国王になる。物語の中ではフス戦争にも絡んでくるのかな?

 

1457年11月 ラディスラフ急死

1458年3月 イジーがボヘミア国王に選出される。

1460年頃 ヘルチツキー死去→彼の一派は「同胞団」と呼ばれるようになる。

 

メモ=実は長生きしていたヘルチツキー。物語には絡んでこないかもしれないが、「同胞団」は長々と続いていく。自分が死んだあとも自分の思想がつながる、ということが一番望むことだと思う。「孤児」たちにもこういう救いがあるといいんだが。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

1462年3月 教皇が「バーゼル協約」の破棄を宣告。カトリックとフス派の和解が白紙に戻る。

1465年9月 カトリックの大領主シュテルンベルグのズデニェクを中心とする反国王派同盟「ゼレナー・ホラ同盟」が成立。

1466年 教皇パウロ二世がイジーとその家族、支持者を異端と宣告する

1467年頃 ボヘミア諸邦が内戦状態になる。(第二次フス戦争)

1468年3月 ハンガリー国王マーチャーシュがモラヴィアを占領

1469年 休戦

5月 「ゼレナー・ホラ同盟」がマーチャーシュをボヘミア国王に選出。

1471年3月 イジー死亡

5月 イジーがポーランド王子でカトリックのヴワディスワフを後継者に指名。ボヘミア国王に選出される。

 

メモ=なぜ聖杯派であるイジーがカトリックの人間を後継者として指名したのか。情勢と各陣営の思惑がものすごく複雑だ。

ずっと見てきて思うのは、ボヘミア国王の権力基盤は本当に脆弱だなということ。この流れを読むだけで、イジーは苦労が絶えなかっただろうなと思う。

 

1479年12月 ヴワディスラフがボヘミア、マーチャーシュがモラヴィア、シレジア、ラウジッツを統治することで和解が成立

1483年 プラハで聖杯派が暴動を起こし、プラハを占拠する。

1485年3月 「クトナー・ホラの協定」が結ばれる。フス派革命のひとつの到達点と言われる。

「クトナー・ホラの協定」=一種聖餐と二種聖餐を自由に選ぶことができる。どちらを受けるかを強制してはならない。

 

メモ=「これだけ色々あって、二種聖餐が認められたことがひとつの到達点?」と思ってしまうが、カトリックの権威が政治にも日常にも思想にも及んでいたこの時代では、それまでの権威や階層にヒビを入れた「二種聖餐」というのは革命的な発想だったんだろう。ここまで読んで「二種聖餐を認めさせる」というのはものすごく難しいことだったんだ、ということが分かってくる。

 

宗教革命以後の時代

1516年 ヴワディスワフ死亡。息子のルートヴィヒが跡を継ぐ。

1517年10月31日 ドイツでルターが「九十五か条の論題」を発表。

 

メモ=面白いと思ったのは、ルターは「社会問題」など特に考えておらず、このままカトリックとして活動をしていたら自分の魂は救済されないんじゃないかと考えて行動したということ。

個人的な思想の疑問が社会変革に結びついたのは、社会が変化する基盤が整っていたからなのか。

 

プラハはルターと特に協調しない旧聖杯派と、積極的に宗教改革の波に乗る新聖杯派に分裂する。

メモ=また分裂するのか~~。

 

1524年 旧聖杯派のツァヘラがプラハの実験を握り、急進派を一掃する。

旧聖杯派はカトリックに近づき、新聖杯派は再洗礼派に近づく。フス派は二つに分裂。

1526年 ルートヴィヒ、オスマン帝国との戦いで死亡。ルートヴィヒの義兄弟であるハプスブルグ家のフェルディナントが王に選出される。

 

1547年 ドイツ国王VSシュマルカルデン同盟(プロテスタントの貴族の同盟)

フェルディナントは兄のカール五世を援助しようとしたが、プラハが反発する。結局はカール五世とフェルディナントの勝利に終わり、プラハの自治権が消失する。

1555年 アウグスブルグの平和令

1564年 バーゼル協約を教皇ピウス四世が承認。ついに聖杯派が異端ではなくなる。

    フェルディナント死亡。息子のマクシミリアンが王位を継ぐ。

1575年 新聖杯派と同胞団が共同で「ボヘミアの信仰告白」を国王に提出し、ローマ教会からの分離に踏み切る。

 

メモ=フスなど改革を試みた人でさえ、教皇を通じて力を授かると考えていたため、「ローマ教会からの分離」という発想はなかったのだと思う。ここでついにローマと袂を分かったという意義は大きい。

 

1576年 マクシミリアン死去。ルドルフ二世が即位。

1609年7月 ルドルフ、プロテスタントの宗教の自由を認める。フス派は名実共に、独立した教会となる。

1611年 パッサウ司教レオポルトの侵攻に対抗するために、ボヘミア議会はルドルフ二世を排し、マティアスを国王に選出。

1617年7月 マティアスの跡を継ぎ、従兄弟のカトリック派フェルディナント二世が即位。宮廷をプラハからウィーンに移し、ボヘミアの再カトリック化を図る。

1619年 ボヘミア貴族、諸身分が「ボヘミア連合」を設立。フェルディナント二世に廃位を宣言する。

1620年8月 ビーラー・ホラの戦い

「ボヘミア連合」は敗北し崩壊する。以後、ボヘミアは①ハプスブルグ家の絶対的な支配下におかれ②カトリック強制の国となる。

 

メモ最後の最後でオチはこれかよ、という感が半端ない。

ハプスブルグ家という巨大な家の統治下に入ったボヘミアは、これからは巨大な歴史の一部分になっていく。この「民族闘争」とも「宗教闘争」とも「階級闘争」とも言い切れない、それでいながらどの要素も含んでいるフス戦争は、ボヘミアの人たちにとって大切な歴史になったよう。「乙女戦争」の時代に生きた人たちの生きざまや思いは、今の時代にもちゃんと伝わっているのが良かった。

さんざん潰されそうになったり、実際にターボル派や孤児のように存在自体は消滅しても、後世には何がしか伝わっているのが救いだし、それが歴史だよなあと思う。

 

まとめ

ざっくりと関係のある事実だけを追ったけれど、「プラハの異端者たち」は事実以外も、その時代に生きた人の立場や思惑への推測なども分かりやすく書かれていて、まったく馴染みがない時代の歴史に対する認識を、楽しく理解し知識を深められる本だった。

「勉強しよう」という四角四面な気持ちからではなく、単純に読み物として読んでも十分面白いと思う。

「乙女戦争」が好きな人は、この時代を生きた人への愛着や理解がいっそう強まる本だと思うので、特におすすめしたい。

 

それ以外に

『乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ』大西巷一先生×『アンゴルモア 元寇合戦記』たかぎ七彦先生 歴史コミックの巨星トークショー レポート! | Charalab(キャララボ)

この記事で「乙女戦争」の作者である大西巷一がおススメしている、同じ作者の「物語チェコの歴史」も読んでみたいと思う。

 

ついにジシュカが死んでしまった…。どうなるんだろう。

 

 

【アニメ考察】「少女革命ウテナ」を全力で謎解きする。

 

*2018年2月9日に「ネタバレ考察・最終考」を上げました。本記事の内容を大幅に修正しています。そちらが現在のところの最終考察になりますので、よろしければコチラも合わせてご覧いただければと思います。

www.saiusaruzzz.com

 

ずっと見たかったアニメ版「少女革命ウテナ」が、Amazonプライムビデオで配信されたので、全39話を視聴した。

少女革命ウテナDVD-BOX 上巻 (初回限定生産)

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絵柄にかなり癖があるけれど、見ているうちに「その絵がいい」と思えるような面白い話だった。20年近く昔のアニメなのに、まったく古びた感じがしない。  

 

話に聞いていた通りメタフォリカルな話で、辻褄の合う解釈を見つけようとするとかなり難しい。

この話の深層に隠されているものを、自分なりに考えていきたい。

 

劇場版と漫画版は見ていない。あくまで、アニメ版だけを見た考えである。

また制作者の話や他の人の解釈などは読んでいない。もうある程度、通説があるのかもしれないが、自分なりに一から考えてみたい。

本文の中では読みやすいように断定調の文章を用いるが、あくまで自分の個人的な推測である。

 

 

ウテナとアンシーは同一人物である。

まず考察の出発点となるのは、「ウテナとアンシーは同一人物である」という発想だ。

「ウテナとアンシーが同一人物ではないか」と考える根拠はいくつかある。

 

ウテナとアンシーが同一人物である、と考える理由

ひとつめはオープニングの映像だ。

オープニングは、ウテナとアンシーがひとつの薔薇の中に入っているところから始まる。そして二人は、ウテナとアンシーに分裂する。二人は引き裂かれて、学園で再び再会する。二人はそれぞれ王子と王女の衣装をまとう。

そして決闘場で生徒会のデュエリストたちと決闘する。決闘場が崩壊すると同時に、王子であるディオスが目覚める。

その後に、二人は同じように騎士のような甲冑をまとい槍を持ち、馬にまたがるシーンがある。

物語内では「王女」「花嫁」としての属性しか持たなかったアンシーだが、ここではウテナと同じ「王子」になっている。物語内でウテナが実は「王女=女性」としての属性を持っていることが重要視されている。前期エンディングではウテナとアンシーは色違いの王女の衣装を身にまとっている。

二人は本来同一人物であるが、物語内では「王子」と「王女」に分裂しているのではないかと推測できる。

オープニングではこの後、二人は再び引き裂かれ、ウテナのみが薔薇の中に残される。

通常は、一回くらいはオープニングの曲と映像がリニューアルされるだろう。

しかし「ウテナ」は、全39話の間、オープニングはずっと同じものだ。オープニングの映像と曲も、この物語から外せない重要な一部だからではないかと思う。

 

二つ目の根拠は、9話で初めて出てきた、冬芽と西園寺が子供のころに出会った「柩に入って、永遠を見たいと望む少女」の話だ。

柩に入っていた少女はウテナである、と後に判明する。

アンシーも同じように「空に浮かぶ城にいつか行きたい。あそこには永遠のものがある」と言う。

9話で西園寺は「柩の中の少女=ウテナ」と「アンシー」をかなり混同して話している。あたかも二人が同一人物であるかのように、シームレスに思い出話と現在のアンシーへの自分の想いを語る。

 

また冬芽は、ウテナがアンシーの二人を見て「ひとりぼっちの姫君」(この「ひとりぼっちの姫君」というフレーズを、冬芽は12話でアンシーに使っている。)と言ったり、「今も彼女は柩の中に一人でいる」と言ったりする。ウテナは幼いころ棺を脱出しているが、最終回で描かれている通り、現在柩の中にいるのはアンシーである。

また暁生が「ふたご座のように仲良くしてくれ」と言ったり、物語後半では二人は円形が半円ずつずれたベッドで眠ったりと、二人が同一人物であることは手を変え品を変え示唆されている。

 

こういった根拠を基にして、とりあえず二人は同一人物であるという発想で考察を進める。

 

ウテナとアンシーは、何を表しているのか。

これは物語で表している通り、「アンシー=花嫁=女性性(の中の受動的な部分)」である。

「薔薇の花嫁」であるアンシーは、自らの意思を持たない。非常に受動的であり、自分を勝ち取ったデュエリストの支配を受け入れる存在である。

「柩の中に入った少女」が切り捨てた「支配される性=女性性」がアンシーである。そして「女性性を捨てた柩の中の少女」がウテナである。

 

なぜ、ウテナとアンシーは分かれなければならなかったのか。

言い方を変えれば「なぜ、柩の中の少女は、女性性を捨てなければならなかったのだろうか」

彼女は何かがあって、自ら柩の中に隠れた。冬芽と西園寺に対して「開けないで」と頼み、「何で生きているのだろう。永遠のものなんてあるわけないのにね」と口走る。

「柩の中の少女」は後のウテナからは想像もつかないほど、傷つき、絶望している。彼女はアンシーを自分から切り離し魔女化することで、後の明るく無邪気なウテナになれたのだ。 

何がそれほど、彼女を絶望させているのか。両親が死んだから、ということだが、それならばなぜ、彼女が柩に隠れなければならないのか、なぜ女性性を捨てて後の天上ウテナにならなければならないのか、ということがいまいち納得がいかない。

 

ここで想像をかなり飛躍させる。

「両親が死んだ」というのは、文字通り生物学的に両親が死んだ、ということなのだろうか?「両親が死んだ」というのは、概念的な両親が死んだということなのではないだろうか。

「柩の中の少女」が切り離した人格であるアンシーは、親代わりでもある実の兄の暁生と近親相姦の関係にあることが示唆されている。

彼女の元の人格である「柩の中の少女」も同じような被害に合ったのではないだろうか。

 

彼女の父親が彼女に性的な虐待を加え、母親は見て見ぬふりをした。「子供を愛し庇護する両親」という概念的な両親は死んだ。彼女は絶望し、心の中にある柩の中に隠れた。それは「生きているのが気持ち悪い」と感じるほどの絶望だった。

「柩の中の少女」は、自分の中の「被害を受けた女性性とトラウマ」をアンシーという人格に託して、それを切離し「天上ウテナ」になった。

アンシーは自分に対する支配を全て受け入れ、痛みや主体性を持たない人格だ。彼女が「柩の中の少女」が受けた傷を全て引き受けることで、少女は生き延びることができたのだ。

物語の前口上として出てくる「両親を失って悲しみにくれる王女さまが、王子さまに憧れる余り、自らが王子さまになってしまう」話は、「本当にそれでいいの?」という言葉で締めくくられる。

それでは「良くなかった」のだ。

 

女性性を目覚めさせたウテナ

物語の中では二回、「天上ウテナ」が自らの女性性を目覚めさせる部分がある。

一回目は12話で冬芽に敗れたあとだ。冬芽には「普通の女の子に戻れるいいチャンスだ」と言われ、女の子の制服を身にまとう。

しかし、ウテナにとっての「普通」は男子の制服を身にまとった状態なのだ。

それは当然だ。何故ならば、ウテナにとっての女性部分はアンシーだからだ。冬芽に敗れアンシー(自分の女性性)を奪われたために、「ウテナ」という人格で女性部分を補わなければならなくなる。しかし、それはウテナにとっては「普通のことではない」のだ。

彼女自身が「普通=王子」であるためには、自分が守るべき女性性=アンシーが絶対に必要なのだ。

 

二回目は暁生に恋をしたときだ。

暁生はウテナが自分に恋をするように仕向け、二人はキスをしたり性的関係を結んだように描かれている。

31話で、ウテナが暁生から薬箱を受け取るとき、顔を赤らめるシーンがあるが、このシーンの直前に唐突にアンシーが消えている。後のシーンではかき氷を用意しにいったようなつなぎになっているが、正に「消えた」ような描写だ。

「ウテナの女性部分」とアンシーは、同時に存在することはできないのではないかと考えられる。

暁生の行動の目的は、ウテナを「トラウマのない女性性」にすることで、アンシーという人格と共に、トラウマを消失させることではないだろうか。

 

鳳学園の謎

デュエリストたち

同一人物である「ウテナ」と「アンシー」を、なぜ周りの人間は別人物として認識しているのか。それは鳳学園という世界の中は、「ウテナ」と「アンシー」が別人物の世界だからである。

この世界自体が、「柩の中の少女」の心象世界なのだ。

「鳳学園」が「柩の中の少女」の内的世界なのであれば、そこにいる人間は全てが彼女の別人格であるということができる。

 

その中でも、「薔薇の刻印」を持つデュエリストたちは「薔薇の花嫁」を手に入れ、「天上の城」に辿りつく資格を持つ。

自分から切り離した自己を手に入れることによって、彼らは初めて一人の人間になり現実に行くことができる。

デュエリストの資格を持つ人間は、皆、名前に樹木に関係がある字を持つ。

里、一、七織、瑠、若、香、美子、時。

決闘場に行くまでのゴンドラの中で、アンシーが脱ぎ捨てた制服から薔薇の樹木が発生する。アンシーの本質の象徴が薔薇の樹木であるとすると、デュエリストたちは彼女の派生人格と考えることができる。

アンシーを手に入れても完全な個とはなりえない風見達也は、デュエリストになることはできなかった。

 

冬芽の役割

「鳳学園」という世界の中で特別なデュエリストたちの中で、さらに特別なのが生徒会長である冬芽である。

彼は「世界の果て」が暁生として出てきたときは彼の片腕の役割を果たしたし、暁生が出てくる前から、「世界の果て」と頻繁にやり取りをしていた。

彼がウテナに敗れ閉じこもると「世界の果て」からの連絡が途絶え、また彼のみ「世界の果て」と電話で直接やり取りするシーンがある。遠眼鏡で、しょっちゅう他のデュエリストたちの様子を覗いているし、「ひとりぼっちの姫君」のようにメタ視点を持っているかのようなセリフも言う。

 

ここから推測できるのは、冬芽は現実の世界のことも、他の人格たちに起こっていることもある程度知っている人格ではないかということだ

彼は「柩の中の少女」が絶望したときに、彼女に永遠を見せた暁生との間を橋渡しした人格だ。

 

 「親」という存在のいない世界

物語内で、鳳学園に関係のない人物は不自然なほど出てこない。

実家に住んでいる冬芽と七実の両親は、話には出てくるが回想シーン以外は存在が全く出てこない。西園寺も学園を追い出されたあと、家に帰るという選択肢がすっぽりと抜け落ちている。

「鳳学園」という世界は、この世界のみで完結している。

例外として、幹と梢の父親と香苗の母親のみ出てくる。

 

幹と梢の父親に関しては、非常に謎の多いシーンが挿入される。電話の向こうで幹の父親といる再婚相手がアンシーなのだ。

これはもちろん、現実的なシーンではない。鳳学園において、人格のない女性性はアンシーに象徴されるという暗喩であり、鳳学園は現実の世界ではないということを補強している。

 

鳳暁生は何者なのか?

現実の精神科医説

まず考えたのが、現実の世界で「柩の中の少女」の治療を行っている精神科医説だ。

「鳳学園」という世界そのものが、彼の治療方法なのではないかという考えだ。

生徒会の様子を細工窓ごしに除く描写が頻繁に挿入されるが、暁生が人格たちの様子を覗いているという描写ではないか。

暁生は、「柩の中の少女」と同じ症状を持った根室博士に同じ治療を行ったが失敗し、根室博士は自分の中の人格を全て殺した。

御影はその治療方法のメタファーではないか、という考え方だ。

 

暁生が週に一回アンシーを呼び出し性的関係を結んでいるという描写は、アンシーという人格を呼び出し、トラウマを想起させる治療を行っている、という描写ではないだろうか。

ディオスは純粋に患者のことを思い病気と闘ったころの暁生であり、現在は人格を殺したり操ったり、駒のように扱うことで病気を克服しようとしている。

ただこの解釈だと「アンシーと俺は愛し合っている」「まだ俺を苦しめるのか」など、暁生とアンシーの個人的な思い入れの描写がうまく説明しきれない。

 

「柩の中の少女」の悪しき男性性人格説

 こちらの場合は、ディオスが「世界の果て」になった理由、アンシーとディオス、暁生の関係などは、だいぶすっきり説明できる。

 

ただこの場合、時子と香苗の義母の存在がかなりネックになる。

物語に出てくる登場人物のうち、この二人は実在の人間ではないかと考えている。

時子は「時間」のメタファーである、と考えることもできるが。

 

考察を基に、組みなおした物語

それぞれのものが暗示するもの

天上ウテナ=「柩の中の少女」からトラウマと支配され傷つけられた女性性を抜き出した人格。心の奥底の柩に封じ込めた、トラウマに傷ついた自分の人格を救い受け入れて生きようとする人格。

姫宮アンシー=「柩の中の少女」のトラウマと支配され傷つけられた女性性を引き受けた人格。本体は、心の奥底の柩の中に閉じ込められている。

鳳暁生=「柩の中の少女」の中で最も強い男性性人格。最初はディオスとして全人格を守っていたが、余りに強烈なトラウマに傷つけられ「世界の果て」に変貌する。トラウマを葬りさり、生きようとする人格。

デュエリスト=人格が統合されるときに、核となりうる人格。

天上の城=現実(世界)

ディオスの力=現実を生きるための力

薔薇の門=トラウマを隠した深層意識の入り口

 

考察を基に組みなおした物語

「柩の中の少女(以下柩ウテナ)」は、父親から性的虐待を受けたことで心を閉ざし、生きる意欲を失った。

柩ウテナを生かすための人格・冬芽が生まれ、彼は柩ウテナを、彼女を守る人格であるディオスの下へ連れて行く。しかしディオス自身も度重なる虐待から心を守ってきたため、既に倒れる寸前であった。

柩ウテナは生き延びるために、トラウマと支配される女性性をアンシーという人格に閉じ込め、心の奥深くに封印する。

ディオスは暁生となり、鳳学園という時間の概念がない内的空間に柩ウテナの心を閉じ込める。

 

新しく生まれた天上ウテナは、自分のトラウマをアンシーに押しつけ生き延びることを良しとせず、彼女を守り共に生きようとする。

一方暁生は、ウテナをトラウマのない新たな女性性にすることによって、アンシーを心の奥底に閉じ込めようとする。

暁生への恋心によって、一時はお互いを疎んじ合う二人だが、柩ウテナはトラウマも含めた自分の真の女性性を救う方法を選ぶ。

鳳学園から現実に至る決闘場は崩壊する。決闘場から落下したアンシーは、自らの意思と力で鳳学園から現実に出ていく。

(なぜ、助けようとしたウテナが消え、柩ごと落下したアンシーのほうが鳳学園にいる描写になるのか。この辺りを考えると、鳳学園と決闘場、天の城が何を指すのか正確に分かりそう。)

 

疑問点や矛盾点

上記のストーリーラインで考えたときに、まずは根室教授と御影、時子の存在がうまく説明がつかない。根室記念館の部分は、すっきりとした説明が思いつかない。

もうひとつ問題になるのは、38話の屋上でのアンシーとウテナの会話だ。

アンシーはウテナに「あなたは関係ないのに」「ただ巻き込まれただけ」と語っている。

このアンシーの言葉が正しいとすると、鳳学園はウテナとは何の関係のない場所だ、ということになる。

この辺りについてや他のことでも、何か思いついたら順次追記訂正したい。

 

感想

「少女革命ウテナ」は、意味深な描写や一見では意味が分からない描写が非常に多いので、見ているとついその意味を考えたくなってしまう。

しかし別にそういうことは考えなくても、普通に見ているだけでとても面白い。シュールな描写やギャク回は笑えるし、感動するところは何度見ても感動する。

 

この物語は、主人公のウテナの存在にすべてが集約されている。

自分の心の葛藤を乗り越えて、なることのできないはずの「王子さま」に、アンシーのために必死でなろうとするウテナの姿に心打たれる。ラスト二話は何度見ても泣ける。

 ウテナの強さ、美しさ、気高さに、心が持っていかれる物語だった。 

 

初めて読んでから十年以上たって、今さら思い至った井上雄彦「スラムダンク」の本当のすごさ。


「辺獄のシュヴェスタ」を読んだら、唐突に「スラムダンク」を思い出した。

以前、「魔法少女まどか☆マギカ」と「ベルセルク(黄金時代)」は似ているという記事を書いたのだけれど、それと同じような感覚でカテゴライズしたとき「辺獄のシュヴェスタ」と「スラムダンク」は似ているなあ、と思ったのだ。

 

「スラムダンク」の「どのあたりがすごいと思うのか」は、色々と意見があると思う。

自分にも「『スラムダンク』の本当のすごさや、他の漫画と一線を画す特徴はこの点にあるんじゃないか」ということに関して、漠然とした自分なりの考えがあった。それが上手く言語化できていなかった。

「辺獄のシュヴェスタ」を読んでいて、唐突に「ああ、ここだ」と思いついた。

 

他の漫画にはない「スラムダンク」の大きな特徴は、「登場人物を描くときに情報を付け加えていくのではなく、限定するという手法をとっている」ところだと思う。

 

「スラムダンク」の主要登場人物は、基本的に「バスケットプレイヤー」という情報しか持っていない。

家族構成、趣味、バスケ以外の人間関係、子供のころのエピソード、人生観、そういう情報をほぼ持たない。

彼らは高校生だが、教室での様子や将来への考えもほとんど出てこない。(赤点をとればインターハイに出れないなど、バスケに関連していれば出てくる。)

もっと言うならば、「今現在、バスケをしている」という情報しか持っておらず、バスケに関する情報でも何をきっかけに始めたのか、誰の影響で始めたのか、子供のころはどうだったのか、これまでの人生で挫折や苦難はなかったのか、そういう情報すらほぼない。(赤木、三井や沢北などの多少の例外はあるにせよ。)

 

「スラムダンク」の世界には、「現在進行形で進んでいるバスケに関する物事」以外のものがほぼ出てこない。「物語内では存在しない」と言っていい。

主要登場人物の多くは「現在進行形で行っているバスケットのプレイ」で自分たちの全てを表現していている。

 

普通はキャラを立てるとき、「三人兄弟の末っ子」とか「〇〇が趣味」「親がバスケをすることに反対している」とかそういう属性を付属してそのキャラクターを作っていく。現実の人間も、どのような環境で、どのような境遇で、どのようなことを経験して、どのようなことを考えて、どのような行動をとって、ということから「人格」が出来上がるからだ。

 

ところが「スラムダンク」は、逆の手法をとっている。

何かの経験や環境、属性などの情報を組み立ててキャラクターを作っていくのではなく、「彼らがバスケをする姿」という情報のみを見せることによって、読者に彼らがどういう人間かということを想像させる。しかもそれが主人公だけではなく、登場人物ほぼすべてがそうだ。

 

「登場人物が何を考えているか、どういう人間かを直接描写するのではなく、その人間の行動を描くことによってその人物の内面を想像させ、そこからその人間がどういう人物かということを、読み手に想起させる」

という手法は、「ハードボイルド」*1と呼ばれている。

たとえば『武器よさらば』の最後近くに、恋する女性が生と死の境を漂っているあいだ、不安と焦燥にかられた主人公が、病院の近くのカフェでいろんなものを食べる描写がある。ヘミングウェイは主人公の不安や焦燥についてはほとんど何ひとつ語らない。ただ彼がどんなものを食べどんなものを飲んだかということだけを緻密に、しかし簡潔に描く。(中略)それを読むことによって、主人公がどこまで精神的に追いつめられているのかを、読者はありありとフィジカルに理解することになる。

(「ロンググッドバイ」 レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳 早川書房 あとがきより/太字引用者) 

 

「〇〇は悲しみをこらえた」「◇◇はこう考えた」「▲▲はこういう性格なのだ」と直接書くのではなく、「〇〇はふと黙って、ゆっくりと本を手にとった」という行動の描写から、〇〇が何を考えているのか、〇〇がこの状況でそう考えるということは〇〇がどういう人間なのかを読者に想像してもらう、そういう方法だ。

 

「男らしさ」という言葉の是非はおいておいて、ハードボイルドはいわゆる「男らしさ」の描写と相性がいい。

うろ覚えで申し訳ないが、「ワンピース」の作者も「ルフィは行動のみを描写し、心の声を言わせないようにしている」と言っていた記憶がある。

 

「スラムダンク」はこの「行動」という情報さえも、「バスケをしている姿」に限定している。 

仙道や牧、藤真などの敵チームのキャラは、対戦試合の内容以外の情報がほぼないにも関わらず、非常に魅力的なキャラだ。

仙道はこの二つのセリフだけでも、だいたいどういう人間か伝わってくる。

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 (引用元:「SLAM DUNK」井上雄彦 集英社)

 

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 (引用元:「SLAM DUNK」井上雄彦 集英社)

 

少年・青年向けのスポーツ漫画は、試合がメインに描かれているものが多い。それでも、ここまで登場人物の情報を意識的に限定している漫画はないと思う。

「スラムダンク」がそういった他のスポーツ漫画と比べても一線を画すところは、作者がある程度、意識的にこういう手法をとっているのではないか、と思われる点だ。

 

「現在進行形で行っているバスケのプレイに関連する情報以外は、極力描かない」

これを作者がある程度、意図的にやっているのではないかと思ったのは、三井が入部するエピソードを読んだときだ。

スラムダンクの中でも一、二を争うくらい有名な「安西先生、バスケがしたいです」のセリフが出てくるエピソードだが、このエピソードを初めて読んだとき、非常に違和感があった。

いくら元々は実績や才能があった部員だったとはいえ、あれだけのことをやらかした三井のことを部員が何も言わずに迎い入れ、しかもすぐにレギュラーになっても何も文句を言わない、というのは余りにご都合主義すぎるように思えたのだ。

 

この辺りの人間の心の機微や関係性は、井上雄彦が描けないわけではない。「リアル」や「バガボンド」を読むと、むしろ得意分野じゃないかと思う。

病気が進行したときにヤマが清春に見せた悪感情や、高橋の両親に対する思いや関係性など、読んでいるだけで重苦しい気持ちになる。

三井が復部した話でも、いくらでもこういう風に描写できただろう。しかし、そういう他の部員の葛藤やわだかまりなど一切描かれていない。

 

また普通は、三井のこのエピソードのように「バスケットへの思い」「バスケをしたきっかけ」「挫折や苦難」「その乗り越えかた」などが描かれて、読者はキャラクターの内面を知り、感情移入していく。

しかしこのエピソード以後、それ以前はそれでも多少はあったバスケのプレイに直接関係ない描写が、ほぼなくなっていく。

「スラムダンク」の中で三井というキャラは、「普通の手法で描かれている」がゆえに特異なキャラになっている。

「スラムダンク」の中で、この「三井的手法=普通のキャラ造形」を多少とでもしているのは、赤木、木暮、魚住、沢北くらいである。しかもそれすら「バスケ」という分野に限定されてる。

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(引用元:「SLAM DUNK」井上雄彦 集英社)

 

「スラムダンク」の多くのキャラクターは、「三井的手法=普通のキャラ造形」とは対極の「情報を限定することによって、キャラを描く」という特異な描き方をされている。

そしてそういう「スラムダンク」のキャラの中でも、別の意味で特異なのが主人公の桜木花道だ。

 

人は普通「自分がこう思うから」「こういう行動をとる」。「なぜ自分がそう思うのか」というと「自分がこういう人間だから」「こういう風に考える」

復部するまでのエピソードが描かれた三井に象徴されるように、「スラムダンク」の多くの登場人物はそうだ。

彼らは「バスケが好きだから、バスケをする」のだ。

つまり「人格→思考(感情)→行動」こうなっている。

 

ところが桜木だけは逆だ。

「行動→思考(感情)→人格」という構造になっている。

彼は「バスケット選手(バスケが好き)だからバスケをしていた」のではない。「バスケをしたから、バスケット選手になった」のだ。

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(引用元:「SLAM DUNK」井上雄彦 集英社)

 

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(引用元:「SLAM DUNK」井上雄彦 集英社)

「スラムダンク」は、「桜木花道がバスケと出会い、バスケをすることで、バスケット選手になるまでの物語」だ。そして物語を通して桜木がなった「バスケット選手」とは何であるのか、も同時に語られている。

「バスケを通して、桜木自身が自分が何者であるのか悟る物語」なのだ。

 

BUMP OF CHICKENの「K」に衝撃を受けたので、歌詞について考えてみた。

 

この記事でも書いたのだけれど、「HUNTER×HUNTER」のキメラアント編が、メルエムにとって、自分の名前を知り(自分が何者であるかを知り)「コムギと、ある一瞬を過ごすために生まれてきた」と知る物語であったように、「スラムダンク」は桜木花道が自分が何者でありどんな人間であるか、ということをバスケをプレイすることによって知る物語だ。

「バガボンド」と基本的に同じテーマだと思う。

 

「スラムダンク」の山王戦のクライマックスはセリフがほぼなかった。今までも彼らは言葉ではなく、行動のみで自分の内面や思考、感情を語ってきたのだから、その究極の形としてこういう描写になるのは当然なのかもしれない。

「スラムダンク」の登場人物たちは、「自分が何者であるか」ということを語るときに「バスケプレイ」という非常に限られた言語しか持たない。しかしその限られた言語で、その言語を知らない人間にまで、自分がどんな人間であるかということを語り切ってしまう。  

「バスケをする」それだけの行動で、人はここまで自分というものを表現し、語れるのか。そして「バスケをする」ただそれだけで、自分が何者であるのか知ることができるのか。

 

自分が「スラムダンク」に感じた、他の漫画にはない凄みというのはたぶんそこだったんだろうなあ。

と、初めて読んでから十年以上たったいま思い至った。

登場人物では、魚住、赤木、田岡先生が好きだ~~。

 

「長いお別れ」よりも読みやすかった。あとがきが愛に溢れていていい~。

 

*1:「ハードボイルド」が正確にはどういうものを指すのかというのははっきりしていないが、今回は「叙情を排した行動によってのみで、登場人物の内面も描写する」文体の名称として使用

【漫画】竹良実「辺獄のシュヴェスタ」の打ち切りが残念なので、色々と感想を語りたい。

 

竹良実「辺獄のシュヴェスタ」全6卷を読み終わった。

辺獄のシュヴェスタ(6) (ビッグコミックス)

辺獄のシュヴェスタ(6) (ビッグコミックス)

  • 作者:竹良実
  • 発売日: 2017/12/22
  • メディア: Kindle版
 

 

編集部の都合なのか、作者の事情なのかは分からないけれど、最後は明らかに駆け足で打ち切りの終わり方だったので非常に残念だ。

「辺獄のシュヴェスタ」はとても面白かった。

ただ一方で打ち切りという事情を差し引いても、「物足りない」と思う箇所もいくつかある。

いいなと思った点、ここがちょっと…と思った点をそれぞれ語りたい。

 

良かった点:斬新なジャンルと設定

閉鎖空間、三年間耐久レースという新ジャンル

いいなと思ったのは、展開の意外さとジャンルの目新しさだ。

十六世紀の異端審問真っ盛りのヨーロッパが舞台なので、最初「乙女戦争」のような物語を想像していた。(「乙女戦争」は十五世紀の話。)

親を殺された主人公が放浪し、戦争などにも巻き込まれつつ強くなり、歴史の潮流の中で敵を倒す物語なのかな、と漠然と思っていた。

 

しかし養親を殺されたあと主人公のエラは、「魔女の子」としてクラウストルム修道院に移送される。修道院は高い壁で囲われおり、その閉鎖された空間が物語の舞台になる。この過酷な環境の修道院では、虐待や洗脳が行われている。

とすると「約束のネバーランド」のような、知能合戦による脱出ものになるのかなと考えた。

しかしこれまた違った。

最終的には、三年間、閉鎖された過酷な環境でいかに生き抜くかの「耐久レースもの」と判明した。

しかも個人戦かと思いきや仲間がどんどん増え、団体戦になる。

 

常に危機がある閉鎖空間から脱出するのではなく、そこである一定期間生き延びる物語、という発想が斬新で面白いと思った。

物語の開始当初は、「どこかで読んだことがある話っぽい。微妙かな」と思ったけれど、「耐久レース」であることが分かった時点でかなり面白くなった。

 

条件の設定の仕方や難易度のバランスがいい。

「三年間、耐久して生き延びる話」であれば、生き延びるための制約の内容や条件の設定(難易度設定)が物語の面白さの鍵になると思う。これがとてもうまく考えられている。

修道院で出される食事は薬が仕込まれているため、吐かなければならない。

吐いたあとは、どうやって食事を確保するか。他の季節は狩りや採集ができるが、冬は雪に足跡がついたり、森から食料は得られなくなる。冬をどう乗り越えるか。

一年前に自分たちとまったく同じ試みをして失敗した二位生のコルドゥラから情報を得て、その情報を活かしながら再挑戦する。

三年間、修道院の食事を口にせず、生き抜くためには何がポイントなのか。どこが問題となるのか。ひとつひとつの課題を考え、トライ&エラーを繰り返していく。

この設定がすごく面白くていいな、と思った。

 

「行動する」よりも「何もしないで耐える」ほうが難しい。

現実でもそうだけど、「行動する」よりも「耐える」ことのほうが遥かに大変だ。人は結果が見えないものには、必ず「飽きる」からだ。

 

生命の危機があるわけではないのに、「食事をとらないこと」に何の意味があるのか。一週間くらいならまだしも、三年にもわたって、食べたあとこっそり吐き、外に食料を確保しに行く、などという生活が続けられるのか。

物語内では、エラは一週間ごとに紐の結び目を作り、自分がどれだけ進んでいるか目に見える形にすることによってモチベーションを維持している。「強靭的な精神力で耐える」などという絵空事ではなく、こういうことを現実的に描いているところがいい。

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(引用元:「辺獄のシュヴェスタ」竹良実 小学館)

 

あともう一点、読者が飽きるのではないかという問題がある。

実際にやっている登場人物たちが「飽きない」ように工夫しているくらいだから、見ている読者はもっと飽きる可能性が高い。個人的には「森の中のサバイバル」が面白かったのでこちらを話の主軸にして欲しかったが、それだと飽きてしまう人が多いのかもしれない。修道会内部の試練などをメインの描写にすることで物語を進めている。(これはこれで面白いけれど。)

 

「地獄の冬」という言葉に非常にテンションが上がったのに、食料と住居の問題が比較的あっさり解決して、その後すぐに春がきたのが残念だった。

苦労している登場人物たちには申し訳ないのだけれど、「地獄」と言われるとどうしても「どれくらい地獄なんだろう」と自分の中でハードルが上がってしまう。

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(引用元:「辺獄のシュヴェスタ」竹良実 小学館)

 

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(引用元:「辺獄のシュヴェスタ」竹良実 小学館)

 

「この森には、五人分の冬を賄う力はない」というのは、すごく面白いハードル設定だったので、これをあっさりクリアしてしまったのは非常に残念だった。

「辺獄のシュヴェスタ」は物語内の「難易度が高いがゆえに面白そうなハードル設定」を、主人公のエラの超人的なキャラクター性であっさりとクリアしてしまうことが多い。(物語内ではあっさりでもない設定だけれど、読者にはあっさりに見える。)

エラはとても面白いキャラだけれど「課題クリア型耐久レース」の物語との食い合わせが悪く、面白さを補強し合っているのではなく、つぶし合ってしまっている感がある。

 

気になった点:キャラクター描写のバランスが悪い

「辺獄のシュヴェスタ」で自分が一番気になったのは、このキャラクター設定のバランスだ。主人公のエラは物語のバランスを壊すほど強力なキャラなのに対して、他のキャラクターの掘り下げかたが中途半端で、類型的になってしまっている。

 

キャラクターというのはどのキャラも平等に掘り下げれば、話に厚みが出て面白くなる、というわけではない。

ストーリーとのバランス、他のキャラとのバランス、この辺りは本当に難しいと思う。

 

「辺獄のシュヴェスタ」はストーリーの方向性は意外で、ジャンルは斬新で面白いなと思ったけれど、それに対して主人公以外のキャラが余りにテンプレ的だ。

仲間であるカーヤ、ヒルデ、テア、コルドゥラは、性格から行動から生い立ちから、全部がテンプレートに沿ったようなキャラだ。団体戦で味方キャラのこの「退屈さ」は、正直致命的だと思う。

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(引用元:「辺獄のシュヴェスタ」竹良実 小学館)

いいシーンもいっぱいあるし、いい子たちではあると思うんですけど…。

 

敵方にはジビレ、クリームヒルトなど面白いキャラが多いのだが、何故かそういうキャラに限って大して活躍せずに退場してしまう。

ジビレやクリームが、対立を経て仲間になるほうが面白そうだな…、と思ってしまった。

 

物語を動かしやすくするためにキャラをテンプレ化する、というのは有効な手法だと思うけれど、この物語の場合はそのためにテンプレ化したのではない、と思う。

キャラを掘り下げようと試みている場面が多いし、団体戦で主人公以外のキャラのテンプレ化は悪手だ。主人公以外は徹底的にキャラをテンプレ化したほうが面白くなるのは、「アカギ」のように際立った一人の天才を書く場合だけだ。(途中から失敗しているけれど)

「辺獄のシュヴェスタ」も、エラとエーデルガルト、二人の天才(?)の物語だったら、周囲のキャラはこれくらいの掘り下げでも良かったかもしれない。

エラのキャラが強烈すぎて、彼女単体で見るならばとても面白いキャラだけれど、明らかに他のキャラとのバランスが破壊されている。

 

ラスボスであるエーデルガルトのキャラの掘り下げが足りなかったので、なぜ彼女があそこまで「神の威光によって、人の本能が書き換えられること」を求めるのかも分からなかった。ここが描写されないと、主人公のエラの考え方との対立軸も不明確になるので、メッセージ性がだいぶ弱まる。

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(引用元:「辺獄のシュヴェスタ」竹良実 小学館)

 

エラは最後に「お前のような人間は、ただ思い知れ」と言って、エーデルガルトを倒すが、そもそもエーデルガルトが「どのような人間なのか」ということが十分に伝わっていない。

「ただ狂信的で残酷な人」ということでは、エラの「他人の命を傷つけ奪わざるえない立場になり、自分がその重みを背負ってでも前に進み続ける」「復讐ですらなく、私の意志で行使する、私自身の暴力」とまで覚悟する生き方の対比としてまったく釣り合わない。

 

エーデルガルトはエラと表裏一体のキャラなので、これから掘り下げる予定だったが時間が足りなくなったんだろうな、とは思う。

その結果、この物語は主人公エラの強烈さに対抗するものがなくなってしまっており、それでいながら「一個の強烈な個性」を描く物語ではない仕掛けがそこかしこに残っている、とてももったいない物語になってしまっている。

「ここにも、あそこにも、面白くなる仕掛けがいっぱい残っているのに」

そんな感じだ。

 

まとめ

ちょっと辛口になってしまったが、それだけ「もったいないなあ」と思った。

打ち切りにならなければ、キャラのバランスなども上手く補正されたかもしれない。何よりエーデルガルトを初めとする、敵方のキャラがもう少し掘り下げられ、活躍の場を与えられただろうから、エラの悪目立ちもなくなったと思う。

クリームはあんなところで死ぬキャラじゃないだろうと思うし、ジビレももうひと波乱起こしてくれただろうに残念だ。

 

今のままでも十分面白いけれど、願わくば当初予定していた物語を読んでみたかった。

辺獄のシュヴェスタ(1) (ビッグコミックス)

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  • 作者:竹良実
  • 発売日: 2015/07/10
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関連記事

エラたちの時代から約100年前、ボヘミアで起こったフス戦争を背景にした物語。面白いぞ~~。

www.saiusaruzzz.com

 

大西巷一「乙女戦争」を読んで感じた、「個人」として生きることを選べる現代の幸福とか不幸とか。

 

*この記事にはネタバレが含まれています。未読の方はご注意ください。

 

大西巷一の「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」を既刊9卷まで読んだ。

 

この本を読んで一番強く感じたのは「現代は、『個人』として生きることを選べる幸福な時代なんだろうけれど、共同体の一員として生きなければならない幸福は失っているのかもしれないな」ということだ。

 

現代の日本社会というのは、比較的「個人」というものが重要視される時代だと思う。共同体の価値観よりも個人の価値観が重んじられて、法律の枠内であれば個人の価値観が尊重される。

結婚や出産、祖先の墓を守るかどうかなど、従来は「当たり前」とされていた価値観が疑問視され、「それは個人の選択を尊重するべきではないか」という意見が一般的になりつつある。「多様性」「人それぞれ」が重んじられ、「社会」という共同体よりも、「個人」という単位が重要視されるようになった。

 

これは何故なのか。

現代の日本社会は「私的な共同体の働き」の必要性が希薄だからではないか、と「乙女戦争」を読んで思った。

「公的な共同体」の働きは、共同体の中にいる人々が共存するために、互いの権利を侵さない範囲内で個人の権利を守る、このお互いの権利や利益をどの程度認めるかという点にある。

それに対して「私的な共同体」の大きい働きは、「自我を外敵から守ること」にあるのではないか。

 

「私的な共同体」は最小単位では、夫婦や恋人同士など二人からなり、家族、親族、友人同士などが基本的には個人の自由意志で形成されるものがあげられる。その「私的な共同体」の究極の形が、「乙女戦争」でも大きな鍵になっている「宗教」だ。

(「私的」「公的」という言い方には、「精神的」「法的」と言いかえてもいい)

 

「結婚」「家族」「友人同士」などの私的な共同体に違和感を感じたり、必要性を感じなかったり、むしろネガティブなイメージを持つのは、それがなければ生きられないほどの自我の崩壊の危機を感じることがないからではないか。

言い換えれば「個人で引き受けられる範囲を超えた痛み」「共同体全体で受け止めなければ受け止めきれない痛み」を感じる機会がないから、「私的な共同体」の必要性を感じないのではないか。

 

「個人では受け止めきれず、共同体全体で受け止めなければ、受け止めきれない痛み」とは何であるか、ということが「乙女戦争」では何回も……というよりは、ほぼ全編に渡って描かれている。

自分が、個人的に「乙女戦争」で見出したテーマは「個人で引き受けると自我が崩壊しかねない痛みを、人はどのように乗り越えるか」ということだ。

たぶんこれは「乙女戦争」という物語がことさらテーマとして描こうとしたものではなく、今よりもずっと「個人の尊厳」が軽んじられていたり、というよりはまったく何の価値もなかった時代を描くときに、避けて通れないテーマなのだと思う。

 

「乙女戦争」では、「個人の尊厳のなさ」が延々と描かれているので、「個人の尊厳や多様性」が重んじられている時代に生きている人間には、本来、読むのがとても辛い物語になっている。

それでも「読むのが辛い」以上に面白い物語であるのは、主に二つの点がうまく働いているからだと思う。

①特定のキャラクターに過度に感情移入させないようにしている。

②「個人の尊厳」が傷つけられたときの回復方法が上手く描かれている。

 

 「個人で引き受けたら自我が崩壊する痛み」というのが何であり、それをどう乗り越えているのか、というのが一番わかりやすいのは、7卷でクマン人の捕虜となったフロマドカ隊の女性たちのエピソードである。

捕虜となって毎晩のように多人数から酷い性的暴行を受ける、というのは恐らく個人では消化しきれない痛みである。

個人ではなく捕虜となった全員でその痛みを引き受けたからこそ、「例え強姦による妊娠でも、その子を産んで、自分たちの思想を伝える。そうすれば最終的には自分たちの勝ちだ。だから頑張ろう」と思える。

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(引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」7巻 大西巷一 双葉社)

恋人の前で暴行を受けたラウラもそうだが、個人で引き受けきれず自我が崩壊するような痛みでも、共同体全体でならば引き受け緩和し、何かに昇華することができる。

自尊心というものは個人のみで維持していると、個人が徹底的に傷つけられたとき、心の死につながり自殺を選ばざるえない。

しかしその自尊感情を何かに仮託できる、つまり「自分が傷つけられた痛みには、自分以外の何かにとって意味がある」と思えると、耐えることができる。

 

捕虜となり残酷な性暴力を受けて、それが元で若くして(絵を見ると13、4歳くらい?)死んだモニカは、個人単位で見ると 「これほどひどい死に方をして、生まれてきて何の意味があるのだろう。こんなに苦しい生ならば、いっそ生まれてこなかったほうが幸せだったのでは」と思う。

それは「乙女戦争」に出てくる、多くの登場人物がそうだ。

現代のように社会が「個人」を尊重し認めている時代とは違い、個人が尊重されない時代で生きていく意味を見出すためには、「自分の生や死に意味を与えてくれる他者」「自分を『自分』として見てくれる他人」が絶対に必要なのだと思う。

それが家族であったり恋人であったり、子どもであったり、仲間であったりする。

個人単位で見ると「意味がない生や死」を、共同体全体で意味があるものにする。例え死んだとしても、自分の思いを受け継いでくれる人がいる限り、客観的に見れば意味がない、苦しいだけのように見える自分の生に意味が与えられる。

 

この発想は「進撃の巨人」でも、エルヴィンが「死んだ兵士たちは、無意味な犬死にではない。後世に生きてる自分たちが、彼らの死に意味を与える。そして自分たちの死に、後世に続く人々が意味を与えると信じる」と同じように語っている。

「個人」がゴミのように扱われ死んでいく時代では、「自分の生は自分のみで完結しない」という発想がなければ、人は生きていくことができない。

 

「自分が死ねば、すべてが終わり。自分が死んだあとのことを考えることに何の意味があるのか」

と個人で自分の生を完結できる発想が持てること自体、とても幸せなことなのかもしれないと「乙女戦争」を読んでいてしみじみと思った。

 

「個人」というものが尊重される時代では、自我の痛みというものも人によっては非常にキツいものだと思うし、それほど共同体というものを必要としない人が、共同体の価値観を破壊している面があるので、それを真に必要としている人にとっては辛い時代だという面もある。(オウム真理教があれほど人を集めたのは、他に受け皿となる共同体や価値観が社会になかったことが問題だったのでは、と思っている。)

なので、「この時代の人に比べれば、現代日本に生まれただけで幸せでは?」ということが言いたいわけではない。

共同体を大切にしましょうよ、と言いたいわけでもない。どちらかと言うと、自分は「精神的共同体」というものに対しては、人よりも懐疑的な眼差しを向けているほうだと思う。「乙女戦争」を読み終わった今も、それは変わらない。

 

「乙女戦争」の時代は、社会が個人をゴミのようにしか考えていないから共同体の必要性が高いだけで、現代のように社会が個人を尊重している時代ならば、むしろひとつの共同体にコミットしすぎるのは危険だと思う。

「乙女戦争」で言うと、「父の娘」であることに自分のアイデンティティの全てを預けてしまっていたために、その父親に捨てられた途端自我が崩壊したイルマのような末路を辿りかねない。

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 (引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」3巻 大西巷一 双葉社)

人の自我や心を癒すようにうまく機能する「精神的共同体」と、自我を破壊する「精神的共同体」とは何が違うのだろう、という疑問も「乙女戦争」で解けたような気がする。

「個人の思い」を大事にするかどうかなんだろうな、と思う。

 

銀河英雄伝説の中に「人は革命のために戦うんじゃない。革命家のために戦うんだ。理想のために戦うのではなく、理想を体現している人のために戦うんだ」といういいセリフ(うろ覚え)があったけれど、「乙女戦争」はこの言葉を体現したような物語だ。

 

「思い」が大事にされているから、これほど残虐で過酷な描写が延々となされていて、現代社会では忌まれがちな「共同体の気持ち悪さ」が描かれていても、とても癒されるのだろうなと思う。

 

9卷でジシュカが死んだけれど、「彼が何のために戦っていたのか」ということにそれがとても表れている。

もしジシュカがフスに実際に会ったのではなく、ただフスの考えを伝え聞いただけならば、どこかで割りに合わないと感じ、戦いを降りていただろう。

彼はフスの考えに共感したからではなく、死んでいくフスの思いを引き継いだから、ガチョウになり最期まで戦い続けた。

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(引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」9巻 大西巷一 双葉社)

 

ジシュカの下で戦うシャールカたちは、フスの教えを信じる狂信者ではなく(作中で、シャールカたちがフスの教えに関心を持つ描写はほとんど出てこない。)「ジシュカが大好きだから」彼が死んだあとも彼の思いを引き継いで戦う。

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 (引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」9巻 大西巷一 双葉社)

 

人を動かすのは机上の理論ではなく、その理論を体現している人への思いなのだ。

 

そういう意味で「乙女戦争」のフスのキャラクターは秀逸だ。彼の教えがどうしてこれほど多くの人にとって救いになったのか、戦争を引き起こすまで人の心を打ったのか、ジシュカのような人まで命を賭けて戦わせたのがが出てきた瞬間に分かる。

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 (引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」9巻 大西巷一 双葉社)

 

「乙女戦争」のフスは、力強い信念に満ちていたり、非常に知的で指導力に優れているようには見えない。カリスマ性はほぼ感じない。

でも自分がもしこういう苦しい時代を生きていたら、フスのような人に触れたほうが一発で傾倒し、狂信者になるだろう。

過酷で非寛容な環境の中で、多くの人に赦しや居場所を与えられる人、というのは、強力な吸引力を発揮する。

優しく大らかで、どんな時も穏やかで笑顔を浮かべている「乙女戦争」のフスが本当に好きだ。「大好き」ほど人を動かすものはない。

 

「乙女戦争」が「過酷な環境下での苦しみに満ちた生も、人への思いやつながりがあれば生きていける」ということを描いているのならば、フスの人物像はこれ以外には考えられない。そして「人を赦し、他者の居場所になることで、苛酷な環境下に生きる人を救う」フスの役目を、彼が死んだ後も主人公のシャールカがしっかり体現している。

 幼い主人公が家族を皆殺しにされてレイプされて始まるような救いのない残酷な物語なのに読んだあとに癒されるのは、死んでいった人々の思いがしっかり引き継がれていることが分かるからだと思う。

 

「死んだあとも誰かが思いを引き継いでくれるから、その死は無駄ではないし、自分の死を恐れる必要はない」

というのは「個人」が確立している価値観の中だと、すごく怖い発想だと思う。

「乙女戦争」の中で出てくる歌で死をも恐れない高揚感を得たり、「炎のラッパ」のような特攻行為は現代の価値観で見てしまうとものすごい違和感がある。

しかし「個人」が認められなかった時代では、正しいとか正しくない以前に、こうやって共同体に自らの生死もアイデンティティも密着させて生きるしかなかった。

 

「乙女戦争」の時代のほうが生きるのに大変な時代なことは確かなんだけれど、共同体に密着せず「個人」として生きることを選べば、何かを強いられることはない代わりに、「個人」としての痛みも全て「個人」で引き受けなければならない。自分で自分に赦しを与えられない場合、その罪悪感をずっと背負って生きなければならなくなる。

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(引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」8巻 大西巷一 双葉社)

現代社会は、そういう息苦しさや生きづらさの弊害がところどころに出てきているようにも感じる。「個人」を大切にするのはもちろんいいのだけれど、「個人至上主義」は偏りすぎだし危ういかもしれない。そんな風にもう一度、現代の価値観を見直してみてもいいのかな、と「乙女戦争」に癒されながら思った。

 

「理由なんてないよ。大好きだからだよ」っていいよね。

 

 

小池ノクト「蜜の島」は、アンチミステリー好き、どんでん返し好きにおすすめ。

 

ふと目に留まった小池ノクトの「蜜の島」を購入した。

 
あらすじが面白そうだったこと、全4卷と気軽に読めそうなこと、レビューがかなりの高評価だったことで購入を決めた。
もうひとつ、小池ノクトの絵がものすごく好みなこと。
 
小池ノクトのことは、竜騎士07が原作の漫画「蛍火の灯る頃に」の作画で知った。
最初見たときから、自分が漫画の絵の中では一、二を争うくらい好きな高橋ツトムの絵に似ていると思った。元アシなどつながりがあるのかな、と思ったけれど、そういう情報も出てこないので、空似?かもしれない。とにかくすごい好みの絵だ。

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(引用元:「蜜の島」1卷 小池ノクト 講談社)
 

「蜜の島」あらすじ

終戦直後、復員した南雲が、戦死した上官の娘・ミツを、ミツの母親の生まれ故郷である岩津島に送り届けようとするところから始まる。
岩津島は地図にさえ載っていない島で、終戦後に米国がその存在を発見し、調査に乗り出していた。
南雲とミツは、偶然同じ船内にいた内務省の調査官・瀬里沢と共に岩津島に辿りつく。
 
島に住む住民は明るく屈託がない様子だが、妙に話が通じなかったり、古い家にミイラになった遺体が残されていたり、村はどこか外の世界とは異質な雰囲気がある。
三人が到着した直後に、村の娘ハナが崖から落ち事故死する。
そして瀬里沢の同期であり、村に調査官として派遣されていた今村の、切り落とされた腕が発見される。
 

短い物語の中に、様々な要素が詰め込まれている。

全4卷と短い物語なのだが、「蜜の島」には様々な要素が贅沢なほど詰め込まれている。
 
歴史の裏舞台に追いやられた平田神道、日本の創生の古代神話、共同体とは何か、死とは何か、自分とは何かという概念的な話。
衒学を思う存分楽しんだり、形而上学概念でミステリーを成り立たせようとするその筋は、アンチミステリーの名作群のオマージュのように見える。
そういう方向性で解決するのかと思いきや、最後の最後で提示される驚くべき事件の真実。
アンチミステリーの要素とミステリーが非常に上手く融合した鮮やかな解決は、すさまじく爽快だ。
 
あとは瀬里沢がカッコいい。頭が切れてクールに見えて、実は情に厚い男。

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(引用元:「蜜の島」1卷 小池ノクト 講談社)
三白眼といい、髪型といい、「進撃の巨人」のリヴァイに若干似ている。
 

ちょっと話が駆け足すぎるような。

手軽に読めそうな点が気に入って購入したのでこんなことを言うのは何なのだが、描いている要素に比べて話が駆け足すぎる。
 
物語のコアな部分はしっかり描かれているのだが、遊びがほとんどない。
キャラ同士の人間関係も、かなりあっさりしている。
最後の真実の動機についてはミステリーの解決としてはうなったものの、感情面では今いちピンとこなかった。
もう少ししっかり描きこんだほうが、読んでいるほうもキャラに対して愛着が湧くので感動が深まるし、事件についても納得しやすいのではと思った。
 
終わり方も、かなりあっさりだ。
最後の締め方は、新しく生まれた「わたし」に通底するので上手いなと思ったものの、「必要なことだけ描きました」という感が否めない。
余りに手際が良すぎて、プロットだけを見せられているような気持ちになる。
それでも十分面白いのだけれど、もう少しじっくり描いても良かったと思う。
 
ベースがきっちり考えられている物語だけに、「よくできているなあ」という思いよりも、もったいないという気持ちが先行する。
 

まとめ

設定がすごく凝っていてよく考えているだけに、そこにのっける物語をこんなに手早くあっさり終わらせるのかともったいなく感じる漫画だった。

 

もうちょっとじっくり描いても良かったのに、というもったいなさは感じるものの、だからと言ってつまらないということはまったくない。

「話が面白そうだし、小池ノクトだし読んでみようかな」くらいの気持ちだったが、読み出したら止まらなくなり、一気に読んでしまった。

 民俗学的要素が好き、概念的な話が好き、ミステリーが好き、サスペンスが好き、このうちのどれかが当てはまるならば、読んで損はしないと思う。
 

全4卷で非常にきれいにまとまっている話なので、面白い漫画を探しているかたはぜひ読んでみて欲しい。

 
「蛍火の灯るころに」も面白い。まだまだ導入部分という感じだけれど。

【漫画感想】「モンキーピーク」4卷は、予想の斜め上の展開。あの人がまさかの死亡。 

 

この記事は原作志名坂高次、作画粂田晃宏「モンキーピーク」4卷のネタバレ感想です。

未読のかたはご注意ください。

 

2018年4月発売の6卷の感想はコチラ↓

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2018年2月9日(金)発売の5巻の感想はコチラ↓

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1卷~3卷までの感想はコチラ↓

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田中さんは「鉈猿」ではないようだ。

相変わらず、予想の斜め上を行く展開だった。

早乙女と別れた田中さんは、安斎一派がいる山小屋に辿りついた。

田中さんは、やはり「猿」ではなかったようだ。

www.saiusaruzzz.com まだ共犯者の可能性は捨てきれないけれど。 

 

今後、安斎というキャラをコントロールできるか。

極限状態の閉鎖空間に閉じ込められた安斎一派は、ひどい展開になるんだろうなと思っていたけれど、予想以上の陰惨展開だった。

 

こういう展開のとき、フィクションでは女性や子供、老人が犠牲になることはなかなかない。秩序がなくなったときに若い成人男性が肉体的強者であることは明確で、強者が弱者を虐げる描写というのは、読んでいる人間にすさまじい不快感を与えるからだ。

氷室が拘束されて拷問される描写もひどいのだけれど、それとはまた別種の弱肉強食の世界の怖さを感じる。

 

さすがに佐藤を拷問する展開にはならなかった。

そこまで行くと、エンターテイメントとしてはすごく厳しくなると思うし、作者も安斎というキャラを制御できなくなると思う。

 

こういうところを衝撃度を求めて逸脱しちゃうか、もしくは物語全体のバランスを考えて制御するかが創作をするうえで大切な点じゃないかな。

これで安斎に佐藤まで拷問させちゃうと、猿の存在とのバランスが難しくなると思う。

 「アカギ」で鷲頭と赤木の非人間性度のバランスがとれなくて、鷲頭のキャラを壊さざるえなくなったみたいな感じ。

こういうことをやっちゃうと物語を展開させるのが、ものすごく難しくなる。というか、作者が自分で勝手にハードルを上げている感じになる。

 

「モンキーピーク」は三巻の時点では、猿、安斎、八木兄妹の非人間性や残虐さのバランスをどうとるのかな、というのが今後難しそうだなと思っていたけれど、今のところはうまくバランスをとっている感じだ。

 

まさかの八木薫死亡。

でもそこも、予想の斜め上だったな~。

まさか八木妹が殺されるとは。

そして八木が猿の敵に回るとは。

てっきりこの二人は「猿狂信者」で、主人公たちを裏切って猿の手先になるのかと思っていた。

これはこれで面白いけれど、パワーバランスが悪くないか? と思う。こういうホラーテイストの話は、主人公側がかなり不利くらいで丁度いい気がする。

純粋な味方というよりは、とんでもないことをしでかしそうな雰囲気ではあるが。

 

岡島の死に涙。

主人公の早乙女みたいに徹頭徹尾いい人キャラよりも、岡島みたいに「良くないことかもしれないけれど、周りがイライラするのも分からないでもない」という灰色のキャラが犠牲になったほうが泣ける。

こういうどこかにいそうな普通の人が上手く描かれているところもいい。

 

普通の範囲を大きく逸脱している安斎よりも、社会では「卑怯で自己中な普通の人」である飯塚や南、氷室のほうがムカつくし、佐藤や遠野、藤柴、田中みたいに「自分が出来うる範囲のみでいい人」の気持ちもよく分かる。

そりゃあこんな状況じゃあ、誰しも自分のことしか考えられないよ。

 

安斎がやっていることは怖いし、飯塚がやっていることは最低だと思うけれど、そういうものに対しての「作者の視点」みたいなのを感じない。

こういう人たちを作者がことさら断罪している風でないところも、「モンキーピーク」のいいところだと思う。

「ほうら、人間みんな、極限状態になるとこんなに醜くなるんですよ~~」みたいに描かれると、特にエンターテイメント作品では鼻について読めなくなる。

 

辻殺しの犯人は、氷室だった。  

「辻は経理だから、何か会社の金銭上の問題を知っていたのでは」

「氷室も横領程度ならば、あそこまでやらないだろうし」

と言っていたのに、この二つを結び付けて考えられなかった…。くっそお、悔しい。

経理の辻が氷室の横領を知っていてゆすっていたから、氷室は辻を殺したのね。

 

猿は複数人いる。

鉈猿と弓猿が別人。槍猿は弓猿と同一人物かな?

とりあえず四巻の最後で、猿はまだ最低でも三匹はいることが分かった。

これだけ見るとなんかかわいいな。

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(引用元:「モンキーピーク」4巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

死んだ鎖場猿は長谷川さんかな、とも思ったけれど、三巻で弓猿が弓矢で狙っているので違うのかもしれない。

(追記)これはもしかしたら狙ったのではなく、矢文を打ち込もうとしたのかもしれない。長谷川が時計を見ているのも、約束の時間だったからなのかも。そうすると、鎖場の猿は、やはり長谷川??

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(引用元:「モンキーピーク」3巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

あとそのシーンの少し前で、シートをはがして死体を確認していることがやっぱり気になる。

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(引用元:「モンキーピーク」3巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

内通者がいるけれど、連絡手段が限られているから死んでいるかもしれないと思ったか、もしくは特に殺したい人間がいるのか。

(追記)靴がなくなっているという描写か。黒い服が馬場なので裸足なのは寺内だけれど、二巻を確認したら、死んだときには靴を履いている。

昼間にとるのは恐らく無理だと思うので、とられたのは夜だと考える。

五十音順で見張りをしていて、長谷川の順番の時に氷室が裏窓を開ける騒ぎが起こっている。

早乙女、宮田、安斎の三人が動き出す人間を見張っていたのだから、見張りの人以外は、靴をとれない。五十音順で長谷川の後に当たる、林、氷室、藤柴、宮田、南には靴は盗めない。足を怪我している黒木も無理。

残るのは安斎、飯塚、岡島、早乙女、佐藤、遠野、長谷川、念のため田中も。

このうち心の声が出ている岡島と早乙女はない。そうすると安斎、飯塚、佐藤、遠野、長谷川、田中の誰かになる。

氷室の尋問でみんなが集まっているときに見張りだった長谷川が、一番靴をとるチャンスはあると思うけれど。

犯人が誰にせよ、なぜ靴をとったのだろう。思いついたら、また追記する。

 

結局、四巻は八木薫、岡島、黒木と犠牲者が増えたのと辻殺しが氷室の仕業だったと分かっただけで、猿については謎が深まっただけだった。

次巻は団体戦に期待。

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(引用元:「モンキーピーク」4巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

「たまたま法に触れることなく、俺の掟に沿って生きているだけだ」というキャラが好き。

 

「ザ・ワールド・イズ・マイン」で、ヒグマドンと戦う猟師・飯島が言うこのセリフが大好きだ。

自分が好きなキャラクターの共通点は、このセリフのような生き方をしていることだ、と気付いた。

 

傍から見ると冷酷に見えることもある。優しく見えることもある。利害に聡いように見えることもあるし、まったく何も考えていないように見えることもある。社会的規範に重なるようなことをすることもあるし、それらにまったく関係なかったり相反する行動をとることもある。

他人には理解しようがない、自分独自のルールだけを守って生きているので、他人には何を考えているのか、どういう人間なのか一見では理解できない。

自分独自のルールは利害に反しても、生死に関わる問題でも絶対に譲らない、そういうキャラが好きだ。

 

代表的なキャラは赤木だけれど、

「ザ・ワールド・イズ・マイン」の飯島。

「ゲーム・オブ・スローンズ」のブロン。

「ゴールデン・カムイ」は、ほとんどのキャラがこのタイプであることが好きな点のひとつで、特に尾形が好きだ。

樹なつみの「OZ」に出てくるネイトもいい。少女漫画だと、このタイプのキャラは余り見かけない。

「俺の掟」が社会的正しさと重なる部分が多いので違うタイプに見えるけれど、「銀河英雄伝説」のオーベルシュタインもここに入ると思う。

 

「ファイナルファンタージータクティクス」のガフガリオンもこのタイプ。

ガフガリオンは自分が今までやったゲームの中で、一番好きなキャラクターだ。

狡猾で残忍で利己的なリアリストだが、そんな自分すら皮肉な目で見ている。

理想主義の偽善性をとことん追求するラムザとの会話も好きだけれど、世慣れた感じで皮肉を飛ばすダイスダークとの会話も好きだ。ガフガリオンの性格が、よく表れている。

 

「ファイナルファンタジータクティクス」は何度もプレイするくらい大好きだけれど、物語的にはガフガリオンが死んでウィーグラフがルカヴィ化したところでいつもテンションが下がる。

善悪がはっきり分からない人間同士の戦いが面白いのに、 神と悪霊の話になってしまうのは残念だった。

ウィーグラフは、ガフガリオンの対極の存在と言っていいと思う。あまり好きなキャラではない。ラムザほどではないけれど。

 

 男性キャラで好きになるのは、だいたいこのタイプのキャラか、「自分の卑しさに苦しみながら、それでも変われない弱さを持つキャラ」のどちらかだ。

こちらは、ひと言で言うと「心の弱い小者」。個人的に「サリエリキャラ」と命名している。

一歩間違うと簡単に闇落ち化して、ろくでもない末路をたどる。

 

「ザ・ワールド・イズ・マイン」のトシ。

「ゲーム・オブ・スローンズ」のシオン。

「銀河英雄伝説」のアーサー・リンチ。

「カラマーゾフの兄弟」のフョードル。(開き直っているけれど。)

「鉄血のオルフェンズ」は、第一部のユージンが好きだった。第二部ではただのいい人になってしまい残念だった。

「マギ」の白龍も基本的にはこの系統。

 

このキャラの中で闇落ちしないほど性格がいいキャラが、「木更津キャッツアイ」のアニだと思う。葛藤が他人ではなくすべて自分に向くので、社会的ダメ人間になる。

 

いまアニメ化で注目を集めている「BANANA FISH」では、オーサーが好きだった。オーサーが死ぬ間際にアッシュに言う、嫉妬まみれの激白は共感しすぎて泣ける。

アッシュが言う通り才能がある人には才能がある人の苦しみがあるだろうし、望んでそうなったわけじゃないという気持ちも分かるけれど。

いま思うと、アッシュに嫉妬できるなんて、むしろオーサーは凄いと思う。(嫉妬すらできないだろ~)

誰かそう言ってあげてくれ。まあもう死んだからいいんだけれど。

 

自分が物語のキャラだったら、どうせそこいらにいるモブだろうな、という僻みのようなものがこういうキャラに肩入れしてしまう原因かもしれない。僻みっぽいのだ。

 

こうやって並べてみると、好きになるキャラの傾向って、何年経っても変わらないんだなあ。

 

という理由もあり、「BANANA FISH」には今いちハマれずところどころうろ覚え。 これを機に読み返そう~。

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【漫画考察】「俺は俺を肯定する」20世紀最凶の衝撃作 新井英樹「ザ・ワールド・イズ・マイン」を読み解く

 

読もう読もうと思っていた「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」を読んだ。

昔、最初のほうを少しだけ読んだことがある。その時は「人を殺しまくる過激さを描いているのかな」と思って面白いと感じず、読むのを止めてしまった。絵も好みじゃないし。

 
今回、改めて読んでみて、すごい話だと思った。よくこのテーマをこの巻数で綺麗にまとめたな、と思う。
 

 「ザ・ワールド・イズ・マイン」が難しいなと思うのは、登場人物がほとんど自分の考えを断片的にしか語らないからだ。

というよりは登場人物たちも、社会が破壊され機能しなくなった極限の状況で、初めてこういう問いを向き合っている。

明確に答えを語れないし、人によってはその答えが二転三転したり、状況によってまったく違うことを言い出したりする。

 

突きつけられた問いに対する追い詰められた人間のギリギリの葛藤と叫びが、すごくリアルだ。

 

モンちゃんを初めとしてヒグマドンやイヨマンテの下りなど、それを実体としてとらえていいのかメタファーとして見たほうがいいのか迷う存在も多い。

「真説」は作者のインタビューが載っているので多少、どういう物語なのかということを考える手がかりが増えている。

 

この物語をどう解釈するのか、自分なりの考えを述べたい。

 

「命の価値を決めるのは誰なのか」

「人間同士の契約を破棄した状態」を作るために社会を破壊する。

「命に価値があるのかないのか」については、作中では主に三つの立場が出てくる。

①命は平等に無価値である。(モンちゃん、飯島)

②命は時価であり、状況や相手との関係性でその価値は変動する。(由利、トシ、その他大勢)

③命には平等に価値がある。(マリア、塩見、須賀原)

恐らく多くの人が社会が正常に機能している現代で「命に価値があるのか?」と問われれば「③だ」と答える。

 

しかし本来は違う。赤の他人の死と身内の死、自分の死を同じように考えることはできない。

由利が看破した通り

「他人が死んでも、私は今日を眠りメシを食い、明日は笑うだろう」

それでいながら自分の死には怯え、肉親の死は嘆き悲しみ、理不尽さを呪う。それが普通の人だと思う。

 

しかし多くの人は本音は②でありながら、「③である」という建前を崩さない。

「命には平等に価値がある」という建前が崩れれば「社会」が守れないからだ。「人間同士の契約」である「社会」を守り生きるために、「命には平等に価値がある」という建前を言い続ける。

 

ではその「社会」が破壊され意味をなさなくなったとき、人は「命は平等に価値があるのか?」という問いに何と答えるのか?

 

「ザ・ワールド・イズ・マイン」では、この問いに「社会の一員」ではなく、個人として向き合わせるために、これほど徹底的に社会を破壊している。

モンちゃんが言う「俺は俺を肯定する」という言葉を、飯島は「神と人間の契約を破棄する言葉だ」と言った。「社会を破壊する」ことは「人間同士の契約を無効にする」ことだ。

 

「人が人を殺してはいけない理由は何なのか?」

青森西署を襲撃した際、トシが総理に答えを要求した問題は非常に重要である。

「宗教や法律以外で、人が人を殺してはいけない理由は何なのか?」

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」1巻 新井英樹/エンターブレイン)

「法律=社会=人間の契約」「宗教=神との契約」が破壊され意味がなくなったとき、命は平等に無価値になるのではないか。

「俺は俺を肯定する」「世界は俺のもの」という言葉は、人間同士の契約と神との契約を無効にする言葉だ。だからモンちゃんは「命は平等に無価値である」と断じ、凶行を重ねる。

 

作品の中でこの「人間同士の契約が無効になった状態」を、読者は何度も味合わされる。

それはヒグマドンにいきなり襲われて、先ほどまでその命の大切さを説いていた教師が、猫を「餌」と言ってその眼前に突き出すことだったり、関谷潤子に対する「マリアを殺せば、お前とお前の息子の命は助けてやる」というトシの言葉だったりする。

トシの父親に同情すれば、トシに惨殺された紀子の母親から「あの中継を見て(父親に)同情した奴らは、紀子をもう一回殺している」という言葉を浴びせられる。

どれほど綺麗ごとを言っても他人の命の価値を、しょせん自分の快不快でしか判断していないことを思い知らされる。

 

自分が安全圏にいるときのみその綺麗ごとを喋ることに対して、モンちゃんはトシに「お前は俺より残酷でズルい」「今、お前が振りかざす気持ちも善悪も屁理屈だ」と看破している。

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」1巻 新井英樹/エンターブレイン)

社会が破壊され善悪という建前をいう余裕がなくなったとき、「命には平等に価値はあるのか?」という問いに自分自身はどう答えるのか。

そういう状況を作るために、「ザ・ワールド・イズ・マイン」では、あれほど凄惨な大量殺りくが描かれている。

 

「神との契約」と「人間との契約」

「ザ・ワールド・イズ・マイン」では契約という概念が何度か出てくる。「命に価値があるのかないのか」という問いに対して、それぞれの考えとは別に「どの契約を重んじるか」という項目が組み込まれている。

 

①「命は平等に無価値である」 

ガタルカナル島の戦いの生き残りである飯島は、モンちゃんと同じように「命には価値がない(命など赤紙一枚の原価一銭五厘の価値しかない)」と考えている。人間同士の契約はそれほど信じておらず「たまたま法に触れることなく、俺の掟に沿って生きているだけだ」と語っている。

ただ飯島は神との契約については一応重んじている。だからモンちゃんと違い、自分の欲望や衝動のみの殺しはしない。

 

神とも人間とも契約しておらず「命は平等に無価値だ」と語るモンちゃんは、マリアと関谷潤子と子供の命を守るという契約をかわす。

 

 ②「命は時価である」

恐らく建前をなくした9割以上の人の本音がこれだと思う。

この点、人間同士の契約が生きている社会的な存在である塩見にでさえ「赤の他人が人質だから撃てというが、自分の娘だったら言うわけないだろ」と言い切る薬師寺は潔い。

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 (引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」四巻 新井英樹/エンターブレイン)

 

案の定、塩見から批判される。後述するが塩見は③の人間であるから、この批判は成り立つ。

だが本来は②であるのに、安全圏にある時だけ「③である」ということを、この物語では「ズルい」と繰り返し批判している。

 

③「命には平等に価値がある」

人間同士の契約が破壊された状況でもなお、この主張を繰り返すのがマリア、塩見、須賀原である。

マリアと塩見は「神との契約」があるために、人間同士の契約を自ら破棄して殺戮を行うモンちゃんやトシですら殺すことができないし、殺さない。

 

須賀原は③であるが、マリアや塩見とは違い「無神論者だ」と本人が言っているとおり神とは契約はしていない。一方で「個人よりも社会」という言葉を使っていて、人間同士の契約は非常に重んじている。

「自分の身内だろうと、他人の命との間に価値の差はない」「すべての命に同じ価値があるから数量で判断する」須賀原は、「人質が自分の娘でも射殺しろと命じるだろう」と評される。

 

トシの父親に対する「人間としては正しいが、父親としては失格」という須賀原の言葉は、後の自分に対して言っているように見える。

物語の中で「他人に言っているように見えて、自分に言っているのではないか」 というセリフがいくつか出てくる。

トシがマリアに言った「自分の親が死んでホッとするなんて、どういう了見だ」も明らかに自分に重ね合わせている。

こういう部分も、何重にも屈折した登場人物の心情を理解する手がかりになっているところが面白い。

 

モンちゃんとトシ

モンちゃんは人間なのか?

物語において、モンちゃんを「人間として見るかどうか?」というのは難しい問題だ。「モンちゃんを人間として見るか」で物語に対する見方(特に結末)が大きく変わる。

 

自分は最初、モンちゃんは「物語的には」ヒグマドンと表裏一体の存在であり、熊神ではないかと考えていた。

理由はいくつかあるが、生まれたときから背中に毛が生えていたことや、暴力を振るうシーンで毛皮をまとっていることが多いこと、また飯島や初江が「人間じゃない」と言っている点だ。

物語の最後では、飯島を「なめとこ山の猟師」としてイヨマンテを行っている。 

 

ただ生い立ちが描かれていたり、マリアが「おメは人間だと。モンちゃん」と言っていること、また「真説」のインタビューで作者が

モンちゃんはマリアとの関係の中で、初めて生きることを肯定されたのだと思う。

 (引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」四巻 新井英樹/エンターブレイン)

と暗に人間であるような発言をしている。

 

「神や人間との契約を知らない原始の人」であるモンちゃんを「人間にする」ためにマリアが行動していた、というのがサブストーリーだとすると、人間ではなく神になった結末に疑問を感じる。

 

「吐き気するほど人間のスタンダート」なトシ

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」5巻 新井英樹/エンターブレイン)

 

トシのやったことは最低な許されないことだ。

ただ自分は9割以上の人間はトシのような弱さを内包している「吐き気するほど人間のスタンダート」だと思っているので、物語外の人間としてトシに非常に同情している。

 

この物語には「赤の他人の痛みを想像できない人間」「見も知らぬ他人の死ならば、数値としか考えられない人間」が繰り返し出てくる。トシモンのやることに喝采をあげた人、トシモンに殺人依頼をした人間、ヒグマドンの被害にもっと死傷者が出ないかと言った人間、世間の多くの人間は心情的にはトシとまったく同じであり共犯者だ。

 

強盗に入った家の子どもを何の躊躇もなく殺しながら、「仲間になり個人と認識したマリア」を救いたいと願うようになったことも、トシが本来は②の価値観を持つ普通の人間であることを表している。

むしろ「自分は弱い人間だから、強い力を持ったら使いたくなる。だから持ってはいけない」と自覚していたぶん、普通の人より心が強かったのではないかとすら思う。

 

トシが気の毒だと思う点は、あれほど人を殺しておきながら、求めていたのは人だったということだ。誰かに自分を認めてもらうこと、それだけを求めていた。

自分を始めて認めてくれたのがモンちゃんだから、彼に付き従い、その力に酔った。

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」5巻 新井英樹/エンターブレイン)

 

しかし運命が導いたと信じた行動は、自分の勘違いにすぎなかった。そしてその勘違いの裏側には、自分が求めていた自分を認めてくれる人がいた。

マリアに人工呼吸をしたときに、「僕、初キスやで」というセリフは泣けた。あれほどのことをしでかしたのに、求めていたのはただ自分を認めて愛してくれる人だけだった、ということが伝わってきて辛い。

 

トシは最期、被害者の遺族によって惨たらしく殺される。これは人間同士の契約に基づくので当然だと思う。

しかし信じていた運命に裏切られ、契約を結んだ力の神に嘲笑われたことは、同じ「吐き気がするほど人間のスタンダート」としては辛い。

 

「想像力の欠如したバカ」と由利が痛烈に批判した、世の中の大多数を占める普通の人間に過ぎないトシは、

「殺したい奴を殺した訳とちゃうんや」

「どこがどおでこおなったか、まだ何もわからんのや」

「神さま」

と叫んで死んでいく。

 

トシや世の中の多くの人間が酔った「俺は俺を肯定する」という神との契約を破棄する言葉も、実存主義にかぶれた強姦魔が吐いたセリフにすぎず、「人間のスタンダート」はとことんコケにされる。

無力で平凡な人間に対して、世界は余りに強大で残酷だ。

 

総評

 「ザ・ワールド・イズ・マイン」は、人間という未熟で不完全な存在でありながら個々の命の価値を決める傲慢さ、そんな傲慢さですら社会という安全圏が崩壊したときに容易く捨て去る人間の卑小さを徹底的に批判した物語である。

 

「世界はつながっており、他者に生かされている人間は、例え相手が殺人鬼であっても、命の選別自体をしてはならない」

「その命を生かすか殺すか決めるのは、神のみの権利だ」

 作中で飯島が星野に語る

「生きたいと思う奴だけ生きたらいいべ。生かしたいと思う奴がいれば生かせばいい」「それでも死ぬときは死ぬ。そういった……もんだべさ」

人間が命に対してできることは、この理を受け入れることだけではないか、と語っている。

 

自分は、飯島やマリアや塩見のようにはどうしても思えない。トシが塩見に言ったように「(結局みんな)一緒や」ということなのだろう。

 

自分が納得できる理由なら、人を殺して構わないと思っていいのか。

テレビで悲惨な死を見ながら「明日には笑う」自分に、死ぬべき人間を選別する資格があるのか。

容疑者の両親に同情して、赤の他人の被害者のことを容易く忘れる自分に、誰かに死ぬべきだという権利があるのか。

 

自分は本当は命についてどう思っているのか?

 

そういうことを自他を極限の状況に追い詰めて喉元に刃を突きつけるようにして問いただしてくる本作は、他に似た作品を見たことがない。

こういう時代だからこその問いであり物語なので、現代の代表作として後世に残って欲しいなと思う。

 

 余談:「羆嵐」と飯島

「ザ・ワールド・イズ・マイン」には吉村昭の「羆嵐」の影響をところどころ感じる。

「羆嵐」の作中で一貫して語られている、「人間には理解しがたいものに対する畏怖の感情」をトシがモンちゃんに語っているし、畏怖の対象にただひたすら頭を垂れるだけの存在を「ズルい人間」と言うのも、両作品で共通している。

「羆嵐」の熊撃ち名人・銀四郎も飯島を連想させる。

 

自分が一番好きなキャラクターも飯島だ。

佇まい、吐く言葉、生き様のすべてがカッコいい。銃を持っていない普段は、嫁や息子にたしなめられるただの老人にしか見えないところもいい。

自分が星野でも「飯島語録」を書きとめてしまいそうだ。飯島から「マブダチ」と言われた星野が心の底から羨ましい。

星野は「モンちゃんではなく飯島に会っていたら」という、トシのもうひとつの可能性のように見える。

 

飯島語録は全部好きだけれど

「空に鳥、海に魚、山に獣がおることを、あんたらは感謝しなきゃなんねえ。いなけりゃ、あんたらが俺の獲物さ」

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」2巻 新井英樹/エンターブレイン)

 

「たまたま法に触れることなく、俺の掟に沿って生きているだけだ」

この二つが特に好きだ。

 

飯島にはモデルになった熊撃ちの人がいるようだが、久保さん? 外見が似ていないから違うかな?

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「運命に対する無力さ」を描く「親なるもの断崖」は、男性に残酷な物語なのかも。

 

この記事からの派生話題です。引き続き主語デカい系の話です。

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この話の中で「無力感や無能感に対する耐性の低さ」「無力であることは悪である」という考えは男性特有のものであり、「運命に対して受け身で無力になったときの耐性」のようなものが、よく言われる「男性にはない女性の強さ」につながっているのではないか、ということを書いた。

 

あえて言うと

「運命(敵)に立ち向かう」ときに強さを発揮するのが男性で、「運命(敵)に耐える」ときに強さを発揮するのが女性なのではないかと。

 

「親なるもの断崖」は、自分ではどうすることもできない、立ち向かうことも難しい運命に男女問わず、主要登場人物ほぼ全員が翻弄される物語だ。

主な男性キャラである大河内、直吉、聡一は、梅の運命や世の中を何とか変えようと頑張るけれど、それが果たせずに無力なまま表舞台から消えていく。

武子が死に損なった梅に言う「自分の生きざまで世に問え。おなごの深さ、強さを見せつけてやれ」は、男が死に損なうと難しいんだなと感じた。

 

「親なるもの断崖」は、女性である梅だからこそ過酷な運命に対して無力であっても「決して母を不幸と思うな」と言われるような人生を送ったわけで、聡一が梅の前から姿を消した点を見ても、無力感というのは男にとっては致命的と思える。

梅が道生の前から姿を消した理由と、聡一が梅の前から姿を消した理由の違いにそれがよく表れている気がする。

 

「女の人一人幸せにできなかった男のくやしさは、道生の悲しみの百倍はあるぞ」

「家族を残して死んでしまった親父の気持ち、おれ、同じ男だから分かるんだ」

女性向けだと、こういうことも言葉にしないと「道生と梅、かわいそう」「茂世、何やってんだよ」で終わりそうだからかな。

そういう意味では男性視点もきちんとフォローしている点は好感が持てる。「こういうことはあえて説明されるほうが辛い」ような気もするけれど。

 

道生は茂世に「お父さんだって、お母さんを幸せにできなかったくせに」って八つ当たりできるけれど、茂世は誰にも言えないし。

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(引用元:「親なるもの断崖」曽根富美子 小学館)

こういう「運命に立ち向かったけれど、どうすることもできなくて、その悔しさも自分のせいにして、一人で耐えなければいけない」という無力感と罪悪感の強烈なコンボを味合わせる、というのは男にとっては割と酷なシチュエーションだと思う。 

 

登場人物に運命を変える力があると、「運命に対して受け身で無力になる」という状況にならないので仕方がないのかもしれないけれど、過酷な運命下の女性の強さを描くということは、同時にそういう状況下の男性の無力さを描くことになるんだなと。

 

「運命に破れた無力な存在になるか」「ゲヒゲヒ言うだけのモブになるか」の二者択一を迫るこの漫画は、男性にとってこそ、残酷な物語なのかもしれない。

 

と思ったけど、少し考え直した。

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「魔法少女まどか☆マギカ」と「ベルセルク」の類似について考えた。

 

この記事の続き。

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相変わらず主語デカい系の話なので、苦手なかたはブラウザバック推奨です。

前回少し書いた「まどマギ」と「ベルセルク(黄金時代)」はすごく似ているという話。

 

「まどマギ」と「ベルセルク(黄金時代)」が似ていると思う点

自分は何の役にも立たないという認識が基点(他者評価関係なし)→自分はこれで生きていくと決める→同じ志を持つ仲間に出会う→主人公の存在を自分の存在基盤におく人が出てくる(グリフィス・ほむら)

 

「ガッツは元々、他者評価も役立たずだった」などの細かい違いはあるけれど、基本的な物語の構造は似ている。

「自分が執着するものが足かせになる」という点では、使徒と魔女はよく似ている。(執着によって魔(法少)女化する、執着を捧げないと使徒にはなれない。)

 

あくまで自分の考えだけど、

「他者評価に左右されない自己完結した世界で、惑わせる執着(味方であれ、敵であれ)を乗り越えて、自分の道を貫き、自分が理想とする自分になる」という発想が、究極の男の美学なのかなと思った。

「ベルセルク」と「まどマギ」は、この世界観を体現した物語だなと思う。

 

「強くなくてはいけない」という呪いからの解放

その世界観をあえて「少女」という本来、男性から見たら「弱い存在」に背負わせたことが、かなり画期的なことなのではないかと思う。

「ベルセルク」では弱さをキャスカという女性キャラに背負わせて、「自分=男」から切り離しているけれど、「まどマギ」では強さも弱さも同一の存在(少女)に表現させている。

これは昨今よく話に出る「男は強くなくてはならない」という呪いからの解放の過程では、と思う。

 

マミさんみたいに、「強くて優しくて頼りになる先輩」に見えて、内面は寂しさや孤独などの弱さを抱えている。それで当たり前だし、そういう面を見せることは別に悪いことではない。

むしろそういう誰にでもある当たり前の弱さを受け入れたほうが、もっと強くなれるんじゃないのか? 

物語の構造は従来の少年漫画的精神を踏襲しているけれど、あえて登場人物を少女にすることで「強さのみを良しとしない」ところがいい。

 

心折れてもいいんだよ。

瞳をうるうるさせて上目遣いで手を握って「本当に一緒に戦ってくれるの?」って言ってもいいんだよ。 

男だって(女でも)そういう自分の弱い面をダメなものと思わなくていいんだよ。

 

その後、マミったり病みさんになったりするのも、まあそれでいいんじゃないかと。(たぶん)

 

ほむらとグリフィスは似ている。

 一番初めに「まどマギ」と「ベルセルク」は似ているなと感じたのは、ほむらを見ていて唐突にグリフィスを思い出したからだ。

「自分」という存在の基盤のすべてが、たった一人の他人に依存している点でこの二人はよく似ている。

 

「グリフィスがなぜ使徒になったのか?」については意見が分かれると思うけど、ある同人誌で見た「ガッツと対等でいたかったから」という意見が自分には一番しっくりきた。

 

あの時点でグリフィスは、それまでの人生の全てを賭けてきた夢を、ガッツのために忘れてしまっている。

「幼いころからの夢以上に、ガッツと対等でいることが大事。守られるだけの無力な存在であることに耐えられない」

この辺りも「まどかに守られる私じゃなくて、守る私になりたい」というほむらと通ずるものがある。

 

無力感や無能感に対する耐性の低さ、「無力であることは悪である」という考えは男性特有のもののような気がする。グリフィスのように「無力な存在でい続けるくらいなら、仲間を全部捧げる」という発想は極端だけど、「分からないこともない」という人もいるのでは、と予想している。

逆にこういう「運命に対して受け身で無力になったときの耐性」みたいなものが、よく言われる「男性にはない女性の強さ」につながっているのではないかと思う。(「運命に対して受け身で無力になったときの、女性特有の強さ」が主題の代表的なものが「親なるもの断崖」)

 

女性の中には、グリフィスのガッツに対する感情が恋愛感情に見える人がいるようだ。ほむらのまどかに対する感情も、恋愛のように見えないこともない。 

この辺りの男性と女性の恋愛感情の違いから、グリフィスのガッツに対する感情を読み解くという試みを「ベルセルクフリークス」という同人誌でやっていた。

「男性は友人が迷惑をかけていい存在だが、女性にとって迷惑をかけていいのは恋人や配偶者で、友人は迷惑をかけてはいけない存在」

「男性にとっては相手に迷惑をかけるのが信頼で、女性にとっては迷惑をかけないのが礼儀」

「信頼と迷惑というキーワードで関係性を解釈すると、グリフィスの態度を恋愛感情と誤認する女性もいるのではないか」

このあたりは当時なるほどなと思った。

同人誌なのに作者との対談なども載っていて、すごい豪華な本だったのですが、もう手に入らないのかな。

 

*この考察の内容の紹介。現物が見つからなかったので、記憶している限りになっています。面白い考察だったので、現物の内容を確認しながら紹介したかった…。

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男性にとっての「強く生きるという美学」の中に「弱さや脆さ」を否定することなく混ぜ込んだ「まどマギ」は、現代的な物語だと思う。

社会的に「弱さを見せてはいけない」という抑圧を受けやすいけれど、同時に強さのみで生きることが難しい今の時代で、「ベルセルク」から「まどマギ」に、「自分の弱さや脆さを受け入れて生きていく」「男も自分の弱さを良しとしていい」という風に前進したのかな、だといいな、と思った。

 

続き~。

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もう誰にも頼らない

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